考えるための道具箱

Thinking tool box

◎『魂のゆくえ/くるり』。

2009-06-20 00:48:36 | ◎聴
「魂のゆくえ」だけでもじゅうぶん元はとれる。買う価値はある。「デルタ」と「背骨」までいれれば完璧だ。この数年間のちょっとした物足りなさが一挙に払拭された。くるりは、ビジネス抜きで音楽のことを真剣に考えていると思った。かくなるうえは梅小路を狙うか。

これで終わったら、まるでtwitterなので、写真を。片隅にみえるカズオ・イシグロの『夜想曲集~音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』は、いうまでもなく、『1Q84』とは別の次元で、よい小説である。静寂を文章で表現する天才だ。


◎『1Q84』。とりあえず。

2009-06-02 22:02:00 | ◎読
ふらふらしないでまっすぐ歩け、って言われちった。点取りうらないに。でもまあ、じっさいのところ、ふらふら本と本のあいだ、音楽と音楽のあいだを漂泊しているわけなので、もっともでございます、としか言いようがないのも事実。

『1Q84 Book1』村上春樹
『1Q84 Book2』
発売されるまでの慣らし運転で『ねじまき鳥クロニクル』を『予言する鳥編』から再読し始め、やっぱり面白くて一気に『鳥刺し男編』に突入したわけだけれど、ちょうどなかばにさしかかったあたりで、島田雅彦の『徒然王子』の第二部が出たので、「うわ、まだ一部も読んでねーや」と思い出し、急いで挟みこんだところ、これはこれで『ねじまき鳥』を中断に値する面白さで、こちらも第2部の前半までぐいぐい読み進んだところで、『1Q84』の発売となったため、再度中断。つまり{ ねじまき鳥 { 徒然王子 { 1Q84 } } }、という入れ子構造になっている。いやじつは、その外には、小説だけでもあと5~6は重なっていて、もはや如何ともしがたい「ふらふらするな」状態である。



ところで、『ねじまき鳥』の物語は、1984年の6月に始まっていて、これはちょうど『1Q84』のBook1の終わりあたりということになる。ちょっと調べたぐらいでは、このバブル前夜の年が村上春樹にとって個人的に重要な年なのかどうかはわからないが、少なくとも彼の小説世界においては、この年に、東京で面倒くさそうな物語が2つ進行していて、そのふたつがふれあうかどうかは別にして、またどちらが正史でどちらが偽史といったような話を脇に置くとしても、やっかいで不穏な年ではあることに変わりはない。と、もっともらしく言ってみたものの、『1Q84』の舞台が1984年って、どっかに書いてたっけ?ああ、あった、あった。

と、そんな具合に、肝心の物語のほうは、青豆と天吾の話を1章ずつ読んだ程度。だから、すでにウィキに記されているような物語の経緯や要素はいっさいわからない。しかし、その程度の早い段階でも驚くのは、たとえば「芥川賞」なんてフレーズがけっこう明確にでてくることだ。突然わきたつ、この異様なリアリティ、俗っぽさは、これまでの村上春樹の物語運びと照らし合わせたとき相当な違和を感じざるをえない。いうまでもなく、「新しい波」のようなものをうまく処理できなかったそのころの芥川賞(ほか文壇)について考えがおよぶ。ちなみに1984年の上半期の芥川賞は、「受賞作なし」。この周辺、具体的に言うと、83年上、83年下、84年上、85年上、86年上、86年下には、島田雅彦の作品が集中的に候補にあがったものの結局は受賞できなかった。もちろん、村上春樹も「風」が79年上、「ピンボール」が80年上でエントリーされるが受賞はしていない。これまで、なんとなく不可触になっていた文学賞(文壇)の話を、持ち出してくるなんて……

……と、書き出したものの、いったん起草を中断している1日の間に、一気に「Book 1」を読み終えることになる。今度ばかりは一語一句逃さないようにじっくり読む、と誓ったにもかかわらず、結局は、配分を制御できないペースメーカーの導きに抗うことができず、かなりの速度で読み進めてしまった。そういったことからも明らかなように、結論から言うと、あいかわらず村上春樹はすごい、といったような話にとどまることなく、そのすごい村上春樹すら追い越してしまった、愕然とする小説。しかも、「「長めに書くことができる」というメリットを利用して、一つの作品の中に、登場人物たちの創作とか対話、書簡などの形で、韻文、戯曲、短編小説(Novelle)、伝説、警句、文芸批評、学術論文……など他ジャンルのものを挿入(※)」したという点で、完璧に思える長編小説であり、そのゴールは、村上春樹自身が言うところの「いろいろな世界観、いろいろなパースペクティブをひとつの中に詰め込んでそれらを絡み合わせることによって、何か新しい世界観が浮かび上がってくる」総合小説にきわめて近いものになっていくんじゃないだろうか。たしかに『徒然王子』も相当なものだとは思うが(『1Q84』までいかずとも、もう少しは話題になってもいいと思う)、その緻密さ入念さにおいて、すべてのテキストに隙がないという点で、やはり比べることはできない。まだ、「Book 1」なので予断はできないが、もし「Book 1」で終わったとしても、それはそれでいいんじゃないかと思えるような物語構築だ。

もちろん、「芥川賞」のような話や、ちょっと強引で下種でしかし優秀な編集者の話、父親とのかかわりあい、そしてなにより、1971年に破綻した「理想」と「夢」のあと1995年まで続く「虚構」に埋まる同じ根元など、村上春樹がこれまでためこんでいた個人的な澱のようなものに、次々にきわめてスマートな形でケリをつけていく、といった点で、集大成といった言い方は間違ってはおらず、まさに「物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題を別のかたちに置き換えることである(P.318)」という点では、申し分ない。

しかし、この際、そんな個人的な話はどうでもよい。そういったことはいっさい抜きにして、次々に訪れる物語の驚き、ギリギリの予定不調和、ギリギリのリアリティで描かれる(善悪を問わず魅力的な)人物造詣、技術的な工夫と挑戦、それらをすべてまとめる膨大ではあるが無駄のない密度の高い文章は、小説の魅力から逃れられない人間に、大きな幸福を与えてくれる。

残念ながら、ケリのつけ方がスマートにすぎるという点で、あいかわらず玄人に受けが悪いだろうし(きっと大きな批判を呼ぶだろう)、逆に「わけのわからない密度」という点で、『カフカ』のときに喧伝されたような「村上春樹らしさ」に期待する多くの人からも、大きな共感を得ることはできないかもしれない。そうではない、なにか人間のステインのようなものの正体についてただただシンプルに知りたいと考えているような人にとっては、本当に良い小説だ。「Book 2」を読み終えてもこの気持ちはきっと変わらないと思う。
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というわけで「ふらふら読書&音楽」日記を書こうと思っていたのだけれど、また機会を改める。それまでにふらふらが増幅しなければよいのだけれど。『思想地図 Vol.3 アーキテクチャ』とか『国文學 増刊 小説はどこへ行くのか 2009』なんかを眺めていると、そんなわけにはいかないような気もする。

(※)『「分かりやすさ」の罠 ―アイロニカルな批評宣言 』での仲正昌樹の定義