考えるための道具箱

Thinking tool box

野球といろいろ。

2006-08-06 21:06:50 | ◎書
ソファに寝転んで、もはや勝ち負けなんてどうでもよくなったプロ野球を、気になる山場だけちらりちらりと見る。この一流球団の負けのこみようを見る限りは、過去にはいろいろあったかもしれないし、今だって完全にシロとはいいきれない部分もあるだろうけれど、それでも、これがもし演出だとしたら誰も大きな利益を享受しないわりには手が込みすぎているわけで、その点では浄化度合いを確信してもよいだろうと思う。興行としての凋落は、スポーツとしての純度を良い具合に高めてくれる。選手の獲得に金をつぎ込むなんて、まだかわいいものだ。いまや職業野球は高校野球より邪心がないのでは、と思えてしまう。

といったようなことを、試合も見ずにずっと考えているわけではなく、こんなことができるのも野球観戦の魅力のひとつなのだが、今度は『チェーホフ・ユモレスカ』を手に取る。75歳という老齢にしてなおチェーホフに取り組む松下裕の新訳は、けっして時代に遅れることもなくかつ迎合することもなく、その自然な抑制は、チェーホフの小説に「らしさ」を添えている。そうした、らしさを満悦できる、sudden fictionともいえるこれらの掌編は、どこからどう読んでもいいという点で、まさにプロ野球観戦の友にふさわしい。他愛もないエピソードが多いのだが、ライティングという側面から勉強になるところも多い。最近は、小説というものの技法や形式を含めた解釈に執心することが多かったが、こういう読み方もまた小説の愉しみのひとつである。10篇ほど読んだ後、確かにこれはこれで、ずっと読み続けてしかるべきものなのだが、ほかにも読むべきものがたまっているため、とりあえず読む順番だけは目星をつけておくか、と思い立ち、テレビはつけっ放しで自室に向かう。

自室で、たまっている本をぱらぱら読みながら、メールやRSSを確認していると、先週、撮影が完了したクライアントの新製品の画像データやカタログ用台割がサーバーにアップにされていることがわかったのでチェックをはじめる。デジタル撮影のため現場で何度も確認はしているのだが、ぼくが立ち会えなかったいくつかのカットが予期以上のイメージであがっていたため安心する。さまざまな視点からみた特長的な商品写真をみていると、新製品導入資料のストーリーについてアイデアが拡がり、ついついアウトラインプロセッサーを立ち上げてしまう。

結局、読む本の順番を吟味するなんてことはできずに小一時間ほどたっため、テレビの前に戻ると、珍しく中継時間を延長しているようで、試合はいちおうの山場を迎えていた。バッターボックスに立つ男は、またぞろ名まえも知らないような代打だが、昨日の見逃し三振を反省したのか、今日の初球の思い切った空振りは評価できる、と星野仙一が解説している。昨日と同じいやなカウントに追い詰められ、しかし緊張というよりは、むしろ期待がかなり薄くなり弛緩しているところで、勝ち越し2べース。これで今日は勝てる、と少しだけ心が揺れた。その男・吉川は、聞けばプロ9年目。これが初安打らしい。パッと出てきてパッとやめてしまうような乾いた人間もいることを思えば、たとえ才能がないのではないかという疑念はあったとしても、こういうあまり器用ではない男を応援してしまう。なんてことを少しだけ考え、自室から持ってきた岩井克人の『二十一世紀の資本主義論』と内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』をめくりながら、ああ、もう今月の文芸誌がでるころだなあ、「新潮」は「ディスコ探偵水曜日」の第3部だったなあ、などと考える。ふたたびテレビに目をやると、危なげなクローザーの投球も安定し、ようやくゲームセットを迎えようとしている。いちおうは観戦をしながら、その合間をぬって、さまざま思考と作業が進行していく。だから野球観戦はやめられない。

雨月物語。

2006-08-06 10:13:18 | ◎読
久しぶりの東京駅からの新幹線は、先行列車の事故かなにかで、1時間ほど遅滞した。おかげで、乗車直前に八重洲古書街で購入した青山真治の『雨月物語』を、名古屋につくまでに読み終えることができた。『雨月物語』については、上田秋成のものはもとより、石川淳、後藤明生らのリメイク訳なども含めテキストとして読んではいないのだけれど、この青山真治のバージョンは、ほとんど口承伝聞レベルでもれ聞く限りでしかない本家『雨月』の物語の筋やエピソードの連関性・円環性などを巧みに継承し、かつ彼なりの映像視点と中上視点をうまく付加することでオリジナルと見紛うかのように仕上げている。

何を書いても中上健次という評価は、青山真治の場合、けっして否定的な話ではなく、中上の普遍性を追及する精読がなければ完成しえないそのスタイルを前に、むしろ小説のオリジナリティといった議論は不問になる。中上が憑依し、逆に青山が憑依する。そこで生まれてくるテキストは、これもまたひとつの小説の形である。

「夏には勝四郎の腕も足も、倍の太さになっていた。顔は陽に焼け、髭に覆われた。土は勝四郎の汗を吸い、だんだんと畑の格好をなして広がっていた。鍬の柄もまた勝四郎の血に黒く染まり、手に馴染んでいた」

これは、『雨月物語』でいうところの「浅茅が宿」のエピソードでひたむきな妻・宮木に亡霊となって待たれた男が幻想から覚め妻亡きあと、生きていく意志をあらたにする場面であり、けっして『枯木灘』や『岬』の1シーンではない。しかし、自宅に戻り宮木との幻夜のあと、宮木の死を受け止め現実の生気を穏やかに漲らせていくその表現方法として、この中上的なる人間の躍動は、もっとも相応しいように思える。「浅茅が宿」は、青山版では、「蛇性の婬」のサブストーリー的な扱いとなっているが、現の世のたくましさをあらわすこの表現が、雨月全体に流れる時代性と幻想性を、「いま、ここ」に架橋している。そして、そのテキストが表さんとしているのはまさに「血」のことである。

人間は「血」からは逃れられず、それはときに善きに作用し生きる源泉となり、ときに悪しきに作用し人を縛り続ける。このたんなる生理学的な液体に人はなぜ惑わされるのか。とき同じくして単行本となった『サッド・ヴァケイション』が、呪縛としての衝撃的な血の物語であるとすれば、雨月の血は生きるよすがとしての血の物語であるように思える。
秋成が中国の伝奇譚を換骨奪胎し『雨月物語』を記したように、青山もまた新しい『雨月』を創りあげた。物語冒頭の描写を読む限りにおいて、また亡霊との壮絶にして超常的な戦闘を青山真治がどう撮るのかという点において、映画版にも期待できる。

「最後の一兵が絶命したあと、尾根から霧が流れ落ちてきた。
天から降りてくるこの世ならぬもののようにも巨大な瀑布のようにも見えるその霧は、累々と横たわる屍骸たちを嘲るように青々と生気を漲らせた草原を、一瞬にして隠した。たが夥しい血と肉の臭気はその濃霧によっても、またときおり吹き流れてくる風によっても、隠しえるものではないほどに充満し、とめどなく湧き上がってくる。」