考えるための道具箱

Thinking tool box

わたしの本棚 (2)フォークナー

2005-02-28 13:22:41 | ◎読
20代の半ばごろ、フォークナーを始めて知ったときには、もうすでにフォークナーの翻訳の著作を入手するのは困難になっていた。それでもあれこれ動きまわって、入手したいくつかの著作がわが家の本棚にはある。

いまとなっては、なぜフォークナーを読もうと思ったのかよく覚えていないし、最初に読んだ作品はなんだったか、というのも忘却の彼方だ。おそらく、読み始めたのは、現在でも入手しやすい新潮文庫---『八月の光』、『サンクチュアリ』、『フォークナー短編集』---のいずれかだろう。『八月の光』だったろうか?いやそれとも、村上春樹の『納屋を焼く』のタイトルが、じつはフォークナーの短編「Barn Burning」から採られたものであることを知り(内容につながりはない)、この短編がたまたま「新潮」の臨時増刊である『20世紀の世界文学』(※1)で紹介されていたからか?

まあ、「どれか」なんてのはどうでもいい話だ。大切なのは、そこでわたしが惹きつけられた理由はなんだったか?ということだ。いまとなっては、これも正確に思い出せないが、ひとつはアメリカ南部の風景だったのかもしれない。砂埃くさく、ともすれば、いつもセピアのフィルターがもやのようにかかっている暮らし。そのなかでの倦怠で緩慢な人の動きが時として、鮮やかな暴力を生み出してしまう、そのコントラストの凄惨さだったかもしれないが、いまとなっては、このあたりは後づけのような気もする。

わたしのフォークナー狂を決定的にしたのは、そういった不明瞭なちょっとした嗜好を経た後に出会った『野生の棕櫚』と『響きと怒り』である。これら2作品が、その頃まだ多くの小説を読んでいなかったわたしを魅了した理由。それはいうまでもなく「形式」である。つまり、こんな小説の書き方があるのだ、物語においてはこうした計算が可能なのだ、という技法上の驚きだ。

『野生の棕櫚』については、「悔恨と無の間にあって、おれは悔恨のほうを選ぼう」という主人公の最後の台詞を中心に、そこで語られている人間価値の条件について、大江健三郎が強く推していたこともあり、ぜひ読んでみたいと思ったのが端緒だったはずだ。しかし、いざ、書店にいってみても、『野生の棕櫚』なんて本は見つけられない。どうやら絶版のようだが、いまのようにgoogleもamzonもない時代。半ばあきらめていたところ、梅田の古書店梁山泊の中津別店の絶版棚でボロボロになった新潮文庫をみつけた。昭和29年発行定価120円。800円で購入した(※2)。

早速読み始めて驚いたのは、この物語は「野生の棕櫚」と「じいさん」という2つのまったく異なる物語の章が交互にパラレルに展開されているという「形式」だった。これが「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」のように比較的わかりやすい関係性のなかで進むのであれば、さほど驚かなかっただろう。
しかし、そこにあったのは容易な干渉を許さない2つの物語だ。かたや「駆け落ちした医学生と人妻。やがて人妻は妊娠するが、堕胎手術に失敗して命を落としてしまう」という話。かたや「洪水の中、小船で彷徨う偶然にあった囚人と女」という、一見まったく無関係な2つの物語が交互に配置されているのだ。

そこにはなんのつながりもないかにみえる。しかし、注意深く読み解いていくと、構造としての共通項が発見されはじめる。最初は絡まりすらしなかった糸が、いったんからまり、その後順にほぐれていく。
これには痺れた。もし、自分で物語を書くとすれば、この形式には必ずトライしたいと思ったものだ。村上春樹が、『世界の終わり…』に続き、『海辺のカフカ』でも、この形式をとったのは、自己模倣ではなく、この『野生の棕櫚』での完成度を追求したいという思いがあったと信じたい。その証左に『海辺のカフカ』では、「形式において」はかなり洗練されたと思える。

そして、もうひとつ、『響きと怒り』。どうやら、フォークナーを知るには『響きと怒り』を読まなければならないというのはだんだんわかってきたのだが、これもひと筋なわではみつからない。ようやく発見できたのが『新潮世界文学』全集の41巻「フォークナーⅠ」(※3)。

またしても読み始めて驚いた。そこで表現されていることが、何なのかまったくわからないのだ。そりゃそうだ。登場人物のひとりである白痴のベンジーの「意識の流れ」をたどっているのだから。彼の昔の記憶が何の前触れもなく脈絡もなく挿入してくれるのだから。そればかりではなく、物語全体を通して、時間の流れを分断させ、前後関係を微妙にずらしているのだから。ひと筋なわでは見つからなかった小説は、やはりひと筋なわでは読解できない「形式」のものでもあった。

ほんとうに深く能動的にコミットし、考えなければ読めない小説の表現形式というものが、世の中には存在するということに驚いたし、そのことは「テキストのしかけ」といったことに関心のあったわたしをひどく魅了した。さらに『新潮世界文学』全集の帯に記載された、架空の町「ヨクナパトーファ」の地図に嬉々とし、「サーガ」というストーリーラインすら、形式のひとつと解釈し、一気にフォークナーを読み漁った。

フォークナーはやはりじっくり向き合わないと読みきれない部分もあり、最近はそのための時間もほとんどとれす、再読すらしていない状況だが、老後の愉しみ、老後の研究材料として蒐集だけは続けておきたい。

以下は、わたしの本棚のフォークナーの作品。もしこれからフォークナーを読み始めようという奇特な方がいれば、参考にしてください。★が入手しやすいのでは、と思われるものです。

『八月の光』(新潮文庫、加島祥造訳)(※4)
『フォークナー短編集』(新潮文庫、瀧口直太郎訳)
(「嫉妬」、「赤い葉」、「エミリーにバラを」、「あの夕陽」、「乾燥の9月」、「孫むすめ」、「クマツヅラの匂い」、「納屋は燃える」)
●『魔法の木』(福武文庫、木島始訳):唯一の童話
●『エミリーに薔薇を』(福武文庫、高橋正雄訳)
(「赤い葉」、「正義」、「エミリーに薔薇を」、「あの夕陽」、「ウォッシュ」、「女王ありき」、「過去」、「デルタの秋」)
『寓話 (上)』(岩波文庫、阿部知二訳)(※5)
『寓話 (下)』(岩波文庫、阿部知二訳)
『熊、他3篇』(岩波文庫、加島祥造訳)
(「熊」、「むかしの人々」、「熊狩」、「朝の追跡」)
●『野生の棕櫚(2刷)』(新潮文庫、大久保康雄訳)
『野生の棕櫚(復刊14刷)』(新潮文庫、大久保康雄訳)
『響きと怒り』(講談社文芸文庫、高橋正雄訳)(※6)
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『新潮世界文学41 フォークナーⅠ』(新潮社、加島祥造・大橋健三郎・瀧口直太郎訳)(※7)
(「兵士の報酬」、「響きと怒り」、「サンクチュアリ」、「エミリーにバラを」、「あの夕陽」)
★『集英社ギャラリー世界の文学17 アメリカⅡ』(集英社)
(「アブサロム、アブサロム!」を掲載)
●『世界文学全集59 フォークナー』(筑摩書房)
(「死の床に横たわりて」、「サンクチュアリ」、「乾いた9月」、「あの夕陽」、「ミシシッピー」)
『世界の文学セレクション36 フォークナー』(中央公論社)
(「サンクチュアリ」、「征服されざる人々」)
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『フォークナー全集3』(冨山房)-蚊
『フォークナー全集16』(冨山房)-行け、モーゼ
『フォークナー全集17』(冨山房)-墓地への侵入者


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(※1)このムックはたいへんすばらしく、20世紀の世界の文学作品を鳥瞰できる短編・抄録を年代別に集めています。たとえばプルースト「サント=ブーヴに反論する」、ジョイス「土(ダブリナーズより)」、カフカ「万里の長城」、ザミャーチン「洞窟」、ヴァレリー「海辺の墓地」、ナボコフ「チョルブの帰還」、ヘミングウェイ「殺し屋」、ウルフ「女性と小説」、ブルトン「自由な結合」、フィッツジェラルド「再びバビロンにて」、セリーヌ「夜の果てへの旅」、ゴンブロヴィッチ「冒険」、ベケット「ディーン・ドーン」、ベンヤミン「パリ」、ムージル「黒つぐみ」、サルトル「エロストラート」、ボルヘス「死とコンパス」、ボウルズ「遠い挿話」、パス「賛歌の種子」、コルタサル「山椒魚」、ソルジェーニツィン「胴巻のザハール」、バルト「偶景」、マルケス「大きな翼のある、ひどく年取った男」、カーヴァー「メヌード」などなど。少しアメリカが少ないのが気になるところですが。
(※2)その後1994年の「新潮文庫の復刊」シリーズに登場しているが、いまとなってはこれも入手しにくいと思える。もちろんわたしはこのときも迷わず購入したため、いま手元には2冊の『野生の棕櫚』があることになる。
(※3)こちらも、いまでは講談社文芸文庫で入手できる。
(※4)新潮文庫にはこのほか『サンクチュアリ』もある。
(※5)『寓話』はしばらくのあいだ入手しにくく、わたしも「上巻」のみ所有という状態が続いていた。たぶん数年前に重版となったはずだが、また入手しにくくなったようだ。
(※6)講談社文芸文庫では、このほか『アブサロム、アブサロム!』『死の床に横たわりて』が、刊行されていて、双方とも入手しやすいはず。このほかに入手しやすいのは『サートリス』(白水社)。
(※7)ちなみに「フォークナーⅡ」には「八月の光」、「アブサロム、アブサロム!」、「野生の棕櫚」などを所収。
(※8)冨山房の『フォークナー全集』は、いちど八重洲ブックセンターで、ほぼひと揃えになっていたのをみたことがあるが、そもそも、配本が完了したのかもよくわからない。10年ほど前に、版元に問い合わせファクスで在庫状況をもらったが、その時点では、在庫なしのものがかなり多かった。以下は、全巻目録。在庫があると言われているもののみ、アマゾンにリンクしています。
(1)詩と初期短編・評論 (2)兵士の報酬 (3)蚊 (4)サートリス (5)響きと怒り (6)死の床に横たわりて (7)聖域 (8)これら13編 (9)八月の光 (10)医師マーティーノ、他 (11)標識塔 (12)アブサロム、アブサロム! (13)征服されざる人びと (14)野性の棕櫚 (15)村 (16)行け、モーセ (17)墓地への侵入者 (18)駒さばき (19)尼僧への鎮魂歌 (20)寓話 (21)町 (22)館 (23)自転車泥棒 (24)短編集(1) (25)短編集(2) (26)短編集(3) (27)随筆・講演


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『20世紀少年 18巻』で、不覚にも。

2005-02-26 21:10:35 | ◎読
ぼほ予想どおり、あれから3ヶ月。全人類が待ちに待った日がやってきましたよ。最近でもあいかわらず、18巻でググってこられる方も多いのですが、ようやく実質的な情報をお伝えすることができるようになりました。おそらく気の早い人は、また『20世紀少年 19巻』で検索されるかと思いますが、もう3ヶ月ほど、最近はスピリッツ誌上での休載も多いようなので6月くらい?までお待ちください。

さて、問題の18巻ですが、もちろんネタを紹介するような野暮なことはしません。相変わらずページをめくる手は加速していくわけですが、今回は、わたし、不覚にも2つほどのシーンで、目頭からなにか得体の知れない液のようなものを出してしまいました。いやあ、みんないいキャラクターですよ。ほんとに。

18巻を読む限りでは、『20世紀少年』は、まだまだ続きそうですが、かなり明確になってきたことがあります。それは、民衆を救うのは歌、音楽だということがテーマのひとつではないかということです。人を支えるのは音楽である、という方が正しいかもしれません。

もちろん、ケンジの歌はこれまでも重要な要素として底流には流れてました。なにせCDまでつくっちゃうくらいですからね。しかし、それはあくまでケンヂとカンナをつなぐ個人的な触媒的な意味合いとしかみえなかった。ケンヂを支えているのはロックであることが、あれほど自明であったにもかかわらず、いやそれだからこそ歌はケンヂのアイデンティティを示す道具のようにしかみえなかった。しかし、18巻第4話のタイトルにもあるように、歌は「みんなの歌」へと位相を変えていく。そして、その先にあるのは…。

答え「ウッドストック」。おい若者!この閉塞したイヤな時代を、ぶっ壊すパワーが足りないんじゃないか?昔は、こんな力が社会動かしたんだぜ。どうだい、これだよ、これが人間だよ、人の生きる道だよ。もっと知りたいかい?そうかい、そうかい。それなら「浦沢直樹シークレットライブ」に来てみなよ。くわしくは、3月7日、14日発売の「スピリッツ」を見てね!

ということですね。浦沢直樹をはじめ、わたしたちの多くが参加できなった「ウッドストック」が、『20世紀少年』の大団円で、漫画という表現技術のなかで再現される。

さて、どうでしょうか。

まあそうなってくると、この漫画はスピリッツで連載しているのが正しいのかどうか、って課題もでてきますね。現状でもあの頃の風俗がわからなくて、面白みが1/3ぐらいに減っている読者もたくさんいると思われるわけだし。

それでは、3ヵ月後にお会いしましょう。

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さて、どうでしょ、青木淳悟。

2005-02-25 00:05:24 | ◎読
たとえ『野ブタを、プロデュース。』が話題になったとしても、ふつうは、新人作家の第一作単行本を買うというのは、めったにないんだけれどもねえ。
漏れ聞く噂にまけて、青木淳悟の『四十日と四十夜のメルヘン』(新潮社)に手を出してしまいましたよ。もちろんいまなら、<土踊り>の『白の咆哮』(朝倉祐弥、集英社)と迷うわけなんだけど(※)、表層的な情報に負けて、青木を選びました。『四十日と…』に所収されている「クレーターほとりで」と『白の咆哮』は、目利きの玄人筋からは芥川賞候補か?ともいわれていたこともあるし、ストーリーラインを読む限りでは、創意工夫がありそうなので、いちおう気にしていたわけです。

ぱらぱらめくる限りは、なかなかに「形式」的なところもありそうで、久しぶりに読む前から読むのが愉しそうな物語かなあとは思っています。

で、わたしが負けた表層的な情報というのは、保坂和志の「ピンチョンが現れた!」という新潮新人賞選評か、といえばそうだけど、それだけではなく、島田雅彦の「日本語を使ってこんな芸も可能なのだという驚き」といった時評だけでもなく、物語の冒頭に掲げられたエピグラフです。

「必要なことは、日付を絶対に忘れずに記入しておくことだ。」
(野口悠紀雄『「超」整理法』)

おい。でしょう。なんだろ、この愉しい悪ふざけ。人を惑わせる巧い、書き出し。

今日現在、ちょっとまとまった評が発見できないのでなんともいえない。もちろん『四十日と…』は2003年の作品だし、「クレーター…」も、いち押しの人がたくさんいたので真剣に探せばごそごそ出てきそうだが、そんなことに時間を費やしているよりも、まず読みたいと思わせる程度には、見た目「テキスト」がうまく踊っている感じがする。少しだけ、冒頭を引いておきます。

「あのいかがわしいチラシがポストにたまっている。枚数は把握していない。たいていは名刺大のぴらぴらした紙にカラープリントが施されたしろもので、それを集めるのはどこか蝶の採集に似ているところがある、なんて思った日から集めはじめた。」(「四十日と四十夜のメルヘン」)

若いのにがんばってるよね。近々、書評しますよ。



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(※)ついでに、高橋源一郎の『読むそばから忘れていっても 1983-2004 マンガ、ゲーム、ときどき小説』(平凡社)も、迷ったけど、いかんせん話が古すぎる。例によって、しりあがり寿との対談とか、吉田まゆみベタ褒めとか(ベタではないか…)、「幻の電脳小説」単行本発収録とか、気にはなるんですけどね。いかんせん話が古すぎるよ。


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↑最短?明日からまた長くしますよ。
↓たぶん青木は紹介されてないと思うけど、
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『アイデン&ティティ』をきっかけに。

2005-02-22 22:47:05 | ◎観
気にするから、気になるんだろうけど、映画『アイデン&ティティ』も、他我/第三者の問題である。わかりきったことではあるが『アイデン&ティティ』は、けして「アイデン=中島/峯田和信」と「ティティ=彼女/麻生久美子」の物語ではなく、「アイデン」と「ティティ」と「&=ディランの幻影」の物語である。そしてこの「&」は、映画ではきわめてわかりやすく表現されているが、ほんとうのところはやっかいな問題である。

メジャーデビューを果たし、1stシングル『悪魔とドライブ』がヒットしているにもかかわらず、中島を中心としたバンド“SPEED WAY(スピードウェイ)”のメンバーの生活は何も変わっていなかった。仲の良さも相変わらずだったが、それぞれが「売れる歌」と「ほんとうに歌いたい歌」の狭間で苦悩し始めていた。

ある夜、書けない詞と曲の前で悶絶している中島の部屋に、ディランに似た男(=ロックの神様)が現れる。この日からロックの神様は度々、中島の前にだけ姿を見せるようになった。ライブ会場にも、ファンの女の子と寝ている最中にも…。その度に、ロックと一番遠い存在になっている自分への羞恥心を深めていく中島。

ほんとうに作りたい曲への想いのブレ、作った曲へのメンバー感での意見の食い違い、商魂たくましい事務所社長との確執、バンド空中分解の危機。
問題なのは「君自身のアイデンティティ」と解き続けた理解者である彼女との別れ。

悩み抜いた末に、完成させた新曲で、自分たちにふさわしい、いわゆる本物のロックを目指し始めた彼らだが、それは同時にやりたいことをやり続ける難しさに直面することでもあった。

久しぶりのTVへの出演依頼は「あのイカ天バンドはいまどこに」的なる回顧番組。懐かしいヒット曲を歌うように命じられた中島は、ロックの魂を受け継ぐものとしてプログラムをぶち壊す。「この歌をロックを単なるブームとして扱ったバカどもに捧げる」と。(公式WEBサイトでのあらすじを短く改稿)


このようにまとめてしまうと、『アイデン&ティティ』は産業ロックにおいて欠落してしまったロックの真髄を賛美謳歌するようなドラマにみえる。しかし、そこには「ロックというのは死にたがっている人間がやるものなんです。だから死んでも不思議ではないんです(※)」といったところまでの畏敬や神聖化はない。むしろ、「ロックとなにか、そして俺とはなにか」という若者の苦悩と客気を格好わるく表現しているものにすぎず、この点で衒いと屈託のない自分探し物語以上でも以下でもない。じつはクドカンの脚本も(一般的な評価はわからないが)他に比べあっさりしている、といえるかもしれない。

ということで、とりたてて議論するほどのこともない。良い映画。以上。

とはいかないんですよねえ。たしかに、中島の葛藤みたいなものは、これは峯田和信というミュージシャンに負うところが大きいと思うのだけれど、うまく描けている。しかしそれはあくまでもエンターテイメントの範囲であり口角泡を飛ばして話し合うこともない。

やっかいなのが冒頭に書いた「&=ディランの幻影」だ。彼がいなくても物語は成立するのになぜか彼がいる。なぜ、彼が必要なんだろう。物語を進めるためには、というか生き方においてひと皮剥けるためには、必ずといっていいほど彼が登場してくる。つまり他我。

ここでいうところの「他我」の定義は、自分のなかに潜む「他人らしい自分」を採る。『アイデン&ティティ』の場合の構図は、これに第三者としての彼女が加わる。きっと、その役割は、「ディラン=第三者」、「彼女=他我」でもいい。いやむしろそれのほうがいいかもしれない(というか『アイデン&ティティ』においてはその部分は計算していないだろうから多分にアバウト)。
他我としっかり話しあいながら、第三者の同意と承認をえる。いずれ第三者の不在に耐えねばらない時期を通過し、どんな状況下においても第三者の視線を保てるように成長する。もしくは、つねに第三者を置くことを意識することにより、他我との話し合いが減るように成長する。つまり第三者が存在するから、しっかりと自分が存在する。

ややこしい。ずっと気になっていて答えのでない問題が、こんなところでもわたしを誘う。
最近、気になった事例を少し挙げてみると…

●文学の言葉として
『阿修羅ガール』:アイコ/シャスティン
『山ん中の獅見朋成雄』:人間/獣+うさぎ
『熊の場所』:僕/まー君
『海辺のカフカ』:田村カフカ/カラスと呼ばれた少年
◎『宿題』(『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』所収):主人公/影/少女
『目覚めよと人魚は歌う』:ヒヨ/糖子/あな など

●創作態度として
村上春樹:村上とうなぎと読者。(『ナイン・インタビューズ』より)
ドストエフスキー:ポリフォニーたち

きっと事例はもっとたくさんあるだろう。一方で、気にし過ぎるからこのフレームに無理やりあてはめる思考が習慣化しているだけなのかもしれない。しかし、自分自身の思考・行動・言動を振り返ってみたとき、第三者は措定しているし、内なる誰かと話し合っていることは確かにある。

しかし、なぜ作家はこの関係を書きたがるのだろうか。文学的には葛藤をあらわす場合の定番的な形式といったことにすぎないのだろうか。それとも、考えを整理するためフレームにすぎないのだろうか。それとも…。

この答えは、おそらくレヴィナスなどが解ればそこにあるのかもしれない。いやブランショか。逡巡せずに実際に自分で物語を書い出してみたほうがなにかを体感できるかもしれない。う~ん。(つづく)
             ●
わからない、わからないって言っていても、いつまでもわかんないだけなので、とりあえず書き始めてみました。このテーマのときは、わからない話が続くので、適当に読み飛ばしてください。すみません。

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(※)『AERA 2.28号』の「編集長敬白」より。『アエラ in ROCK』を紹介するくだりで、あるロックミュージシャンの自殺に際して、朝日新聞社内の熱烈なロックファンが言った言葉。


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↓う~ん、今日はほんとにすみません。
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どうして獅見朋成雄はいい奴なんだろ。

2005-02-21 18:51:01 | ◎読
人間は、人間を食べないから人間なんだ。
人間は、体毛に意味がないから人間なんだ。
人間は、お行儀がいいから人間なんだ。
人間は、書をやるから人間なんだ。
人間は、できごとを文化に昇華させるから人間なんだ。
人間は、匂わなく小奇麗にしているから人間なんだ。
人間は、学校に行くから人間なんだ。
人間は、名前があるから人間なんだ。
人間は、痛いと言うから人間なんだ。
人間は、ロジカルな恐怖に慄くから人間なんだ。

そうか?ほんとに。

獣は、森を識る。人間は知らない。
獣は、刹那的に行動する。人間はしない。
獣は、本能的に行動する。人間はしない。
獣は、殺めることに感情をもたない。人間はもつ。
獣は、自然の音を聞きわけられる。人間は聞き取れない。
獣は、暗がりでも走れる。人間はできない。
獣は、センシティブな恐怖に慄く。人間にはわからない。
獣は、盲信する。人間は全部丸呑みにしない。

そうか?ほんとに。
人間は獣ではないのか?
じつは、獣のほうが人間らしいんじゃないのか?

こんな分類が正しいかどうかは別として、舞城王太郎は『山ん中の獅見朋成雄』(講談社)を描くときに、表頭に「人間」「獣」と書いた対照表をつかって、人間と獣の本質を腑分けしようとしたかもしれない。

僕の首の後ろにも、他人よりもちょっと濃いめの産毛が生まれたときから生えていて、これが物心ついたころから僕の抱えた爆弾だったのだけれど、十三歳になってすぐのある晩、自分の鎖骨をこすっていて、そこにいつもとは違う感触を感じてうつむいて、首元に赤くて長くてコリコリと固い明らかな鬣の発芽を確かめたとき、それまでは祖父と父と同じように背中に負ぶっているつもりだった爆弾が、気づけば僕だけ胸の上にも置かれていたと知ってショックで、その上さらにその導火線にとうとう火が点けられたのを実感して、僕は絶望した。(帯にかかれた本文の抜粋より)

物語の前半、背中の鬣が遺伝として当たりまえのものとしてあるという充足のために自分の中の獣性を意識しなかった「獅見朋成雄」は、後半、喪失ゆえに鬣を意識することで、逆に無意識のうちに獣性を目覚めさせた「成雄」に変わる。
もし、この物語をわかりやすくしようと思えば(1)鬣が生えてきたから獣性が芽生えた とか (2)獣性の目覚めを顕著に意識するようになる といった構造になるのだろうが、そうはならないところが舞城の巧みな物語設計だ。つまり、獣性なんてのは誰でも持っているもので、意識のなかで急激に覚醒したりするものではない、ということを示すのに最適な方法をとったということだ。

そしてこのことは裏を返せば、人間性なんてものも簡単に損なわれてしまうんだよ、ということになる。これが、人間のもつ根源的な怖さである。人間の狂気により導き出される突然の暴力の怖さである。恐怖の極致はここにある。

実態をみようとせず術なく恐れ慄いているだけでは、恐怖は克服されることはない。恐怖とはいったいなんなのか?どのような状況下において突然の暴力は起こりえるのか。
舞城王太郎が一貫して描き続けているのは、まず恐怖/暴力というものの構造を識るための、さまざまな角度からの可視化であり、さまざまな条件下におけるシミュレーションである、といえるだろう。

彼は、ただ臆病で心配性(※1)なだけなのか?それとも、自分のなかのバイオレンス(※2)と格闘しているのか?人間存在のなにかを神経症的に疑っているのか?

と、分析的かつ断定的に書いてしまいましたが、じつはなにも深くは考えず、遅ればせながらの『山ん中の獅見朋成雄』の読後直後の「あいかわらずおもろいやん」という勢いだけで書いています。このわかりやすさの背後になんか落とし穴もありそうだけれど。ダイナミックに採用される説話のバリエーションは豊かだし、こんなに無茶している獅見朋成雄をいい奴として書いてしまえる人間への信頼には、読んでいて気持ちのいい爽やかさがあるし。早めに例の賞をあげておいたほうがいいんじゃないでしょうか。

いずれにしても、なにかと話題になる2作(『好き好き大好き超愛してる。』『みんな元気。』)を、しっかり読んでから偉そうなことを書くようにします。


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(※1)リンクは本論とは関係ありません。マイナスターズのデビューアルバム『ネガティブハート』のサイトです。『心配性』だけのつながりですね。すみません。はやくレンタル開始しないかな。まあ、『さまぁ~ずの悲しいダジャレ』『さまぁ~ずの悲しい俳句』も迷いなく買うくらいだから、買ってもいいんだけどね。

(※2)舞城のあっけらかんとした暴力性を表現した自筆によるコマ漫画が新潮社のWEBサイトで、『みんな元気。』のプロモーションとして公開されています。しかし、彼の画の巧さの基盤となっている3D看破能力は凄いね。


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文学界3月号。

2005-02-20 08:02:19 | ◎読
何回か書いてきたが、今年度に入ってからの『文学界』がかなり面白くなっている。べつに文藝春秋の回し者というわけではないのだが、3月号を例に、いいものも悪いものも含めて読んでおく意味はある、という視点でいくつかの内容をダイジェストしてみよう。

といっても現在、兵庫県の西端のとある隠遁場にて酩酊中のため、ただしく紹介できるかはよくわからない。まあ、難しいこと考えずに一度買ってみてください。ちょっとした本好きの方なら、少なくとも『UOMO』よりは得した気分になれると思います。
なお、今号のメイン特集は「阿部和重とこの時代」。以下の【2】【3】【4】がその一部。

【1】「傷口が語る物語」(中原昌也)
確かに傷口が語る物語というのは的を得た題名ではある。この小説を書き進めているのは、中原昌也の恣意や企図ではなく、傷を負った手の意志であるということだ。そうでなければ、このような支離滅裂な物語はかけない。なんの計画もなしに、まず書き出してみてそれに続く言葉を連鎖的に継ぎ足し続けていく。即興詩という見方が正しいのかもしれない。このページ数にして約4ページの言葉の塊を、もし中原がそういう方法で描いているとすれば、やはり彼にある一定の評価は必要だろう。
ただし、方法論はそうであったとしても、彼にはきっと芸術的な目論見はなく、たんなる小遣銭稼ぎのためにパッと書く、といった意識くらいしかないような気もするが。

【2】特別対談「形式主義の強みと怖さをめぐって」
(蓮實重彦×阿部和重)

たとえば、『グランド・フィナーレ』があのスタイルに落ち着いた顛末などが詳細に暴かれている。阿部はこの小説をいまから4年ほど前に考えていたらしいのだが、最初の構想とはずいぶん異なった形になったというくだりで、

阿部 ……第一部にあった出来事はほんの短く説明される程度で、第二部の物語のほうがだいぶ長く描かれるはずでした。エンディングも違っていて、あのあと演技指導をしていく過程がおもに描写されるはずだったんです。フェティシズムが出てくる過程をぼくも当初は---これは言い訳として言うわけでは決してないんですが----そういう性癖をもった沢見という男が少二人と接していく中で、「ああ、触れてしまいたい、触れてしまいたい」と思いつつもこらえていく葛藤を中心に物語る作品として構想していたんです。

ということらしい。もちろん、これら選択肢に正解はないとは思うが、おそらく二人の少女が沢見を直接的であれ間接的であれなんらかの形で殺めてしまうようなグランド・フィナーレも予想され、もしそうなった場合、そのプロセスがまったく紹介されぬ空白のまま、たとえば『シンセミア2』の逸話などで登場すれば、これは面白いなと思ってしまう(たとえば、「数年前、奇妙な取り合わせの心中があった場所だが…」とか)。その点で、今回のエンディングも、またひとつの正解ではある。
また、わたしも言及した女性「 I 」についてかなり深く語られており、こちらも、これからの作品内での活躍が期待できるかもしれない。でも、こう考えてみるとなんだか阿部は「神町RPG」のシナリオを紡いでいるみたいだなあ。

【3】「だ/ダ小説」(福永信)
阿部の未完の長編『プラスティック・ソウル』について触れている。「形式」の特異さが強調される『無情の世界』までの作品と、「物語」が全面にでてくる(ようにみえる)『ニッポニア・ニッポン』以降の作品とのあいだには確かに亀裂があり、これを作り出したのが『プラスティック・ソウル』ではないか、という仮説を起点として、形式が物語へ乖離していくモーメントについて触れている(ようだ。←字数の制限のせいか詰め込みすぎで主旨がわかりにくい)。
残念ながらわたしはこの小説が連載された『批評空間』をⅡ期の18号しか所有しておらず、7回にわけられた長編のうち1回しか読めないわけだが、この切り出された一部をとってみても、「形式=方法論」の巧みさが(たとえば多元視点へのテストトライアル)、物語の進行を支え始めていることがわかる。
『プラスティック・ソウル』がこのまま死蔵されるとすればたいへんもったいのない話であり、こういったところにこそ芥川賞の商魂が働き、無理やりにでも刊行しようという機運が高まるのなら、それはそれで芥川賞も意味あるよなあ、と考えてしまう。
ちなみに「だ/ダ」というのは、『プラスティック・ソウル』において、登場人物の多くは「ダ」で終わる名前であり(アシダ、イダ、ウエダ、エツダ、オノダ)、「だ」で留め置かれる文体が多いため、読み進めるにつれ異様に「だ/ダ」が目立つ「形式」となっていることを意味している。

【4】「阿部作品の破壊力」(松本健一)
筆者は『シンセミア』の毎日出版文化賞の選者のようで、芥川賞受賞はやはり『グランド・フィナーレ』ではなく『シンセミア』であるべきだったと語る。これは『グランド…』があらゆる意味で中途半端だという見かたに立脚しているようだが、このエッセイで言及されている以上の多様な読み方ができるのも同作品の魅力ではある、と考えると単視眼的な見かたは批評としてはこころもとない。
まあ、確かに村上龍に「この作家は幼女への執着が本当にわかって書いているのだろうか」といった例などを引用されると、一瞬は、「う~ん、そりや高橋源一郎の『唯物論者の恋』のほうがわかっているかも」とは思ってしまうが、しかし実のところは幼児愛好者でない限りはその執着はわかならいのであって、そういった意味では、阿部の書く沢見のようながダメ男らしさ満載の人物のほうが、それらしいという見方も成立する。

【5】「ニッポンの小説」(高橋源一郎)
じつは、この高橋源一郎の連載がいちばん面白いのかもしれない。最近の自己模倣的作品からの前進という点で、かなり冴えているのではと感じる。もちろん、扱っているテーマは、近代日本文学(≒死)であり、エロ(≒愛)であるという点では、一見すると大きな違いを見出しにくい。しかし、今回の連載はいずれもを一段上にあがった俯瞰の立ち位置で眺めていてある種の総決算をしているようにも見える。

たとえば、『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』 の「キムラサクヤの「秘かな欲望」、マツシマナナヨの「秘かな願望」」で延々と引用された雑誌『JJ』のディスクール(って言っていいのかどうかはわかならいが)は、けっして意味なく抽出されたものではなく、そこに詩性(といっていいかどうかもわからないが)を見つけてもいいじゃないか、といった表明であることをにおわせる。

今月号の主テーマは、「死者」ないしは「死」だが、これについては、死なない以上はわかることがないゆえに決して語りえないことを大きな前提としたときに、それでも語らねばならない文学の方向性を示したりもしている。以下のように引用されている「ある若い作家が最近発表した小説の一部」のようなものこそが、「死者」というものをしたり顔で小説の引き立て役として使わない、つまりわかることだけを語り、わからないことはわからないと告白する正しい態度ということで評されている。

「わからない、ぼくにはあいかわらずよくわからない。人が一人死んだ。ぼくのために。戦争の意味がまったくわからない。ぼくがスパイ映画気取りで逃げまわっていた間に……。でもそのことへの罪悪感がまったくわいてこない。あまりにもリアルじゃないから。まるで遠い砂漠の国で起こった戦争で、死者何百人ってニュースで聞いてるみたいだ。まるで他人事だ。どうしてだろう。香西さんにとってこの戦争はリアルなの?痛みはあるの?」

この話は来月に続きそうでもあるので、来月も飽きることなくこの続きから始められる高橋源一郎の持久力に期待したい。

いずれにしてもここで示されているような難題を小説という形態に昇華しようとすれば、時として何が言いたいのかがまったくわからない小説になってしまうこともあるだろうということはよくわかる。もちろん、「何が言いたかったのか」なんての問うのはナンセンスで、冒頭の中原昌也のようになんの企図なく筆のおもむくまま書き進めた結果こそが芸術として評価できる文学/小説の形態だという見方もあるかもしれない。
しかし、高橋源一郎には、「ニッポンの小説」で企図されているようなテーマとなんらかの回答が内在する小説の形態にトライし続けてもらいたいところだ。もっとも「ニッポンの小説」こそが小説形態としてだした答えかもしれないが。


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『文学界』の面白さはまだまだ続くが、酩酊と睡魔に負けて「何が言いたいのかがまったくわからない」状態になりつつあるので、また後日気が向けば。これまでどおりだがこれまで以上に面白い筒井康隆の小説と、これまでとまったく違うがこれまで以上に面白い川上弘美の小説については、なんか書いておきたいんですけどね。



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スプリングスティーン!

2005-02-17 21:02:34 | ◎聴
何度かこのBLOGでもふれてきたが、ぼくはブルース・スプリングスティーンのどちらかというと熱烈なファンとして分類される。たとえば、The E-Street Bandとの唯一の来日ツアーも大阪城ホールで見ていたり(残念ながら、The Ghost of Tom Joad ツアーにはいけていないが)、『Live 1975-85』をはじめとするいくつかのアルバムをLPとしてもっているし、『Tracks』といったちょっと高めのアルバムやDVDも発売されるやいなやなんの躊躇もなく買ってしまう。少しはブートも漁っている。

ブルースというと、ある年代の人たちにとっては『Born in the U.S.A』の印象が強く、ともすればただその曲名だけで、マッチョなアメリカニズムと誤解している人もおおいと思うが、実際はまったく逆で、純粋なロックンローラであり、グローバリズムなどとは無縁の市井の市民の立場に立つ人である。

もちろん、ケリーを擁護するといった派手なパフォーマンスや、「VOTE FOR GHANGE」といったポリティカルな活動は、個人的にはどうか?と思ってしまうが、その端緒はセプテンバー・イレブンを契機とするアメリカの立ち位置の否定であり、この点での活動や声明の一貫性はブルースらしい。

以前に、LPならきっと擦り切れているほど聴いているだろうと書いた『The Rising』も、911が大きなモチーフになっているが、ワールドトレードセンターに立ち向かう消防士を称える曲がある一方で、自爆に向かうテロリストの苦悶を静かに強く描いたと推測できるような曲もあり、そのバランス感覚は秀逸であり、ドラマタイズは感動的である。

そのブルースのニューアルバムのニュースが飛び込んできた。『The Rising』以来の新譜は『Devils & Dust』。最近はおおむね「いきなり発表」ということが多かったのだが、今回もそれに違わずほんとうに突然の、そしてうれしいニュースとなった。

プレスリリースやAP通信を主なソースとしたソニー・ミュージック・エンターテイメントの発表にとよると、

◎ブルースの通算19枚目となるアルバム『Devils & Dust』がUSで4月26日発売となることがオフィシャルのプレスリリースでいきなり発表になりました。
◎今回はEストリート・バンドとのレコーディングではなく、レコーディングメンバーは基本的にスティーヴ・ジョーダン(drums)とブレンダン・オブライエン(bass)。
◎1995年の『The Ghost of Tom Joad 』と似ている部分があるようで実際に数曲聞いたAPの記者によると『The Rising』と比べて、静かでよりアコースティックな作品でペダルスチールギター、ハーモニカ、バイオリンなども入り、民族的なアレンジメントもあり


とのことで、すでに収録曲も発表されている。いくつかは『The Ghost of Tom Joad』でもれたものであり、いくつかは『The Ghost of Tom Joad』ツアー中にできあがったものであり、またいくつかはイラク戦争を契機としてかかれたものということだ。

1. Devils & Dust
2. All The Way Home
3. Reno
4. Long Time Comin'
5. Black Cowboys
6. Maria's Bed
7. Silver Palomino
8. Jesus Was an Only Son
9. Leah
10. The Hitter
11. All I'm Thinkin' About
12. Matamoras Banks


ブルースによると、今回のアルバムは「かなりの部分は西部、特に田舎の生活が舞台」とのことであり、これを受け、各ソース(orソニー)は、『The Ghost of Tom Joad』と似たアルバムと称している。(このあたりの詳細は、AP通信によるUSA TODAYの記事で確認できる)

つまり、より内省的なアルバムということになる。AP通信でも触れられているが、ブルースは、過去、おおむね大きな活動のあとに、この手の内省的な(アコースティックないしはアンブラグド)アルバムを発表するということを繰り返してきた。『The River』のあとの『Nebraska』、『Born in the U.S.A.』のあとの『Tunnel of Love』、久しぶりのThe E-Street Band再結成後の『The Ghost of Tom Joad』、そして今回『The Rising』のあとの『Devils & Dust』。このクールダウンの関係は面白いし、これが巧みに実践できるアーティストはそういないだろう。

じっさいのところ『The Ghost of Tom Joad』の精神性は、過去の『Nebraska』や『Tunnel of Love』に比べてわかりにくいところがあり、ぼく自身も聞き込んでいるとは言いがたく、その点で新しい『Devils & Dust』のニュースについても判断が難しいところではある。
また、じつは、ぼくがブルースを好きな理由は、E-Street Bandに負うところも多く--とりわけMax Weinberg のドラム(※1)、そういった点で少し残念でもあるのだが、たとえそうであっても「Paradise」や「Racing In The Street」、「Drive All Night」といった内省的なバラードは依然として揺ぎなく、もし『Nebraska』のようなシャープさや、『Tunnel of Love』の優しさを魅せてくれるのであれば、そこへの期待感はずいぶん高まる。

現在、アルバムツアーは未定だそうだが、ブルースによると、「アコースティックなものになる。小さな会場を回りたいと思っている」とのことだ。最近は(SMEの署名運動などにもかかわらず)なかなか来日が実現せず、なかばあきらめ気味ではあるが、The Ghost of Tom Joad ツアーのリベンジもあるし、もし来日が叶えばぜひチケットを入手したいものだ。きっと、昨年のJackson Brownのソロ・アコースティック・ツアー以上に素晴らしいものとなるだろうなあ(※2)。


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(※1)「The Ties That Bind」とか「My Love Will Not Let You Down」のドラムワークはものすごく気持ちいいですね。あのくそ真面目ぽい顔からは想像できない迫力です。そういえば、振り返ってみれば、ぼくはドラムにひかれることが多く、たとえば、QUEENが好きなのはロジャー・テイラーがいるからだし、The Policeはスチュワート・コープランドだし、そしてカシオペアは神保彰だし。このあたりは、昨日のエアロの話とつながるのかね。
(※2)なかなかにリラックスした雰囲気でよかったです。旧聞ですがセットリストやコンサートのもようは、こちらの方がくまなくまとめていらしゃいます。考えてみれば1989年の「World In Motion Tour」以来、毎回ツアーに行っているんですよね。ジャクソン、今年はこないのかなあ。


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ティップネスに通ってます、その他。

2005-02-16 22:16:49 | ◎紹介
本やマーケティングのBLOGをやっているからといって、本を読んで仕事ばかりしているわけではなく、ぼくは、こうみえてもいちおう運動家である(もちろんどうみえているかわからないが)。

まず、スポーツジムだ。ティップネスに通い続けて、かれこれ15年くらいになる。といっても、やはり多忙な職業の関係上、週1回程度のペースでしかいけていないので、回数にしてみれば、たかだか800回くらいということいなる。ただし、大阪-東京をまたいだ生活をしてきたので、京橋、梅田、難波、南茨木(つぶれていまはない)、下北沢、五反田、新宿、中野と多店舗経験者ではあり、この点ではレア会員かもしれない。

現在は、大阪の京橋店に落ち着いていて、おおむね土曜の午前中をワークアウトの時間にあてている。ほぼ朝一の9:30に入り、まず、「バイク6分」→「腹筋20回×3」→「エアロ1時間(TIPマックス)」→「バイク12分→腹筋20回×3」→「ダンベル/上腕二頭筋80~90kg10回×2」→「ダンベル/上腕三頭筋(1)80~90kg10回×2」→「ダンベル/上腕三頭筋(2)80~90kg10回×2」→「マシン各種10回×2づつ(大胸筋、小胸筋、背筋、上腕筋…)」→「風呂」で、だいたい2時間コース。ほんとうは泳ぎたいんだけど、一家の主が2時間以上もジムで遊ぶのは罪深いので、節度をわきまえている、といったところだ。

こうやってメニューを並べてみると筋コンが多く見えるが、筋力面では、こんなことを週1回だけやってもあまり意味はないし、歳も歳なので肉体改造的なることは、まったく期待できない。そもそも、筋トレだけなら苦しくて15年も続かない。

そう、ジムに通うことの主な目的はエアロ(ビクス)なのである。さまざまな意見があるかもしれないが、エアロビクスは本当に素晴らしいスポーツだと思う。まず、音楽。難度の高いコリオグラフが決まったときの快感。そして、汗。エンドルフィンはつねに駄々漏れだ。このスポーツをやっていると、南方の人に限らず人間は音楽で生きているのだ、ということが心底実感できるし、たとえ冬であっても体内の汗はつねに入れ替えるべきだ、ということがよくわかる。

しかし、問題はこのことを人に説明するのはほんとうに骨の折れる作業であるということだ。エアロに関心のない人にとってのエアロのイメージは、オリビア・ニュートンジョンの「フィジカル」のPVのイメージであり、20年来思考に変化はなく、それはつまりはエアロ=レオタードということに相違ない。もしくは、たまたまテレビで放映されていた選手権大会などの印象が強く、こちらはエアロ=きんきんの笑顔ということになる。だから「エアロやっている」と話すと、多少なりとも嘲笑をはらんだ会話が続くことになる。いや続かない、とぎれる。気持ちはわかる。前厄か本厄か後厄かぐらいのおっさんがレオタードきて、非の打ちどころのない笑顔で踊っている姿を想像したら、そりゃひくよね。

もちろん実際のところはまったく違う。男子の服装はどちらかというとバスケのユニフォームに近いランニングシャツ&パンツの人が多いし、女子もそこそこやっている人は、nikewomen.jpで、まあ格好よい。そして、笑顔を見せるのはちょっと厳しいぐらいに心肺、足腰に負荷がかかる。プログラムによっては、コリオの間にプッシュアップや腹筋を挿入するサーキット・トレーニングのようなものあり、学生時代のクラブのもーれつなしごきを思い出してしまうくらいタフだ。

学生のころは一貫して慈愛のない根性運動クラブに所属していたぼくが、すべてを達観したうえで言うのだから間違いはない。エアロビクスはれっきとしたスポーツであり、むしろすべてのスポーツの原点といっても過言ではない。もちろん、なんら根拠のない話なので、反論されても「言い過ぎでした」とあやまるしかないのだけれど。

ただし、この手のスタジオスポーツにも流行り廃りがあり、たとえば、この何年かは格闘技系トレーニング(ボクササイズ)、ラッシュ系、マット系などが入れ替わり立ち変わり流行り廃った結果、最近ではヨガが台頭してきており、いわゆるエアロ系は影が薄くなってしまった。やはり負荷が強すぎるし、冷静に考えれば老骨の膝や腰に悪いのは明らかなので、商業的には広く人を呼べないということかもしれない。まあ、それでも少なくともあと10年くらいは続けたいし、続けてほしいところである。

で、もうひとつのスポーツは、ママさんバレーのコーチ。つまり、「慈愛のない根性運動クラブ」とはバレーボール部のことであり、中学から大学まで続けた結果、一時は堺ブレーザーズにも所属していた。というのは、もちろんうそで、所属しなかったから街場のチームを手伝っているわけだ。数年前、それまでスポーツにほとんど縁のなかった家人が、なにをとちくるったか、急にバレーボールを始めた。そのころ私はエアロ・フィーバーが最高潮に達していたため、最初は、揶揄しながら横目でみていたのだが、行きがかり上ズルズルと参加することになってしまった。

こちらのほうは利害関係者が多いためくわしくは触れないが、まあ新しいコミュニティも形成できてけっこう楽しくやっている(と思う)。ただひとついえるのは、何歳になっても歳相応のスタイルでスポーツを楽しめるというのは、ほんとうに素晴らしいことであり、その点で、地域スポーツ、壮年スポーツのあり方というのはいろいろと考えてみる価値がある。大人も子どもも、男子も女子も、プロもアマも一緒になって市民スポーツに参加し、育てていく。こういった延長上にセリエAとかがあるんだろうなあ。、

ま、えらそーに書くほどのことではなかったですね。すみません。しかも、本の話いっさい抜きだし。

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あ、いま読んでいる本少しだけ紹介しておきます。『生きていくのに大切な言葉吉本隆明74語』(勢古 浩爾、二見書房)。勢古さんは、まあなんとも口の悪いおっさんだが、『思想なんていらない生活』(ちくま新書)に多少なりとも感じるところがあり、読み始めてみた。『思想なんて…』は、おうおうにして思想家メッタ斬りの部分がとりあげられることが多いが、じつは、終盤まさに前半の熱を冷ますかのように静かに語られるエリック・ホッファーの生き方への共感こそがすばらしく、もちろんぼくが感銘を受けたのはこの部分につきる。同書では吉本隆明に好意的にふれており、吉本のホッファー同様の市井の思想家という側面だけを切り出した『生きていくのに大切な言葉…』をおさえたわけだ。現在、魂が打ち震えている、といったところまではいっていないが、いずれ通読した時点で、抜き書きなどをしてみようと思う。おおむね、「結婚して子供を生み、そして子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ、そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値ある存在なんだ」といったところなんですけどね。



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『ふしぎな図書館』と佐々木マキと1968。

2005-02-14 13:51:48 | ◎読
いま青山ブックセンターの本店の人文思想棚の片隅に特設の「1968年」コーナーができているが、学生時代を不毛で空虚な80年代に過ごしたもの(わたし)にとって、68年というのは、それがポリティカルであれノンポリティカルであれ、まぎれもなく魅力ある時代ではある。同時に、2005年現在であっても、文学や現代思想を語るためには68年のエピステーメーを識ることは避けて通れない、ともいえる。

そのため、いろいろな角度から「68年つながり」のようなものを見てしまうことが多い。たとえば、村上春樹の新刊『ふしぎな図書館』をみて、彼と佐々木マキとの関係、彼が佐々木マキを起用し続ける理由などといった本質的ではないだろうことさえ、考えてしまう。

『ふしぎな図書館』は、1982年に書かれた『図書館奇譚』を改稿したもので、文体や構成は子ども向きの絵本という形をとっているが、そこに潜む「恐怖/克服」テーマは、以降の彼の多くの小説に引き継がれているといえる。1982年といえばちょうど『羊をめぐる冒険』の頃で、それは彼にとって初めての長編であり、同時に「われわれを取り巻く得体のしれない悪/暴力」という難題に取り組み始めたこともあり、もしかしたら、ガス抜きも含めて、ストレートな掌編としての『図書館奇譚』を書いていたのかもしれない。ストレートさ加減では、新作の『東京奇譚集』と基本的には同であり、場合によっては、内田百けんの『冥土』(※1)のようなものを目指していた(いる)のかもしれないという考えも成立しそうだ(※2)。

佐々木マキの絵のほうは、ブックケースに堂々と描かれた羊男に始まり、おなじみ幻想的なタッチのものが2~3ページに一点ぐらいの割合で挿入されている。どこを開いても彼のイラストに出会えるという点ではむしろ彼の絵本といったほうがしっくりくるかもしれない。

ここで描画されている、図書館司書じいさん(?)やむくどりは、きわめて漫画的なタッチであり、その点で子どもたちにとってもやさしく楽しい絵となっているが、じつは彼の本質をあらわしているのは、こういったファンタジーではなく、1960年代にガロ誌上で連載されていた漫画のほうだと思える。それは、たとえば、『ハイスクール1968』(新潮社、四方田犬彦)の表紙や挿画に使われているタッチと思想ということになるだろう。ご覧いただければわかると思うが、これは『ふしぎな図書館』などの筆致とは明らかに異なっている。毒を含んでいるとか、幻想的ではあるがそれはドラッグの結果の幻想といった言い方が近いかもしれない。

四方田犬彦が、68年から70年に過ごした自らの高校時代を語った『ハイスクール1968』の挿画に、佐々木マキを起用したのは、当時、彼が佐々木マキの漫画に心酔していたからである。同書で、彼はつぎのように語っている。

「わたしが一番好きになったのは、佐々木マキだった。この時期、彼が1月ごとに発表する短編を通してどんどん過激に走ってゆくさまを、わたしはまるで一枚三百七十円のドーナツ盤レコードを買うかのようにして追いかけていた。ある時、彼はサルトルをエピグラフに掲げて、ヘミングウェイの『殺人者』のみごとな翻案を発表した。だがその後の作品では物語を統合的に語る統辞法が完全に消滅し、コマとコマとがまったく恣意的な秩序で羅列されるだけになった。」
「……この作品(『ベトナム討論』)の最後の頁では、旭日旗を背景にして坂上二郎が大きな舌を見せて笑っている。これは見方によれば、高度経済成長のもたらす多幸症的な日本の言論とマスメディアに対する、きわめて辛辣な風刺であり、世界には嘲笑してはならないものなど何ひとつないという作者の不敵な立場を如実に示しているように思えた。」


さらにまた、四方田は、その恣意的なコマだけの羅列の表現技法について、『漫画原論』(ちくま学芸文庫)で、彼の「シリーズ<聖灰日曜>その一、選ばれたヒツジは」という作品を例にとり、以下のように分析もしている。

「60年代後半における漫画家佐々木マキの出現は、その意味で映画におけるゴダールの意義申し立てに喩えることが可能だろう。佐々木はあえて過激な物語を漫画に持ちこむことを避け、逆に漫画のテクストを形成している、内側の政治的なるものの存在にめぐりあたり、これを独自のシニシズムを通して解体へと導こうとした。その試みは充分に批評的であり、画期的な行為であったと評価できる。」

ここまで評価の高い解釈が正しいのかどうかは、なんともいえない。しかし、四方田自らが語るように、彼の評論家志向を開花させたのは、彼自身が当時ガロに投稿し掲載された、佐々木マキの批評(≒檄文)であり、最近では『白土三平論』までまとめた、彼の評論家としての立ち位置のある部分は、佐々木マキによって規定されているといえるかもしれない。

翻って村上春樹の場合はどうだろう。『風の歌を聴け』以来、『羊男のクリスマス』といった絵本を含めて、最近では阪神淡路大震災の朝日新聞のエッセイまで、相当数の挿画(※3)を佐々木マキに依頼し続けているわけだが、これはたんに同じ神戸出身者であること、同世代であることの結託もさることながら、1968年当時19歳(村上)、22歳(佐々木)であった2人に、四方田犬彦のようなリスペクト関係や、それ以上の同志関係などがあったのかもしれない。

1980年代に書くことが叶った作家と1980年代以降絵本をおもな活動の場とする創作者は、1968年の呪縛を解くために10年以上を費やした文学者と1968年のアバンギャルドな漫画家でもある。
WEBサイトで調べてみたところ顕著なファクトはみつからなかったし、わかったからどうなるというものでもないので追求はしないが、こういったことでも、1968年はわたしをとらえてはなさない。


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(※1)わたしの本棚にある『冥土』は、いまはなき福武文庫のもの。ユーズドで新刊定価530円が最大800円でした。
(※2)おそらく今年どこかで村上本人のコメントがでるだろうから、間違っていたら即座に前言撤回します。
(※3)佐々木マキの非公式ファンサイト『うみべのまち』を公開されている方がいたのでアクセスしてみたところ、相当数と思っていたが実はそうでもなかった。そして、それ以外の作品とタッチの多様性に驚いた。彼にとっては、村上装丁は、ワン・オブ・ゼムのワン・オブ・ゼムに過ぎない。


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わたしの本棚 (1)大伴昌司

2005-02-13 17:17:34 | ◎読
10年前から、いや20年前からBLOGというしくみがあったらよかったのになあ。だって、いまとなってはマンションの脆弱な床構造に多大なる負荷をかけるだけとなってしまった、でも愛すべき蔵書についてリアルタイムでしっかり語ることができたじゃん。

ということで、お気楽エントリーとして、ぼくの家に存在する、少しは珍しい本や雑誌とか、読書歴のなかでエポックになった本を順に公開していくことにします。まあ、お気楽におつきあいください。
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これはいつ頃だろうか?こんな本、いまでも入手できるのだろうか?奥付を見ると昭和63年10月2日、え~っと1988年だから17年も前だわ。きっと働き出して、多少は自由に使えるお金もできたんで懐古趣味を満たすために散在したのだろう。

『OHの肖像 大伴昌司とその時代』(竹内博、飛鳥新社)。大伴昌司って?たぶん、ほとんどの方が知らないとは思うが、もっともわかりやすい彼の仕事は、まず第一に怪獣図鑑の人。ウルトラマン、ウルトラセブンが少年たちの心を捉えてはなさなかった頃、円谷プロの特撮に登場した怪獣をほぼオンタイムでイラスト化し、あるのかないのかわからない内臓までをスケルトン化して緻密に書き込みんだもの、といえばおわかりいただけるかもしれない。「どんな音でも聞こえる耳」とか「バルタン肺=地球の空気にもなれるために、とくべつなしくみでできている」といったコールアウトも加え徹底的に図解するという例のあれだ。最終的なイラスト化はイラストレータに任せるとして、彼は、アイデア・構図・構成などのすべてを担当していた。

そしてなにより有名なのが、1960年代の少年マガジンの巻頭を飾り、子どもたちの人気を掻っ攫っていたグラビア記事の編集。大伴は、編集者&デザイナーとして、これをほとんどひとりで構成していた。グラビアといっても、いまの漫画週刊誌のようなエロチカ系アイドルのプチ写真集のようなものではなく、少年たちの下世話なB級趣味やSF&怪奇趣味、覗趣味、サブカルチャー欲、ときには社会意識をかきたてるような多岐にわたるテーマを、数ページにわたり、イラスト&緻密な図解、写真で構成したものだ。

『OHの肖像 大伴昌司とその時代』は、SF作家を出自とし、怪獣博士とも呼ばれ、そしてその少年マガジンカラー大図解の仕事において稀代のビジュアル魔術師・天才編集者ともよばれた、大伴昌司の短い生涯を証言で構成した記録である。

小野耕世による大伴の人物評があるので引用すると…
「大伴昌司氏の仕事で、最も私が強調しておくべきだと思っているのは、「少年マガジン」の巻頭を飾っていた、カラーグラビアである。はじめは、怪獣のしくみや、世界の怪奇現象の図解といったふうな<特ダネ図解>であった。もちろんそれは、図解としてすばらしくていねいで、細部まで正確なものだったが、後には、おとなの一般誌ですらここまではできないというほど、多方面にわたってユニークな題材をとりあげ、その切り込みかたや、レイアウトも、群を抜いていた。」ということになる。B級界の荒俣宏しかしその想像力・表現力は荒俣以上、漫画界の花森安治しかしその偏執ぐあいは花森以上といったところか。

ちょこっと写真をのせてみたが、少年マガジンのグラビアの特集テーマは具体的には「大妖怪」「恐怖の未来」「スパイ超兵器大図鑑」「ビートルズの遺書」「地球SOS!」「黒澤明の世界」「異次元の世界」「交通は爆発する」「圭子歌集」「CIA入門」「20世紀の戦争」「現代まんがの誕生」「死をまつ世界」「アラブゲリラ」「劇画入門」「まだ解かれていないふしぎベスト20」「ひとりぼっちの旅」「ドライブ入門」「ウルトラマン決戦画報」などかなり拡散的にテーマを設定している。

「ああ!」と思い出された人も多いだろう。ものすごく子どもっぽいテーマもあれば、いまの漫画雑誌では絶対にボツると思われるような、すれすれ企画などそのアンテナは多岐にわたる。そして、それぞれの内容は、かなり深く、たとえば、かなりの精度で来るべき次世紀を予見している特集があったりするいっぽうで、なんというか細部までほんとうに正しいかと問われると、まあ漫画雑誌の特集だから目くじらたてるなよ、といいたくなる虚言のようなものもあったりする。

たとえば、「情報社会 きみたちのあした」というのをみてみると、「情報社会では、犯罪捜査は情報センターが中心になるだろう。犯罪が発生すると、巨大な電子計算機(コンピュータ)が活動して犯人をつかまえ、判決までくだすのだ。」とか「もしこの暗号(DNA)の組み合わせの順序をかえてみたらどうだろうか。親とは性格や形のちがった(動物の)子どもがうまれてくるだろう。」とか、カード電話、テレビ電話といった言及もあり、これは60年代後半にもかかわらず、かなり正しく未来を捕らえている。

しかし一方で「世界大終末」なんて特集では、第3次世界大戦、伝染病の大流行、隕石の衝突、地球脱出計画など、まるで「とんでも本」のようではある。

こういった、大伴が編集したグラビアの仕事を、ほぼ当時の原稿を複写した形でまとめたのが週刊少年マガジン創刊30周年記念出版と銘打たれた『復刻「少年マガジン」カラー大図鑑』(講談社)。副題は「ヴィジュアルの魔術師・大伴昌司の世界」。これは1989年7月1日初版。当時でも6,900円という思い切った価格だったが、いまはamazonではユーズドで20,000円になっていましたよ。

約400ページにわたり、図解ページを原寸中心で再現しているのは、かなり魅力的だがそれだけではなく、当時の少年マガジンの表紙などもカラーで紹介されていて、これもかなり面白い。なかでも、横尾忠則のアートディレクションによるあまりにも有名な星飛雄馬モノトーンの少年マガジンの表紙に始まるグラビア企画「横尾忠則の世界」が掲載広告も含めて、全ページ紹介されているのは圧巻だ。

ここにある好きだからこそ楽しみながらできるという精神は、ある意味では視野狭窄ではあり、偏執的でもあるが、ひょっとすると、しおれてしまっている現在の雑誌づくりになんらかの刺激ににはなるかもしれない。


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べつに賞をメッタ斬りするわけではないけれど。

2005-02-12 02:18:10 | ◎読
『文藝春秋』を立ち読みする限りは(※1)、芥川賞選考委員の『グランド・フィナーレ』選評は、全体として努力賞・功労賞的な評価である。もちろんおおむね二人ほどを除いて(うちひとりは同作には触れず。でもまあこの人なら触れなくてもいいや)、獲るべき人がとった目出たいよ、というスタンスではあるのだが、なにか釈然としない。
もちろんこれは当然のことで、新人ではない新人に対する評価の言葉遣いは、たとえ言葉の手練たちであっても社会常識的にも難しいということだ。「よくやった!」ともいいにくいがいっぽう「おまえ、待たせたよなあ」と言うのも、彼らの立場としてはほとんど意味がない。

そのため、全体をとおして、新人に対するものの言い方になっているのに(たとえば、次回作に期待したい)、小説への評価はどちらかといえば辛く、それはむしろレベルの高い文芸批評的にみえる。たとえば、『グランド・フィナーレ』中の、ロシアでのテロ・チェチェンやアフリカにおける軍事虐殺のエピソードを小説構造の中に取り込めなかったことは残念だという村上龍の意見などはなんとも批評らしい(必ずしも正しい評というわけではないが)。ただ、このあたりのことを言い出すと、小説ってそこまでパーフェクトでなければならないのか?そもそも小説に賞を与えることに意味はあるのか?といった部分がよくわからなくなってくるし、だいたい、過去の若書きの人たちはどうなんだ、と思ってしまう。
芥川賞には、やはり作家歴制限をつけておいて、もし有能な作家に獲らすことができなければ、彼を落とした委員が消化しきれませんでしたと悔恨すればいいだけの話だということかもしれない。

さて、唯一、受賞に反対しているのはご存じのとおり日本の首都を幸せにしようと日夜奮闘している作家なんだかどうなんだかわからない人であり、かれの場合はどちらかというと『ニッポニア・ニッポン』への遺恨が原因のような気もするが、『グランド・フィナーレ』に対する主張は、ペドフィリー(幼児性愛)やひきこもりといった社会風俗を、阿部が小説の題材として扱う必然性がない、ということだ。

しかし、『グランド・フィナーレ』はもとより『ニッポニア・ニッポン』についても、彼が社会風俗を小説の要素として取り込んでいることは、じつのところ大きくは取りざたされていない。たとえば、今回の場合も、ふつうに考えれば奈良の事件や性犯罪者の出所後情報提供の議論ともっと結びついた論評があってもいいはずなのにそうはならない。もちろん、読みの巧みな編集者がいてプロモーションをコントロールしている、といったこともあるだろうが、このことについて、わかりやすく丁寧すぎるくらい丁寧に解説しているのが、『文学界 3月号』(※2)で、阿部と蓮實重彦の対談である(※2)。

蓮實 谷崎にも隠された悪癖みたいなものを少しづつ露呈させている作品はありますが、今まで書いてこられた作品では、阿部さんもそういう形をとっておられますよね。
現代の社会風俗というかひきこもりに似たものもあれば、ピッキングの話もすでに出てきていたし、今回はペドフィリーです。それに似た犯罪を犯す人たちがいるような社会的に状況にそれとなく同調するふりをしておられたわけでしょう。………そうやって阿部さんは現代社会風俗にどこかで足をかけておられるけれど、実はそれはほんとうの主題ではないという方向にいつも流れていくわけですね。
阿部 はい。
蓮實 たとえば前回の芥川受賞作品のモブ・ノリオさんの『介護入門』では、介護という新たな社会風俗がモロにあつかわれている。その前の金原ひとみの『蛇にピアス』もそうでしょう。そのモロのところで評価されてしまうみたいなところがありますね。私としては評価したい『介護入門』では介護そのものが真の主題ではないと思いますが、風潮としては、モロに評価されてしまうところがある。
ところが、ペドフィリーについて、あるいはドメスティック・バイオレンスが背景にあることについて「だからあの作品がいい」あるいは「いけない」とは、阿部さんの場合にはあまりに言われない。なぜなのかと思うんですが。


ということである。もちろんこれは蓮實一派的な感想なのでバランスをとる必要はあるが、それでも東京の役人の読みは、残念ながらあまりに表層的で独善的といわざるをえない。もちろん、小説はどう読んでもいいわけだから、そういった感想を禁じることはできないので、つまりはもう少し小説家らしく言葉を練る必要があった、ということかもしれない。そしてもうひとつ、書くことそして読むことだけに愚直で真摯でない人が、こういった場にいていいものかどうか、いくら忙しくても候補作を作家らしく読める人がいいんじゃないの?といった議論を少しはしたほうがいいのかもしれない。

ちなみに、社会風俗的な読み方をされない(できない)理由は、阿部の自己分析によると自分が「形式主義だから」であり、「社会風俗的な問題という縦軸の問題がドーンと作品に入り込んでくるわけだけれども、それが語りによってどんどんずらされていくのが阿部和重の作品だ」という東浩紀の読み方に合意している。結果として「社会風俗に言及されていながらほとんどの場合に構造的な有意性が剥奪されているので語りの構造を規定して」いないという蓮實の読み方が意見としては納得性が高そうだ。


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(※1)立ち読みなので、虚偽があるかもしれません。というかきっとあると思います。文藝春秋くらい買えばいいんだけど、相変わらずほかの記事で愉しそうなものもないので(イチローのインタビューくらい?).
(※2)何度も繰り返しますが最近の『文学界』は、ぼくのような市井の中途半端な文学好きにとってはかなり面白い内容になっています。
(※3)もちろん、この馴れ合いインタビューの話題はどんどんひろがり、少しは阿部和重を裸にしていて、たいへん愉しく読めます。『文学界3月号』の特集「阿部和重とこの時代」は、この対談のほかにも、『シンセミア』で芥川賞あげてもいいんじゃないの?といった評や、『プラスティック・ソウル』はどうなった?という意見などがあり、一気に阿部和重ファンになりたい方にはおすすめです。(『プラスティック・ソウル』は、『批評空間』で連載されていた長編で未完)。


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音楽のある風景っていいね。

2005-02-09 12:26:47 | ◎聴
保坂和志さんが『音楽のある風景』のファンだったなんて驚いた。感涙ものだ。いきおいあまってBBSにコメントなんかしてしまいましたよ。

『音楽のある風景』は、いちおうTVプログラムということになっているけど、ようは懐かしCD-BOXセット通販のインフォマーシャル(≒PV)だ。ご存じの人もかなり多いにちがいないし、あまつさえ「毎週見入っているよ」という人もいるかもしれない。
東京ならテレビ神奈川など、関西なら京都テレビやサンテレビなどのUHF局やCS局、BS局などあまり人目につかないチャンネルの人目につかない時間帯にこっそり放映されている。

洋楽・邦楽問わず、ポップミュージックからクラッシク、インストまでいくつかのCDが紹介されているのだが、ポップミュージックについてはおおむね6枚セットくらいのCDの主要な曲を、おおむねその曲が流行った当時のドキュメント映像をながしながら紹介していき、全曲一覧紹介ののち、いまからフリーダイヤルでお申し込みを受け付けます、となる。なんのことはない。

保坂さんによると、

「ヘイ・ポーラ」をバックに、ベトナム戦争で川に浮いている米兵の死体が映ったり、 弘田三枝子の「人形の家」をバックに三島由紀夫が自衛隊で演説している映像が流れたり、 最近ではわたしが一番楽しみにしているテレビ番組です。

tvkが見られる人は、一度見てみてください。
テレビって、低予算で作る方が絶対に面白い。タレントが出てきて、しゃべったりしないから。 それにしても、わたしは昔の音楽と昔の映像に弱い。。。。


ということで、わりと心酔されているように思える。
楽曲と映像のマッチングが妙に気持ちよく、かなり懐かしくゆったりした気持ちになるし、当時の世俗風俗がいとおしくすらなるのは、まさに彼が感じるとおりだ。

たとえばわたしが好きなのは、まず『MY GIRL』。「1950年代から1960年代の古きよきアメリカを代表するロックンロールやコーラスグループの名曲、そして懐かしい映画音楽まで合計140曲を収録」。つまりほぼオールディーズだ。「ロック・アランド・ザ・クロック」「オンリー・ユー」「ボーイ・ハント」「マイ・ガール」「アンチェインド・メロディ」から「エデンの東」「ムーン・リバー」まで。そして、曲紹介中の背景に、アメリカの同時代の社会現象、政治、風俗にまつわる映像が流れる。それは、ベトナム戦争での絨毯爆撃だったり公民権運動のワシントン大行進だったりするし、「ティファニーで朝食を」のフィルムだったりする。

もちろんこの頃にわたしは物心がついていたわけではないので、ほんとうは懐かしいわけでもなんでもないのだが、ここはやはり音楽というものの力技なのか、無意識のうちに埋め込まれたかもしれない「あの頃」感覚が覚醒する。とりわけ、ベトナム戦士やアポロ宇宙飛行士の映像を背景に、60年代の終盤に一気になだれこむ、「煙が目にしみる(プラターズ)」、「明日なき世界(バリー・マクガイア)」、「この素晴らしき世界(ルイ・アームストロング)」、「青い影(プロコル・ハルム)」あたりの編集は圧巻だ。

さらに、70年代を中心とした日本のフォーク アンド ポップスを収録した永久保存盤と銘打たれる『FOREVER YOUNG』。「青春の影」「 我が良き友よ」「今はもうだれも」「傘がない」「大阪で生まれた女」「22才の別れ 風」「なごり雪」「あゝ青春」「卒業写真」「『いちご白書』をもう一度」などが、それこそ68年のやや激しい映像から、オイルショックのトイレットペーパー・パニック、たけのこ族の映像までを背景に流れる(三島由紀夫の演説などもあったと思うが、年代的にもこちらは違うCD-BOXの映像だろう)。
こちらは、わたしが小学生くらいの頃の話で、じっさいにこれらのポップ・ミュージックやフォークソングを口ずさんでいたし、社会の映像もおぼろげながら記憶にあるものが多い。ひょっとしたら、最後の走馬灯を見るという感覚に近いのかもしれない。

いずれも、もし、これら映像とセットになったDVDなら、迷わずフリーダイヤル、というところだろう。

しかし、これは掲示保坂にも書き込んだのだが、いかんせんあくまでもCD通販のテレビショッピングであり、かつ同じ内容が何回もリピートされているため、無言で見入っていると、家人からは「またや」と厭きれられ、「あほや」と罵倒されることになる。

ずっと「でもなあ…」と、呟き続けていたのだが、この感覚がひとつの感覚として立派に世の中に存在することが立証でき、しかも、その証人が保坂さんであるという事実が強い味方となり、これからは堂々と忘我の時間を過ごせることになるのはなによりだ。どうだ参ったか。

ただ、最近は『浜ちゃんと。』(※)と時間帯がかぶっていて、いささか迷いどころではあるが。


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(※)『浜ちゃんと。』は、関西地区では、一週早いものが、日テレローカルの読売テレビで放送されています。


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言葉の学習。

2005-02-08 13:12:51 | ◎読
「店はわんわん言っているようだった」、「況や」、「啜った」、「がんがんいっている」、「業腹」、「嘆(たん)ずるがごとき、怨じるがごとき」、「調和合体」、「怨嗟」、「しこうして後」、「新玉の春」、「くんくんに張り切っていた」、「土下座外交」、「厭悪」、「思(おぼ)しき」、「マラカイボ油田」、「おかしげなパーマネント・ウェイブ」、「おーんなどと嘯くばかり」、「ひがごと(僻事)→道理や事実に合わない事柄」、「酷薄苛烈」、「権謀術数→scheming; trickery」、「突飛突破なこと」、「こまっしゃくれた」、「不磨の大典→旧憲法の美称」、「そしたら、あっちにこう売って、その実績を担保にしてこっちにこうして、あっちにああなって、そうするとこっちが買いに来て、そうするとそっちも黙っていないから、価格は急騰して、あなたとわたしは巨万の富を手にすることができる」、「切るたびに巨大化していく空手形」、「ピース」、「剥落した錆」、「業を煮やして」、、「どういう訳だ。おなめになっているのか。くそう。」、「傲然と」、「チュルチュルでてきた紙をみると」、「横溢」、「かかる一日」、「鹿十(しかとう)」、「煙火を廃(よ)して注視していると」、「それは早計」、「物憂げ気怠げ(けだるげ)思度計(しどけ:当て字か?だらしないの意)な態度」、「ちょかちょか走っていき」、「ボヨヨン。自分は、漫画で目玉が飛び出す音を口で言ってみた。ちっとも楽しくなかった」、「閲する」、「金看板のおかげ」、「相立たぬ」、「脳漿を振り絞るようにして書き上げた」、「珍だとは思わなかった」、「うそぶいて恬然(悪い事や恥ずかしい事をしても、悪や恥の意識が全く無く平気でいる様子)としている」、「慚愧に耐えない」、「土俗卑俗の豚野郎」、「拝跪した」…。


すでに、お気づきの方もいらっしゃると思いますが、これらの猥雑な言葉は、町田康の『実録・外道の条件』(角川文庫)から、わたしがふだんものを書くときに絶対に使わないような言葉、でも一度は使ってみたい言葉の一部を抜き出したものです。
もちろん単語を羅列しただけでは、町田康の面白味は伝わるわけはなく、ほんらいは言葉と言葉の予想外の関係性やケミストリーが真骨頂なわけだけれど、それでもただこれだけのことでも、ずいぶん考えるため道具箱の品揃えは充実していく。ちょっと面倒くさいなあ、と思いつつも、やってみると勉強になります。まえに一度、阿部和重でやろうとしたんだけど、こっちのほうがやっていて面白いですね。これを機会に町田康の写経でもやってみる?

『実録・外道の条件』は、いわゆるエンターテイメント業界に蠢く外道たち(妄想プロデューサー、土下座マネージャー、非社会派スタイリスト…)を、怒りをこめて斬り刻んでいく実録(?)小説。彼は大人なので、空前絶後のバッサリ感はないけど、脇差で負わせる致命的バツの悪さは小気味よい。自分をも含めて(自称、下層エンターテイナー)、冷静に客観視できる能力があってはじめてこういった表現作品がうまれてくるんだろう。

遅まきながら、まず。そして町田町蔵へと、興味の範囲を拡げてみようかなあ。いや拡げるべきだ!



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村上春樹の新作。

2005-02-07 19:44:26 | ◎読
いまちょっとプロモーションの時期なのかな。それとも今年はアウトプットの年と決めている?最近、彼の名前を目にすることが多かったのだが、『新潮2005年3月号』(※1)でも連作短編がスタートした。

「東京奇譚集」。その第1回の作品名は「偶然の旅人」である。短い作品なので10分くらいで読み終えたのだが、そのタイトルから容易に想像できるいやな予感が的中してしまった。

もちろんディティールの表現については、おそらくこれまで以上にていねいに書かれており文体としてはかなり好感がもてる。基本的には、村上春樹は読み続けるべきだと思わせる巧みさはあいかわらずである。
また、「僕=村上はこの文章の著者である。」という驚きの書き出しは、『アフターダーク』で奇妙な視点を提示した後だけあって、なにか新しいことをやってくれるのか?『アフターダーク』のアンサーなのか?それともあいかわらず幼く「視点」というものについて迷っているのか?といろいろ考える余地を残す。それともたんなるエッセイか?という、拍子抜けの回答も含めて。

問題はストーリー・ラインだ。ここではくわしくは書かない。しかし、これではまるでポール・オースターではないか?もっというと『トゥルー・ストーリーズ』じゃないか、というとその内容のほどは理解いただけるだろう。世の中には考えられないような「偶然」がたくさんあり、そのことが生き方を大きく変えていくこともある、というのは、オースターの真骨頂であり、しかしじつはいまや過度な自己模倣となり食傷気味ともいえいるテーマだ。顕著には『ムーン・パレス』に始まり、『偶然の音楽』で大団円(?)を迎えたため、次からは新しいテーマに取り組むのかと思いきや、先述の『トゥルー・ストーリーズ』で総集編みたいなことをやってしまい、そればかりか最新作の『Oracle Night』も、(未訳のためまだ読みきれていないが)基本的には偶然に左右される人生、予言的な不条理といったことがテーマになっている。

ここまで、オースターがやりつくしてしまったことを、いま村上春樹がなぜ取り組まねばならないといけないのか?年始、阪神淡路大震災についての朝日新聞のエッセイ(※2)で、再びふれたノモンハンの臨死地震体験(←ちょっと正しい言い方がわからないので。しかしNear Earthquake experienceという言い方は正しそう)との関係はなんとなくは読み取れる。もちろん、偶然おこりえる日常の暴力への恐怖(今回の物語は、逆でまったくもってハッピーな偶然だが)からのつながりというのもあるだろう。

しかし。

しかし、正直なところ、この小説を議論していいのかどうかわからない。議論に足るほどの含意があるのかどうかもわからない。連作なので様子を見るしかない。以前にもふれたが3月発売予定『象の消滅』も「なぜいま?」「それとも例によって大幅加筆?」と、謎が多い。最近、ほんとうに村上春樹はわからなくなってしまった。

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その点で『ふしぎな図書館』は、屈託なく読めるか。『図書館奇譚』(「トレフル」1982年6月号~11月号連載を改稿。タイトルが新作とかぶっているなあ)は読んだことがなく、でもまあ買うほどのことはないか、と思いつつ書店で手にしたが、その瞬間、なんともいえない触感に少しだけエンドルフィンが漏れ、レジに向かってしまいました。書店で手にとっていだけば、その感覚がわかってもらえるかもしれない。


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(※1)『新潮』はこのほか、伊井直行の中編、ジュンパ・ラヒリの短編、『極西文学論』の評、『アルカロイド・ラヴァーズ』の評、あいかわらずの保坂和志の難題連載。しかし、もし春樹がなければ、今月もパスだっただろう。それに引き換え本年度頑張っているのは『文学界』。今月は当然のように阿部和重で、『群像』でもインタビューが掲載されているがやはり、『文学界』での蓮實 重彦との対談ほか青山真治ほかの寄稿から中原昌也との映画新企画まで含めた特集「阿部和重とのこの時代」のほうが格段に興味深い。長くなるとなんなので、今月号の文学誌については、日をあらためて。
(※2)詳細は、当BLOGのバックナンバー「 『極西文学論』の難題。 」にて。


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漫画家の知性。

2005-02-06 22:06:39 | ◎読
東京のフジテレビでは夜中に、小泉孝太郎が各界で活躍中の人たちにインタビューを繰り広げる「孝太郎ラボ」という、なんともすばらしい番組を放映している。インタビュアーのトラウマを思わせるコミュニケーション不全や、絶妙に最悪な間の取り方などをずっと見てるとだんだん気色が悪くなってくるのだが、まあそれはおいておいて、先週(日にちは忘れた)のインタビュイーは、浦沢直樹。浦沢もなかなか絡みにくくって困っていたようだが、まあこれもおいておいて、そのインタビューでわたしが関心/感心したのは、漫画家のインテリジェンスのあり方だ。言いすぎだとしたら知識経験といったことかもしれない。

彼はアシスタントの採用試験では、けっして「私の漫画観」を延々と熱く語る人を採らないという。そんな視野狭窄では困るし、むしろ漫画以外のことに高い関心がある人のほうが優秀な人が多く、そういった人のほうがアシスタントとして長続きするともいう。「なあ、おいそうだよなあ、すぐやめたやつもいるよなあ」と現アシスタントに同意をとりつつ、漫画を描く技術なんてのはあとからいくらでも習得できる、とまで言い切った。

浦沢直樹の作品は、いまや唯一無二ともいえるエンターテイメントをつくりあげているわけだが、『20世紀少年』にしても『Masterキートン』『パイナップルARMY 』にしても、その白熱のストーリーラインは、さまざまな角度の知のエピソードの集積であるともいえる。また『PLUTO』(※2)も、「地上最大のロボット」のリメイクとはいえたんなる焼き直しではなく、まさに正しい意味での換骨奪胎(※1)の最良の見本と言え、同作にとって本質的に重要なフィッシュボーンだけを見極めそこに新たな知見を肉づけしていっているといえる。要素構造の吸い上げ方、改良のバランスはまさにゴッドハンドだ。

いずれも「引用・援用」であり、ある意味では間テキストといえないことはないが、これを実現していくためには、広角なインテリジェンスの備蓄と、全体像がわかっているがゆえの取捨選択力・目利きが必要になる。

時同じくして、『ユリイカ2005年2月号』の特集「ギャグまんが大行進」。そこに掲載されちているいくつかのギャグ漫画評はそれこそ玉石混交だが(※3)、面白いのはやはり、しりあがり寿と春日武彦の対談だ。だらだらと行われた対話ではあるが、そこでは、ストーリーマンガだけではなく、ギャグマンガにおいても知を知ること、それがゆえの節度が大切であることが如実にあらわれている。わたしが直感的に感じた、漫画家の「知識経験」「知識範囲」というものの正体のヒントもある。

そもそもしりあがり寿は、わたしたちを真底震撼させる『弥次喜多 in DEEP』をはじめ、数々の作品において驚愕の知識経験を披露しているが、その構成要素のひとつに、ビール会社のマーケティング部門で培われた生活・生活者へのインサイトがあることは間違いないだろう。つまり、少なくとも「子ども」よりはものを知っているということだ。

もちろん、無垢な子どもの発想を無意識に表現できることこそが、ギャグ漫画の要諦であるという考え方もある。しかし、『ユリイカ』に掲載されているエッセイのなかのひとつで、その子どものセンスを高く評されている、おおひなたごうという漫画家を、いくら表象文化的な知見で解説されても、「まったく面白くないよなあ」と感じてしまうのは、わたしだけだろうか。

思えば、不条理ギャグ的な位置づけで、表面的には高い評価を受けていた作家は多いが(朝倉世界一、榎本俊二オなど)、わたしには、ひとつも面白いとは思えない。悪いが「不条理」でもなんでもなく、小学校の休み時間のドタバタしかみえない。

そして、その子どもの発想の最右翼が、鴨川つばめ(※4)だろう。かれこれいまから30年ほど前、まわりの友だちのほとんどが、毎週、チャンピオン誌上での『マカロニほうれん荘』の展開を心まちにしていたときでも、わたしはいまひとつ釈然としなかった。「ぜんぜん、おもろないねんけどなあ、おれは」ということだ。同時期に連載されていた『がきデカ』と一見同じようなドタバタにみえるのだが、わたしのなかでは大きく異なっていた。同じようなことをしりあがり寿も感じていたらしい。

春日 よくギャグマンガが語られるときに、鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』以前以後ということが言われますけど、しりあがりさんはあれを面白いと思いますか。
しりあがり 実を言うと、そんなでもないと思ったんです。
春日 僕もそうでした。
しりあがり 『がきデカ』(山上たつひこ)は好きだったんですけど、鴨川つばめはもう一つこなかった。僕なりに思ったのは、鴨川つばめの世界の幼児性にいまいちついていけなかったんです。僕が小学2年のときに『ウルトラQ』が始まって、そこでアニメは子どものもので大人は実写だと決めちゃったんです(笑)。そうすると、どこかしらで男は成長して大人になるべきだというイデオロギーが刷り込まれて、中学生にもなると小説なんかでも純文学をわからないなりに読んだりしたわけです。


わたしの違和感をうまくいいあててくれている。そして同時に、知識を拡げていくということに気負いとなんら抵抗のない彼のビヘイビアもあれわれている。

さて。

もちろん、わたしはいま世の中に排出されている数多くの漫画家の実際のインテリジェンスのレベルを把握できるものではない。しかし、地頭の賢さがあふれていると感じられる漫画は確かに存在し、そういった漫画はやはり面白い。新しい知の扉を開いてくれるといえるかもしれない。
わたしが集英社系の漫画(※5)をほとんど読まないことや、最近の「ヤングマガジン」「スピリッツ」のほとんどの連載が稚拙にしかみえないことはここに起因するのだろうか。


(※1)換骨奪胎:古人の作った詩文について、あるいはその発想法を借用し、あるいはその表現をうまく踏襲して、自分独特の新しい詩文を作る技法(こと)。〔俗に、焼直しの意に誤用される〕(新明解国語辞典5版) ということで、決して骨抜きとかそういった意味ではないわけです。
(※2)ちなみに2月20日号の『ビッグコミックオリジナル』では、掲載号にもかかわらず『PLUTO』は残念ながら休載。もう、ずいぶん読んでいないような気がするなあ。
(※3)もちろんここで書かれているわたしの文章と比べれば、みんな「玉」なわけだが、ギャグ漫画を解説するという行為の無意味性を超えるのはひょっとしたら難しいかもしれない。以下は、掲載の評のうち「玉」かな?と思われるもの(あくまで私見)。「●世の中はどんどんいいかげんになっていく。それでも廻る。-いしいひさいち論」「●かわうそ化するポストモダン-吉田戦車から見た日本社会」「●モグラとサルの闘争-古谷実と反ブルジョア精神」「●『自虐の詩』を奇跡と捨て置くのではなく-小池田マヤ論」。ほかにもあるかもしれないがいまは未読。ただひとつ言えるのは、良い作品は良い評を生むということか。
(※4)鴨川つばめは『消えたマンガ家 ダウナー系の巻』(大泉実成、新潮OH!文庫)のラスト・ロング・インタビューのおいて、『マカロニ…』当時のタフさと精神への支障、これに起因する諦念などを連綿と語っている。そこにあるのは、実は繊細なインテリジェンスである。しかしいっぽうで、しりあがりの対談と異なり話が自分以外の知へと気軽に拡がっていないところはやはり気になる。まあ、このことが鴨川がダウナー系にカテゴライズされる理由かもしれないが。
(※5)じつは、週刊少年ジャンプは、うまれてこのかた一度も買ったことがない。集英社系で唯一家にある単行本は『SLUM DUNK』で、これは言わずもがなですね。そのため『SWITCH 2005年2月号』の「スラムダンク、あれから10日後--」は、購入をかなり迷っています。



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