考えるための道具箱

Thinking tool box

◎マンガ4冊。

2008-10-12 10:33:37 | ◎目次

マンガと比べるのもなんだけれど、『海街diary2 真昼の月』を読んでいると、おれはなんて凡庸で起伏のない人生を送っているんだと思う。が、思った先から訂正してしまうが、ようは吉田秋生のような着眼をもてないというだけにすぎない。ささやかな日常にちょっとした彩を与えるだけで、人生はかくも切なくなるし、愉しくなる。そしてやさしくなる。物語を動かしていく四人の姉妹と三人の男子中学生はほんとうにいとおしい。

『海街diary』は、ふだんよく読むようなマンガと比べると読み終えるのに時間がかかってしまうが、これは、大切な意味をもった台詞に満ちているから、つまり言葉が効いているからなんじゃないだろうか。もちろん、吉田秋生の絵やコマの割り方はかなり好きな方なので優劣をつけるつもりは毛頭ないけれど、こと『海街diary』については、台詞に動かされる。言葉がうまく絡み合いポリフォニーを形成し、質のよいテレビドラマのようだけれど、その枠にも収まりきらない、どちらかといえば演劇に近いんじゃないかという印象をもつ。マンガだから言葉を削ぎ落とし想像力を課すことで迫力をつけていくという方法もあるが(いうまでもなく『バガボンド』。『レッド』なんかもそうかな)、『海街diary』の主役はやはり言葉だろう単行本に収められた四つのエピソードのタイトルも気が効いている(「花底蛇」「二人静」「桜の花の満開の下」「真昼の月」)。おれは五つほどの場面で、饒舌のあとを引き締める抑制という台詞運びのうまさに泣いてしまった。
「君だって、いろんなもの棄てて ここに来たんでしょ?
自分の中のなにかがGOサインを出す
そういう瞬間て あると思わないか?」

う~ん、こんなふうに抜書きしたところで、たいして身体が反応しないのは、やっぱり言葉だけで成り立っているのではないってことか。マンガというアートをパーツで分解して考えるのはよくないな。

あ、季節とか自然にていねいに目をむけているところも、『海街diary』の魅力としては忘れられない。梅酒をつけるとか、桜のトンネルとか、だいたい表紙の紫陽花からしてそうだ。このあたりは、たとえば、週刊・隔週刊の連載のようなスピードで描いていたら配慮できない部分だろう。きっと次に単行本化されるのは、1年、場合によっては1年半ぐらい先になるに違いないけれど、このていねいな筆のために、気長に待つしかない。待てないんで『すずちゃんの鎌倉さんぽ』買ってもいいかな。
#
最近はマンガに涙腺を刺激されてばかりなんだけれど、『バガボンド』の20巻にも泣かされた。西方の残党のひとりである市三が幼いころ兄の新次郎と森ではぐれてしまい、結局一晩たってひょっこり町に下りてきて見つかったときはケロッとしたしていたものの、兄の顔を見とめるなり号泣するというシーン。もう家族、兄弟ものはもうティッシュなしでは読めないな、と思う。
いやそんな話はどうでいい。先般『バガボンド』の20巻は、サブストーリーなので読まなくても大勢に影響はないなんて書いたけど、なんてあほなこと言ってたんだ、と大いに反省する。モーニングアフター。確かにこのエピソードは、『バガボンド』という大河のなかでは、小次郎がひとまわり大きくなるためのステップにしか過ぎないわけだけれど、よくよく考えれば、物語の骨幹なすものが二人の男のビルドゥングなんだから、その鍛錬をひとつたりとも見逃すわけにはいかない。20巻以降の小次郎の剣が、過去のすべての修練と血で成り立っていることにつねに自覚的であるためにも、とうてい見漏らしてはならない余聞だった。が、それ以上に、この西方の残党との想像を絶する戦いは、『バガボンド』を離れてひとつの物語として完全に成立するほどの話であり、このことは、連載をリアルタイムで読んでいたとしても、また単行本を通しでひと息に読んだとしてもけっして気づくことはなかっただろう。全体を俯瞰しつつ、全体の流れのなかで読まない。そういった読み方、つまりもう一度、最初から『バガボンド』を読み返せば、そんなようはすばらしい逸話がたっぷり、ふたたび立ち上がってくるんだろう。
#
『スペリオール』はほんとうにどうしようもなくなってきて、この1~2年、『モーニング』に変えようかななんてずっと考えいる。『バガボンド』や『ディアスポリス』はもとより次号から浦沢+長崎の新連載も始まるようで、低迷する青少年マンガのなかではかなり安定している。もう終わってしまったが『ジナス』も移籍検討のひとつの理由だった。
なにより連載中も1、2回しか読んだことがなかったので、なんら確証があるわけではない。長崎尚志のわりには、実際に、それほど高い評判を受けることがなかったんだけれど、どうなんだろう。
「空に"物体"が現れるとき、
死者は六日間だけ蘇る。
……六日間が終わりを告げるころ、
銀髪の殺し屋が現れる。」

ようやく手に入れた1巻を読む限りでは『ジナス』には少し期待できるような気もする。同じように連載で読んで関心をもつもののそれほど深慮ではなかった『イキガミ』なんかと比べるとずいぶん違う。これから6巻まで、なんとなく概念的な部分が過剰になっていきそうな雲行きだけれど、それはそれでいいんじゃないかと思う。謎が多く、この調子だとその謎もうまく収斂するかどうかはわからないが、これもまあいいんじゃないかと思う。
もっとも新刊書店で買い集める気はあまりなくて、それこそブックオフとか古本市場をサーチすることになると思うが、なぜか『ジナス』は中古市場の流通があまりよくないようで、なかなか発見できない。ちょっと時間がかかるかもしらんな。ま、その程度のこだわり。
#
一方、いまはまだプロローグのようなもんで、展開がよくわからないし、じつは魂を揺さぶるような事件も起きそうにないが、そうであっても読んでいきたいと思うのが『あたらしい朝』で、そういったところが黒田硫黄の魅力である。なにより、連載も再開し、この1冊がでたこと、そして、あの飛翔の図がまた見れることを喜びたい。講談社では祭りも行われているようだが(『大金星』とか『大日本天狗党絵詞』の再発売)、そっちのほうはまあいいか。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿