きっついなあ。仕事。まじで。クォータリーなのに期末みたい。こんなときに、なんか書いたら駄文になるね。というか、ここ最近のエントリーはすべて、そもそも駄文の極みだわ。まさに「考えないための道具箱」。んなら書かなきゃいいんだけれど。
でも書いちゃいます。とりあえず本のこと。どんどんたまっていて、この3週間ぐらいのウィークデーは、じつに20分程度しか読む時間が与えられない。それもだいたい26時~27時の間の20分なので、小説でもない限りは、頭に入っていないことをかなり自覚している。指を本にはさんだまま、照明もつけっぱなしで、気が付いたら明け方、ということがしょっちゅうあるので、これは間違いないだろう。んなら買わなきゃいんだけれど。
でも、買っちゃうんですよね。まず『『悪霊』神になりたかった男』。このあいだも少し触れたけれど、かなりスリリングな謎解き(解釈)で、遅々と進まぬ読書環境のなかでも一気に読み終わることができた。言ってしまえば、神の光をいとも簡単に完全に無視してしまい、ドスト自身のなかにも潜在するペドファイル&マゾヒズムの快楽への受容と抵抗を、スタヴローギンとマトリョーシャの関係の中にみてしまう、という仮説。なんとも印象的なのは、事ののちスタヴローギンがマトリョーシャの耳元でささやく言葉の謎解きで、これは小説中では明らかにされないのだが、亀山郁夫は見事に推理してみせた。スタヴローギンというポリフォニーを的確に捉えた推論であり、いくらドストエフスキーが多面的な読み方を許すとしても、これはこれで決定稿ではないか、と思わせるくらいの蓋然性と迫力がある。
もちろんドストエフスキーはミステリーとしても読めるわけで、『『悪霊』神になりたかった男』は、そういった読みをおおいに許し、そのことで文学の愉しみ方の幅広さを伝授している。だからといって、『悪霊』じたいはカラマーゾフや罪と罰に比べて、読みやすいかといえばそんなことはまったくなく、新潮文庫の旧版の小さい活字は26時の読書ではいささかつらい。
同じように文学の「愉しみ」方を提示するのは『現代小説のレッスン』。まさに、冒頭から主題、正しい「エンタテイメント化」のスキルこそが、現代文学、そしてエクリチュールとしてこれからの文学を支える、と唱えている。「エンタテイメント化」という言葉からは大いなる誤解をまねきそうだが、ここは、いわゆるナラティブの「物語」と拮抗するために(=話し言葉の豊かさと拮抗するために)、活字媒体がもたざるを得なかった「言葉のさまざまな位相」をいかに平板にしないか、と理解すればいいと思う(もちろん、石川忠司の論はもっと深く多面的)。「言葉のさまざまな位相」とは、「物語」には存在しえなかった、「内省/内言」「思弁的考察」「描写」を示し、これによりテキスト(小説)は「物語」とは異なる土俵で、豊かさにはなった。しかし、いっぽうでこれらのフェイズは、「物語」の進行を妨害する力をも内在し、ともすれば「かったるさ」を生んでしまう原因にもなる。同じフェイズを表現しながらも、この「かったるさ」を消去するスキルこそが、有効な現代文学の要諦だという論である。
思い起こせば、いまの小説はどんなもんかなあ、どれどれと店にならぶ文芸誌を読んでみたら、あまりのくだらなさに、「これならおれが書いたほうがおもしろい」、と立ち上がった宮本輝の頃に比べ、現代文学の幅は格段にひろがっている。自宅でどっさり発見された90年代前半の文芸誌のバックナンバーをみてみると、まだまだ「かったるい」ラインアップがとり揃えられているのだが、こと後半以降は『現代小説のレッスン』であげられているような作家たちの本質的な活動により、ここでいう「エンタテイメント化」のスキルはずいぶん向上しているようにみえる。村上龍の作品において延々と書き紡がれる「描写」に飽きることはないし、保坂和志の惑い折れ曲がり遅滞し結論を回避するかのような「思弁的考察」に同調していることはよくあるし、同じ「内言」だって舞城の四郎のようなドライブ感のあるものならぐんぐん愉しめる。もちろん町田康だって愉しめる。
こういったケースを見ると、石川忠司の仮説は納得性が高い。気になるのは小説のめざすところを「ストレートな痛快さ、明朗な喜び、しみじみとした深さなどを、活字媒体においてもふたたび」と、いわゆる「エンタテイメント」に帰着させようとするかのような表現で、とりたてて読後が「ストレートでもなく、痛快でもなく、明朗でもなく、喜びもなく、しみじみとしていなくても」なにか「問い」があればよいのではないか、と思うのだが、そうなると、やっぱり物語に負けてしまうのか。でもそもそも勝つ、負けるってなんだ?
ほとんど序章程度しか読んでいないのに、よくもまあこんなに偉そうなことがかけるなあと、われながら恥ずかしい限りなんだけれど、つまりは本論にもの凄く期待が高まっている、ということで、この続きは25時ぐらいに終業できそうな時期がきたら書いてみたい。
あ、いかんいかんマジな文章になってら。あと『声と現象』なんかも買ってんだけど、こいつはちょっと時間がかかりそうだね。20分しか時間がなかったら、毎日10行くらいしか読み進められないだろうなあ。そうこうしているうちに『小説の自由』とかまたぞろややこしい「思弁的考察」の本もでるし。そういえば、保坂と小島信夫との対談、まだ席あるかなあ。ともかく、仕事の効率をあげていこう!
でも書いちゃいます。とりあえず本のこと。どんどんたまっていて、この3週間ぐらいのウィークデーは、じつに20分程度しか読む時間が与えられない。それもだいたい26時~27時の間の20分なので、小説でもない限りは、頭に入っていないことをかなり自覚している。指を本にはさんだまま、照明もつけっぱなしで、気が付いたら明け方、ということがしょっちゅうあるので、これは間違いないだろう。んなら買わなきゃいんだけれど。
でも、買っちゃうんですよね。まず『『悪霊』神になりたかった男』。このあいだも少し触れたけれど、かなりスリリングな謎解き(解釈)で、遅々と進まぬ読書環境のなかでも一気に読み終わることができた。言ってしまえば、神の光をいとも簡単に完全に無視してしまい、ドスト自身のなかにも潜在するペドファイル&マゾヒズムの快楽への受容と抵抗を、スタヴローギンとマトリョーシャの関係の中にみてしまう、という仮説。なんとも印象的なのは、事ののちスタヴローギンがマトリョーシャの耳元でささやく言葉の謎解きで、これは小説中では明らかにされないのだが、亀山郁夫は見事に推理してみせた。スタヴローギンというポリフォニーを的確に捉えた推論であり、いくらドストエフスキーが多面的な読み方を許すとしても、これはこれで決定稿ではないか、と思わせるくらいの蓋然性と迫力がある。
もちろんドストエフスキーはミステリーとしても読めるわけで、『『悪霊』神になりたかった男』は、そういった読みをおおいに許し、そのことで文学の愉しみ方の幅広さを伝授している。だからといって、『悪霊』じたいはカラマーゾフや罪と罰に比べて、読みやすいかといえばそんなことはまったくなく、新潮文庫の旧版の小さい活字は26時の読書ではいささかつらい。
同じように文学の「愉しみ」方を提示するのは『現代小説のレッスン』。まさに、冒頭から主題、正しい「エンタテイメント化」のスキルこそが、現代文学、そしてエクリチュールとしてこれからの文学を支える、と唱えている。「エンタテイメント化」という言葉からは大いなる誤解をまねきそうだが、ここは、いわゆるナラティブの「物語」と拮抗するために(=話し言葉の豊かさと拮抗するために)、活字媒体がもたざるを得なかった「言葉のさまざまな位相」をいかに平板にしないか、と理解すればいいと思う(もちろん、石川忠司の論はもっと深く多面的)。「言葉のさまざまな位相」とは、「物語」には存在しえなかった、「内省/内言」「思弁的考察」「描写」を示し、これによりテキスト(小説)は「物語」とは異なる土俵で、豊かさにはなった。しかし、いっぽうでこれらのフェイズは、「物語」の進行を妨害する力をも内在し、ともすれば「かったるさ」を生んでしまう原因にもなる。同じフェイズを表現しながらも、この「かったるさ」を消去するスキルこそが、有効な現代文学の要諦だという論である。
思い起こせば、いまの小説はどんなもんかなあ、どれどれと店にならぶ文芸誌を読んでみたら、あまりのくだらなさに、「これならおれが書いたほうがおもしろい」、と立ち上がった宮本輝の頃に比べ、現代文学の幅は格段にひろがっている。自宅でどっさり発見された90年代前半の文芸誌のバックナンバーをみてみると、まだまだ「かったるい」ラインアップがとり揃えられているのだが、こと後半以降は『現代小説のレッスン』であげられているような作家たちの本質的な活動により、ここでいう「エンタテイメント化」のスキルはずいぶん向上しているようにみえる。村上龍の作品において延々と書き紡がれる「描写」に飽きることはないし、保坂和志の惑い折れ曲がり遅滞し結論を回避するかのような「思弁的考察」に同調していることはよくあるし、同じ「内言」だって舞城の四郎のようなドライブ感のあるものならぐんぐん愉しめる。もちろん町田康だって愉しめる。
こういったケースを見ると、石川忠司の仮説は納得性が高い。気になるのは小説のめざすところを「ストレートな痛快さ、明朗な喜び、しみじみとした深さなどを、活字媒体においてもふたたび」と、いわゆる「エンタテイメント」に帰着させようとするかのような表現で、とりたてて読後が「ストレートでもなく、痛快でもなく、明朗でもなく、喜びもなく、しみじみとしていなくても」なにか「問い」があればよいのではないか、と思うのだが、そうなると、やっぱり物語に負けてしまうのか。でもそもそも勝つ、負けるってなんだ?
ほとんど序章程度しか読んでいないのに、よくもまあこんなに偉そうなことがかけるなあと、われながら恥ずかしい限りなんだけれど、つまりは本論にもの凄く期待が高まっている、ということで、この続きは25時ぐらいに終業できそうな時期がきたら書いてみたい。
あ、いかんいかんマジな文章になってら。あと『声と現象』なんかも買ってんだけど、こいつはちょっと時間がかかりそうだね。20分しか時間がなかったら、毎日10行くらいしか読み進められないだろうなあ。そうこうしているうちに『小説の自由』とかまたぞろややこしい「思弁的考察」の本もでるし。そういえば、保坂と小島信夫との対談、まだ席あるかなあ。ともかく、仕事の効率をあげていこう!