考えるための道具箱

Thinking tool box

雑記。なんとも芯のない話。

2006-03-07 23:06:34 | ◎書
■先週末、2日間こもって仕事しながら久しぶりに聴いていた、THF POLICEの全曲BOXセット『Message in a Box: The Complete Recordings 』。4巡くらい回したはずだが、飽きることはなかった。よくよく考えてみれば、ポリスというバンドは、5枚しかオリジナルアルバムをリリースしていないんだけれど、どれも密度が濃くって、その短い活動期間の間にほんとうに面白い曲をたくさん創っていたんだなあとあらためて感じる。おそらく、一般的には「Every Breath You Take」の印象が強いだろうから、それだけをとってみるとなんともいま現在のstingらしいバンドと思っている人も多いかもしれないが、言うまでもなく一方で、スノッブでエスプリ度の高いパンクバンドである。全体としては、ふざけてるのに凄い、という印象が強く、たとえば観念的な題材をあつかう曲も多いが、それも、まあお遊びの一貫ですよ、という斜めの構えが格好よかった。もちろんその曲層はstingに負うところが大きい。しかし、彼は基本的には「The Dream of Blue Turtles」をやりたかったわけで、もちろん、きわめて完成度の高いアルバムで文句のつけどころはないんだけれど、ぼく自身は「あれ?」という感想が否めず、それ以降、むしろTHF POLICE時代よりグレートになっていくstingを横目でみることになる。
ということで、ほとんど意味ないけど、ベスト並べてみました。
●Fallout ●Next To You ●Can't Stand Losing You ●Masoko Tanga ●Message In A Bottle ●Regatta De Blanc ●No Time This Time ●Canary In A Coalmine ●Behind My Camel ●Man In A Suitcase ●Shadows In The Rain ●The Other Way Of Stopping ●Spirits In The Material World ●Every Little Thing She Does Is Magic ●Invisible Sun ●ΩMegaman ●Secret Journey ●Darkness ●O My God ●Synchronicity II ●Every Breath You Take ●Tea In The Sahara ●Murder By Numbers ●I Burn For You

■そんななか、かろうじて行けたTipness。どうやら4月からのプログラムが変わるらしい。なんでも、いわゆるエアロビクス系はすべて「カーディオ」(つまり心臓系)とカテゴライズされるようだ。ぼくが中心的に参加しているTIPマックスは、「カーディオ ARASHI」と、なんともさえないネーミングになってしまう。で、ほとんど固定的だった京橋の土曜日のプログラムにも変化があり、朝一、朝二と豪華ラインアップになる予定。もちろん、これはうれしい話ではあるが、人大杉の予感でもある。手放しの儲け話はそんなにはない。

■ああ、そういえば2月にはじめてヨガのプログラムに参加していたのを思い出した。 ハリウッドヨガプラスなんていうから、ちょいとばかしセレブなこころもちで、おうかがいしたんだけれど、なんのことはない、ただインドふうではないというだけのこと。いや、れっきとしたいわく因縁があるとは思うが一度だけのワークアウトでは核心に迫ることはできなかった。したがって、精神が浄化されるといったようなことはなかったのだが、身体への負荷はけっこうなものがあり、ときどきはこういったものにも参加したほうがよいなあと思った次第。

■土日はじつは、この半年くらい、ほぼ100%仕事しているので、ごはんをつくるってこともほとんどなくなってしまった。悲しい。しかし、いつかのために『木村祐一ベストレシピ』を買っておく。「いつかのために」というわりにはあまりにしょぼいんだけれど、まあ、ぼくのめしの範囲はせいぜいこの程度ではある。ただし、キムの料理はきっとレシピどおりにつくっても、TVでタレントがほめそやすほどの味にはならなくって、ちょいと調味料を大目に盛っていくとか、もしくはご家庭なりのアレンジを加える必要があるという程度のこともわかってきた。そんなことを考えると、これらレシピは、考えもつかない斬新なアイデアの起点というかフレームとして活用するのがいちばんよいような気がしてきた。たとえば、後半で、「よく使う調味料」ということで、「あら塩」「塩こぶ」「昆布茶」などがあげられているんだけれど、これを使ってどんなおつまみができるのか?と果敢に挑戦してみるといったことだ。

■挑戦といえば、先月、壮大で挑戦的な提案をしたにもかかわらず、いとも簡単に却下されてしまった、文芸誌の統合合併の件。今月はもうそのような提案をするのも面倒になってきた。いちおう立ち読んで、最終的な購買計画を立てようとは考えているけれど、「ネット時代と溶解する資本主義 東浩紀・鹿島茂・佐藤優・松原一郎」、「文学まであと少し 田中和生-新連載」(文學界)、「チェーホフ未邦訳短編集(全11編)」、「島母記 桐野夏生」(新潮)、「白い男 古井由吉」、「歌うクジラ 村上龍」、「暴力的な現在 井口時男」(群像)といったところですかね。まあ、チェーホフだけか。うーん、こんなときだからこそパラドキシカルに「新潮」と「群像」を合わせて買っちゃったりすることもあるなあ。

■そんなようなしょぼい悩みの種を決定づける『近代文学の終り―柄谷行人の現在』をタツミ堂書店で。ここで書かれている「小説の終わり」は、もっともなことであるし、反論のための論理も証拠もまったくないため、平身低頭受け入れるしかないんだけれど、やっぱりちょっとさびしいなあ。つらい。ただ一方で、ひとつひとつの文学に価値や意味はないとしても、たとえば、ある強大な物語を盲目的に鵜呑みするのではなく、対抗しえる物語、それとは別の物語をたくさん知っておく必要があるという点での「集合体としての価値」「バリエーションとしての価値」はありそうな気もするけれど、どうだろう。Aがダメならみんな怒り狂ってAを罵倒するとか、Bがいいならみんな涙をだらだら流しながらBにくっついていく、といったときのトリックスターとして踏ん張るためにね。まあ、たんなる教養主義なんで、これもあんまり意味ねーか。

■じゃあいったい松浦寿輝はなんのために小説を書くのか。そのあたりの答えが『方法序説』にあるのかないのかは、30ページ程度読んだくらいではよくわからない。基本的には「あれがあったからこれがある」、といったようなことを書いているようだが、どうやら、小説は、きわめて個人的な身辺整理というか残滓の処理のために書かれているようでもある。うん?ちょっと言い方が違うな。どうやら、小説は、うまく文章表現しきれない個人的な思弁の暫定的な露呈や、いろいろ考えた結果ロジカルなツリーからはみ出してしまった、でもなんだか重要な気がする染みか種子のようなようなものをとりあえず形にしてみるために書かれている。こんなところか。しかし、ほんとに、こんな味のある本をゆっくり読む時間をめぐんでほしいもんだ。

■てなことを考えていたら、3月半ばの土日の舞鶴方面への出張が決定。シングルモルトウィスキーの故郷のような、渋いというか荒ぶれた町なのだろうか。ちょっと前なら、戦々恐々としていたところ、いまならジョルダンとグーグルマップにより、ほとんど行ったような気分になるまで町がイメージできる。それが、いいことなのかわるいことなのかはよくわからないが。ただし舞鶴ともなると、2000フィートまでなんだなあ。うん?牡蠣丼って?おれ最近、牡蠣だめなんだよなあ。

ブログを書こう。

2006-03-04 15:43:18 | ◎業
ってことなので、すでに書いている人は読み飛ばしてください。ほんでもって、かなりターゲットも限定的なので、あたいのことじゃない、って人も無視してください。

ぼくたちは、いちおう企業のマーケティング・コミュニケーションのサポートなんてことを標榜しているわけだけれど、こういった仕事をこなしていくときに大切なスキルってなにかわかる?もちろん、コミュニケーション力は、これまでも何度かいってきたとおりで、それは大きな前提。しゃべりが面白いとか、ネアカとか、緊張しないとかそんなことはあんまり関係ないってのは、もうわかってもらえているよね。まあ、これについては、もうちょっと話したほうがいいかもしらんけどね。あっ、ネアカなんて死んでる言葉つかってら。

このほか、そもそも市場とか顧客への関心が高いとか、分析力とかメディア・リテラシーとかそういうのも重要だけど、これはスキルとしてはいささかハードルが高い部分もあるので、まあキャリア・パスにあわせて、じわじわ比例させていったらよいわけだ。ああ、「読む」ことへのリテラシーってのもあるね。でも、リテラシーは別にして「読む」ということに対する能動的な関心とか感度は、まあ最低限のことかもしれないな。きらいな人は、そもそもホワイトな仕事に向いてないね。ちっと厳しすぎる?

で、もっと最低限なことがあって、それは「書く能力」。「そんなの当然ですよ」ってわかってもらえる人も多いと思う。そりゃそうだ。そんなふうな志で入社してきた人も多いわけだし。でも、「いやおいらはプランナーなんで、そんなのてけとーでええよ」と思った人もちっとはいるんじゃない?それ間違い。いや、もちろんそんなの必要としないプランナーの会社もあると思う。でも、うちは違う。志として「テキストとストーリーによるマーケティング・コミュニケーションの効率化」をコンピタンスにしたいと思っているのは、ぼくだけかもしれないが、そんなふうな優位性を出していかないと、烏合の衆とは差別化できないわけだし、なによりこういったことをつねに自らに課しておかないと、気づいたときにはブルーホワイトカラーになってしまっていた、ってことになりかねない。だいたい、プランニング、プランニングっていうけれどいったいなにをプラニングすると思ってる?ものごとを動かすこと、だって?じゃあ、そんときなにが必要?気持ちを動かすためのストーリーだよね。ストーリーを人に伝えるときなにが必要?そんなのわかるよななあ。ここで、音声中心主義だとかその批判だとかそんなことをいいだすとややこしくなるので控えるけど、ようはそういったストーリーをつくるのにベースとなるものは、テキスト構成力ってことになる。書けないと動かせないってこった。あれ?ロジックあってるかな。まあいいや。

でもそれってじつは難しい。なんとならば、文章を書くというのは重層的な要件を含んでいるからだ。
まずひとつめは、ものすごくかんたんな言い方をすると、書く順番をきめる力【Lv1】。で、次はそれをつないでいく力【Lv2】。で、わかりやすく書く力【Lv3】。そのあとにくるのが、読み手にあわせた書き方【Lv4】。最後が、文章じたいの遊び【Lv5】。あ、抜かしちゃったけど【Lv0】のことは触れなくていいよね?仮にレベルなんてつけたけど、これはあまり深く考えていないので、見逃してください。あまり深く考えていないってのは、MECEとか構造のレベルとかそういうことね。で、まあ、だいたい【Lv3】くらいまでできれば、それでよし、とするのがいままでの考え方。もちろん、ここは大事だ。とりわけ、【Lv1&Lv2】ってのは、かなり難しいし、文字によるコミュニケーションの根幹にあたる部分でもある。しかし、じつはここまでのことは平気な顔でできないといけない。いや、もちろん平気な顔でなくてもいいんだけど、少なくとも、たとえ対案があるとしても、多くの人に理解され共感され議論されるアウトプットをすみやかにださなければならない。全体像をみすえたうえで、言うべきすべてを構造化したうえで、ほんとうに伝えるべきことを伝えるべき順番で書いていく。伝えるために、どんな支援材料がふさわしいのか、なんてとこまで考えて。ああ、このことは何回が話してきたね。

で、そこまでがんばったとしても、そこまでではいかん、というのがぼくの考え方。よどみなく、気持ちのよい言葉で書いてもらわないと。いや、なにも美文を求めてるわけじゃないのですよ。だからがんばって、ちょっとした雑誌とかテレビのテロップなんかでよく使われている言い回しとか使っちゃうのは間違い。そういうのは紋切り型っていって読み手に不快感を与えるのは本多勝一先生の言うとおりだ。ふつうの言葉を積みあげていって、でもいつも「自分が」使っている言葉じゃなくて、そのために、シソーラスを駆使したり、Bookshelf Basicなんに入力しまくったりして、新しいふつうの言葉を捜す。ああ、これは読んでもらっている人に意外と気持ちよく感じてもらえてるんじゃない?ということをつねに意識しながら。だいたい文章なんて書き手の意図の20%程度しか伝わらないんだけれど、そんなことにもめげず、1%でも2%でも伝達率をあげるってことをつねに意識しながら。

さて、こう考えると、じつは文章を書くというのはけっこうたいへんなことなんだけれど、救われるのは、これがトレーニングで身に付くということだ。さらにうれしいことに、書けば書くほどうまくなるって効果もある。らしい。逆に、書かなければ、すぐにお粗末になってしまうという厳しさもあるけれどね。そこで、ブログということになるわけだ。

文章を書くというのは、本質的には骨がおれる作業なので、腰が重いとなかなか着手できない。あんたはトレーニングっていうけれど、なんのためになにを書いたらよいのか!と問われると、返す言葉もない。この困惑と手詰まりを過去形にしてしまったのがブログだ。目的は明確になった。ブログを書くために書いたらいいわけだ。

あんまり説得力ない?しかし、じつはこのマッチポンプのような行為こそが、ある瞬間に欲を生み出し、書く意志をドライブしていく。やがてドライブは自ら意志をもち自らハードルを高くしていく。このピークを迎えることができれば、というかそうなったときには、あなたの文章は、さっき書いたようなレベルを問わず、もうずいぶん自分の手のものとなっているはずだ。そう、人の言葉のつぎはぎではなく、自分の手のものとなることが大事なんだ。

忙しいのはわかる。だから、毎日書く必要なんて毛頭ない。本格的に時間がないなら無理しなくったっていい。ちょっとしか時間がないなら、ちょっとだけ書いておいて、また別の日に再開したらいい。そもそもいくら忙しいっていったって、なにかを圧縮すれば、1日20分や30分くらいは時間が確保できる可能性は高い。とくダネを我慢するとか、録画したリンカーンを見るときはCM飛ばしたりすればいいわけだ。移動中だって、メモとえんぺつさえもっていれば、構想はできる。逆に言ってばかりで申し訳ないけれど、逆に言うと、その程度の執着心は必要になるってことなんだけどね。

題材だってなんでもいい。ただし、題材は必要だ。だから、いつも題材のことを考え、その題材をどう分解して、分解したあとどう再構築するかなんてことを、ずっと考え続けておく必要もでてくる。「起承転結」とか「序破急」とか「守破離」なんかを気にしだすと、文章はずいぶんドラマタイズされてくる。そんなとき、ポケットにメモを入れておくことの大切さが始めてわかってくるだろう。うまい「序破急」なんて机の前でうんうん唸っていたってでてきやしない。材料をブレーンに全部インプットして、歩いたり走ったり踊ったりしてシャッフルしてるときに、ぽちゃりと落ちてくるものだ。
そして、落ちる前にメモで受け取っておかないと、2度落ちてこない。噂の「生産的になろう」なんかを読んでもらえればわかると思うがメモは大事だ。毎日ブログを気にすることで、考え続けるくせがつく、すぐにメモるくせがつくという、文筆活動に重要な7つの習慣が身につくなんてすばらしい。

もちろん鯱張ることはない。愚痴だっていちゃもんだっていい。ただし、その場合は、愚痴やいちゃもんをいかにそう見えないようにするか、ってことに腐心したり、しかしターゲットを納得させるためにはどうしたらいいか、なんて考えみる。考えているうちに、あらたな説得のバリエーションを発見できることだってある。そんな言葉は、たとえば、クライアントと議論にもふと使えたりするわけだ。まあ、「位相」とか「惹起」とかそんな言葉は、語感と漢字が一致しないからあんまり使えないけどね。

さて。目的はブログを書くことではなく、あくまでもテキストスキルの向上なので、そのことを自覚して書き出すってことがなにより大切なんだけれど、もうひとつ自覚的であらねばならないことは、自分の脳みそでできることはたかが知れてるってことだ。ブログを書いているとこのことが痛切にリアルに感じられるようになる。そして、そう感じることがなにより大事だ。そこで、はじめて自分以外のツールの必要性がわかってくる。これは文章スキルのレベルで考えると腹に落ちる。たとえば、【Lv0-1-2】については熟慮が必要なんだけど、自分の頭の中の世界だけの遊戯なら「神に誓って絶対に」抜け洩れがでる。だから、白い紙に表を書いたり、樹形図を描いたりすることで脱漏をチェックすることが重要になる。こうやって、無理やり脳の面積を広げるわけだ。いやもう書けないっすよ、ってところまで風呂敷を拡げたところがスタートラインになる。ようはCPUの問題だな。で、【Lv3】以降のレベルについては、こちらはHDDの問題で、ようは、どれだけ言葉とパタンを記憶してるかってことなんだけど、こちらも脳の中身はたかがしれてる。だから、辞典を外付けHDDとして活用するわけだ。辞典は、意味を調べたり、ネーミングの材料を集めたりするだけでなく、違う言い回しを使いたいときとか、もっとわかりやすい言い方はないんかいな、と考えたときにこそ役にたったりするわけだ。

さてさて。なんだか言わずもがなのことをだらだら書いちゃったような気もするけれど、ようは、これからは「書けるスキル」を重用していきます、ってことの宣言だって思っておいてください。よろしく。尤も、重要なのはそれだけじゃないんだけどね。

Sync DNA。

2006-03-03 12:16:29 | ◎聴
これはちょっとビビった。やっぱ神保はすげーや。2日の夜中のフジテレビの「メディアの苗床」。Synchronized DNAの第一歩や存在は、なんとなく知っていたんだけれど、実際に神保と則竹だけが並んで演っているのを目の前にするのは初めてで、ワールドクラス軍団とはいえ、はたしてドラムだけでうまい具合に愉しめるパフォーマンスができるのかなあ、と思って見始めた。

その他演奏者と競演かと思いきや、ステージライトに照らされたのは、戦艦のようなドラムセットが2台のみ。もちろんそれだけで圧倒されるが、いっぽうでリズム部隊だけで小一時間どんな音楽を聞かせてくれるんだろうと不安もよぎる。

そして、オープニング。お、やっぱりメロディラインがついているじゃんと思い、舞台の袖のほうに向谷なんかの姿を探してみたが見つからない。おいおいカラオケ?テープ?それならドラムの意味ないよなあ、こりゃちょっと、とんでもショーだなあ、と思ってしまった。

もちろん、そんなわけはない。あるはずがない。なんてったってリズムを保つ神だ。なんでも、トリガーシステムってのを使っているらしい。そんなのがあるなんて、まったく知らなかったしイメージもできなかったんだけど、打ち込みのプログラムがドラムセットに実装されていて、ドラミングのセンサーに反応してMIDI音源を奏でるという、ちょっと素人にはそのしくみが皆目わからないものだ。ドラムセットの間隙に音源の割り当てられたパットが配置されていてそれをたたけば音色がでる(このあたりはサイレントドラムのイメージ)。ただ神保の場合はそれだけでなく、タムとかバスドラムとかスネアにも振動に反応するセンサーを装着しており、かつプログラムを切り替えるパッドもあったりして、かなりヴァリエーションが豊富な音色が使えるということだ。ようは、それぞれの太鼓が鍵盤を代用しているようなものと考えればいいのだろうか、とも思うがちょっと違うような気がする(※)。

リズムを保ちながら(それもふつうでは考えられないような重層的なリズム)、あくまでプロフェッサーとしてキーボードのメロディを奏でる。結果的に「ワンマンオーケストラが可能になる」といった言い方をされていることが多いようだが。いったいどのような手の動きになるのか想像するための材料が、ぼくにはまったくない。そこに、シンクロしている則竹のこれもまた、強く複雑なリズムが加わる。そしてな当然でありこれこそ大切なことなんだけれど、ドラムを打つ音がとてもタイトでシュアで気持ちいことで、これは打楽器好きにはたまらない。小型の液晶TVでも相当な迫力なんだけれど、凄さの本質は、きっとナマでなければわからなのだろうなあ。

そこで、CDを所望しようといろいろと探してみるが、じつは、まとまった形のスタジオサイズののはまだリリースされていないようだ。カシオペアとの協演や、どちらかというと、教則的なDVDは結構あるようだが、単独のものはみつからない。とりいそぎ、『Synchronized Paradise ~Synchronized DNA LIVE TOUR 2005~』か、カシオペアとの『CASIOPEA with Synchronized DNA / 5 STARS LIVE』『SIGNAL』あたりか。2006年もツアーを続けるみたいなので、ライブハウスなるものに行ってみてもいいかもしらんなあ。というか、この歳からドラムを始めるなんてのは無理があって意味がないのかなあ。


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(※)こちらが正確で、かつわかりやすい。

20世紀少年って、おれが東京に来る前からやってんだ。

2006-03-02 01:20:11 | ◎読
昨日、結論はでませんでした。『20世紀少年』の21巻がでちゃったので、『サッド・ヴァケイション』は先送り。

じつは、このblogは日によっては(※)『20世紀少年』での検索ヒット率が高く、せっかくアクセスいただいた方のために、ちっとはまじめに感想を書いたりしなくては、と思って昂ぶっていた時期もあったんだけれど、気持ちの盛り上がりも沈静化してきたのでほっぽらかしておいたら、どうやらストーリーのピークも過ぎてしまったようだ。

数ある進行形のマンガのなかでは際立ったた面白さを発揮していることは現在でも揺るぎはないし、マンガ本来の面白さをもっともシンプルでストレートに表現しているという点においてはケチのつけようはない。しかしながら、昨日の夜中に読んでいて、ふと覚醒してしまった。

亀がアキレスを追い抜いてしまった、と。

またわかりにくい物言いしやがって、とのそしりは免れないけれど、ちょっとうまい言い回しが見つからないので、措定してみた。ただし、終結がほぼ完全に見えるいま、読み手のペースが加速度的に進んだ結果、それぞれのエピソードが渋滞を発生させている、という感覚はわかってもらえるかもしれない。けっして過去にあった逸話ではないのに、ずっと同じような隘路を倦んでいるのではないかという錯覚にとらわれてしまうほど遅い。もちろん小説と同じくストーリーだけでなく描写が大切なものである以上、そのことが『20世紀少年』という表現をつまらなくしているわけではないのだけれど、18巻あたりまで続いてきた期待速度を完全に下回っているのは事実ではある。

「いつまでも終わってほしくない物語」というのはよくあるが、『20世紀少年』は、「早く終わってほしい物語」になってしまった、という考え方のほうがわかりやすいかもしれない。前者は、逆説的ではあるが往々にして「終わりがなくても終われる物語」の場合が多いが、後者はそんなわけにはいかず、「終わりがなければ終わることはできない」ことを宿命づけられているわけで、読み手の期待速度と書き手の物語速度が逆転した瞬間に、関心はすみやかに「終わり」の期待に移ってしまう。

もちろん、人気連載である以上、その表現形態や外野のさまざまな恣意・思惑により商業的には避けられない問題であると思うが、この連載期間の長さというのは、ストーリー漫画としては異様だし限界かもしれない。前世紀から続いているということを考えれば、かれこれ6年?最近では休載も多いようだし、物理的にも失速しているのはあきらかだ。そして、このことによって論点は微妙にずれてきていて、これはぼくだけの問題かもしれないけれど、「ともだち」の正体より、ケンヂと旧友の出会い方のほうに関心がシフトしていっている。そして、むしろ、その瞬間を巧みに描くことこそが大団円であり、そこで浦沢直樹の力量が発揮されるのではないか、と期待もしている。

いずれにしても、もはやできるだけ速やかに終わらなければならないことは間違いないのだが、しかしそのことは、この物語を損ねることにはいっさいならない。たとえストーリーを引っこ抜いたとしても、そのディールは十分に愉しめるし、枝葉を膨らませれば、浦沢が考える以外のエンディングをあれこれ夢想することもできる。そしてなにより重要なのは、『20世紀少年』は、おそらくマンガ以外のどの表現形態をとることもできないということであり、そういう意味では、マンガのひとつの到達点といっても、言いすぎではないだろう。

さて、連載のほうは次週の再開にて、どうやら正真正銘のクライマックスを迎えていくようなので、ちょいとばかし、復習しておこう。

◎前にも書いたけど、ウッドストックによる決壊。
◎好きだからいじめる幼い恋心。
◎死んだなんてのは「思い込み」で、引っ越していっただけってのはよくある話。
◎引っ越したなんてのも「思い込み」で、引っ越していなかったってのもよくある話。
◎彼らをずっと見つめ続けてきたフレームの外の人がキーマンだった、なんていう筒井康隆のようなことは勘弁ねがいたい。まあ、別にいいか。

てなことで。

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(※)よくわかんないですが、google danceとかEverfluxとか、そんなやつのご機嫌ですね。ほんとによくわかんないんですけれど。

目の前の青山真治。

2006-03-01 00:03:45 | ◎読
ストレス耐性はあるほうだと思っている。でも、じつはこの2ヶ月ぐらいはどうも解き放たれない。はたからみていると、いつもとなんら違ったところはないかもしれないが、自分ではその遠因・真因もよくわかっているため決定的ではある。なにより、ストレス状態にあることの蓋然性、つまりその身体的な試験紙反応がでていることもよくわかる。ひとつの物差しになるのは、まとまった小説を読む気力がふり絞れるか否か、ということだ。

もちろん、本は買ってもいるし、こま切れで読んでもなんら支障のないもの、掌編、連載の1回分とか、批評や簡単な評論なんかには目を通している。たとえば、『RATIO』のローティや小泉義之、大澤真幸の論考や、柴田元幸の『翻訳教室』(※1)とか。ようやく入手した荒川洋治の『文芸時評という感想』(※2)なんかも、いわば断想の集積だ。これらのものが、ストレス状況に関係なく読めるのは、いうまでもなく直線距離が短いし、速度を強要されないし、遡行も許されるからだし、なにより世界観に浸る必要もないというのが大きな理由なのだろう(小泉の提起は少し小説世界をつくりあげていたが)。こういったことが理由だとすれば、きっと、考えるべき世界が多すぎて、そんな日常にもうひとつ世界を増やすことができないというのが、小説の読めない理由ということになる(もちろん、そんなふうに時間を占有できない、というのも大きな理由ではある)。

しかし、いっぽうで、そういった別の世界観をもてることが、ストレス状態からの開放にとって有効に作用するともいえるわけで、もし素材があるのなら無理やりにでも詰め込んだほうがいいという考え方もある。実際に、これまではそんなやり方で、ひずみやゆがみを凌いできたこともあるし、そのことで見かけ上のストレス耐性が演出できていたのかもしれない。

では、どんな小説を読んでいたのだろう。もちろんもはや小説世界に日常世界が影響されるような齢でもないので、どのような内容であってもよいわけだが、やはりなじみのある筆致と言説のものが与しやすいことは言うまでもない。ちょうどよいタイミングで、村上春樹や龍、阿部和重の新刊、オースターやアーヴィングなどの新訳なんかがでればいいわけだが、これらはストーリー性が際立っているからか?というと、そうではなく、慣れ親しんだトーン&マナーの受容性ということになる。それゆえに、考える保坂和志の小説や、逡巡する堀江敏幸の小説や、いまやそのよどみ具合が意図的なのかそうでないのかよくわからなくなってきたヴォネガットなんかも歓迎されるわけだ。

そんなことであれば、今日現在、彼らの過去の作品を再読すればいいわけだが、そうしないのは、じつは読むべき物語が眼前に屹立しているからだ。次に読む小説は、これであり、それは迂回できないという予断に支配されている。しかし、その小説は決して慣れ親しんだものでもないし、一足飛びには入り込めないトポスで描かれており、第一歩を踏み出すのに勇気と勢いが必要になる。

たとえば、中上建次といえばわかってもらえるかもしれない。そして、そうであれば青山真治であるということもわかってもらえるはずだ。とりわけ、まだ誰にもそんな名づけ方はされていない小倉サーガないしは門司サーガにおいてひときわ強い踏み切りが必要になる。いうまでもなく、それらサーガは、おおむね中上への追跡で形づくられおり、そのことが、世界への忘我を躊躇させるわけだが、しかし完全なる模倣ではなく、そこにある3Dの喚起力はあらかじめ用意された敷石のようであり、2歩目、3歩目への慣性を強く作用させるため、最初の壁を越えることができれば、ストレス状態の如何を問わず深い没入を余儀なくされる。それは裏を返せば小説世界の愉しみであり、予断に支配されているとたいそうな書き方をしたが、いまなにより読みたい小説ということであり、それがゆえの世界の深度がボトルネックにもなっている、ということである。

目の前にあるのは『Helpless』『ユリイカ』に続く『サッド・ヴァケイション』。正確には「続く」ではなく、エピソードを書き増しているものであり、この建次(さらに秋彦)の物語が、これにて完結を迎えるのかどうかはわからない。しかし、この血とこの町はエピソードを事欠くことはないだろうから、恣意的な終結は似合わない。市井の人間ではありえるはずのない出来事や反応をさもありなんと感じさせてしまう登場人物の別の顔をもっと見たいとも感じさせてしまう。そもそも、人はその業に容易に決着をつけられるはずもない。

ようやくスタートを切ることができた『サッド・ヴァケイション』は、予想どおりぼくの日常を微妙にずらしつつある。いまはもうディテールを忘れてしまっている『ユリイカ』を読み直す必要に駆られるし、なにより門司・小倉サーガは、たとえば『死の谷'95』といった小説とちがってゴリゴリした筆致で進められるため、一行一行をしっかり読んでいかなければならず、世界が遅滞する。そうではあるのだが、夜中の3:00前から読み出したとしても眠りは訪れない。青山真治の思う壺にはまってしまった。はたして、これがストレス状態を抜け出すトリガーとなるのか。それともさらなる深淵をさまようことになるのか。おそらく読み終えるであろう今夜、結論はでる。


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(1)これはよい。英語の壁を乗り越えるための最後の砦だ。
(2)これもよい。総表現社会なんていわれて、身構えながらたくさんの総表現をみていると、どうも自分の表現物がそこに存在する意味はあるのか?ということに懐疑的になってくるときがある。とりわけ「評する」ことの、意味と趣味を見出せなくなるが、ああ、こんなふうに言葉を選べばよいんだ、と明るい光を与えてくれる。