考えるための道具箱

Thinking tool box

◎コピーライティングとビジネス・インサイト。

2009-05-10 15:35:01 | ◎業
◎Business Media 誠:郷好文の"うふふ"マーケティング:
"カタログ語"から抜け出そう――商品紹介の秘けつとは


文房具ECサイト「スミ利文具店」の藤井稔也氏のコピーライティングについての思想をまとめた記事だが、マーケティング・コピーの本質をついていてすばらしい(もちろん「スミ利文具店」の扱い商材のスタンスも文房具好きにはたまらない)。

●1個1575円のインキの商品紹介の文字数、実に2900字以上に及ぶ。
●写真撮影も「自分が消費者の立場ならこんな部分が見たい」と思う部分を掲載
●「メーカーのカタログは『品物を売るための文章』『買って欲しいための文章』『分かって欲しいための文章』ではなく、『カタログ掲載という仕事をこなすための文章』になっているものが非常に多い」
●文具のようなコアな衝動買い商品は、読みたい人は重箱の隅まで読み抜く。
●当事者ならではの真剣なメッセージを伝える
●語れない根本原因は"主語が自分じゃない"から。その商品の真ん中にあることを見抜けるか見抜けないか

「カタログ掲載という仕事をこなすための文章」になっていないか?という指摘は名言だ。さまざまな制約条件があるのはわかるが、とくに抵抗も意識もせずに「カタログのため文章」を書いていることはないだろうか。聞きなれて手垢のついたような慣用コピーをそのままスライドさせていないだろうか。埋め草のように、過去のコピーをそれこそコピペしていないだろうか(しかしあれだな、コピペという言葉は書くだけで虫唾が走る最悪の略語だ)。

肝要なのは「当事者」意識だ。どれだけ対象に近づけるか。よく「憑依」という言い方をしているが、より正鵠を射ているのが石井淳蔵が『ビジネス・インサイト-創造の知とは何か』のなかで紹介しているポランニーのくだり、暗黙に認識のために「対象に内在する=棲み込む」という機制(というか思考)だ。



『ビジネス・インサイト』は、経営全体におけるイノベーションのためのインサイトについての論考であり、そういった意味では、広告クリエイティブという局地戦について語っているわけではないので拡大解釈(?縮小解釈)になるし、以下で紹介するような「対象への棲み込み」という機制をとる目的は<眼前にある手がかりあるいは対象(つまり、近位項)に棲み込むという契機を経て、そこからその背後にある「意味のある全体」を見通す>ことなのでニュアンスは異なるが、それでも、マーケティング・コミュニケーションの有効化という観点でも充分に汎用的である。

(1)人に棲み込む
(2)知識に棲み込む(セオリーに棲み込む)
(3)事物に棲み込む

(1)(3)は、マーケティング・コピーライティングの構え・方法論としてはドンピシャだ。言うまでもなく「人に棲み込む」とは<その人の立場に立って、その人の気持ちになりきることである。その人の視線で、周囲の状況を見回してみる。その人が何に苦労し、何に楽しさを覚えているか理解できる>ことである。多かれ少なかれコピーライターはこの立場に立とうとするが、ようはどこまで自我を捨て利他的になれるか?それをファクト・ベースで徹底できるか?ということだろう。

ユーザーに喜んでもらいたいという気持ち(開発・生産)、売りたいという気持ち(販売員・営業パーソン)、一方で買いたいという気持ち、欲しいという気づきに、誠実に棲む。そのためには定性的・定量的な調査データを知悉することはもとより、凡庸だが固有の日常を疑似体験する必要がある。実際問題として疑似体験は難しいのだが、これは取材や各種メディア情報の量でカバーするほかはない(しかし、新聞の生活欄、WBS、ゆるい専門雑誌、商品レヴュー記事など疑似体験のための良質なソースはいくらでもある)。

「事物に棲み込む」は、同書においては<その事物が外からの目でもって何かと決めつけることなく、その事物のあらゆる可能性に考えを及ぼしてみることである>としているが、これはコピーライティングの作業においては、まさに「商品(製品)」に棲む、ということになる。

例として、あげられた「椅子」については、ただ座るだけのものではなく、電球を変える踏み台、ガラスを突き破るための道具……というように<その事物に即して新たな意味や可能性を見つけていくこと>とし、そうして列挙した可能性を前提として、さらに可能性を広げていくような難度の高いレベルの作業を行って初めて、「事物に棲み込む」ことになる、といった考え方だ。

開発者から提示された機能は、重要な拠り所として分解・分析するが、見込客のパースペクティブでより有効な機能を発見する、訴求ポイントをよりブレイクダウンしてみる。いちユーザーとして商品に棲み込むほどの愛着をもって、ということだ。

なお「知識に棲み込む」は、少しレイヤーが違うし、石井が言うような重い話でもないが、もしこれを「セオリー」と解釈するなら、コピーライティング、さらにマーケティング・プランニングにおいて重要な機制であることには違いない。つまり「型」「フレームワーク」。双方とも、きっと最初は使いにくい下敷きだと感じる人が多いかもしれないが、それはまだ棲み込めていないから、ということになる。

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コピーライティングの話を端緒としたため仕方ないといえば仕方がないのだが、上記のような話は、じつは『ビジネス・インサイト』の意図を矮小化している。ほんとうに興味深いのは以下のようなポランニーの話や経営における偶有性のくだりだが、このあたりは腹に落ちてから発信してみたいと思う。いまはまだ、知識への棲みこみが足りないということだが、残念ながら時間がかかりそうだ。ポランニーの本を先に読んでしまうかもしれない。

<(ポランニーは)、暗黙の認識には、次の三つの機制があるとする(ポランニー二〇〇三)。
(1)問題を適切に認識する。
(2)その解決へ迫りつつあることを感知するみずからの感覚に依拠して、問題を追及する。
(3)最後に到達される発見について、いまだ定かならぬ暗示=含意(インプリケーション)を妥当に予期する。>

<この「暗黙の認識」の機制は……優れた経営者のビジネス・インサイト(あるいは創造的瞬間)のそれに似ている>

<(1)経営者やマーケターは、問題を認識し、その問題が「その問題自身の背後に潜んでいる構図」を指し示しているのを感じ取っていること。
(2)そのときにあっては精度の高い検証は行われるべくもないのだが、その「構図」の妥当性(正しさ)や確からしさについて、彼ら自身「確信」していること(だからそれに傾注できるのだ!)
(3)彼らが見通した「潜んでいる何か」は、たんなる空想や思いつきの産物ではなく、それが発見された以降において、経営的努力が傾注されるに見合う「価値ある何か」であることについて確信していること。>

◎Mr.Children Tour 2009 ~終末のコンフィデンスソングス~

2009-05-09 15:01:38 | ◎聴
にわかミスチルファンだけれど、こういったものへの、のめりこみが尋常じゃないので、ごく一般的なミスチルファンぐらいには追いついたと思う。最近はipodの再生回数が、ニール・ヤングとカーリー・ジラフ同様ものすごいことになっている。で、娘のこれも尋常じゃない行動力により手に入れることのできた複数のチケットのうち一枚を分けてもらって城ホールに行ってきた(4月26日)。立見がほとんど苦にならないほど、エンターテイメント性にとんだ良いライブだった。『SUPERMARKET FANTASY』の楽曲を考えると、本来的にはホーンが入ればもっと豊かにはなるんだろうなあと思ったけれど、娘の情報によると今年度のツアーは軽微な年回りにあたるらしいので仕方ない。大仰なスタジアム(長居)とミスチルにしてはコンパクトなホールの2つを経験したことになるけれど、さすがに日本一のPOPバンドだけあって、いずれも楽しませる方法はパーフェクト。



行く前は、セットリストを見ながら、オープニングからの3曲を聴いたら、もうそれで帰ってもいいやみたいな冗談を言ったりしていたもんだけれど、実際はむしろそれ以外の、あまり期待していなかった曲が良かった。「つよがり」や「フェイク」は悪くないのはわかっていたけれど、しかしタメや微妙なリアレンジで、「いつもどおり」とは一線を画した。なにより、アルバムでは、個人的にはいまいちコーナーに押し込められていた「東京」「口がすべって」「花の匂い」なんかを見る目(聴く耳)が変わった。


01.終末のコンフィデンスソング
02.everybody goes~秩序のない現代にドロップキック~
03.光の射す方へ
04.水上バス
05.つよがり
06.ロックンロール
07.東京
08.口がすべって
09.ファスナー
10.フェイク
11.掌
12.声
13.車の中でかくれてキスをしよう
14.HANABI
15.youthful days
16.エソラ
17.イノセントワールド
18.風と星とメビウスの輪
19.GIFT

■Encore
20.少年
21.花の匂い
22.優しい歌


いまのところどのホールにおいてもリストは変わらない。すべてのオーディエンスに機会均等にといった博愛のほうが先立っているのだろうか。たとえば、スプリングスティーン、そこまでいかずとも浜田省吾程度には、毎回少しずつリストを変えたほうが楽しいと思うんだけど、どうなんだろう。

◎『グラン・トリノ』。

2009-05-07 17:36:27 | ◎目次
ハードディスクから『ミリオンダラー・ベイビー』を引っ張りだして見た。この連休は、なんとなく『グラン・トリノ』を見に行くことになるかもなあ、と思っていたので、その準備として。台詞なんかもちゃんと頭に入れておきたいと思って、まだ見ていない家族に勧めながら二回見た。モ・クシュラ!やっぱり、二度ともふたつの同じシーンで泣いた。『アルマゲドン』なんかとは違う種類の涙だ。

さらに、買うほどのことはないかと思って一度は忘れていた『ユリイカ』のイーストウッド特集が、どうしても読みたくなって、急いで本屋に行く。ひととおり目を通して、だいたいの課題がわかったような気になる。しかし、『グラン・トリノ』については、どれだけたくさんの言葉を読んでも、その実体をつかむことはできなかった。たしかに、評判どおり良い映画だというのはひしひしと伝わる。でも、読むほどに募る懐疑。それって、ひょっとして、ありがちな西部劇じゃないのか?



もしそれが『ミリオンダラー・ベイビー』のような結末だったとしたら、連休の後半に見るのはキツい。だから、少し腰が重かったのは事実。でも、前日によほど強く宣言していたのだろう。朝起きたら、奥さんの予定にしっかり組み込まれていた。観に行くんでしょ?といわれて、え、行くの?みたいな会話になって、あきれられたわけだけれど、ひっぱってくれたことに、おおいに深謝することになる。

確かに全体としてはありがちな西部劇、しかしそれはすべての西部劇を無効にしてしまう。ストーリーをダイジェストにまとめてしまうと、きわめてシンプルで予定調和の物語としか読み取れない。しかし、スクリーンのなかで展開されるドラマを二時間をかけてしっかり見たあと、そのやるせなさと痛撃により、人を途方に暮れさせてしまう物語。見終わった直後に動物的な反射で言えることや、過去のイーストウッドの作品を下敷きにしながらわけ知り顔で解説できることはいろいろとあるのだろうけれど、どう話したところで、この全体には追いつけない。『ミリオンダラー……』のようにあいまいではない光明が提示されてはいるとしても、またあきらかにエンターテイメント性は高いとしても、残るものの重さは同じ。わけのわからないままに流れのなかで打撃をくらって、でも平気だと思っていたら、おまえ鼻血でてるよ、と指摘される感じ。

粗忽で下世話だが思い浮かぶのは、ゴーイング・コンサーンという言葉。それでも人は生きていかなければならない。自分でちょっとした決心を何度も重ねつつ、生き続けなければならない。いや劇中では生き続けていないので、そういった解釈は正確ではないのかもしれないけれど、俺はもう歳だからいいんだが、おまえたちは、ギシギシと身体を動かしながら、うんざりしながらでも生きていけ、そうすれば、ちょっとした救いのようなものを感じることができるかもしれない。でもまあハードルは低くしておいたほうがいいよな、という通達を受けたような気もする。しかも、その通達は、救うのは国でも神でもなく、やっぱり人間であり、もっというとお前はお前にしか救えないんだよ、という冷厳も含む。もちろん、それは希望ともとれる。イーストウッドはニーチェになったのか……。

……とは書いてみたものの、うーん、なんか見当はずれだ。衰退したアメリカの総括?彼らが世界を受容していくための方法?銃社会への徹底したアンチテーゼ?善悪の無意味性……しかし、どう詰めていっても、解釈される直前に、するりとこの手を抜けていく。

<蓮實 繰り返しますが、われわれはイーストウッドは変態だからと思っていたのでこれまでは安心していたのですが、どうも変態以上の何かであるということで混乱し始めているわけです。ところが彼自身はこの混乱を止めるどころか、もっと混乱せよと煽っているかのようである。[ユリイカ5月号 イーストウッドは何度でも甦ってしまう……]>


って、言われてもなあ……。