考えるための道具箱

Thinking tool box

◎『TITLE』と『Marco Polo』。

2008-06-22 22:18:56 | ◎読
『TITLE』の終盤はもうぺらぺらだったけれど、廃刊になったということは、直接的であれ間接的であれ、良識あるジャッジメントがまだ少しは効いていたということかもしれない。
もちろん、本質的な理由はメディア"広告"ビジネスとしての失敗ということになるんだろうけれど、個人的には「読むところがない」という雑誌としての別の側面での本質的なところに問題があったんじゃないかなあ、と思う。

それは記事が面白くないとか、論点がちがうんじゃないか、といったようなレベルの高い話ではなく、そもそも幾何的に「読む<文字>がない」ということに近い。必然的に恬淡とした水っぽい内容になり、どれだけキャッチーな特集テーマに惹かれたとしても、ページを繰ったその瞬間に嘆息がでるような文字情報のチープさ=浅さだった。最後のほうの「雑誌特集」なんかをみればそのことはきっとわかってもらえる。
きっと「文字を読む」「本を読む」ということにあまり関心をもったことがないデザイナーにリードを授けてしまったというボタンの掛け違いを最後の最後まで何度やっても修正できなった。こんなふうに想像されてもしかたないようなものだった。

じつは、この『TITLE』の系譜は、文藝春秋にとってはちょっとした鬼門で、その不遇は1991年に創刊された『Marco Polo』に始まる。以降、『Marco』も『TITLE』も何度もリニューアルを繰り返すが、やっかいなトラブルもあったりして、結局、新世代の『文藝春秋』になることはできなかった。

しかし、その中にあって、徹底したサブカルチャー路線とコラムに注力した『Marco』の第一期リニューアル、そして発行が軌道に乗り出した初期の『TITLE』、この二つにみられた編集者の異様なまでの熱狂と横溢する文字情報には目を見張るものがあり、雑誌というメディアの原点とひとつの到達点をみた思いがした。ほんとうに毎月の発売が愉しみだったし、スタッフも愉しんでいるんだろうなという状況がひしひしと伝わってきた。ここまで密度の高い雑誌は現在ではあまり思い浮かばない。『サイゾー』が近いような気がするが、これはあまりにもゴシップにすぎる。

最初の『Marco』は、『文藝春秋』の記事をやや硬化させ、デザインを軟化させたようなもの。まさに文藝春秋らしいつくりでオピニオン雑誌としての社命というかオブセッションにとらわれすぎた。ただ、この頃は『月刊ASAHI』をはじめ『DAYS JAPAN』、『VIEWS』、『BART』など、表紙はゴルバチョフかダイアナ妃かといったような、国際ジャーナリズム、社会・政治をあつかう雑誌がたくさん創刊された時期なので、競合対策としてはいたしかたなかったのだろう。いずれも、ターゲットが曖昧である(というか不在)にしても、他誌は妙味と工夫があるなかで、『Marco』はあまりにも無策すぎた。


結局、テコ入れがはかられ、先にふれたサブカルチャー路線へのリニューアルとなる。刷新は、ウィキによるとまったく振るわなかったということになっているようだが、じつはこの時期の特集はけっこうエッジがきいていて、その内容も、そこそこ満足のゆく程度まではつっこまれていた。なにより、大量の文字を巧く楽しくデザインするエディトリアルの手法は、始めて雑誌というものを手にしたときの(たとえば、『TVマガジン』とか『科学』と『学習』、大伴昌司の図解)の期待感をよみがえらせてくれた。

特集テーマは、写真にもあるように「マンガ」「TV(進め電波少年)」「禁じられた映画」「売春」「読書狂」「満州」、さらには「韓国」「女子高生」……と、メジャー出版社としては禁忌とも思えるようなバリエーション。コンテンツは、以前にも少し紹介したけれど、だいたいこんな感じ。

■1993年7月号
□特集:連合赤軍なんて、知らないよ。
▶東大壊滅!入試を中止させた血まみれの安田砦▶永田洋子[獄中イラスト]は少女チック▶過激派'70衝撃のスクープ写真史▶マンガ[我が斗争]/いしかわじゅん▶全共闘は北京原人か/呉智英・大月隆寛・福田和也座談▶70年代闘争警備責任者の極秘メモ/佐々淳行▶[内ゲバ][爆弾][ロケット弾]の現場報告▶▲ロマンポルノ伝説の妖精・片桐夕子インタビュー▶倉橋由美子インタビュー▶甦る寺山修司伝説/高橋源一郎ら
□島田裕巳この罪深き宗教学者よ
□新宿鮫の泳ぐ街/大沢在昌インタビュー
□コラム・連載
▶福田和也のエッセイ▶「殺戮の動物」ポルポト派を精神分析する/野田正彰▶マンガ四角いジャングル(高取英のマンガ評)▶竹野屋書店(竹野雅人の書評)▶銀幕共和国(井上一馬の映画評)▶小山薫堂のエッセイ その他▶マルコウエスト(大阪向けBOOK IN BOOK毎号連載):大阪人数珠つなぎ対談(小米朝→谷川浩司)、黒田清エッセイ他猥雑大阪コラム

とりわけ、細かく寸断されしかし入念な考慮がなされた連載コラム群は、それだけでも豊かな時間潰しになった。編集長が同じだけあって、こちらも女性誌としての冒険がそうとう面白かった『CREA』のスタンスが存分に踏襲されていたということだ。

このあと、2度目のリニューアルとして花田紀凱が手を入れることになるが、言うまでもなく、そこに登場したのは事大な週刊文春であり、コラムの面白さは残るとしても、スクープ重視の特集はまあ『週刊文春』ないしは『文藝春秋』にまかせればよいわけで、個人的にはとりたてて毎月買う必要のない雑誌となっていく。そろそろ買うのやめようかと思っていたときに、トンデモネタを握らされた過度なスクープ主義が致命となる。


そして『Title』の創刊。『Marco』の事件から、しばらく時間をおいたミレニアム。満を持しての登場となる。一見、なんの関わりもないようにみえる二誌だけれども、『文藝春秋』と相対化されたポジションを始め、目論見は近いところにあったと言っていいかもしれない。

大々的なプロモーションがなされていたので創刊号は読んだけれど、かなり総花的でやりたいことがいまいち読めなかったし、そもそも面白くなかった。だから、それを限りに読むのをやめていたのだけれど、しばらくして見かけたときに、つまり運用が軌道にのった頃合の『Title』は、ずいぶんまとまりのあるものとなっていた。そして、その編集の技術と熱狂は、まぎれもなく第二期の『Marco』のものだった。毒書計画の井川遥の起用法なんて、なかなかのもんだった。

しかし、それに気付いたときは、もはや最後のリニューアルの直前で、もうそのリニューアルの企図だけで、ああ『Marco』のときと一緒じゃんと思って腹たって、そのあとの新生『Title』は、毎回いちおうチェックはするものの、仕事で使う以外はいっさい買わなかった。もっとも仕事で買っても、使えねーことが多かったわけだが。

さて、このあと、文藝春秋は、ふたたび『ポスト文藝春秋』に挑むのだろうか。その前に、まずWEB戦略をなんとかしたほうがいいと思う次第。いずれにしても、ずべて表層的な話。

◎うへえ。

2008-06-21 22:46:56 | ◎読
えらいことになってるなあ。

■『決壊 上』平野啓一郎 1,890
■『決壊 下』平野啓一郎 1,890

は、ともかくとして、

■『ディスコ探偵水曜日 上』舞城王太郎 2,310
■『ディスコ探偵水曜日 下』舞城王太郎  1,785
■『われらが歌う時 上』リチャード・パワーズ 3,360
■『われらが歌う時 下』リチャード・パワーズ 3,465
悪漢と密偵より)

全部で14,700円って。アイ・フォーンとか買えるんじゃない。新潮社のなかで何かよからぬものが炸裂した感じだな。パワーズの小説は“The Time of Our Singing”という以外は情報がないけれど、2003年刊行だから『パワーズブック』にも載っていないんだろうなあ。

こんなことなら買うんじゃなかった。文字あふれすぎ。

■『群像 3月号』:『りすん』諏訪哲史…
■『すばる 5月号』:『寒九の滴』青山真治…
■『新潮 7月号』:『ギンイロノウタ』村田沙耶香…
■『文學界 7月号』:『リアリズム小説への挑戦状』…

全部で400円って。マックのコーヒー+パイ=150円以上の生活防衛。きっと献本なんかが放出されたんだろうけど、もしそうなら、このリーチの低さを憂うべきだよ。

いずれにしても、まず、今週末は『幼年期の終わり』を必ず読み終えること。コツコツと消化していくしかねえや。いくら二つの頭を回転させるったて、さすがに小説読みながら企画書は書けないしねえ。

<もっとも明らかな変化は、二十世紀を象徴していた、何かに追い立てられるような世の中のスピードがだいぶゆるやかになったこと>(光文社古典新訳文庫、P139)

オーヴァーロード、降りてきてくれないもんですかね。

◎思いつき、覚書き。

2008-06-19 22:53:50 | ◎読
▶ABCの本店に、『Inter Communication』のバックナンバーコーナー。0号など93年くらいのものもあった。過去のものと見比べると、もちろん情報の愕然とするほどのギャップはあるとしても、やはり昨年来のシーズンは、編集、そしてデザインという点でかなり脆弱。きっと編集者が悪いわけではなく、ようはNTT出版が脱力したんだ、という気がしないでもない。テキスト・コンテンツは高度になっているのかな。

▶相変わらず雑誌。少しは本も買う。
□『BRUTUS 緊急特集:井上雄彦』:ちょうど2週間ほど前から『バガボンド』の大人買いをスタートして、いま15巻。私が追加で語るようなことは何もない。
□『AERA 08.6.23』:どの記事も興味深い珍しい号、B'zと植田監督に関心。
□『デリダ』(ジェフ・コリンズ/ちくま学芸文庫)
□『<宗教化>する現代思想』(仲正昌樹/光文社新書)
□そして佐々木敦のBRAINZの批評家養成ギブス 批評集『アラザル』。
BRAINZに参加した人たちの評論集。玄人素人問わず、文字があふれているところには、あふれているものなんだなあ、ということをあらためて感じる。ときに、まったくわけのわからない文字の洪水に出会うときもあるが、それは文章が上手いとか下手とかいったことが原因ではなく、きっと書いている本人もよくわからない難題と対決しているからなのだろう。そういったわけのわからないものでもなんとか文字にしてみようという格闘はあながち悪いものではない。












▶いくつかの音源をリッピング。『The Best of Radiohead』、『誰がために鐘は鳴るver2』浜田省吾、『Golden Grapefruit』LOVE PSYCHEDELICO、『Toxicity』System Of A Down、『Zooropa』U2、『The Dream Of The Blue Turtles』Sting。しかし、いまは、ほぼ100%といっていいくらいColdplayの『Viva La Vida or Death And All His Friends』だけをヘビーにローテーション。陽気とか命脈のようなものが加わることで迎えたこの新しいフェイズを手放しで礼賛したい。そして、なにより感嘆すべきなのは、すべてに貫かれた「二重の思想」。Viva La Vidaと感じてもいいし、Death And All His Friendsと感じてもいい。Lovers In Japan とReign Of Loveはつながる。LOST!もあるしLOST?もある。それは光と影なのかもしれないし、二つで一つということかもしれないし、ディアローグ、ディアレクティーク、アンチテーゼということかもしれない。そんなに深い考えのないたんなる形式という話かもしれない。しかし、たとえそうであっても、オルタナティブは重要だ。すばらしい。

▶そう、覚醒しているあいだは、二重の思考、二重の回路をいついかなるときでも持ち続けるべきだ。Aの企画を考えながらBの企画をする。Cの仕事の資料をレファレンスしながら、Dの仕事のことを考える。Eを否定するFをつねに想起する。Gの違う側面Hを見つける。Iのことを考えながら、Jを読む。KとLの違いを受け入れる。二回生きる、なんて発想もある。

▶平野啓一郎と新潮の矢野さんのトークイベント。行ってみたいところだが、ちょうどそのころはいろいろとややこしいこととバッティングしそうな気がする。いずれにしても『決壊』は来週発売。ニューアカっぽいが、巧みなブックデザイン。

▶『Marco Polo』『TITLE』『よむ』『03 TOKYO calling』『i-D JAPAN』『DAYS JAPAN』『VIEWS』『BART』『Gulliver』『WIRED JAPAN』など家にある古い雑誌の写真を撮り溜める。時間のあるとき公開していく。ウィキをみると、どうも『Marco Polo』は評判が悪いようだけれど、リニューアル第2期ほど面白いのは、ほかにはないんじゃないか。どうだろう。

▶いずれの話も落ち着いたら追記を。

◎雑誌について考えはじめる。

2008-06-12 23:33:03 | ◎読
仲俣暁生が猛烈な勢いで、雑誌についての論考を公開している。あとわずか高みに登り俯瞰の範囲を広げる必要もあるし、いつものように強引な一点突破の部分も多いけれど、さすがに雑誌のことだけあって問題提起としては面白い。いっそのこと文芸なんかのことは忘れちゃって、この得手な方向に邁進すればよいのに、と思うが、それはさておき、ぼくも少し雑誌についての考えを書きとめておきたくなってきた。

というのも、ここ2週間ばかり本を買っていないのだけれど、気がつけばそのぶん雑誌を買っていて、仲俣とは違い、思慮浅くいまだにその面白さに沸き立つ自分に気付いたからだ。きっと、雑誌の判定に対するハードルが相当低いからなんだろうけれど、この点取り占いにも劣らないスコアの甘さは批評精神の欠如に起因するのか、少し確かめてみたくなった。まず、最近の購入履歴。

『STUDIO VOICE 2008年07月号 特集:本は消えない!』
深夜に、うろが来ている状態でローソンに入ったのがまずかった。ああ、文学フリマの話なんかものっているし、イカした海外の雑誌なんかも紹介されているとの幻覚により、ほとんど中身も確かめずにレジに直行。夢からさめたとたんに、これはもうおっさんの読む雑誌じゃないなあ、と痛感した次第。
まず、タイポグラフィ。著しくリーダビリティを欠いていて老いさらばえた目にはたいへん厳しい。なかにはいくらなんでもこりゃないだろうと思えるあきらかな印刷事故もある。そして、なによりのウィークポイントは一部のテキストに見られる品質管理の甘さだ。このことは、常々言われていることだと思うが、テキストの量が多い号ほど荒さが目立つところをみると、きっと編集の現場はたいへんなことになっているんだろうなあ、と思う。
しかし、これら含めて、いやこんな不遜な態度こそが『STUDIO VOICE』であるともいえ、こんなおっさんを何度もだまくらかす「雑誌としての」パワーはいちおう残存しているのではないかと思える。心構えとかその「雑」感はなかなかのものだし、想定されたセグメントには直球であり、そういった意味では雑誌の基本型であるともいえる。

『群像 7月号』
編集長には申し訳ないが今月は『新潮』をパスした。3年振りぐらいだろうか。さいわい『群像』がキャッチーだったので選んだわけだが、このところ文芸誌は全般的に驚きがなくなってきている。というか、読みたいものが各誌に分散されるクールに入ってきた。文芸誌を90年代から追っかけてみるとコンドラチェフの波のようなものが確実にあって、いまはそういったリセッションの時期かもしれない。新しい作家が生まれていないという考えの一方で過渡的な充電のための蛹時代という見方もできる。いずれにしても、M&Aをあらためてプレゼンテーションできるチャンスが再び訪れたというわけだ。
そんな7月号において、『群像』は、きわめて個人的な嗜好に寄るが訴求力はあった。内容はともかくとして、舞城王太郎はほんとうに久しぶりだし、岡田利規や大澤真幸など最近言及したISBNはやはり気になる(ただし、『群像』は対談の編集やライティングがどうもしっくりこない)。つまり、あるレベルでテキスト好きのセグメントにとっては、毎月・全誌はかなわないとしても、文芸誌はそこそこのバリューは発揮している。

▶『SANKEI EXPRESS 06/09』
もちろん新聞である。しかし、新聞休刊日にも発行されるこれは、じゃあ雑誌とどう違うのか?と問われると答えるのがむずかしい。いまこういった体裁をしたフリーペーパーは確実に増えている。そもそも、MSN産経ニュースやZAKZAKのテキストをふんだんにマルチユースしているあたりからして、記事に、量はもとより深みや複眼的な視点がなく、新聞というには何かが足りない。一方で、大判の写真を中心とした「自然エネルギー」の特集があったり、オバマの勝利と関連づけたロバート・F・ケネディの興味深いコラムもあったり、新聞とは異なる側面もある。そういった雑誌の視点でみると、競合は『AERA』ということになる。こんなこと言ったら『AERA』が激怒するな。しかし、月曜の朝の新幹線の車中では、身体がいまの『AERA』の主軸となっている記事にみられるような、押しの強いものは勘弁願いたい、と訴えるときもあるのですよ。

『CASA BRUTUS  No.100』
「日本の美術館・世界の美術館100」。100号記念の特別保存版だけあって網羅的で、記事のバリエーションも豊かである。これもすでに各方面で言われていることだが、いまやアダルトな『平凡』と化し、失速している本体『BRUTUS』に比べると格段に読みどころがある。アダルトな『平凡』もたとえば、2号ほど前、恒例の「居住空間学」なんかはまだまだ活きているし、次号「井上雄彦」特集のように期待をもたせるテーマアップはうまいんだけどなあ。

『CASA BRUTUS 特別編集』
「ニッポンのモダニズム建築100+α」。2004年版のリ・イッシュー。パラパラ眺めていると、発売当時は気付かなかった「古江台の展望台」や「千里中央センタービル」、「エキスポタワー」、「希望が丘の青年の塔(とうもろこしタワー)」の写真が目に留まる。記憶の建築。一枚の建築物の写真から一挙にあまたの追想があふれ出る。これは、モノとしてアーカイブしておく必要があるとの思いに駆られ落掌した。
あらためて読み出すと、いまさらながら建築物は見ていて飽きないものだ、ということがわかってきた。これはモダン建築に限った話なのかもしれないが、「それでも建っているという絶妙の美しいバランス」「工夫のデザイン」そして「バックグラウンドへのイマジネーション」が、誰もがもつ創造の心とか「なにかを垂直に立ち上げたい」という本能のようなものを引っ張りだしてくるのだろうか。一方で、モダン建築といわれるカテゴリーのデザインが、自分の中でも確実に記憶のなかのものとなりつつあるのにはいささかの驚きを禁じえない。
ともあれ、写真とテキストの豊潤なバランスで「2000円」には少し足りない1500円。ボリウム層が買うような雑誌ではないが、そういった層にもおすすめしたいコストパフォーマンスの高さだ。ただ、さすがにMOOKだけあって、雑誌というより書籍に近い。では、本と雑誌を画するものはなにか。

▶『ROCKS』
深夜2時まで店を開いているセレクト書店(という定義はどうやら正しくなさそうだが)「SHIBUYA PUBLISHING & BOOK SELLERS」には、それこそ深夜、一度だけ足を運んだことがある(そのときはたぶん4時まで開いていたはずだ)。そのセレクトはたとえば90年代ぐらいまでなら垂涎のものだったろうが、ここまで書店のバリエーションが拡がったいまとなっては、月並みのものなのかもしれない。しかし、店舗兼編集スタジオとしての知的創造空間/現場は充分に魅力的で、本が好きな人間なら一度はこんな仕事場で労働にいそしみたいと感じるところじゃないだろうか。
『ROCKS』は、そのSPBSが、編集・創刊したオリジナル雑誌。巻頭言の気骨に感じるものがあり、なかば祝儀として購入。

<「ROCKS」(=生き様の変わらない人たち、の意)は、
安易なプロモーション主義と決別した雑誌だ。
表現したい人だけが集い、新たな価値観がうまれていく場所である。
……(中略)
おそらく広告が、最も入りにくい雑誌の一つだろう。
でも、私は頑張って営業する。
一生懸命に営業する。
だって、この雑誌が好きだから。
でも、やっぱり無理かな……。
どなたか、広告を入れていただけませんか?>


中略の部分でも気概の強いメッセージと現在の雑誌のあり方についての問題提起が続く。もし、ぼくがアラブの王様だったら確実に広告をいれてあげるのだが。

しかし、「"流行り廃り"と決別した20人のROCKSたちが、思い思いに自らの「現在」を表現」というわりには、以下のメンツを見る限りは、決別とまではいっていないように思える。この精神をもってして号を重ねることで、洗練されていくことを期待したい。

[contents]
□創刊特集「気骨の活字」 □芥川賞作家・川上未映子による書きおろし短編小説。 □詩人・谷川俊太郎 × 田中健太郎(イラストレーター)の異色コラボレート。 □映画監督、作家・森達也の語りおろし+取材現場の撮りおろし写真。

[ROCKSによる豪華連載「ROCKS×17」]
鈴木寛(民主党議員)/新井敏記(スイッチパブリッシング社長) /松原隆一郎(東京大学教授)/浅野忠信(俳優 )/ 岡田武史(サッカー日本代表監督)/渡辺一志(映画監督)×泉谷しげる(俳優・ミュージシャン)/古田敦也 (東京ヤクルト前監督)/ 中井美穂(アナウンサー)/野口美佳(ピーチ・ジョン社長)/若木信吾(写真家)/小林紀晴(写真家・小説家)/ 岡沢高宏(cycle代表)/石渡進介(弁護士)/来栖けい(美食の王様)/幅允孝(ブックディレクター)/ドクター・セブン/野口卓也(小説家)/TNP

▶その他
◎『Inter Communication』の最終号は、買っていないし、たぶん買うことはないだろうと思う。期ごとに編集コンセプトと体裁を変えてきたインコミは、とりわけ直近のリニューアル以降、「編集」という意志が働いていないように思えてほとんど読むことはなくなっていた。最終号ぐらいは、と思ったが、それでも読んでおきたいと思える記事がなく手が伸びない。これも特定のセグメントには響くのだろうが、少しアブストラクトになりすぎた。
◎『港のひと』という美しい装丁の出版社PR誌をみつけた。その名のとおり「港の人」という鎌倉にある出版社の出版案内で、すでに5号となっている。自社で創った北村太郎という詩人の『光が射してくる 未刊行詩とエッセイ 1946-1992』の各メディアに掲載された書評を集め再編集するなど(たとえば、週刊朝日に掲載された荒川洋治のもの、毎日新聞に掲載された堀江敏幸のものなど)、ローコスト精神旺盛ではあるが、未知の読者にとってはうれしい、とてもていねいな仕事だ。わずかなページの小冊子ではあるが、ぼくに対しての役目は、立派な書評誌となった。
◎ブックガイドという観点では、東大出版会の『UP 6月号』では、恒例の豊崎由美の「上半期ガイブンおすすめ市」も掲載されていて、短いながらも愉しめる。やはり『ラナーク』と『終わりの街の終わり』なんかは抑えておきたいと読書意欲を喚起された。

こうしてみると、そのビジネスモデルはともかくとして、雑誌というメディアはかくも豊かである。しかし、最後の『港のひと』『UP』に見られるように、もはや金を出して買うものではない、という脅威もある。そして、なによりの本質問題は、今の世界では、雑誌を読むことに費やすような時間は圧倒的に減ってしまったということかもしれない。雑誌について大きな関心を寄せているぼくのようなものでも、買ったは良いが10分ほど斜め読みしてあとは放置せざるをえない雑誌が山積みになっているといった状況だ。
こういった現象に対して、ぼくはなにか素晴らしいアイデアを提言できるほどの知見をもっていない。しかし、雑誌について、話したいことは山ほどある。手始めとして雑誌の記憶を手繰ってみようと思う。

◎小話。

2008-06-04 23:40:36 | ◎読
【1】

「ポピュリスムは今日本のあらゆるセクターで進行している。」


『CHANGE』のストーリーについてふれての内田樹の寸言。ちょっとした警句とアイロニー。あらゆるセクター、と語られているように、ポピュリスムを政治手法に限定せず、大衆迎合主義ととらえるなら、このポピュリスムの要素のうち大きな割合をしめているのが「芸能」だろう。もちろん、ぼく自身は芸能を忌避するものではなく、ウガンダの逝去とか来年の大河のキャスティングなんかを気にする程度にはかぶれているが、それでも、支配者たちの度を超えた芸能への偏りはどうかと思う。

本来的にはオルタナティブであってほしい芸能が、特定の企業とかメディアと運命を共にするほど結託する。支配者の側は、タニマチ気分かもしれないが、芸能の発展のために金は出すけど口はださんよ、といった潔さはいっさいなく、the massesを動かせる才能を限界まで手の者にしようとする。give & take、Win-Winのプロモーションであり、需要と供給の蜜月といってしまえばそれまでだけれど、お互いに自分たちのなかにある知識資産をほとんど信じていないともいえる。そして、だいたいこんなもんで喜んで動くじゃないの?と、the massesを下目に見積もっている。

しかし、どうなんだろう。朝倉啓太が「CHANGE!」と説く自動車のCFをみて、「きゃあ」と乱舞したり、「おーうまい!」「やるじゃん電報堂」と得心するthe massesは、まだ多いのだろうか。「まさにMAGIC!」と、微笑む村田大樹をみて、こっちも思わず微笑んじゃうのだろうか。ちょっとやりすぎ。むしろ、鼻につく。そろそろ、そんな感じじゃないか?

その出自のとおり事業理念はやはり芸能だったのかと思わせる平凡出版の特集雑誌をみて、その思いを強くした次第。ちょっとしたエスプリを気取っているつもりかもしれないけれど、これなら開き直って、その道にまい進している女性週刊誌のほうがよほど潔い。そもそも、PR雑誌はTAKE FREEの時代になっているというのに。


【2】

ブッツアーティの『神を見た犬』(光文社古典新訳文庫)のなかの短篇のひとつ。
純粋で一途な作家が、合理的でイヤみなリアリストの知人スキアッシ教授と街で出会い、詩作や文筆といった芸術活動の無意味性・無価値性をひどく指弾される。

「きょうび芸術なんてもんは、消費の一形態にすぎない。ビーフステーキや香水や藁包みボトル入りのワインとまったく同じなのだ。……きみの書くものはすばらしい。知的で非凡な小説ばかりだ。それでも、歌の下手なアイドル歌手のはしくれにだってかなやしない。」

糞味噌の当てつけが間断なく続く。いくらなんでも言いすぎだ。しかし、アーティストは、たいそう疲れていたため、なんの反論もできずに、スキアッシの言われるがままに、その指摘に納得していき内省し自分のそれまでの活動を疑い始める。まったく気の毒な話だ。

そこに一陣の風、ではない何か。そして、回生。アーティストの思考は、あたかもそれが最後の力を振り絞った一撃であるかのように沼の底から這い上がってくる。次いで、堰を切る。

「……私たちが書き続ける小説や、画家が描く絵、音楽家が作る曲といった、きみの言う理解しがたく無益な、狂気の産物こそが、人類の到達点をしるすものであることに変わりなく、まぎれもない旗印なんだ。……そう、きみが"愚かな行為"と呼ぶことこそが、われわれ人間と獣を区別する、もっともきわだった特質なんだ。このうえなく無益だろうとかまわない。いや、むしろ無益だからこそ重要なんだよ。……詩を書こうという気になるだけでもいい。うまく書けなくても、かまわない……。」

続く反駁、誇りの恢復。しかし、スキアッシ教授は作家の最後の言葉をさえぎり、高らかに笑いながら言う。

「ああ、やっとわかったのか、この愚か者め!」

スキアッシの放言は、道に迷い落ち込んでいた作家を奮いたたせるための激だったというわけだ。まさにMAGIC!

掌編のタイトルは「マジシャン」。文庫本にして、10ページ足らず。ベタな物語だけれど、コンサルティングとして正論ではあるし、なにより創作者としての志を垣間見ることができる。

しかし、この話の趣向はもうひとつある。

「彼とはずっと以前からの顔見知りで、思ってもみない場所でときどき出会う。しかも毎回場所が違うのだ。彼は、私と高校時代の同級だったと言いはるのだが、正直なところぜんぜん記憶にない。」

スキアッシは遠ざかり亡霊のように消えていく。


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予告なくネタばれ御免。ただし『神を見た犬』は、合計21の掌篇で編まれていて、言うまでもなく「マジシャン」のほかにも深みのある話がたくさんつまっている。有名な「コロンブレ」や「七階」なんかはやはり忘れられないストーリーになる。