考えるための道具箱

Thinking tool box

◎『TITLE』と『Marco Polo』。

2008-06-22 22:18:56 | ◎読
『TITLE』の終盤はもうぺらぺらだったけれど、廃刊になったということは、直接的であれ間接的であれ、良識あるジャッジメントがまだ少しは効いていたということかもしれない。
もちろん、本質的な理由はメディア"広告"ビジネスとしての失敗ということになるんだろうけれど、個人的には「読むところがない」という雑誌としての別の側面での本質的なところに問題があったんじゃないかなあ、と思う。

それは記事が面白くないとか、論点がちがうんじゃないか、といったようなレベルの高い話ではなく、そもそも幾何的に「読む<文字>がない」ということに近い。必然的に恬淡とした水っぽい内容になり、どれだけキャッチーな特集テーマに惹かれたとしても、ページを繰ったその瞬間に嘆息がでるような文字情報のチープさ=浅さだった。最後のほうの「雑誌特集」なんかをみればそのことはきっとわかってもらえる。
きっと「文字を読む」「本を読む」ということにあまり関心をもったことがないデザイナーにリードを授けてしまったというボタンの掛け違いを最後の最後まで何度やっても修正できなった。こんなふうに想像されてもしかたないようなものだった。

じつは、この『TITLE』の系譜は、文藝春秋にとってはちょっとした鬼門で、その不遇は1991年に創刊された『Marco Polo』に始まる。以降、『Marco』も『TITLE』も何度もリニューアルを繰り返すが、やっかいなトラブルもあったりして、結局、新世代の『文藝春秋』になることはできなかった。

しかし、その中にあって、徹底したサブカルチャー路線とコラムに注力した『Marco』の第一期リニューアル、そして発行が軌道に乗り出した初期の『TITLE』、この二つにみられた編集者の異様なまでの熱狂と横溢する文字情報には目を見張るものがあり、雑誌というメディアの原点とひとつの到達点をみた思いがした。ほんとうに毎月の発売が愉しみだったし、スタッフも愉しんでいるんだろうなという状況がひしひしと伝わってきた。ここまで密度の高い雑誌は現在ではあまり思い浮かばない。『サイゾー』が近いような気がするが、これはあまりにもゴシップにすぎる。

最初の『Marco』は、『文藝春秋』の記事をやや硬化させ、デザインを軟化させたようなもの。まさに文藝春秋らしいつくりでオピニオン雑誌としての社命というかオブセッションにとらわれすぎた。ただ、この頃は『月刊ASAHI』をはじめ『DAYS JAPAN』、『VIEWS』、『BART』など、表紙はゴルバチョフかダイアナ妃かといったような、国際ジャーナリズム、社会・政治をあつかう雑誌がたくさん創刊された時期なので、競合対策としてはいたしかたなかったのだろう。いずれも、ターゲットが曖昧である(というか不在)にしても、他誌は妙味と工夫があるなかで、『Marco』はあまりにも無策すぎた。


結局、テコ入れがはかられ、先にふれたサブカルチャー路線へのリニューアルとなる。刷新は、ウィキによるとまったく振るわなかったということになっているようだが、じつはこの時期の特集はけっこうエッジがきいていて、その内容も、そこそこ満足のゆく程度まではつっこまれていた。なにより、大量の文字を巧く楽しくデザインするエディトリアルの手法は、始めて雑誌というものを手にしたときの(たとえば、『TVマガジン』とか『科学』と『学習』、大伴昌司の図解)の期待感をよみがえらせてくれた。

特集テーマは、写真にもあるように「マンガ」「TV(進め電波少年)」「禁じられた映画」「売春」「読書狂」「満州」、さらには「韓国」「女子高生」……と、メジャー出版社としては禁忌とも思えるようなバリエーション。コンテンツは、以前にも少し紹介したけれど、だいたいこんな感じ。

■1993年7月号
□特集:連合赤軍なんて、知らないよ。
▶東大壊滅!入試を中止させた血まみれの安田砦▶永田洋子[獄中イラスト]は少女チック▶過激派'70衝撃のスクープ写真史▶マンガ[我が斗争]/いしかわじゅん▶全共闘は北京原人か/呉智英・大月隆寛・福田和也座談▶70年代闘争警備責任者の極秘メモ/佐々淳行▶[内ゲバ][爆弾][ロケット弾]の現場報告▶▲ロマンポルノ伝説の妖精・片桐夕子インタビュー▶倉橋由美子インタビュー▶甦る寺山修司伝説/高橋源一郎ら
□島田裕巳この罪深き宗教学者よ
□新宿鮫の泳ぐ街/大沢在昌インタビュー
□コラム・連載
▶福田和也のエッセイ▶「殺戮の動物」ポルポト派を精神分析する/野田正彰▶マンガ四角いジャングル(高取英のマンガ評)▶竹野屋書店(竹野雅人の書評)▶銀幕共和国(井上一馬の映画評)▶小山薫堂のエッセイ その他▶マルコウエスト(大阪向けBOOK IN BOOK毎号連載):大阪人数珠つなぎ対談(小米朝→谷川浩司)、黒田清エッセイ他猥雑大阪コラム

とりわけ、細かく寸断されしかし入念な考慮がなされた連載コラム群は、それだけでも豊かな時間潰しになった。編集長が同じだけあって、こちらも女性誌としての冒険がそうとう面白かった『CREA』のスタンスが存分に踏襲されていたということだ。

このあと、2度目のリニューアルとして花田紀凱が手を入れることになるが、言うまでもなく、そこに登場したのは事大な週刊文春であり、コラムの面白さは残るとしても、スクープ重視の特集はまあ『週刊文春』ないしは『文藝春秋』にまかせればよいわけで、個人的にはとりたてて毎月買う必要のない雑誌となっていく。そろそろ買うのやめようかと思っていたときに、トンデモネタを握らされた過度なスクープ主義が致命となる。


そして『Title』の創刊。『Marco』の事件から、しばらく時間をおいたミレニアム。満を持しての登場となる。一見、なんの関わりもないようにみえる二誌だけれども、『文藝春秋』と相対化されたポジションを始め、目論見は近いところにあったと言っていいかもしれない。

大々的なプロモーションがなされていたので創刊号は読んだけれど、かなり総花的でやりたいことがいまいち読めなかったし、そもそも面白くなかった。だから、それを限りに読むのをやめていたのだけれど、しばらくして見かけたときに、つまり運用が軌道にのった頃合の『Title』は、ずいぶんまとまりのあるものとなっていた。そして、その編集の技術と熱狂は、まぎれもなく第二期の『Marco』のものだった。毒書計画の井川遥の起用法なんて、なかなかのもんだった。

しかし、それに気付いたときは、もはや最後のリニューアルの直前で、もうそのリニューアルの企図だけで、ああ『Marco』のときと一緒じゃんと思って腹たって、そのあとの新生『Title』は、毎回いちおうチェックはするものの、仕事で使う以外はいっさい買わなかった。もっとも仕事で買っても、使えねーことが多かったわけだが。

さて、このあと、文藝春秋は、ふたたび『ポスト文藝春秋』に挑むのだろうか。その前に、まずWEB戦略をなんとかしたほうがいいと思う次第。いずれにしても、ずべて表層的な話。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿