とかなんとかいいながら、全然読めてない。GWは、完全に引きこもって三昧の日々かと思っていたけれど、どうもそういうわけにはいかないらしい。
[01]『村上春樹短篇再読』(風丸良彦、みすず書房)
[02]『西洋哲学史 近代から現代へ』(熊野純彦、岩波新書)
[03]『現代思想の饗宴 あるいは思想の世紀末』(河出書房新書)
[04]『ネコソギラジカル 上中下』(西尾維新、講談社NOVELS)
[05]『小林秀雄全作品 第4集 Xへの手紙』(新潮社)
[06]『脳と仮想』(茂木健一郎、新潮文庫)
[07]『トリストラムシャンディ 上』(ロレンス・スターン、岩波文庫)
[08]『右翼と左翼』(浅羽通明、幻冬舎新書)
[09]『使える現象学』(レスター・エンブリー、ちくま学芸文庫)
[10]『デリダ きたるべき痕跡の記憶』(廣瀬 浩司、白水社)
[11]『クロニクル』(松浦寿輝、東京大学出版会)(既出)
[12]『新潮』(既出)
[13]『うさぎおいしーフランス人』(村上春樹・安西水丸、文藝春秋)
[14]『文学環境論集 東浩紀コレクションL』(東浩紀、講談社BOX)
●以上、この一ヶ月程度の収穫。こうして並べてみるとたいして揃えていないというのがわかったので、急遽[14]東浩紀の『文学環境論集 東浩紀コレクションL』も加え、これらをちょっとした休日に踏ん張るということにしてみたいところではある。でも加えた、文学環境論集は、900ページもあるし、まあムリだなあ。そういえば『ロング・グッドバイ』も半分くらいで止まったままだし、絶対にダメだ。●村上春樹についての評論はどちらかというと、テキストにおいて作者が死んでいないことが多く、ある意味で、辟易しているところもあった。もう謎解きはいいや、ということだ。そういう意味で、最近ではよほど信頼できる書き手以外の評論は読んでおらず、[01]の『村上春樹短篇再読』もきっとその類ではないかとスルーしかかったのだけれど、これは少し違った。もちろん作者に寄っている部分はなきにしもあらずなんだけれど、それ以上に、全体を覆っているのは、短篇小説の技法論であり、それらはヒントとしてじゅうぶんに機能している。それは、間テキスト性のようなものであったり、たとえそこまではいかなくても、素材としての短篇小説の援用の仕方であったり。ああ、こういうふうに書けば書けるかも、という触発がたくさんある。●[02]は、読みたいなあと思ったときに、地元の大型書店で欠品しており、これは見つけたときに抑えておいたほうがよいか、ととりあえずの購入。ほんとうなら古代編から読むべきで、その礎がなければ、理解しえないようなところもあるとおもいつつも、遡る元気はあまりない。●天牛書店では、たまに[03]のような、貴重なのか、たんなる残滓なのかよくわからない本がみつかる。まるで、デリダの『弔鐘』を模したかのような、戸田ツトムとは思えない、読みにくいエディトリアルデザインを見る限りは、やっぱり残滓か。1987年のムック。大森荘蔵、廣松渉、柄谷行人、丸山圭三郎、吉本隆明らを今村仁司、中沢新一、先の熊野純彦、野家啓一、大庭健、竹田青嗣らが受けるという形。そういえば、竹田青嗣と西研で『精神現象学』を「わかりやすく」訳しているらしいので、うーん8月くらいにでるとちょうどよい感じか。●西尾維新の[04]はこれこそ、GWのために買い集めたのに、とたんに藻屑と消えた。あまり評判よくない話みたいだし、まあいいか。●小林秀雄が新潮方面で喧しいが、[05]は、たまたま天地書房で見つけたため。[05]は、小林秀雄を引き合いに出してくる意味がちょっとよくわからなかった。●同じ、天地書房で[07]を発見。重版のときに、これは読んでいる時間はないなあ、と買いそびれていたのでちょうどよかった。でも、どこかで書いていたけれど、これはやっぱり光文社古典新訳文庫でラインアップしてほしいところだ。●[12]『新潮』は、先回『カデナ』にしか言い及んでいなかったけれど、前田司郎の『グレート生活アドベンチャー』と、佐藤友哉のこれまた意図のわからないライナーノーツは読み終えることができた。前田司郎の小説は嫌いではないけれど、ちょっと反社会の感覚にリアリティが希薄だ。佐藤友哉のこの話「1000の宣伝とバックベアード」は、本編の終章にくっつけたほうがよかったような気がする。●[13]の全体をおおうエロティックさは村上春樹らしさ満載。●[14]は超大作なので、また別稿で。彼の発信量にあらためて驚かされる。「journals」のほうに掲載されている「cypto-survival notes」にいろいろと新しい発見があって面白い。1999年の論稿なので、いま彼がどう考えているかわからないが、たとえば、以下のような話。
「たとえばもしCS(カルチュラル・スタディーズ)が、もはや二つの段階(想像的同一化と象徴的同一化)に区別されない「文化的構築」、国民国家の境界を横断し、ローカルであり同時にグローバルでもあるような新しいアイデンティティの出現-いわゆる「ディアスポラ」に注目するのであれば、その研究は必然的に、ディアスポラのメカニズムを説明するなんらかの枠組み、ヘーゲルとラカンが考えた近代的な弁証法とは異なった、まったく新たな主体理論を必要とするだろう。………つまりいま必要なのは、おそらくは近代の理論(現代思想)でもポストモダンの分析(CS)でもなく、単純にポストモダンの理論だと僕には思われるのだ。
と、その答えに歩み寄ろうとしていく。1999~2007までの批評・エッセイ集のためネットの進化をあらためて感じられるところも面白いが、ではなぜ、いまこの特厚のプリント媒体が必要だったのかについては、彼自身の言葉を待つしかない。でも、この最強のオタク感は、きっとオタクからしか共感を得ることができないかもしれない。すばらしい。
[01]『村上春樹短篇再読』(風丸良彦、みすず書房)
[02]『西洋哲学史 近代から現代へ』(熊野純彦、岩波新書)
[03]『現代思想の饗宴 あるいは思想の世紀末』(河出書房新書)
[04]『ネコソギラジカル 上中下』(西尾維新、講談社NOVELS)
[05]『小林秀雄全作品 第4集 Xへの手紙』(新潮社)
[06]『脳と仮想』(茂木健一郎、新潮文庫)
[07]『トリストラムシャンディ 上』(ロレンス・スターン、岩波文庫)
[08]『右翼と左翼』(浅羽通明、幻冬舎新書)
[09]『使える現象学』(レスター・エンブリー、ちくま学芸文庫)
[10]『デリダ きたるべき痕跡の記憶』(廣瀬 浩司、白水社)
[11]『クロニクル』(松浦寿輝、東京大学出版会)(既出)
[12]『新潮』(既出)
[13]『うさぎおいしーフランス人』(村上春樹・安西水丸、文藝春秋)
[14]『文学環境論集 東浩紀コレクションL』(東浩紀、講談社BOX)
●以上、この一ヶ月程度の収穫。こうして並べてみるとたいして揃えていないというのがわかったので、急遽[14]東浩紀の『文学環境論集 東浩紀コレクションL』も加え、これらをちょっとした休日に踏ん張るということにしてみたいところではある。でも加えた、文学環境論集は、900ページもあるし、まあムリだなあ。そういえば『ロング・グッドバイ』も半分くらいで止まったままだし、絶対にダメだ。●村上春樹についての評論はどちらかというと、テキストにおいて作者が死んでいないことが多く、ある意味で、辟易しているところもあった。もう謎解きはいいや、ということだ。そういう意味で、最近ではよほど信頼できる書き手以外の評論は読んでおらず、[01]の『村上春樹短篇再読』もきっとその類ではないかとスルーしかかったのだけれど、これは少し違った。もちろん作者に寄っている部分はなきにしもあらずなんだけれど、それ以上に、全体を覆っているのは、短篇小説の技法論であり、それらはヒントとしてじゅうぶんに機能している。それは、間テキスト性のようなものであったり、たとえそこまではいかなくても、素材としての短篇小説の援用の仕方であったり。ああ、こういうふうに書けば書けるかも、という触発がたくさんある。●[02]は、読みたいなあと思ったときに、地元の大型書店で欠品しており、これは見つけたときに抑えておいたほうがよいか、ととりあえずの購入。ほんとうなら古代編から読むべきで、その礎がなければ、理解しえないようなところもあるとおもいつつも、遡る元気はあまりない。●天牛書店では、たまに[03]のような、貴重なのか、たんなる残滓なのかよくわからない本がみつかる。まるで、デリダの『弔鐘』を模したかのような、戸田ツトムとは思えない、読みにくいエディトリアルデザインを見る限りは、やっぱり残滓か。1987年のムック。大森荘蔵、廣松渉、柄谷行人、丸山圭三郎、吉本隆明らを今村仁司、中沢新一、先の熊野純彦、野家啓一、大庭健、竹田青嗣らが受けるという形。そういえば、竹田青嗣と西研で『精神現象学』を「わかりやすく」訳しているらしいので、うーん8月くらいにでるとちょうどよい感じか。●西尾維新の[04]はこれこそ、GWのために買い集めたのに、とたんに藻屑と消えた。あまり評判よくない話みたいだし、まあいいか。●小林秀雄が新潮方面で喧しいが、[05]は、たまたま天地書房で見つけたため。[05]は、小林秀雄を引き合いに出してくる意味がちょっとよくわからなかった。●同じ、天地書房で[07]を発見。重版のときに、これは読んでいる時間はないなあ、と買いそびれていたのでちょうどよかった。でも、どこかで書いていたけれど、これはやっぱり光文社古典新訳文庫でラインアップしてほしいところだ。●[12]『新潮』は、先回『カデナ』にしか言い及んでいなかったけれど、前田司郎の『グレート生活アドベンチャー』と、佐藤友哉のこれまた意図のわからないライナーノーツは読み終えることができた。前田司郎の小説は嫌いではないけれど、ちょっと反社会の感覚にリアリティが希薄だ。佐藤友哉のこの話「1000の宣伝とバックベアード」は、本編の終章にくっつけたほうがよかったような気がする。●[13]の全体をおおうエロティックさは村上春樹らしさ満載。●[14]は超大作なので、また別稿で。彼の発信量にあらためて驚かされる。「journals」のほうに掲載されている「cypto-survival notes」にいろいろと新しい発見があって面白い。1999年の論稿なので、いま彼がどう考えているかわからないが、たとえば、以下のような話。
「たとえばもしCS(カルチュラル・スタディーズ)が、もはや二つの段階(想像的同一化と象徴的同一化)に区別されない「文化的構築」、国民国家の境界を横断し、ローカルであり同時にグローバルでもあるような新しいアイデンティティの出現-いわゆる「ディアスポラ」に注目するのであれば、その研究は必然的に、ディアスポラのメカニズムを説明するなんらかの枠組み、ヘーゲルとラカンが考えた近代的な弁証法とは異なった、まったく新たな主体理論を必要とするだろう。………つまりいま必要なのは、おそらくは近代の理論(現代思想)でもポストモダンの分析(CS)でもなく、単純にポストモダンの理論だと僕には思われるのだ。
と、その答えに歩み寄ろうとしていく。1999~2007までの批評・エッセイ集のためネットの進化をあらためて感じられるところも面白いが、ではなぜ、いまこの特厚のプリント媒体が必要だったのかについては、彼自身の言葉を待つしかない。でも、この最強のオタク感は、きっとオタクからしか共感を得ることができないかもしれない。すばらしい。