考えるための道具箱

Thinking tool box

村上春樹とスプリングスティーン。

2005-11-26 22:16:20 | ◎読
村上春樹がスプリングスティーンについて、これほど明るくかつ執心だったとは驚きだ。アメリカという国に対してつねに一定の距離感を保っているだけあって、ブルースの存在程度は気に留めているだろうとは思っていたが、『意味がなければスイングはない』のスプリングスティーン評(というかエッセイ)を読む限りでは、どうやら過去もそして今もかなり正確にブルースを追跡し続けているみたいだ。

『BORN IN THE U.S.A』のインパクトについて、またロックンロールの歴史における『BORN TO RUN』についての評価については、とくにブルースのファンでなくてもアメリカン・ロックを聴き続けている人であればある程度は話せる。ただし一方で、そういう人ですら、ブルースは『BORN IN THE U.S.A』で終わった歌い手と思っている人も多く、その後のブルースの具体的な創作活動についてはほとんど気をとめていないのが現実的なところだろう。

しかし、村上春樹は、たんにロック好きな人、アメリカ好きな人がもつ以上の関心を、ブルースにもっていることを、このエッセイのいくつかの具体的な例示が示している(もちろん、これまでぼくが村上春樹のより個人的な趣味にあまり関心を寄せていなかっただけで、村上春樹業界では有名な話かもしれないが)。

たとえば、「HUNGRY HEART」がコンサートでは冒頭から必ず大合唱になるその鳥肌感。しかし歌詞はみんなで明るく大合唱するようなしろものではなくタフでヘヴィな物語であること。『BORN IN THE U.S.A』のインパクトだけでなくその背景と弊害。けっして悪くないとはしつつも『BORN IN THE U.S.A』以降の「音楽的試行錯誤」を如実にあらわす2枚のアルバム『HUMAN TOUCH』、『LUCKY TWON』の存在。真の「BORN IN THE U.S.A」は『TRACKS』に収められているバージョンであること。マックス・ワインバーグのドラミングとロイ・ビタンのリフ。そしてなにより、より深化したブルースを理解するために『The Rising』こそをぜひ聴いてほしいとする立場。
例によって、彼流の巧みな修飾により語られるブルースへの賛辞は、すべて正しい。

この文章を読んだとき、ぼくはようやくブルースについて語り合うことのできる友人をみつけたような気分になった。実際に語り合うことはできないわけだから、夢から覚めないといけないのだが、いま、自分の身近でブルース・スプリングスティーンについて話せる人はまったくといっていいほどいなくて、そればかりか、ほとんどの人がブルースを知らない、というかなり深刻な事態がおとずれているなかでは、かなり気分のいい幻想ではある。

当然なんだけれど、村上春樹は、このエッセイにおいて、同じワーキング・クラス・ヒーローとしてレイモンド・カーヴァーをブルースを並べながら話を進めている。もちろん彼は「ヒーロー」といった安易な言葉を使うことはなく、ふたりの物語にある共通性を、ワーキング・クラスの閉塞感がもたらした「bleakness=荒ぶれた心」という、これもまた巧みなコンセプトに求めている。

辞書的には「わびしい、気のめいるような、そっけない、〈見通しなどが〉暗い 」「吹きさらしの、荒涼とした、〈風・天候が〉寒々とした」という意味でしかない「bleakness」を心の問題にしてしまうのは、訳のうまさだけではなく、カーバーとブルースの物語性こそがなせるわざともいえる。

その物語性を、これまた村上春樹は「物語の開放性=wide-openess」と称しており、安易な結論づけを拒み、読み手に考え込ませ当惑に近いものを残してしまう、つまりに聴衆と読者に真剣に考えさせてしまうストーリー・テリングの強力さを高く評価している。それは、けっして、レトリックやシンボルが意味するところをあれこれ憶測するといったことではなく、もちろんテーマやモチーフを明らかにしていくような勘ぐりでもない、もっとシンプルで深みのある思考性のことだ。

村上春樹が名言しているわけではないが、おそらく「Into The fire」(※1)における消防士のそのときの志や家族への想い、「Paradise」(※2)におけるテロリストの苦悩や逡巡に、一度、あなたも同化して考えてみよ、それはあなたの心の中のどの部分をしめ、あなたの心をどう揺さぶるのか?安易な受け売りを意見とせず、もう一度自分で考えてみよ、という問いに違いない。

問いとして十分な力を発揮するためには、圧倒的に「具体的で」リアルな物語が必要であり、これが描けるのが、この二人の人間的なアーティストということだ。
「物語の開放性=wide-openess」については、村上自身も強く意識しているわけで、このフィルターを通して、彼の作品を見てみれば、安易に「わからない」とか「答えがない」といった評価はくだせないこともよくわかる。

話を戻すと、「bleakness=荒ぶれた心」といった課題をワーキング・クラスの固有の階層的問題にとどめることなく、より広範囲な普遍的な「世界的なパースペクティブ」のなかで捉え、「救済の物語」へ昇華させるための「芸術的な転換」を、ふたりは80年代以降、試行/思考してきたという読み方は、もうこれ以上ないというほど正しく、その答えが『The Rising』と「『大聖堂』にこめられたビジョン」にあるというのは、ほんとうに腑に落ちる解説だ。

ともあれ、もしあなたがブルース・スプリングスティーンのファンで、12月に発売される『明日なき暴走30周年記念盤』とか、ソロアコースティックツアーのDVD『ストーリーテラーズ』(なんというタイトル!)を心待ちにしているなら、この村上春樹の想いにふれておいて損はない。ぜひ。


なお『意味がなければスイングはない』でとりあげられているアーティスト楽曲は、ブライアン・ウィルソン(くるりにしても青山真治にしてもなぜなんだ)、スタン・ゲッツ、ウディ・ガスリー、「ピアノ・ソナタ第十七番ニ長調」D850など。2003年から2005年まで『ステレオ・サウンド』連載されていた音楽エッセイをまとめたものである。


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(※1,2)『The Rising』所収。

くるりの『NIKKI』。

2005-11-25 22:26:38 | ◎聴
残念ながら、くるりは、ぼくの蝕から少しズレてしまったようだ。いやそんなことはない、と思って、『NIKKI』を昼夜問わず、移動時間も含めて聞き込んでいるんだけれど、どうもピンとこない。昨晩もベッドで寝音として聞いていたが、少しいらいらしてきたので、思わずホイールで『TEAM ROCK』に合わせ変えてしまった。

今年にはいって怒涛のようにリリースされたシングルは、すべて抑えてつつも、少しづつ違和を感じていた。それらは、ある視点に立てばたいへんくるりらしくはあるとしても、楽曲のアイデアという点でのくるりらしくなさについて、多少なりとも物足りなさがあったということになる。
いっぽうで、2005年のベストアルバム賞をあげてもいいんじゃないかと思える『ばらいろポップ』といった企画もこなしていて、媒介としてのくるりの力の偉大さも感じていた。

もちろん『NIKKI』のそれぞれの曲についても、オリジナリティは高く、おそらくずっと昔からくるりを聴きこんでいる人にとっては、たいへん貴重なものに違いない。岸田自身も、ROCKIN' ON JAPANを、キーワード読みする限りでは、これまでのものから一皮向けたことに絶大なる自信を獲得したようだし、これこそがPOP、R'n Rという宣言も正しいと思う。これまでの作品は楽器のテクニックにこだわった部分が多かったが、今回は純粋に歌いたかった、という自らの解説どおりの作品群にもなっていて、そのシンプルなつくりも好ましい。

したがって、戯言はあくまでもぼくの蝕閾の狭さだけの問題だ(蝕閾なんて言葉はないと思うけれど)。

そこでポイントになってくるのが『アンテナ』だ。『アンテナ』こそをくるり、という人は少ないと思うが、じつはぼくはそのマイノリティのひとりであり、もし『アンテナ』をベンチマークとするなら、『NIKKI』に対するぼくの苦悶はわかってもらえるに違いない。クリストファーがバンドを去ることに懸念をしていたが、まさにそのとおりの事態になった。つまり、クリストファーのドラムそのものがくるりにとって異質であり、そこで演じられていた重みはあくまで期間限定的なくるりだったのだろうか。

しかし、『アンテナ』のそれぞれの曲がもつマイナーな影こそ、もう少し大げさに言うなら『アンテナ』を頂点とするそれまでの作品のマイナーな影こそ、ほんとうの意味で他にはないオリジナリティをもつPops & Rock'n Rollではないか、考え方にもうなずいてもらえるかもしれない。「Long Tall Sally」が、「Race」のような展開にならなかったことを、残念に感じるべきなのか、新しいと評価すべきなのか。それとも、暗さを明るさというオブラートで包んだ巧さと評価すべきなのか。

そしてアイデア。そこにある「お祭りわっしょい」は、たんに変な曲であるという以外のなにものでもなく、「水中モーター」や「GO BACK TO CHINA」には遠くおよばない。現在おこなわれているツアーでは、オープニングナンバーとしてセットされていて、それはそれで盛り上がるんだろうが、どうも知恵が足りないような気がする。

これまでも実験的なことを繰り返してきた彼らだから、そのバリエーションのひとつとしてとらえることもできるわけで、その実験のひとつとしては、つまりポップスのアルバムとしては、シンプルだし、気持ちのいいギターアルバムだし最良であることは言うまでもなく、それならもう少し、フィル・スペクターぽくあってもいいかなあ、と思った次第である。

ボロボロにしたいPB。

2005-11-17 23:28:10 | ◎読
ペーパーバックってのは、そもそも店頭に並んでいる時点でボロボロになっているわけだが、それゆえに、買った後でも、気軽に乱暴に扱うことへの抵抗がなく、気がついたらもっとボロボロになってしまって、それがまた良い味になっていたりする。丸めてコートのポケットにいれて持ち歩き、たとえばファーストキッチンのピザ待ちなどのわずかな時間でもパッと取り出して、数ページないしは数行に目を通し、今度は無造作に鞄に押し込む。鞄のなかで折れようが、汚れようがぜんぜん平気だし、むしろ汚すことにかけては、単行本を読むときよりはずいぶん余計に、折ったり、貼ったり、線引いたりすることも多い。気がつけば、染みも想いも含めて、自分仕様にカスタマイズされた物体になっている。
こういった「愛着」は、もちろん文庫や新書でも可能だが、お気づきのように彼ら彼女たちは、服着て帯つけて、と装飾が華美にすぎるし、いささか重いし硬い。やっぱ“パルプ”っぽくなきゃだめだし、カバーなんて最初からないほうがよい…。

といったことは、あくまで理想で、実態としては、そこまで愛着のもてるペーパーバックがあるかということになると、基本的には日本にはそもそもそんなカテゴリーがなかったし、ごく最近、光文社が始めだしたものについても、試みとしては面白いしコンテンツについてもうまくやっているようだがインサイドウォッチ(ダークサイドウォッチ?)にすぎるきらいがあり「愛着」には程遠い。

毎度、前置きが長くて、たぶん本論はしょぼくて、申し訳ないけれど、ようは「愛着」のもてるペーパーバック、つまり、よれよれになるまで何度も読み返したくなるようなペーパーバックを見つけたというわけです。

"WHho's the owner of the corporation?"

ご安心ください。日本の本です。洋泉社ペーパーバックス『会社は株主のものではない』。少しタイミングを逸したかもしれないけれど、忘れないように書いておくべき良い本で、私の場合は、先に記した理想的な読み方をした結果、けっこう味わい深くカスタマイズされてきている。

一部の人たちの間ではモノのように扱われてしまっている、会社という、じつはモノであるわけなんてないこの共同幻想の未来について、「会社」とか「組織」を語らせたら必ず付箋を貼りたくなるような箴言を残す人たち8人が、集大成的にダイジェスト的に「会社」への思いを説いている談話集だ。

●岩井克人●奥村宏●小林慶一郎●紺野登●平川克美●成毛眞●木村雅雄●ビル・トッテン

それぞれの著作を読んでいる人にとっては、言ってみれば総まとめの話にはなっているのだが、こうやってまとまったものを読むと、ほんとうに元気がでてくる。総体としては「価値観と選択肢の多様性」を認めるための思考と技術をさまざまな立場と角度から提出しているわけだが、じつは食わず嫌いだった、木村のおっちゃんも、かなり素晴らしい社会的アイデアを提出していて、これは食わなかったことをお詫びしないといけないと反省しきりである。GEの「イマジネーション・アット・ワーク(現場での想像力)」への変革を教えてくれた紺野登にも、ふたたび感謝しなければならない。

とりわけ、というか、このペーパーバックを買った理由でもある、『反戦略的ビジネスのすすめ』の平川さんの話は、BLOG同様きっぷが良く、あいかわらず私にフォースを与えてくれるが、「ダウンサイジングの見本を日本が示していくべき」、「会社を100年もたせるというスパンで考えてみよ」といったこれもまた(私にとっての)慧眼が披露されており、一度はこの人もとで働いてみたいと、深く思ってしまう。やっぱ、商売の基本は、商品を媒介にした顧客との関係深化、ってのを忘れちゃいけないなあ。

というわけで、近頃では、ipodの次に元気がでたモノでした。いつもポケットに入れておくには少し大きすぎるんですけどね。依然として忙中なので、さえない本論あしからず。

BRUTUS、早稲田文学。

2005-11-16 23:37:22 | ◎読
例によってテーマ名と体裁だけに衒われて「BRUTUS」恒例の映画特集を買ってしまったわけだが、確かに着眼的は面白くて、たとえば浅野忠信がチンギスハンとなる映画『MONGOL』を撮っているなんて知らなかったし、ソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』なんてのは、たいへん興味深い情報ではある。が、いかんせん、「まあ載せておけばいいじゃん」程度の浅さはあいかわらずで、なんか「BRUTUS」って雑誌は、言葉により物事を伝えるって行為をナメてるのか、あきらめてるのか、そもそも基礎教育が必要なのか、ようわからんくなってきた。

それなら第2特集である「シングルモルトウィスキーが云々…」のほうが、合同広告記事っぽくあるぶん、必死さが感じられて、シングルモルト初級者には、たいへんに役に立つ。「ボウモア」とか「ラフロイグ」だけでなく、正月には思い切って「山崎25年」なんてのを買ってみようか、とか思わせるわけだ。いや、ここはうそで「山崎25年」は84,000円もするから、さすがに特赦でもない限りは大枚に過ぎるので、「余市15年」程度におさえて……といった情報がわかるだけも価値はある。

まあ、雑誌の役目は情報を仕入れるだけのものか?という議論はあるかもしれないが、しょせんここ数年の「BRURUS」なんかは、そのためだけにある雑誌ということがわかっているだけに、この情報の脆弱さは致命的な気もする。情報、じゃないか。やはりテキスト発想の脆弱さということだろう。一発ヘッドラインだけがうまいところは、まるで80年代の広告そっくりだ。











じゃあ、テキストを重視して、これでもかあれでもかとテキスト中心で雑誌を創ればよいものになるか?というとこれもまた難しい話で、それはフリーペーパーとして新しく生まれ変わった「早稲田文学」が、よい教科書になる。と、振ってはみたけれど、「早稲田文学」が新しくなったことが良いのか悪いのかよくわからない。たしかに、これだけの書き手と情報をそろえてフリーというのは、そこいらのフリーとはひと味違う。だからといって、これが200円なら買う?と聞かれれば、買わないと思う。いや待て、レジ横にホワイトバンドのように積み上げられていて、そのとき、右手に小銭じゃらじゃらしていたら買うか。と、いったように逡巡してしまうのは、書き手がネオ文壇の仲間っぽくて、なんだかAltでないからなのか?いや、以前だってそうだったんだから、そんな理由じゃない。おそらく全体が細切れすぎて割愛ムードだから、ということに違いない。全体的に軽い趣で迫ってきた割には内容は濃く、しかし濃いにもかかわらず、議論の途中で「はい、さよなら」されてしまうような寂寥感。これが、きっと正しい。いつものように、急がず、もっとゆっくり語ってほしい、ということだ。たとえば、『波状言論S改』のように他愛もなくだらだらと分厚く。
ということは、結局は、フリーペーパーというメディア/場とのミスマッチということか。

うーん。でも待て。こいつら喋り出すと際限ないから、これくらいでストップかけるのがいいのかもしれない。うーん。

ひとつだけ確実にいえることは、図案家が気負いすぎて、エディトリアル・デザインの基礎知識を逸脱してしまっているところだろう。これらテキストを、これらユーザービリティを置き去りにしたデザインで、「面白いデザインでしょ、ぜひ読んでくださいよ」というのは相当無理がある。斉藤美奈子のテキストですら、途中で読むのが、やになっちまったよ。大西巨人の小説なんて写真のうえに乗せてくださるな。先ほど、くさした、グラフィカル・マガジンの草分けであり雄である「BRUTUS」ですら、最低限のルールはわきまえているぜ。

おい、これが結論か。しょぼいな。

まあまあ、「早稲田文学」は、なんだかんだっても面白いので、どっかで見つけてください。なんでもカフェでも手に入るらしいですよ。

まあ、なんとかやってますよ。

2005-11-03 11:15:30 | ◎読
BLOG以外の文字は、ほんとうにたくさん書いていて、それは、業務的な方針の発表用の紙やら、開発商品の定格やら、それを喋くるときの台本やらで、そういったものを公開すれば、日数に換算して500日ぶんくらいのBLOGは埋まりそうなんだけれど、さずがに秘密主義のためにそれはできない相談というものだ。

一昨日、ほぼ徹夜に近い形で、業務遂行にストレスをかけたため、約1時間ほどの空き時間を生み出すことがきた。よって、こうして日記を埋めようとしているのであるが、リポビタンA(Dではないですよ)の力もむなしく、ほんの少しもーろーとしているたま、ぎっと「快」を、お約束する文章はかけあい。ほら、書けていないだろ。おまけにどうやら風邪っぽい。ずるずる。なので、最近、買ったり入手したりしているお楽しみを、列挙するだけの報告書をまとめておきます。埋め草とはこういうものをいうわけだ。

『ホテル・クロニクルズ』。青山真治は、そんなに文章が巧いわけでもなく、物語にしてみても、妙にお手本を意識しすぎていて、そんなことから、もっと映画に集中してほしいわけだけど、だいたい、まあいいかと思って買ってしまう。なんだかんだいっても、結局、彼の文章とか話法などが好きなのかもしれない。未読。●『東京飄然』。もちろん抱腹絶倒。タフな状況下においておおいなるストレス解消になること間違いない。世の中のすべての出来事を些事とみなし、斜に構えてみるクリティカルな精神は、つまりパンクの精神ということに相違ないが、25年ばかしそんなことばかり考えていると、自然とこういった言語感覚がうまれでるようになるのだろうか。凄いのひとことにつきる。こっちのほうがかなり「東京奇譚」だなあ(大阪の奇譚もはいってるけど)。『群像』の大江健三郎のとの対話も慎ましやかでたいへん好ましかったし、町田康はいい男だわ。●『他者の声 実在の声』。なんだかとても示唆に富んだエッセイ、という評判だったので。実際に面白いお話が多く、哲学エッセイというのはきっとこういうのに与えられる称号なんだろうなあ。窓辺のテーブルで、ココアなんかをのみながら、読みたい本である。そんなシーンがいつ訪れるかはわからないけれど。『マルクスだったら、こう考える』。もちろん気になるのは、新しい民主主義という地平における他者の存在である。根幹にあるのは、先の『他者の声 実在の声』の野矢教授が言うところの「他我問題・外界問題」であり、そういったところからネグリとハートの●『マルチチュード』に雪崩込むと、視座が大きく広がる。こういう本を迅速に、しかも気軽に、そして読みやすく届けてくれるNHK出版に感謝しなければならない。きっと集中すれば、2日間程度で読めると思われるのだけれど、それっていつかなあ。まあ断片的に読んで1~2週間でかたづけますが。『Jackson Browne Solo Acoustic, Vol. 1』。なんの前触れもなく、いきなりこんなのが出た。しかもソニーミュージックダイレクトから。昨年、私も日本公演を聴きにいった、ソロ・アコースティック・ツアーからのライブ盤。MCまでしっかり収め、対訳までつけたていねいなつくりだ。おそらく「Lives in the Blance」といったような曲は、そういった前提があったほうが、曲のよさが実感できる。選曲は、どちらかというと濃いファンの人しかわからないようなものになっているが、つまりは濃いファンにとっては最良のライブ盤になっているということになる。来年にはVol.2がでるようだし、聞くところによると、新作のレコーディングにも入っているらしい。そうすると、きっともまた来日することになる。とても楽しみな話だ。まあ、私に来年がくれば、の話だけれど。いずれにしても、ソニーミュージックはほんとうに、いい仕事をしてくれた。あとは、itunes MSとの協力だけだな。●『ポストモダン・バーセルミ』。これは簡単に言うと、懐の痛い本ではあるが、大型ネット通販書店さまより、金券をいただいたので、すかさず、1-Clickした次第である。いうまでもなく、バーセルミのことなんて誰もわからない。本書も冒頭で「読解不可能」と明示しており、その潔さに感銘しバーチャルな大枚をはたいた。バーセルミの『雪白姫』や『死父』、その他の短編を、モダン、ポストモダン思想とからめながら論を展開している(ようだ)。「他者」のラカンにはじまり、「帝国」のネグリ&ハードにおわる、ところは、神の声が私に「もっと他者を知れ」といっているような気がしてならない。いまさら、自宅にじつはたくさんあるバーセルミの作品を読み返す気力も時間もないが、この論文により、なにか課題が浮上すれば、正月にでも読み返してみる。おい、もう正月かよ。●『天の声・枯草熱』レムの全集のこの長編の再発売は、ちょっと待望だったかもしれない。こういうのを、新古書で流してくれる中村書店に感謝しないとね。あ、あと●『20世紀少年 20』ね。そろそろ、「ともだち」を確証するために、全巻読み直さなきゃ。

と、いろいろ書いているうちに、気分も体調もよくなってきたよ。なにか薬物が効いてきたか。まあ、今日11月3日文化の日、この先に控えている、「こんなことが聞きたいんですけれど?報告書」や、「こうやったほうがうまくいくんじゃない?行動式次第」や「こんなふうに市場は動いてますよ!仮説文書」の紙(ようは仕事の紙!)を埋めなければならないと思うとげんなりするけれど。