考えるための道具箱

Thinking tool box

音楽について、いくつか。

2005-04-29 20:46:27 | ◎聴
ブルース・スプリングスティーンの新譜『Devils & Dust』は、本国ではすでに発売されていて、輸入盤は店頭にも並ぶ。少しでも早く聴きたいんだけれども、仕様の問題などもあって日本版の発売を待つことにした。
それまでは、今回『Devils & Dust』のライナーノーツを書かれた音楽評論家/翻訳家の五十嵐さんの、もの凄くくわしくていねいな各曲紹介を愉しむ。そしてあいかわらずのBOSSの思弁とテキストワークに心を振るわせる。

アメリカという歴史の浅い国家の課題を、それに直面するマイノリティーや市井人の立ち位置から描く志は、同じ日本を描く『半島を出よ』と同じものなのだろうが、リアリティには格段の差がある。もちろん双方ともマイノリティーを描くメジャー&メガアートなわけで、極論を言えば、同じコマーシャリズムの産物といえなくもないが、おそらくBOSSは自身がメジャーであることを強く認識し、そのうえでかつマイノリティーの体験を持ち続ける力があるということだろうか。その憑依できる力が、世の中はけっして善悪ですっきり割り切れるわけではないという深く真摯な認識を生み、それゆえの苦悩への耐性を生むということだろうか(※)。まあ、楽曲を聴かないうちにあれこれ考えても不毛ですね。公式サイトで試聴しながらいろいろとイメージしてみるのがよいです。

で、そのBOSSのアコースティックソロツアーも始まっていて、そのセットリストにまた震撼する。こちらはSMEの情報から。

April 25, 2005
Detroit, Michigan
Fox Theatre

Reason to Believe
Devils and Dust
Youngstown
Lonesome Day
Long Time Comin'
Silver Palomino
For You *
Real World *
Part Man, Part Monkey
Maria's Bed
Highway Patrolman
Black Cowboys
Reno
Racing in the Street *
The Rising
Further On (Up the Road)
Jesus Was an Only Son *
Leah
The Hitter
Matamoros Banks
(encore)
This Hard Land
Waitin' on a Sunny Day
My Best Was Never Good Enough
The Promised Land
(*PIANO)

ファンの人しかわからないと思うが、このリストはそうとう鳥肌ものだ。「Racing in the Street」は、言ってしまえば僕がいちばん好きな曲で、まずパフォーマンスがあるということ自体もビビるんだけど、ピアノ弾き語りなんかやられちゃうと腰抜けるかも。それに「The Rising」「 Further On (Up the Road)」のアコースティックが続けばきっと気絶しちゃう。まあ、そもそも「Reason to Believe」のオープニングでしょうべんちびっていると思いますが。

例によって東京国際フォーラムだけでもいいから来日してほしいし、そうでない場合は、DVD化をお願いしておきますよ。SMEさん。
         ◆
そのSONY MUSICのJAPANのいちおしは、知ってる人はもうかなり知っているだろうurb(アーブ)。いわゆるジャム・バンドで、ジャズなんだけど、キーボード、ギター、ベース、ドラム、、トランペットの6ピースバンドで、出自に幅広さが楽曲の幅広さにあらわれていて、とても渋くて愉しい。2002年のデビュー以来初めてのフルアルバム『afterdark』(five spot?)を、ご近所のギターウルフから借り受けていて、ようやくじっくり聴くことができたんだけど聴くほどに音楽の愉楽が実感できる。楽曲はまったく異なるがおそらくその登場感は25年前のカシオペアに通じるところがあるが、音楽に対するウィットやエスプリみたいなものはurbがちょい上か。プリンスのパープルレインなんてのを軽くカヴァーしちゃうところなんかね(そのウィットはひょっとすると芳野藤丸のSHOGUNに近いかも。もちろんテクニックも)。まあ、このあたりについては素人の戯言を聞いてもしようがないので、どこかで試聴してみてください。針が落ちた瞬間に僕の予言の正しさにご納得いただけると思います。
         ◆
で、最後は、ここんとこ、こればっかりのスーパーカーの『B』。シングルのカップリングを集めたベストアルバムなので、あまり期待していなかったんだけれど、結局ははまってしまった。『B』は年代順に並べた2枚組みになっており、音楽的にはその2枚の境界でばっさり寸断されているかのごとく異なる。ちょうど『FUTURAMA』あたり?そして、どちらもが紛れもなくスーパーカーであるところに、彼らの豊かさを感じる。早すぎる解散はおしい。しかし、もし彼らが今後も活動を続けたとして、この2面以上のスーパーカーを期待してしまうと、それはもうスーパーカーではないものになってしまいそうなので、そういった意味では、ここでスーパーカーが封印されるという選択肢が正しそうな気もする。
         ◆
とかいった近代的な音楽の話を、Doorsの「ストレンジデイズ」などを聴きながら書くっていう分裂気味で奇妙な一日でした。        


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(※)これはけっして村上龍はダメだ、といっているわけではない。彼も見事にマイノリティに憑依していて、本来的にはこのことにもっとも自覚的な作家ではあるという点で信頼できる。ただし、精神的マイノリティーであって、社会的・経済的マイノリティへの深みにはかける。その証左として、イシハラグループのヤマダの描き方の弱さをあげてもいいかもしれない。


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そろそろ、歴史小説を読んでみようか。

2005-04-27 21:33:17 | ◎書
正確には「日本の」歴史小説。もっと、正確に言うと司馬遼太郎。本は比較的読んでいるほうだと思うんだけど、司馬の小説は過去一度も読んだことがない。そういった意味では、「じつは本好きではないのではないか疑惑」も浮上するわけだけど、どうも歴史ものにはいま一歩踏み込めないでいた。しいて理由をあげるなら、啓蒙的で教導的・育英的なのは、なんかやだ、という食わず嫌い王の悪しき印象批評以外のなにものでもないく、司馬遼と歴史ファンにはほんとうに申しわけない気持ちでいっぱいだ。

そんな僕が、ここにきて嘘っぽい関心を抱き始めたのは、今週みかけた2つの記事。しかし、影響されたわけではなく、あんたらがそんなに言うんならいっぺん読んでみるわ、って感じね。
ひとつは、島田雅彦の文芸時評(朝日新聞東京4月26日夕刊)。『半島を出よ』を、一見誉めているようにみえる書評で(※1)、それはそれであらためて深読みしていきたいのだが、なかで司馬遼太郎と村上龍の共通項にふれている一節がある。

「薀蓄の多さにかけては、村上龍は司馬遼太郎に匹敵する。幕末が舞台か、近未来が舞台かの違いはあれ、文明論を熱く語り、啓蒙の役割を担う点でも二人は似ている。さらに司馬の場所に対する鋭敏な感覚、資料を読む際の直観的分析力さえも村上龍は受け継いでいる。」

言われてみれば、そういうことだ。『半島を出よ』の巻末に付された膨大な資料をみると、創作における方法論すらかなり相似していたいに違いないとも思える。このことは、『半島を出よ』が、新しい方法で書かれた新しい形式の小説ではないかというアイデアをいとも簡単に却下してしまう。ちょっと困りものの学説なので、ほんとうにそうなのかってのを一応確認しておく必要があるなあ、というのが動機のひとつだ。まあ、島田雅彦は勢いで書いただけと思えなくもないが、「場所に対する鋭敏な感覚」というフレーズが気になるのでこのことについては共通の枠組みを理解しておく必要がありそうな気がする。
しかし、村上龍(の『半島』)に司馬を対置させるなんて、島田雅彦はちょっとさえてるね。

もうひとつは『AERA 05.5.2-9号』(※2)の「女性のための司馬遼太郎入門」。こちらは、まさに訓育的な視点の記事なので、「いまどき、現実界にこんないい男がいないから、司馬作品にのめり込むのよ(美容師・35)」、「30歳代の女性って、生き方の手本が欲しいんですね。…そう考えると司馬作品にはサンプルがあふれている(シンクタンク・38)」、「そんなときは、司馬作品。いいよ、あなたはそのままで、と言ってくれるんです。そんな無名の市井人の営みが歴史を作っているんだよ、と諭される(岸本葉子)」なんていった女性たちの感想を聞いても感化されちゃうことは、まあない。だけど、同じ岸本さんが魅力だと語る、「全作品の底流に流れる無常観と諦観」は気になる。じっさいに同記事中で引用されている司馬遼の数多くの作品の一節では、このあたりのことはみごとに表現されていて、市井の人たちの処し方に勇気を与える(なんだ感化されてんじゃん)。この吉本隆明が語るような、なんでもない人たちが持つべき矜持は、ある意味『半島…』にも埋め込まれているのかもしれないけれど、そこには、やはり「静の強さ」がないんだよなあ、と思ってしまう。この無常観と諦観の表現方法を確認しておきたい、というのも司馬遼の扉を開く大きい動機になる。

って、なんだか意欲満々だけど、きっと書いた先から忘れて、読まないんだろうなあ。まあ、自宅に2、3冊あるかもしないので探してみよ。


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(※1)「誉めているようにみえる書評」って妙にねじれた言い方をしたのは、そこで書かれた数々の比喩や形容詞がすべてアイロニーにみえてしまうから。たとえば「狩猟系作家の代表選手」、「気宇壮大」、「生き残り哲学」、「戦記物語」、「私的防衛大綱」、「薀蓄の多さ」、「蛮勇こそ才能」、「異種格闘技の醍醐味」。ふふふ。まあ、島田らしい書き方だ。創作の動機は買うが、文学作品としては大失敗、といいたいのかなとか裏読みしてしまうような時評でした。なお、朝日の同一紙面上で、三島賞の候補作が発表されていたので、SEO対策として少しふれておくと、中村文則「悪意の手記」、本谷有希子「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」、青木淳悟「クレーターのほとりで」、鹿島田真希「六〇〇〇度の愛」、三崎亜記「となり町戦争」、黒川創「明るい夜」。もちろん、ふつうに考えれば、青木淳悟なんだけれどなあ。絶対。
(※2)ついでに書いておくと、同号の『AERA』は、「こうして取る文学新人賞」なんて記事で、上記三島賞の青木の対抗馬にふれていたりもするけれど、なんといってもいちばんいかしたコメントは、改憲問題を語る、爆笑・太田。「いっぷう変わった国でいい 9条は『世界遺産』に」だって。ふふふ。


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ロスト・イン・トランスレーション、薄暮の東京。

2005-04-26 12:59:29 | ◎観
箱庭のように囲われた暮らしのなかでの意識の流れ。その孤独感と寂寥感。ときに、おいおい、とも感じられる異文化の齟齬への不快感は、じつはボブとシャーロットが感じているものと同じ不快感・不安感であり、それを見る日本人に擬似体験させたという、なかなかに巧みな撮り方。なにより、こんな他愛もないドラマを、睡眠不足でトロトロの僕を眠らさずに見せた緊張感。…てなことを、僕が、しかもいまさら書いてもしようがないので、この映画が気に入った少し別の視点を投入してみよう。いや、そんなにたいそうな話ではないんですけどね。

それは、東京というか都市の空の撮り方。なんだかATGの映画のようなフィルムの、画面の上のはじのほうにときたま顔をだしてくる、薄暮の空。これが、なんだろう、もの凄く都市の夕景なんだ。すでに地上では夜を迎え、いかがわしいネオンや、ヘッドライト&テールライト、ビルの航空障害灯がしっかり輝きだしている。パークハイアットの眼下で、室内の灯りがつきはじめた高層ビルは眺める夜景としては秀逸だ。

しかし、視線を空にうつせば、夜はまだ明るい。もちろんそこにある雲は夕陽の逆光で暗黒の不気味さを帯びているんだけれど、合間を縫う空はまだ底が抜けるように白く明るい。そして、静謐だ。この空をどこかでみた記憶はなかったか。

たとえば夜が早く街が低い京都のような街にあるビジネス街の空に似ているかもしれない。仕事なんて夜遅くまでするもんじゃないよと、人々が早々にひきあげたあとの、誰もいなくなった街の空。ウィークデーにもかかわらず、日曜の夜のように閑散とした街でふと視線をあげると、そんな空がみえてくる。もしくは大自然と隣接したバンクーバーや、小自然と隣接した仙台のような市街の夜の空?そこには確かに澄んだ匂いがあったはずだ。この匂いの記憶が、あるはずのない東京の空で、久しぶりによみがえった。

コッポラはもともと写真家?だから、こんなていねいな「静」の撮りかたを指揮できるのかなあ。それとも35mmだから?まったくうまく表現できないけれど僕にとってはとても懐かしい感じのする空である。そして、この異国譚において日本のエキセントリック感がさほど露悪的にならなかったのは、風景の多くがこれら夜ないしは薄暮っぽく見えるの「静」の空に限定されていたから、という効果も見逃せない。たくさんの映画を見ているわけではないので、えらそーなことをいえたもんじゃないんだけど、映画も文学同様にそれを動かしていくのは物語だけではないわけで、こういうちょっとした絵が、なんともいえないお得感をもたらしてくれる。

『ロスト・イン・トランスレーション』でもうひとつお得なのは音楽で、こちらも自明。ほんとうのセンスよさというのはこういうことなんだろうなあ。意識的に聴いていたわけではないので、「良い」という以外の意見はないけれど、ロック好きなのでフェニックスとかはっぴいえんどが巧い使い方をされているのには関心した。サントラでも借りてみようかと思わせる。もしくは、DVDを買って保存版にしておくっていうのもいいかもしれない。


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読み終えた、このぶ厚い2冊をどうするか。

2005-04-24 21:36:10 | ◎読
これにてすみやかに『告白』や『ディスコ探偵水曜日』などに移行できるわけなんだけど、『半島を出よ』については、その前にちゃんと書いておいたほうがいいのかなあ。もし、書くとしたらけっこう長くなるだろうなあ。書きたいことはたくさんあるんだけど、たぶんそのほとんどが、文学的な立ち位置からみたときの批判的な物言いになりそうな気がする。で、おそらくその視点からみた課題は、ちょっと小説を読んでいる人にとってはものすごくわかりやすいものなので、あえて書くほどのことはない、という考え方もあるわけだ。逆に、論をまとめるより、思いついたときにチクチクとエントリーをアップしていくって方法もあるかも。もしくは、渡部直己が、なにかを書いた後、『五分後の世界』をべた褒めした彼の評点の揺らぎなどを反面教師として、そこをついていくような後だしジャンケンっていう手もある。

これらのことを考えると『半島を出よ』については、自明の批判をおこなうより文芸批評的な視点からプラス面を吸い出す作業をおこなったほうが面白いかもしれないし、なにか発見があるかもしれない。

たとえば、「新しい小説」の形と見做した場合はどう?たとえば、ポリティカルでエコノミカルなテーマを文学として着地させるという形式。もちろん、すでに経済小説というエンターテイメントのジャンルはあり、しっかりとしたファクトに基づいて書かれているものも多い。それらのビジネス・シミュレーションと『半島』はどこが異なるのか?なにか生きていくうえで大切な箴言や教訓のようなものが散在しているところか?それとも、ナショナルな課題を謳いあげるマッチョなネオ・イデオロギーか?もし、このことがうまく作用していれば、ドン・デリーロの『アンダー・ワールド』『マオⅡ』のようになっていたかもしれないが、どうやらそれとは違う。もちろん『神聖喜劇』とも違う。なにかすっきりしすぎているのだ。これを考えると「新しい小説」には、やはり数センチ届いていないのか?

その「すっきりしすぎている」という印象を好意的に捉えるっていう方向はどうだろう。つまり、文章・言葉の力という点でみればどうか?『半島』は基本的にはその物語の巧拙が批評の対象になるだろうが、小説を駆動していくのはなにも物語だけではないと考えたとき、記号として(もしくはオブジェクトとして)有意味&無意味なテキストを膨大に羅列していくという形式は新しいのか?余計な比喩や紋切り型をほとんど使わず緊張感のある文体を持続するスキルは、もはや驚くほかないのだが、はたして、ワン&オンリーのものか?じつは情報の羅列を除けば、そうとう読みやすい文になっているが、はたしてそれは善なのか?過去、龍が生み出した息継ぎのない輝くようなすばらしい長文(たとえば『トパーズ』)は、どこかにあったか?
また、異様な量のリアルな情報を文学のことばとしてまとめあげた結果リアリティを減速させていく手法はその功罪を見極める必要があるが、はたしてそこに『なんとなくクリスタル』を越える斬新性はあるのか?

さらに、主体や視点にについては?これだけの膨大な登場人物とシーンを力技でまとめているところをみると、主体(語り口)や視点について描き方については、かなり詳細に分析すれば、なにか技巧がみつかるかもしれない。たとえば、内閣危機管理センターでの円卓会議の場面とかね。ただし、いま群像劇といえば『シンセミア』で、そこで多元視点について揺るぎのない答えが出ている以上、なにか違う答えを出さなければならない。さて、新しい手法はどこかにあったか?

そして。そして、これは龍の集大成と読んでいいのか?おそらく、これにてしばらく龍は小説を書かないだろうことが予測されるが(外伝的なものは別として)、場合によっては最後の小説になるかもしれない『半島』は、代表作たりえるのか?たしかに、過去の作品の多くの「書くべき」ことが満載されているのだが、それは焼き直しにすぎないのか、再統合がはかられたものなのか?たとえば、高麗軍殲滅後、九州が日本政府を拒絶し独立をめざすくだりは、どこかでみたあの独立とどう異なるのか?それとも進化した洗練された独立の形なのか?

いやあ、なんか書いているうちに、楽しくなってきちゃいましたねえ。じつは、いま過去の作品なんかも読み直してみたりしてるんだけれど、ちょっと村上龍ブームになりそう。この「マイノリティ」を書くことをテーマとしながら「メジャー」になってしまった不協和小説について、床屋談義するのはなかなかによいトレーニングになる。これは、間違いなくゴールデンウィークのお楽しみだ。って、GWがヒマだったらの話ね。


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世にも美しいことば入門。

2005-04-23 18:43:34 | ◎読
小川洋子に誘引されたのだろうか。それとも数学に宿る神の技か。たしかに、『世にも美しい数学入門』で紹介されている定理や証明が美しいことは、藤原正彦先生の解説が巧みなためよくわかる。しかし、それ以上に美しいのが、先生と小川洋子のふたり、そして数学者たちが紡ぎだす「ことば」の数々だ。そこにあるのは、たんにbeautyというだけではなく、「整」「静」「正」といった要素が組み込まれたことばの使い方の美しさだ。

たとえば、以下のコメント。定理の美醜を定義してしまうところからして「整」なんだけど、「醜い定理」を発見して証明してしまった先生のコメントがまた「正」である。

小川●証明できるんですか。
藤原●できますよ。僕、発見してすぐ証明しましたから。それもネチネチとくだらない計算を続けると出てくるんですね。さっきの例のように、石を1,3,5,7と置いていくような、美しい証明じゃないんですよ。美しくないからすでに価値はない。
小川●でも、これを見つけたときには美しい気持ちにはなりませんでしたか。
藤原●そうですね。証明ができたときにはちょっとうれしかったですね。でも見るにしたがって、自分の排泄物をみるような、いやーな気分になってきましたね(笑)。


「フェルマー予想」を証明する鍵となる「谷山=志村予想」をわかりやすく説明するために用いた比喩は、まさにbeautyである。

藤原●楕円曲線とモジュラー形式というまったく無関係の世界が密接に、結ばれているという理論。たとえて言うなら、エベレストの頂上と富士山の頂上を結ぶ虹の架け橋があるという感じ。谷山先生が、「虹のかけ橋があるんじゃないかなあ」と言ったのを、志村先生が、「ほら、ここに虹のかけらがあるよ、あっちにもあるよ、こんな軌跡になるはずだよ」と、いろんな実例を挙げて、虹のかけ橋は確かにあり、こういう形でなければならないということを具体的に示したんです。……「フェルマー予想」を星にたとえると、それは谷山=志村の虹のかけ橋のすぐ隣りにあり、そこから腕を伸ばせば手に取れる位置にあるよと。

また、実体験とファクトからうと生まれでることばは、けっして大声で叫ばれるものではないが「静」と「正」の強さと美しさを生み出す。

藤原●(志村先生は)最初は谷山先生の予想は信じていなかったようなんです。でも、「谷山には不思議な能力がある。ときどき間違うけど、なぜか正しい方向に間違う」と評価していたんですよね。

藤原●そうそう。だけど、この世の中にはない幻の数、虚数です。これを初めて認めたのは16世紀のガルダノという人。二次方程式を解こうとすると、x2+1=0が出てきちゃう。そこで彼はおもしろいことを言っています。「虚数によって受ける精神的苦痛は忘れ、ただこれを導入せよ」

藤原●(ゴールドバッハの問題-6以上の偶数はすべて二つの素数の和で表せる-の証明について)1兆まで確かめられていても、証明ができていないと「だからなんなの?」となっちゃう。すべての数学者はゴールドバーグの問題は正しいと思っているんです。
小川●気配としては正しいですね。

小川●(ゲーテルの不完全性定理について)まさに悪魔的な…。

小川●(「ビュッフォン針の問題」を受けて)全然、円と関係ない問題にπが突然登場してくるということが、どうしても私には理解できないんです。二つに一つだけれども、1/2ではない。どこにどうして突然πが…。「どこからあなた来たんですか」と聞きたくなっちゃう。


「正しい方向に間違う」「虚数によって受ける精神的苦痛」「気配」「悪魔」「どこからあなた来たんですか」なんて、なかなか出てくる言葉ではない。

もちろん、これらはしっかりスタティックに証明できる数学という思考に起因するところが大きいのだろうが、対話者であるふたりの数学の美に対する確信、そして静・整・正への美意識に負うところも多いだろう。

学校の授業ではゆっくりと「観照するまでは通常至らない」数学の美について語り、物質主義・金銭至上主義を背景に実学と産学協同ばかりが叫ばれる世の中において「人間の知的活動の土台である国語と数学が著しく軽視されている」教育に憂う藤原先生のコメントは、強く、迫力すら感じさせる。とりわけ、あとがきに記された彼の想いは、判断がぶれぶれの日本において大切にしたい軸ではある。

これを受ける小川洋子は、友愛数・完全数をものにした『博士の愛した数式』はもとより、それ以前からも静謐でソリッドな美しいことばの使い手であった。たとえば、芥川賞受賞作である『妊娠カレンダー』を読めばわかるが、地の文のすべては「…た。」で留め置かれているにもかかわらず、それはけっして文体のリズムを飽きさせるものにはなっておらず、むしろ静かな、精錬ともいえる美しいリズムを刻んでいる(というか『博士の…』もそうですね。というかほどんどそうか)。小川洋子は、そもそも数学を語る人ではなかったのか、と錯覚してしまうほどである。

この本は、ちくまプリマー新書なので、例によって、娘に勧めなければならなないのだが、数学の根源的な面白さもさることながら、騒ぎ立てることのない「静かなことば」こそが美しく強いのだということをあわせて伝えたい。


むう。久しぶりに書くと、なんだかえらそーな書評みたいになっちまいますね。


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傾向と対策。

2005-04-19 00:03:30 | ◎書
さて、と。

最近の傾向を分析して、対策をたててみよう。何の!?

■4月16日(土)
◎ふだんは土曜日は帰阪して午前中はTIPNESSで午後からは自宅仕事、もしくはなんだかだらだら、ってのが定番メニューなんだけれど、この週は、会社の元後輩の結婚披露宴に招かれていたため、東京滞在を延長。宴は夕方からなので日中はゆっくりできるはずのところ、土曜日に東京にいる、ということですかさずクライアントから打ち合せを挿入されてしまう。軽めに、と思って臨んだところ、話がもりあがり結局13:00すぎまで議論してしまった。
◎帰社後、ジョルダンにて会場である桜木町までの所要時間を調べたところ、渋谷発だと16:00に出れば間に合うらしい。でもまあ、横浜なんてめったにいかないわけだから少し早め15:00くらいに出発してみる。関西人ならあまり知ることのない、なんとも便利な湘南・新宿ラインというやつにのると20分強で着いてしまった。車中では、文庫になった舞城の『世界は密室でできている』。並行して読んでいる『ディスコ探偵水曜日』、それに『煙か土か食い物』ともダブりつつ、やっぱり舞城ってピンチョンを意識してるよな、とあらためて思う。思いつつも、初めて見る新川崎あたりの関西ではあまりみかけることがなくなった寂しい原っぱな風景に関心し読書はあまり進まない。ちゅうか、友紀夫がルンババの湿疹の先のツブツブを飲み干すところで礼装で締め付けられた胃のあたりがムカついたので本を閉じる。
◎クイーンズスクエアやランドマークプラザをうろうろ。まあ、あたりまえといえばあたりまえなんだけど、おっきい神戸ですね。しかし、地上70階ってのは、神戸にはない。これはすごいねえ。新宿の住友三角ビルだって、確か50階くらいだったし、こんな高い階なんてこれが最初で最後だなあと感激しつつ、宴はお開き。久しぶりに良い式でした。
◎ずいぶん早めに渋谷に帰れたので、たまには、と思い、中目黒のブックオフへ。東京の人のBLOGを読んでいると、けっこうブックオフが活用されているので、本の筋が関西とは違うのか?と思いつつ。結論から言うと、おんなじでした。収穫ゼロ。
◎ホテルに帰り、『世にも美しい数学入門』(ちくまプリマー新書)。前評判どおり愉しい読み物。「美しい定理」と「醜い定理」があるっていう話なんかは感覚的にはわかるんだけど、もう少し言語化してほしかったね。後半も「不完全性定理」とか「ビュッファンの針の和」とかなんとも神がかり的な話がでてきて、ふだんとは違う頭を使うのは気持ちよいよ。で、あとは『社会学を学ぶ』(ちくま新書)。なんだか、ぼくが学生だった頃とはずいぶん違う。もちろんデュルケームなんかは相変わらずなんだけど、システム論とかフーコーはここまで重視されいてなかった。ベンヤミンも。もし、あの頃、パサージュ論とかカルチュラル・スタディーズなんてのを誰かが教えてくれたら、つまり、『社会学を学ぶ』のような多少行儀の悪い全体像を示す一冊を教えてくれていたら、なにかかが変わったかもしれんね。

■4月17日(日)
◎9:03品川発ののぞみで移動。社内ではまず『ディスコ探偵水曜日』。時間移動がからむため、『半島を出よ』の200倍くらい読みがたい。なにせ、冒頭の「今とここで表す現在地点がどこでもない場所になる英語の国で生まれた俺はディスコ水曜日。」からして、nowhereのこと気づくまでいきなり5分くらいかかる。まあ、この一文に、この物語のコンセプトが埋め込まれているって思えば気分は楽になる。たぶん、これ仲俣暁生の批評のキーポイントになるよね。
◎むう。ちょっと舞城の文体に飽きてきたので、『半島を出よ』。こちらも、イシハラグループのタケイの武器発表会のあたりでいきなり飽きてしまってペースがガクンと落ちていたのだが、いつまでも重い本を持ち歩くのもしんどいので、思い切ってリ・スタート。ここを乗り切れば意外と面白い。いっぽうで、この小説はいろいろと突っ込みどころがあるなあ、と再確認。いちばん残念なのは、情報を詰め込みすぎているため、どう足掻いても情報小説としか評価されないところかなあ。たぶん、いまの5倍くらいの分量で、たとえば『神聖喜劇』くらいの量に希薄すれば、なんだろう、全体小説のようなものになるかもしれない。諭されているような感じが続くのは、勘弁してほしいけど。
◎帰宅後、疲れているので眠ってしまうまえにTUTAYAと天牛書店。TUTAYAでは、『ネガティブハート』(マイナズターズ)、『MARBLE』(CASIOPEA)、『Republic』(NewOrder)、『風街ろまん』(はっぴいえんど)。映画は、見る時間がとれるかどうかと憂いつつも、DVD半額に乗せらせて『MYSTIC RIVER』『Lost in Translation』、遅ればせながら。マイナスターズは完成度の高さに驚愕。プロデューサは気になるが、それより大竹の才能に感服。
『MARBLE』はカシオペアの最新作。ぼくが最後に買ったのは『PLUTINUM』で、もうかれこれ10年以上も前になる。中学生のときに『SUPER FRIGHT』を聞いて以来のファンで、厨房のぶんざいでコンサートなどにいったりしていたのだが、『PLUTINUM』以降は一切聞いていなかった。その間、ゴシップのようなもややこしいこともいくらかあったようだが、カシオペアはじつのところ桜井と神保が支えていた部分もあったと思っていて、いささか残念ではある。さて、久しぶりのカシオペア体験は、いかに?25周年にちなんだ25分の曲って、たいそうすぎないかい。
◎天牛書店では『ユリイカ6月臨時増刊 総特集太宰治』(1998)、『現代思想臨時増刊 総特集デリダ~言語行為とコミュニケーション』(1988)、『永遠の吉本隆明』(橋爪大三郎、洋泉社新書)。太宰のやつは、発売時、買うタイミングを逃したもの。いまさらバックナンバーで買うのもなあ、とずっと考えていたのでちょうどよかった。
◎帰宅後、聴いたり、見たり、読んだりしようと意気込んでいたんだけど、疲れているのか、ほんとうに久しぶりに爆睡。夕食の前に小一時間、夕食後に21:30頃から26:30頃まで、一瞬だけ起きて風呂はいったが、その後、27:30には寝入ってしまった。

■4月18日(月)
◎そんなこともあって、今日は有休。じつは、水曜日〆の企画書があって、うかうかしてられないんだけど、構想を頭のなかで練りつつ、そのほかの器官はリラックス。無事に『MYSTIC RIVER』を見る時間も確保できました。おそらく賛否がばっさりわかれるこの映画は、あまりに暗すぎて眠気も吹っ飛ぶというところか。イーストウッドなのでポリティカルなことを中心として、さまざまな読み方ができると思うが、いまはまだ、そのさまざまな読み方とは異なる意見をまとめることもできそうもないので、2~3日考えてみて書けそうなら書いてみる。役者、カメラ、筋ともども、こういうのを映画って言うんだよなあ、とはいえるけど。
◎こんなときでもなければ、と思い、夕刊(朝日)をじっくり読む。文芸時評で、奥泉光がとりあげたのは『告白』『四十日と四十夜のメルヘン』と青山真治の『ホテル・クロニクルズ』。それぞれにおいて本質的な評論をしているわけではないのだが、『小説の感動は、「泣ける」などという単純な感情でくくれるようなものではない。「えもいわれぬ感情」を引き起こすべきものであって、そのためには作家は、…独自の推進力を発明しなければならないのである』というのは、まさに『MYSTIC RIVER』だね。あ、そういえばと、『新・地底旅行』を途中で放り出していたのを思い出す。
◎で、たぶん2回目以降は、けっして見ることは機会的にも内容的にもないだろう『エンジン』。安易な物語に、あいかわらずキムタクが奮闘している。もちろん、ケビン・ベーコンとはまったく別の次元、ということですけど。

■対策
◎全体的少々散漫ですかね。『エンジン』なんかみてないで、なにかに集中してしっかり読みきり、しっかり考えきる、ってとこですかね。でも、明日からはまた集中できない状況が続くんだろうなあ。



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↓だそうです。これ見ると、
↓いっそう散漫になっちゃいますかね。


浜田省吾のやりたいことがわかった。

2005-04-13 22:23:43 | ◎聴
そもそも、彼は、ロックミュージシャンの栄光と挫折を、自分自身を投影しながら客観視する楽曲が多い。そのなかには、トラベリング・バンドの哀愁を謳いあげるものもたくさん存在する。
「終わりなき疾走」、「midnight blue train」、「Hello rock'n roll city」、「こんな夜は I miss you」、「演奏旅行」、少し毛色はことなるが「DARKNESS IN THE HEART」、「Hot Summer Night」。おおむねこんなところ?並べたところで浜田を知らない人にとってはまったくわからない世界で申しわけないのですが、ファンにとってはいずれも好感度の高い曲ばかりだと思う。

その詞の文脈はものすごくシンプルで、(1)ロックミュージシャンになりたくて悶々としていた若者が (2)メジャーデビューが叶い (3)人気アーティストになって全国をツアーで駆けめぐる (4)しかしその過程において、愛する大切な人やものを置き去りにしてきたことに気づきはじめる (5)ロード中の地方のホテルなどで、ふと寂しくなり人恋しくなる (6)いろいろあったがやはりあなたのところへ戻るor支えてくれているのあなたただと強く思う ということになる。よくもまあ、同じネタで何曲もかけるなあと思うだけど、今回の新しいシングル『光と影の季節』も、ストーリーの骨は、(3)あたりから(6)までの流れを歌っているという点で、なんら変わることはない。なぜ、彼は繰り返すのだろう?50歳を越えても。

一方で曲をみてみると、この数年、浜田の楽曲の方向は大きく変わってきている。たぶん、彼はマイナーロックより、ラブバラードより、「a place in the sun」のような、R&Bを志向していて、その端的な成功例が「日はまた昇る」ということになるだろう。異論はたぶんないと思う。どう?

で、詞と曲のこの傾向をみると、きっと彼は双方の現状に満足できていなくて、さらなる追求を続けているのではないだろうか?と思えてくる。その行き着く答えは?

答えのひとつは、言うまでもなくわかりやすい。Jackson Brown「The Load Out」。『Running On Empty』のラストを飾るだけでなく、多くのステージのラストやアンコールの定番となっている名曲だ。でも、これだけじゃピースは埋まらない。「The Load Out」は、トラベリング・バンド、ライブ・バンドをこれからも続けていく意志を強く静かに謳っているんだけど、「誰かのもとに戻ってくる」というところまでは及んでいない。浜田の詞にある「戻ってくる」まなざしは、愛すべき異性にだけではなく、すべてのオーディエンスにも向けられているわけなので、ひろく解釈をすれば、「The Load Out」の先にある、「いつかまたこの場所でステージを」という意志とつながるともいえるが、もう少し決定的なback to youがほしい。そう。2つめのピースは、Bryan Adamsの「Back to you」である。

「Back to you」は、Bryanの『MTV unpluged』でライブ演奏されているもので、ファン以外にで知っている人はあまりいないと思うけれど、彼の曲のなかでは五本の指には入る名曲で、ファンであれば、場合によっては1番に指名する人も多いかもしれない。詞としては、「The Load Out」とは逆にback to youにしか触れていない。バンドの話なんて一切ない。しかし、素晴らしい詞であり、浜田がめざす「戻ってくるよ」の原点がここにあるような気がする。

Like a star that guides a ship across the ocean
That's how your love will take me home back to you
And if I wish upon that star - someday I'll be where you are
I know that day is coming soon - ya, I'm coming back to you.
You've been alone, but ya did not show it
You've been in pain, but did not know it
Let me do what I needed to - you were there when I needed you
Mighta let you down, mighta messed you round
But ya never changed your point of view
And that's why I'm comin' back to you...
(『Back to you』 Lyrics by Bryan Adams)

そして、もうひとつ重要なのは曲だ。浜田ファンの人は、試聴でもなんでもいいので、ぜひ聴いてほしい。このR&Bは、まさに『光と影の季節』なのだ。もちろんパクリではない。しかし、第一声、アコギのストローク、サビへの転調…たくさんの要素が見事に相似している。じつは、浜田はずいぶん前になにかのインタビューで、さほどメジャーな曲ではないこの「Back to you」に触れている(※1)。その想いを抱き続けながら、R&Bによる「back to you」の代表曲を目指し続けたのかもしれない。その想いは久しぶりに成功した。発売前に宣伝されていた「誰もが待ち焦がれた浜田省吾ならではのロック」とは、まったく違うもので、いったい宣伝担当はなにやってんだかと思うが、その過ちを許せるR&Bにはなっている(ビート感の強いブルースといった程度の意味)。

さらに、もうひとつ.。トラック2は、「midnight blue train 2005」。もう、気づいているかもしれないが、これは「The Load Out」と相似をなすバラードである。ステージあとのクールダウンからはじまる冒頭をみても明らかだ。

カーテンコール ステージライト
ざわめき…… 今でも火照る体
(midnight blue train 2005)

Now the seats are all empty
Let the roadies take the stage
Pack it up and tear it down
(The Load Out)

これからツアーに向かう、浜田省吾を奮い立たせるテーマソングが完成した。いずれもいい曲としてしあがっている。でも、韻律は別として、詞の内容はあいかわらずだめだなあ。相対的には。あと、ジャケのデザインね。誰かが思い切って言わないと(※2)。


(※1)『Complete Shogo Hamada―浜田省吾事典』(TOKYO FM出版)か、『青空のゆくえ』(ロッキング・オン)あたりか。
(※2)ちなみにジャケットの発想の素もJackson Brownの『lawyers in love』ですね。そうぢゃない、っていうかもしれないけど。






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「日常」の切り出し方。

2005-04-12 17:33:40 | ◎読
『群像 5月号』の、新鋭14人競作短編「日常」。もちろん、まだ全部は読んでいないし、それぞれがほんとうに短い掌編なので、なにかの判断ができるわけではないのだけれど、これから誰を読んでいけばよいのか、という優先順位のためのガイドラインにはなると思える面白い試みではある。

じつのところは、名前をみた時点で、読む順番が決まっちゃって、それが優先順位じゃないの?と、言われればそれまでなんだけど、まあまあここはいったん食わず嫌い王を返上し、ゼロベース思考で新しい才能を無理やりに飲み込んでみようと思う。

●われわれの期待の星、青木淳悟は『市街地の家』という掌編で、例によって、そういったことがよくあるような気もするし、ないような気もするといったとらえどころのない日常を切り出している。描かれているのは、祖母の見舞いのため家を留守にすることになった母親にとり残されてしまった息子と父親の日常。この状況はよくあることだし、書かれている事実についても事実らしい事実なのだが、そこは青木淳悟、なんか全体的に「変」なのだ。

その「変らしさ」の鍵を握っているは、基本的には父親の言動である。冒頭「ええ?二泊ですって?」と女口調ではじまるいくつかの発言、息子正也が買ってきたプリンを選ぶときの子どものような仕草、意味なく部屋の明かりを消してしまうところ、昨夜の湯に追い炊きもせずに入ってしまう行動など、なにからなにまで一貫して「変」である。

しかし、物語を貫く「変らしさ」は父親だけに起因するのではない。あたかも正常に見える息子・正也が、ふつうに考えればかなり奇異でムカつく父親の言動をごく自然に違和感なく受け止めていて、このことが一見「変らしさ」を解除しているようにも見えるのだが、じつは正也の受け止め方こそが、全体としての「変らしさ」を確固たるものとしているともいえる。ほんとうは変なのに、変に見えないようにしていて、それはテキストとしては成功しているのだが、よくよく考えればやっぱり変だ、ということになる。

しかし、もう一段階、よくよく考えてみよう。ここで書かれた日常ってほんとうに変なのだろうか?じつは、わたしたちの日常の暮らしって、そんなもんじゃないだろうか?
たとえば、食卓における家族の日常には、きっとその家族にしかわからない符丁や慣習があるはずだ。なぜか父親が女言葉を多用するというのもこれにあたるだろうし、テレビのリモコンを「チャンネルメイト」(※1)とか「ピコピコ」とか「テレビの棒」といった変な愛称で呼んだり、ふりかけがなければ激怒する父親がいるといったこともそうだろう。本来的にはこういった、だれにも見られていないがゆえに発露する恥部を活写しなければ真の家族の日常にはならない。

よくあるホームドラマでは、日常の切り出しにおいてこういった暗部はすべからく省略されている。全体のストーリーにとって余計な部分であり、視聴者や読者が、違和感や不快感を感じる挙動をいちいち描写していたら話が進まないということだ。逆に、舞台の世界では、ストーリーの遅延を気にすることなく、日常の瑣末なリアルを事大にとりあげデフォルメしていくことが多い。青木淳悟のテキストは、まさにその中間部分をいくもの、つまり良質の映画の世界であり、けっして映像的ではないけれど、テキストが描くファミリー・アフェアのひとつのかたちを目指しているように思える。変ではあるが、これこそ家族の日常。それは、高いレベルで成功しているとは言いがたいし、彼が自覚的かどうかもわからないが、これからの作品に再び大きな期待を抱かせるものではある。

●一方で、他人が絡んでくるときの日常のリアルを的確に表現しているのが柴崎友香の『ハイ・ポジション』か。大阪の肥後橋あたりに勤務するOLが、ずらしてとった昼休みに会社の傍らのカフェで、今日一緒にジャック・ジョンソンのコンサートに行く約束をしている彼氏と友だちと会うという日常を切り出した、ただそれだけの話にすぎない。

他人が絡んでくる以上、家族だけに通じるような赤面のリアルはない。だからといって、この作品がリアルではないかというと、そんなことはまったくなく、描写において安易に使ってしまいがちな「小説の言葉の違和感」を徹底的に取り除くことで、またはあるはずのないエキセントリックな出来事や筋を起用しないことで、これこそが日常というリアルをつくりあげている。大阪弁による会話は、大阪人からみれば日々使う大阪弁になっているし、主人公の視覚や見たものへの感想はきわめて自然だ。U2などではなく、ジャック・ジョンソンという小道具をもってくるのも、いいところをついている(この小説の自然さと連動しているようだ)。

読者が覚醒することなく主人公の意識の流れと同期できるという点は、まさに女・保坂和志である。加えて「人は生まれてから何日間かは名前がないということについて」「夢と現実のつながり」といった重要な思弁を織りまぜているところなどは、まったく保坂と見紛う。
これについて、おそらく柴崎は自覚的だと思うが(※2)、そういった形式的なことはさておき、巧みではないが上手い言葉の連ね方はとても気持ちのいいものである。じつは『きょうのできごと』などに手を伸ばすべきかどうか迷っていたのだが、この一篇により確信がもてた。

●こういったことを考えると、中島たい子の『彼の宅急便』は、まさに小説的な日常であるといえる。もちろん、これはこれでジャンルとして成立はしているし、上手くないかといえば上手いのだが、別の視座にたてば過度な演出や策が見え隠れする。たとえば、自分のCDラジカセに「年代物」という形容詞はつけないだろうし、「いったい何に対して怒っているのか不明だが、あえて言えば、動揺してしまった自分に対してだろう」と自分を解説してしまう書き方などはあまりに不用意で、読むわたしを覚醒させてしまう。逆に、特売のスイスロールを見つけたものの以前に「一度に一本食べきって気持ち悪くなったことを思い出した」といったくだりなどはうまく、日常を切り出す小説としてのやるべきことはみえているがその肩の力がうむ饒舌がときに余計なテキストとして表れ出てしまうといったところかもしれない。このことを端的に示すのが、脚本家の主人公が語る小説中の以下の部分である。

「どうも自分の中で色々なものが固まってきて、思考の循環が悪くなってきた。新しい味のポッキーに挑戦しなくなったし、友だちに同じネタを何度も話しているし、些細なことをいつまでもくどくど考えてる。そしてパソコンとベッドを行き来しているだけの毎日に疑問ももたない。それに気づいたのは物を書いていたからである。二十代では平気でダムを爆破したりしていたけど、最近は夫婦ゲンカのシーンで茶碗ひとつを割るのも躊躇している。さすがに危機感を抱いて、とり急ぎ内面の活性化をしなくては、と思った。」

茶碗を割ることをどのように表現したらいいかということについて迷いがあるのは正しいが、その答えはなにか新しい情報を取り入れることでうまれる新しい表現技法にあるものではないだろうし、「些細なことをいつまでもくどくど考えてる」ことで生まれるものかもしれない。このあたりの悩みを正しく越えることができれば、あまたある女性作品から図抜けていくことができるかもしれない。

●このほかの新鋭は、赤染昌子、生田紗代、鹿島田真希、栗田有起、十文字実香、西村賢太、福永信、小林エリカ、佐藤憲胤、村田沙耶香、森健。知らない人が多く、優先順位がつけられなくなりそうなので、食わず嫌い王返上、とはいっているけれど、面倒くさくなって全部読まないんだろうな、きっと。鹿島田、十文字、森くらいは読むか。もし、新しい「日常」があれば切り取ってみます。



(※1)いうまでもなく『言いまつがい』(新潮文庫)。くだらないけど、面白いということで、『大人語の謎。』を買ったのに、文庫にするなんて、お互いにうまい商売してるよ。
(※2)こちらもいうまでもなく、これ。自覚させられた、というわけです。


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書店へ急げ。売り切れる前に。

2005-04-07 20:35:19 | ◎読
俺はべつに文学の研究者でもないし、文を売って生計を立てているわけでもない。もちろん、ビジネス向けのドキュメントや広告コピーは、毎日それこそ印刷機のように排出しているが、これはあくまでドラスティックに情報を伝えるための記号で、学やアートとはまったく関係のないしろものであるし、対価は文に与えられるわけではなく、総合的な問題解決サービスに与えられているものである(はずだと思いたい)。

文学はあくまでも趣味であって、だから、ほんとうは、そこに対する投資をわきまえないといけないんだが、こんなふうにBLOGを書いたり、ほかの優秀なBLOGの影響を受けたりしていると、どうしても興味が昂ぶり、文学・小説への出費がかさんでしまう。

その端的な例が、文芸誌というやつである。毎月3+1冊発売される文芸誌は、じつは知らなければ知らないですむような脆弱な発行部数のもので、俺のような「読むだけ」の人間が定期的に買うようなものではないし、買わねばならないとオブセッションにとりつかれるようなでもない。しかも、それ相応のボリウムがあるため、1ヶ月ですみずみまで読むのは結構な難作業だ、ということを考えれば、もし、毎月買ったとしても、1冊で充分なはずだ。

しかし、このBLOGでも何回か触れてきたが、最近では、迷ったあげく、読み切れもしないのに複数冊を購ってしまうことが多くなってきている。もちろん、これは使命感や義務感に派生するのではなく、実際に、すべての文芸誌が面白そうな題材を選んでいるからでもある。つまり、かんたんに言うと、困ったもんだ、ということである。

これまでは、せいぜい『文學界_』と『群像』、『文學界_』と『新潮』、どちらにしよう?と二者択一のレベルだったのが、ついに今月にいたっては、3冊が迷いの遡上にあがってしまった。じつは、これに『早稲田文学』も加わったため、頭の中では、合理的な選択を求めて、ロジカルツリーが錯綜したわけだが、消費者は最終的には認知的不協和を起こしてしまうもので、結局は最初の直感に判断を委ねた。

選んだのは『新潮』『群像』『文學界』は、高橋源一郎の久々にシャープな文学評論や筒井康隆や川上弘美の連載は気になるし、古井由吉のインタビューも昨今の芥川賞の選考の課題が浮き彫りにされそうなのでたいへんに捨てがたかったのだが、舞城王太郎、青木淳悟、村上龍という直感に見事に敗北してしまった。

舞城王太郎は『新潮』に、『ディスコ探偵水曜日』という例によって挑発的なタイトルの作品の第一部を一挙掲載。なんだが、第2部書き下ろしで単行本に収録されそうないやな予感がするが、それ以上に、舞城がいま考えていることをいち早く知りたいという思いが先勝った。基本的にスキャンニング程度しか眺められていないが、それゆえに目に飛び込んできたのは本文中ほどに挿入された「図」。まず「今」の点があって、それが未来への可能性として枝分かれしていくが、じつは選ばれているのはその1本という単純な樹形図が、過去に遡行したり、可能性という変数をどんどん増やすことで最終的には複雑なDNA的らせんに変化していくとううものだ。どのような文脈でこれが語られているのかもわからないほど、本文を読んでいないわけだが、これは俺が中学2年生のとき、悩みのツボに入ってしまい、二晩ほど徹夜してしまった「時間論」であり、そこのことへの舞城なりの回答が付されていることに感動してしまった。当時、おそらくなんらかの結論を得た俺は、これで論理的にはタイムマシンの製作が可能だ、と稚拙に狂喜乱舞していたわけだが、その後、文の道を選んでしまったため、そんな出来事があったことを今日の今日まで忘れていた。このことに同じように悩んでいる舞城がいる、というそのディライトが、ますます俺を虜にしてしまう。こんなしょーもない話は、一刻も早く切り上げて、『半島を出よ』なんかもすっとばしちゃって、できるだけ迅速に舞城を読んで、感想を書いてみたいところだ。

その『半島を出よ』について、村上龍の、けっしてロングではないインタビューが掲載されているのが『群像』で、これは、俺があんまり興味をもつことのできない作家が聞き手になって進行されている。後学のためにと思い食いついた。これもフォトリーディングにもならない斜め読み程度だが、小説におけるマイノリティーの意味や、まずなんとか生きるという人間のたくましさなどの発言もあり、あたかもJMMを読んでいるようではあるが、やはり村上龍の発想の幹にあるものは人間としてわかりやすくて気持ちいいいと感じさせる。インタビュイーのライブドアについての素っ頓狂な質問に対して、「基本的にはどうでもいい問題だ」と前置きしたうえで、「支配」という言葉に踊らされすぎていることの問題、「放送で流さなかった部分をインターネットで流しましょうといったって、そんなのゴミみたいなアイデアだし」と断罪しているのも、これまた気持ちいい。このわかりやすさが、小説家としてどうか、と言う問題は、いったん棚上げにしておいて、『半島を出よ』の手引きにしてみよう。もっとも、重要なことは『半島を出よ』のあとがきでほとんど語られてるが。

で、その『群像』には、青木淳悟の短編『市街地の家』が掲載されている。8ページほどの作品なのでザクッと読んでみたが、はたして、なにかの役に立つような小説なのか。これまでのものと、うって変わったファミリアフェアとしての状況設定は、なんだか一段とコミカルさを増している。人が社会的に気配を消していくというのはこういうことだ、といっているようでもあり、そうでないような気もする。光を遮るということはなにを意味しているのか。父は正気なのか。もちろん、たんなる考えのない叙事の可能性も多いにある。いちおう、もう一度だけ深読みをしてみよう。第一印象がなせるわざというのは読み手にとってはやっかいなものだ。

ということで、一刻も早く読み倒したいわけだが、電波に乗ってやってきた無理な難題により、想定の範囲外の事態に陥ってしまい動きがとれなくなってしまった。この仕事の因果を呪いつつ、印刷機に戻る。呪う必要のない文学好きのあなたは、同誌が売り切れないうちに書店へ急げ。



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東大のUP。

2005-04-05 21:23:49 | ◎読
多くの出版社が発行する、(実際は有償だが)無料のPR誌が好きな人は多いと思う。新刊の発行にあわせたしかるべき人がエッセイを書いていたり、いずれは新書として刊行されるであろう興味ぶかい連載なども掲載されている。なにより、数ヶ月先の新刊情報が、場合によっては作者の解説つきでわかるのが大きい。毎月確実に入手するのはけっこう至難の業なので、これぞ、というものに関してはお金を払って定期購読している人もいるだろう。かくいうわたしも、一時期、文藝春秋の『本の話』が毎月自宅に届くようにしていたりもした。

もちろん各出版社のカラーが色濃くでるものなので、読む人の好き嫌いというか、要不要がはっきりする。いくら店頭で平積みになっていても、いらんもんはいらん、ということだ。わたしの場合は、『本の話』や『波』(新潮社)、『図書』(岩波書店)、『ちくま』(筑摩書房)、『一冊の本』(朝日新聞社)、『月刊百科』(平凡社)、『Kei』(ダイヤモンド社)などは、みかければほとんど盲目的に入手し、『青春と読書』(集英社)、『本』(講談社)、『本の旅人』(角川書店)は中を確認してから決めるが、『本の窓』(小学館)や『星星峡』、『ポンツーン』(幻冬舎)は手に取らないことも多い。昨年くらいから発行がはじまった『あとん』(アートン)なんかも、ほんとうは最後者の部類なのだが、なぜか高橋源一郎が連載しているという理由だけで、数冊たまっている。

そして、数あるPR誌のなかでも、いまわたしがいちばん待望しているのは、東京大学出版会の『UP』である。今週日曜日に朝日新聞でなんと広告まで掲載されていたのでご存じの方が増えたかもしれない。この衒学小僧!と嘲笑されるかもしれないが、お読みいただけば、そのコストパフォーマンスの高さに、いましがたの嘲笑が凍てつくことだろう。

とりわけ、今月は、『教養のためのブックガイド』(小林康夫・山本 泰 編)(※)の発刊にあわせてか、「アンケート 東大教師が新入生にすすめる本」がメイン特集になっていてかなり愉しめる。教授・助教授に対し、「(1)印象に残っている本」「(2)これだけは読んでおこう」「(3)私がすすめる東京大学出版会の本」「(4)私の著書」といったアンケートをおこなったもので、これ読めば、『教養のためのブックガイド』は、いらんよ、というのは言いすぎだけど、まあ20分くらいは時間をつぶせる充実したものではある。以下、超抜粋してみる。

玄田有史→(1)『自分の中に毒をもて』(岡本太郎)(2)『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)、(3)『日本の所得と富の分配』:玄田さんが師事した石川経夫という先生の著作で、とりわけ推奨。「日本経済が長期にわたる深刻な不況に突入する以前からすでに、社会に望ましくない不平等が広がりつつあると、丹念な分析によって警鐘を鳴らしていた書物」と評価している。

苅部直(法学部教授/日本政治思想史→(1)『書くことのはじまりにむかって』(金井美恵子):『噂の娘』(※2)文庫版に付された、卓抜なインタビューとあわせて。(1)『音を視る、時を聴く〔哲学講義〕』(大森荘蔵・坂本龍一):二人が対談していたなんて!(2)『日本語の外へ』(片岡義男):これはいい本ですね。

その他、もちろん理系もふくめて、良きブックガイドにはると思われます。

さらには小林康夫、松浦寿輝の時評エッセイ、堀江敏幸の書評。とりわけ、小林さんのものはなかなかに深い。フランスの演出家パスカル・ランベールが、「Before/After」という芝居のためにおこなっている世界数ヶ国600名へのインタビューに、彼が答えるというもので、その質問は「……大洪水ないしは大災厄が起こったとして、そのときあなたは、その後の世界(After)に前の世界(Before)から、何を残して伝えたいか、また反対に何を残したくない、伝えたくないか?」
これに対して、小林さんが用意したこたえは2つ。やっぱ、おれなんて、ぜってーに、ここまで考えををまとめられないよ、という深いものだ。ひとつめは「残したくないもの“人間”、残したいもの“それ以外”」、2つめは「残したくもあり、残したくないもの“個”」。これだけわかっても、深みが感じられないのはとうぜんなので、ぜひ、大型書店へ急ぐなり年間購読申し込みをするなりして、確かめてください。ぜひ。

で、最後のページでは、近刊情報として、柴田元幸が5月に『アメリカ文学のナルシス』というなんとも愉しそうな本を出すことが予告されており、人をそうとう充実した気分にさせる1冊になっているわけです。

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(※)『教養のためのブックガイド』は、ブックガイド好きとしては相当悩みどころだし、帯に舞城王太郎の文字などもチラチラ見えているのも気になる。あんなに高く平積みされたらなあ。教養主義だしなあ。







文学理論。

2005-04-04 18:25:22 | ◎読
いやあ、結構忙しいのですよ。最近は、通常の仕事の繁忙状況に大きく輪がかかってます。この2週間は、おおむね1日2回くらいは、メインクライアントとのミーティングのために外出し、それが時には@筑波学園都市になったりして、肉体的にも負荷がかかっていたし、振り返れば2日に一本くらいマーケティング戦略、経営戦略企画書のようなものを書いていたような気がする。おかげで、どんな企画書を書いたのかすら忘れてしまいましたよ。

よって、BLOGの更新もままならぬ状態で、やっとこさ『半島を出よ』についてまとまりのない考えをだらだら書き流す程度になっていて、内心忸怩たるものがあるわけですが、そんな状況にもかかわらず、いやそんな状況だからこそ、本を買っちゃっています。

『批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義』(廣野由美子、中公新書)は、まあ、理論とか定義の早引きといった辞書的な使い方ができるかなあ、と思って購入したんだけれど、これは読み物としてもなかなか面白い。小説の『フランケンシュタイン』(メアリー・シェリー)を軸に、小説という表現形式に組み入れられた仕組みと読み方を解説していくという形式をとっており、はじめは、実際の容姿に反して作品自体は文学史的には著名ではない『フランケンシュタイン』を、なぜ題材にするのか、ということがよくわからなかったのだが、読み進めていくうちに得心してきた。

長きにわたって伝播され続ける「神話」に確固とした構造があるように、この『フランケンシュタイン』にも小説と語りの構造が明示的であるため、材料としては使いやすい、ということだ。実際に、廣野さんによると、文学批評の世界でもこの何年かの間で注目されてきているらしい。確かに、『批評理論入門』では精緻に分析されているため、なるほど、と思うところは多々あるのだけれど、まあ、歴史の浅さから研究対象として選びやすかったんだなあ、という穿った見方もいちおうもっておいた方がいいかもしれない。

同書は、同時にロッジの『小説の技巧』(白水社)も基底としているようなので、わたしも久しぶりに本棚から取り出して眺めてみた。そういえば、これも、小説や文学という表現形式の体系的が学習経験のない人間が、その複雑な世界を読解していくためには、なにか準拠する枠組み・ルールが必要だろうと思って読み始めたものだった。『小説の技巧』は、ロレンス・スターン、ジェイン・オースティンや、ヴァージニア・ウルフはもとより、サリンジャー、ジョン・バース、ドナルド・バーセルミ、さらにはオースターなどの作品を、「書き出し」、「作者の介入」、「異化」、「間テクスト性」、「視点」などのテーマに当てはめながら解説しており、その点で、文学理論について俯瞰的であるとはいえる。しかし、いっぽうで、ロッジの語りの巧みさから、たんなるブック・ガイドとして読めてしまう部分もあり、おそらく当時のわたしもそういった読み方しかできていなかった。

『批評理論入門』は、『小説の技巧』の解説的な読み方もできるわけでもあり、2冊を併読することが、理論・体系の理解を深めることにつながるかもしれない。べつに研究が生業というわけではないのでマジになる必要もないのだけれど、そもそも、世の中にある「ものの考え方」をできるだけ多く体験してみたい、というのがこのBLOGの端緒なので、似非学徒としてプチ「Nachklang/日々の残響」のような、「文献査読のマラソン」(※1)をやってみるのがじつは理想的ではある。

ついでだからと思い、ずっと買いそびれていて、もうこれはジュンク堂ぐらいでしか在庫していないだろうなあ、と思っていた『1冊でわかる 文学理論』(ジョナサン・カラー、岩波書店)も入手したので、『文学理論のプラクティス』(土田知則・青柳悦子、新曜社)や、『読むための理論』(石原千秋・小森陽一ら、世織書房)(※2)、『最新 文学批評用語辞典』(川口喬一・岡本靖正、研究社出版)なども引っ張り出してきて、稚拙な素人ディシプリンを挙行してみよう。
まあ、過去に、これだけの批評理論入門を読もうとしていた、そのときの気分は、いまと変わらなかったんだろうから、結局は、身につかないことの繰り返しということかもしれないが。


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(※1)『ユリイカ 4月号』P199。じつは、わたしがBLOGというものに、いちばん最初に強い関心をもったのは、「Nachklang/日々の残響」を発見したからである。WEBベースはこういった使い方もできるんだ、という驚きだ。もちろん、いまも密かにチェックしています。
(※2)『読むための理論』は、入手しにくいようだが、教養として、なかなか人気のある書籍のようである。


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情報が伝わる階層。

2005-04-04 00:45:36 | ◎読
『ユリイカ4月号』のエントリーで、コミュニケーションやネットワークの広さ・狭さの問題に触れていたが、4月3日付朝日新聞の書評欄に、そのヒントになりそうな本を見つけた。

柄谷行人が評するその本は『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』(マーク・ブキャナン、草思社)。たまたま会った人が知人の知人である、といったような事象の構造を解き明かすネットワーク科学について示した書籍のようだ。

「本書は「人間社会の営みと、一見それとは関係のないように見えるもの(中略)の機能の仕方とのあいだに、多数の予期されなかったつながりが存在する」ことを解明し、単に乱雑に見えるネットワークがどにょうに発展し、いかなる意味をもつかをわかりやすく示した好著である」
「たとえば、各人の「知り合いの知り合いの知り合い―――」をたどっていくと、世界中の60億の人間に到達するには、……なんと、6度で足りるのである」
「この場合、親しい知り合いだけを通しているとそうはいかない。……親密でないただの知り合いを通したつながりを経由しなければならない。……ネットワークにおいて大事なのは強い絆よりも、ゆるい絆で結ばれた関係だということである。」


このことは、インターネットはその使い方によっては広くも狭くもなる、ということには直接的には関係なさそうだが、「強い絆」「ゆるい絆」という分け方が、拡散と集中という考え方とうまい具合に連動しそうな気がする。

ネットワーク上で強い絆だけを辿ろうとすると伝わらず、ゆるい関係だけを受容しなければコミュニケーションが拡散しないということは、あたりまえのことのようだが、同書に記されていると予測されそうなトピックスをを読まず思弁しようとすれば、なかなかに混乱してしまう考え方ではある。

たとえば、ネットワーク上に情報を流したときに、一時的にはどこかに集中したあと、最終的には希薄されすべてのネットワークにいきわたる。かどうかは、その絆の強度によるということで、貨幣などが等しく拡散しないのは、それが強い絆の周辺でしか流布していないということになる。貨幣以外の例はあるのだろうか?また逆の例にはどういったものがあるのだろうか?また、先に記した情報の到達回数は、インターネットだと4回ですむということだが、リアル6回との差異はうむいちばんの原因は何なのだろう。

あくまで推測にしかすぎないのだが、この書籍には、わたしが課題の立てかたすらわからず煩悶していることに、答えまでも与えてくれるかもしれないという期待がもてる。柄谷が紹介しているにもかかわらず、幸いにして学術書ではなさそうだし(価格的にも)、現業の繁忙度と混乱している本読み状況が整理されたら買ってみよう。草思社なので、ひょっとしてベストセラーになったりしているのかなあ。



ユリイカ4月号、ブログ作法。

2005-04-03 10:35:03 | ◎読
自分でBLOGを書いて、かつRSSリーダーやアンテナなどで、人文系や書評的なBLOGをいくつか読み続けている毎日を過ごしていると、ある意味で、BLOGの世界にとっぷり嵌ってしまうわけで、とても初歩的なことだけど、リアルとバーチャルのトレンドが混濁してしまう。ブログの世界のトレンドは、けっして現実の世界のトレンドではなく、現段階では、まだ狭い世界であるということを戒めなければならないだろう。

このことは『ユリイカ 4月号』の「特集:ブログ作法」を読んでいる自分を俯瞰すればよくわかる。

今号の『ユリイカ』は、わたしがふだん巡回しているようなBLOG上では、当然のことながら相当の話題になっている。したがって、こういった形で、発売日から数日たって紹介するのは、気が引ける。畢竟、まだ語られていない新しい批評的な切り口で紹介しなければ、とか、アホなことは書けないなあと、気構えてしまう。
しかし、実際のところは、『ユリイカ』は、『文藝春秋』と違って、全国のどこの書店でも手軽に入手できるような雑誌ではない。そもそも、『ユリイカ』なんていう雑誌は多くの人が知らないだろうし、存在を知っていたとしても、『ユリイカ』の今月号がブログ特集であることをいちはやく察知するには、毎月『ユリイカ』の発売日を心待ちにしているような人でない限り難しいだろう。もしくは、数ヶ月前に執筆者の誰かが「ユリイカに書いてる」とか「喋った」とかBLOG上で公開したのを知らない限りは。

また、同誌で登場している対談者や執筆者もBLOGの世界ではおなじみな人が多く、なかなか面白いメンバーを選んでくるなあ、と思ってしまうのだが、たとえば、わたしが毎日のように閲覧しているのでおなじみのように錯覚してしまう「陸這記」の仲俣暁生さんなんて人をリアルの世界だけで生きている人がどれだけ知っているのか。よほどの本好き、文学好きでない限り『極西文学論』なんて本を書店で発見できないだろうにもかかわらず、リアルの世界でついつい「)仲俣暁生が、出てんだよね」なんて話してしまい、「えっ、誰それ?」と、怪訝な顔をされるわけだ。

同誌に「史上最弱のブロガー」を寄稿しているバーチャル師匠・内田樹もそうだ。もちろん、彼の場合は『寝ながら学べる構造主義』などを契機として、リアルの世界でその発想力と筆力でかなりの人気著述者にはなっているのだが、現在は、それ以上にBLOGの世界での露出が多く、人気が加速しているように思えてしまう。ご自身のBLOG「内田樹の研究室」の精力的な執筆はもとより、平川克美さんとの「東京ファイティングキッズ2」BLOG、そしてこれらを引用するBLOGの多さ。わたしのBLOG界では、まさにカリスマ教授である。しかし、これも実際の世界とは大きな乖離があって、たとえば、自社の事務所にいるスタッフの95%くらいは、内田先生のことを知らない、という現実がある。

「『ブログ作法とは何か』とは何か」といったメタ的な評論を寄稿するだけでなく、上野俊哉・泉政文という人のわかりにくいエッセイのなかで「試行空間」にも触れられている北田暁大さんの『嗤う日本のナショナリズム』だって、世間的にはネット&BLOG界や青山ブックセンターほどは話題になっていない。

もちろん、ここまで述べたことは、わたしの偏った趣味領域の範囲なので、リアルの世界で話が通じにくい人が多いのは当然のことだ。しかし、一方のわたしのBLOG界では(場合によっては、このBLOGを読んでいただいているような方の世界では)、毎日のように 、『ユリイカ』や仲俣暁生や『嗤う日本のナショナリズム』が議論されているというリアルもある。

そして、これはじつはトレンドの錯覚を起こすということが問題ではないような気がしてきた。WEB、BLOGなどのインターネットの世界は、コミュニケーションを拡散させていく機能がある一方で、逆に世界をどんどん凝縮させ、狭窄化していく機能もある、ということを課題化する方がどうやら正しそうだ。狭い世界でしか拡がらない。バーチャルが故に、バカの壁をおっ立てやすい、という言い方もあるかもしれない。RSSリーダーで似たようなBLOGを毎日ザッピングするという行為は、世界が拡がっているような気分にさせるが、けっしてそんなことはないということだ。
わたしがひそかにブックマークしている「Nachklang/日々の残響」なんて哲学(現象学)系ディシプリン系BLOG(?)が、『ユリイカ』に紹介されてしまうあたりも、世界の狭さを物語っているのかもしれない。

このBLOGも、当初は、マーケティングや現代思想の話題などを拡散的に、しかもアバウトに書き連ねていこうと考えていたんだけれども、現状では、文学の話題に凝縮していっている(テーマ偏重については、近いうちにコレクトしていこうと考えているけれど)。
少なくともわたしにとっては、BLOGはコミュニケーションと情報取得を、(いい意味でも悪い意味でも)凝縮していくために作用しているようだ。

では、拡がるWEBコミュニケーションとは?『ユリイカ』の特集の冒頭の対談「はてな頂上作戦」(※1)では、すべての対談者がSNSにも「はまっている(いた)」と、熱く語られていて、たまたまわたしもミクシィの招待状をいただいたこともあり、少しそちらのほうで拡散のコミュニケーションの可能性について体験してみたい、とは思う。


というような『ユリイカ』の紹介の仕方なら、発売後、数日たっても許されませんでしょうか。
いや、ほんとは、いずれかのエッセイをとりあげて批評的に論じるのがベストなんだろうけど、お気づきのようにBLOGとかネット、その「作法」については、相対的にはまだまだ「ごまめ」なので、意見をもてないんですよね。

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(※1)仲俣暁生、栗原祐一郎らによる対談「はてな頂上作戦」を読むと、BLOGを「はてな」と2重もちにしてもいいかなあと、と思わせる。キーワードリンクが魅力的だし、引用、脚注などの挿入も賢そうだ。idを取得しているため、試しに、gooブログでエントリーしているものをあげてみたのだが、キーワードリンクがたくさんついて、うれしくなってしまった。ただ、いかんせんテンプレートのデザインが酷すぎるし、なんだろうなあ、ブラウザー上でのスクロールがスムーズでないのも気になるんだよなあ。