考えるための道具箱

Thinking tool box

11月29日(火)のつぶやき

2016-11-30 00:53:52 | ◎目次

11月27日(日)のつぶやき

2016-11-28 00:53:46 | ◎目次

11月26日(土)のつぶやき

2016-11-27 00:53:18 | ◎目次

11月25日(金)のつぶやき

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11月23日(水)のつぶやき

2016-11-24 00:54:35 | ◎目次

11月20日(日)のつぶやき

2016-11-21 00:53:49 | ◎目次

◎ 今村夏子の『あひる』その他の短篇。

2016-11-19 09:35:42 | ◎読
溢れ出る狂気と家族の絶縁。もっというと、なによりファナティックな両親からの黙殺。そんなことを巧みにカモフラージュしながら書く作家。それが今村夏子だと思っていた。軽くコンタクトする傍観者、ときには今村夏子自身が介入することで希望の方向を提示するが、本質的な救いは書かれない。『あひる』(書肆侃侃房)と、併録された「おばあちゃんの家」「森の兄妹」でもそのフォーマットは踏襲されている……。

と、思っていたが、今回は位相が大きく変わった。確かに、いずれの物語も終盤までの進行は酷い。親たちのデタッチメントは、異常さを通り越して恐怖ですらある。あらかじめ壊れている家族の形。これをを寸前のところで止めるのは、そもそものデモリションマンたちである。彼岸から帰ってきた彼らーー『あひる』では弟、他2篇では、なんと母親!ーーが、子どもたちの心を此岸に引き戻す。とりわけ「森の兄妹」で示されるのは、親の愛のなかでも至上のものだ。理解るものは、その瞬間にきっと泣きそうになる。これはどういうことだろう。

『こちらあみ子』では、「親が子に絶対にやってはいけない暴力」が示された。その対極にある、至上の愛。愛の極を知るものは暴力の極を知る、暴力は愛の裏返し、という単純な公式なのだろうか。もし、そうだとしたら、これらの愛もやはりカモフラージュということになる。これを繰り返されると、人は狂う。救い主とかいって、あやうく騙されるところだった(『あひる』の弟は、そうは見えないが、なんとも言えない)。

人々を狂わせているのはなにか?奇妙なトポスのせいなのか?「スーパーおおはし」ってなんだ?インキョってなんだ?資格の勉強?甥っ子の写真を千回見る?孔雀?雉?車で魚を売りに来る?父親と言われる男は車であひるや弟やおばあちゃんをいったいどこに運んでいるのか?周囲から隔絶され少なすぎる情報と知識。いっそう内に向かうことで、人々は知的な鋭敏さを欠いていく。すべてが少しずつズレたこの場所のサーガをこれ以上か書かれるとこっちまで気がおかしくなる。しかし、今村による異化のフィルタを通せば、人の暮らし、そしての人の傍らに確実に存在する、こうした狂気と不穏の深淵が見えるのだ。

11月18日(金)のつぶやき

2016-11-19 00:53:38 | ◎目次

11月16日(水)のつぶやき

2016-11-17 00:53:18 | ◎目次

11月14日(月)のつぶやき

2016-11-15 00:52:51 | ◎目次

11月13日(日)のつぶやき

2016-11-14 00:53:25 | ◎目次