考えるための道具箱

Thinking tool box

最近の鞄の2冊。

2005-08-29 00:41:38 | ◎読
あいかわらず、パソコンと討議と移動の毎日。一昨日と昨日も、得意先の研究所まで出向いたのだけど、たくさんのドキュメントが必要になるため、Victorinoxの「ウェブ・マネージャー」がネコ型未来ロボットっぽく膨張している。PCがY4に変わって超軽量化がはかれているとはいえ、総重量は限りなく河原の石に近い。

それでも、移動に合間に読むための本は捨てられないわけで、そういった場合は、仕事&趣味で2冊を厳選することになる。幸いにも、今週は迷うことのない2冊がエントリーされた。



仕事の本は『新訳 経験経済~脱コモディテイ化のマーケティング戦略』。もうほとんど題名以上の解説は必要ないような内容なんだけれど、物語(ストーリーorコト)マーケティングなどを肉付けしていくためにはよい材料となる。

企業が顧客に提供する価値は「コモディテイ」⇒「製品」⇒「サービス」と進化してきており、現在では「経験」というステージに直面しているというマーケティングアイデアを、事例やいくつかのフレームと箴言を中心にして解説しており、著者のこれまでの考えである「マス・カスタマイゼーション」を基盤にした論が展開されている。

「経験経済」にとって必要な機能は「演出」であり、特性は「カスタマイズ」を超えて「個人的」であり、「思い出に残る」ことを重要なと特長としなければならず、それゆえに需要の源を「感動」としなければならない、というのはたとえばディズニーランドなどをベストプラクティスとして語りつくされた感はある。

しかし、これまでは「サービス業」の枠内でしかとらえきれなかった方法論を、たとえば「“製品”はあくまで“小道具”として“物語”をつくっていくという発想」のもと「製造業」にも展開できるフレームとして提供したところは、2005年現在汎用性が高い。5年前、(日本では)多少は尚早に感じられたアイデアが、ちょうどタイムゾーンに入ってきた。それゆえにアイデア自体がコモディテイ化しているという考えもあるかもしれないが、製造業はもちろん、自身の仕事を「サービス業」とは認識できな販売の現場では、まだまだこれからのコンセプトである。



趣味の本はスティーブ・エリクソンの『アムニジア・スコープ』。待ちわびて、待ちつかれて忘れていた10年ほどの前の作品が、柴田元幸の訳でようやく。だいたい、集英社ってところは、なんの前触れもなくこういった重要な本を出しちゃうんだよね。いまではほとんど文芸出版がなくなっている集英社が、それでもこの手の翻訳を出し続けるのは、過去連綿と続く集英社の世界文学なるものに対する矜持があるからだろうけれど、それならぶだんからもっと翻訳してくれっての。権利関係がうまくいっているやつは徹底的にやるんだけどね。ロスとか。まあ、それはどこでもおんなじか。

スティーブ・エリクソンの作品は、それが島田雅彦や越川芳明はもとより柴田元幸の訳であっても、構造の分断とズレや時制の倒置による複雑性、幻視などの重層性により、読みの速度が加速するまではかなりの助走が必要になる。そのため、ディープなファンは一定数存在するのだけれど、日本はもとよりじつは本国でも不当に評価が低いらしいのだが、読み進めていくうちにエリクソン節の要諦がつかめれば、つまり、壮大で濃密なエネルギーの発信にもかかわらず核心と確信が見つけにくいという事実これこそがエリクソンの世界である、といことを受容できれば(それに慣れることができれば)、ほかにはない読書体験ができる小説ではある。あきらかにフォークナーとガルシア・マルケスの子どもであり、その点から、とりわけマジック・リアリズム的や土着性みたいなものへの匂いが楽しみたい人にとってはもってこいのストーリーではある。

そんなことなので(というか例によってほかにもたくさんの考えごとが多くて)、『アムニジア・スコープ』は、まだ加速はしていないんだけれども、どうやら、前述したようなこれまでのゴシック的な作品とはずいぶん違っているようだ。自伝的といわれているだけあって、彼がいくつか発表しているアメリカを憂うノン・フィクションのようでもあるが、いずれにしても、世界は狭くてわかりやすい。

震災後のL.A.がいくつもの炎の輪で寸断されているところや、理由はよくわからないけれどいくつもの「タイムゾーン」ができていて、しょっちゅう時計を進めたり遅らせたりしているところはあいかわらずだけど、明らかな現代性はこれまでの作品とは違った魅力がある。冒頭を読む限りでは、デリーロのような印象もあるが、そのあたりは読み進めていくうちに変容していくだろう。

『黒い時計の旅』が、白水Uブックス化されたときには一部で話題になったことでもわかるように、すでに手に入りにくくなっているエリクソンの本が、こういった機会をへて、新訳も含めて流通活性化することを願うばかりだ。
そして、ぼく自身が、こういった愉しみがたっぷりつまった本をじっくりスローペースで読める時間が確保できるようになることを願うばかりだ。来月だって、ブローディガンやカポーティの『冷血』やら村上春樹の『東京奇譚集』なんかが待ってんだから。

人生というものはこんなに忙しいのだろうか日記。

2005-08-23 00:02:38 | ◎書
愚痴でもなんでもなく。たとえば、この週末を振り返ってみると。
■20日土曜日:
◎グループインタビューのため12:00には社をでないといけない。10:00~12:00の間に来週の月曜日提出の企画書のツメをしようと思うも、出金伝票・出張清算がたまって一ヶ月ぶんになりそうだったので、まず着手。案の定11:00すぎまでかかってしまう。
15分だけ企画書ツメて、グルインの準備や、週末持ち帰るものを整理していると11:40。早めの昼食をすませねばと思い、WEBや新聞を読みながら朝のうちサンクスで買っておいたサンドイッチ2種を食べる(※1)。したらばもう12:00。出発だよ。
15:00までのグルインは押して15:15終了。大阪の自宅へ向かう新幹線は16:50東京駅発なのでまだ時間はあると思いきや、別の担当者からメール。用件は簡単そうなので、15:30に訪問するも話が盛り上がり16:00終了。

◎急いで銀座線に乗り込み、京橋でおりる。「八重洲ブックセンター」の1階だけを3分でザッピングし、八重洲地下街の古書店で『ロンリーハーツ・キラー』。乗車時間は迫るものの久しぶりの東京駅なので、大丸の「KEITH MANHATTAN」で、たぶん秋商品の栗のロールケーキをお土産に(※2)。台座にどっかり鎮座したロールケーキは持ち歩くときにズレないのか?と不安を抱きつつ早足で東京駅構内へ(※3)。灼熱のホームについたのは16:40。暑さに耐え切れずビールを購入し乗り込む(※4)。走り出すとモバイル環境が劣悪になるので出発前にネットにつなぎメール&WEB(※5)。ちょっとした用事をすませビールを飲み干すとそこはもう小田原あたりか。『健全な肉体に狂気は宿る』を読み出し、結構粘ることができたが、昨夜も3:00就寝だったので撃沈。目覚めれば名古屋。かばんの中にあった『子供たち怒る怒る怒る』の最後の1篇「リカちゃん人間」を気分悪く読み終えれば、京都。大阪までは『ロンリー・ハーツ・キラー』をイントロだけでも、と読み始める。『目覚めよと人魚は歌う』に比べゴリゴリ感がなくなっているなあ、読みやすいなあ、これっていいことなのかなあ、と思っていたらダイキンの工場横を通過し新大阪着のアナウンス。19:20着。

◎「ブックセンター談」(※6)なら、もしかしてセリーヌの『夜の果てへの旅』が残っているかと思いのぞくも、あるわけもなし。こんなことなら八重洲ブックセンターの上に上がっときゃよかったよ。で、20:30帰宅。風呂・ごはん。『めちゃイケ』&『ウォーター・ボーイズ』&『リチャード・ホール』(※7)をみながら、ちょいとブログを書きながら、家族といろいろ話しながら、酒飲んだり、キースのデザート食べる。あ、もう0:00過ぎてるよ。ブログをアップして、たまっている本に目を通しているとどうやらもう3:00らしい。よって寝る。

■21日日曜日
◎遅めの9:30起床。「いいとも増刊号」見ながら朝ごはん。今日は、コーチをしているママさんバレーの練習試合があるので13:00前には家をでなければならない。ただし、いろいろ忙しいので途中で帰る、といってはある。ソファに寝転んで、また本読んで、至福の二度寝の時間が訪れそうになったが(※8)、もうでかける時間になっちゃった。

◎こんなときにバレーボールの練習にいかねばならないのにはわけがあって、同じコーチで、食品メーカーにつとめるご近所から仕事の相談があるとこのことだったから。その話だけ済ませて帰ろうと思っていたのだが、急遽、総元締めの監督が休みであることが発覚し、オーダーを考えねばならなくなり、結局、茹だる体育館で5~6セットぶんのメンバーをうんうんうなりながら考えて4セットほど見届けて16:30に帰宅。

◎シャワーして、キンキンに冷えた部屋で企画書のツメをやりだすも、激烈な睡魔が襲ってきて完成目前にベッドイン。19:30に起きたらイタリアンのご飯ができていた。感謝。来週は、おれが必ずや新メニューつくりますよ。『ジャンク・スポーツ』見ながらあれこれ馬鹿で楽しい会話をかわしながら希少な家族の夕餉。食べ終わると、むしょうに身体がだるくなってきたので、もう何か頭を働かす生産的な作業はあきらめる。ようやく借りることのできた「さまぁ~ず」のライブビデオを見ながら、ブログのデザイン・メンテナンス(※9)しながら、本読みながら0:00まで。もう一度風呂にはいって、翌日からの東京行きの準備やご近所から発注された仕事の手配を考えていると2:00。ということで、なんだか平日以上に忙しい休日でした。おれって、きっと時間の使い方、下手なんだわ。せめてこういうのをもう少しましな物語文で書ければ救われるんだけど。


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(※1)サンクスのサンドイッチは、数あるコンビニのなかでいちばんおいしい。と思う。銀座梅林のカツとかハンバーグとか。しかしそれ以上においししいのは、「CAFFE VELOCE」のポテトサンドとチキンのバケッド。あと最近は、新大阪の構内で買える、「サンマルコ」のカツサンド。「サンマルク」ではないですよ。とんかつのKYKが経営しているカレーハウス。カレーを練りこんだ食パンではさんでいるところがミソです。
(※2)キースのケーキは、もう大阪でも買えるから、そんなにこだわらなくてよかったんだけど。
(※3)案の定、ロールケーキは台座からズレていました。やっぱり手荷物が3つあると、ケーキを安定させるのは難しい。
(※4)毎週新幹線にのっているけれど、原則としてビールは飲まないようにしている。なにも禁欲を課しているわけではなく、家まで我慢すればおいしく飲める、という説得力のないルールにこだわっているだけ。
(※5)東海道新幹線では、だいたいどこがつながりにくいかが把握できています。東京-品川-新横浜なんて最悪ですよ。
(※6)じつは新大阪の「ブックセンター談」は、マンガだけでなく、文学・人文系が妙に充実しているのでした。きっと目利きの店員がいるのでしょう。
(※7)このあとにも、たびたびバラエティ番組が登場していることでもわかるように、わたしは、かなりのレベルでお笑い好きです。あ、カミングアウトしちゃった。ただし、賢いやつね。なかでもさまぁ~ずね。
(※8)誰しもそう思っていた二度寝の至福は、『健全な肉体に狂気は宿る』での内田師匠のカミングアウトで、確実に市民権を得ることができました。
(※9)ブログのデザイン変えてみました。いまいちなんで、またすぐに変えると思いますが。

あいかわらず。内田樹。

2005-08-21 00:35:58 | ◎読
グループ・インタビューのため土曜出勤。なかなか面白く、結果は現状のワークへよい形で着地させることができそう。GIの実行会社ともなんとなくよい協業関係がうまれそうだ。また土曜出勤のご褒美で、新しい拡がりが楽しそうな仕事のご用命も降ってきた。最近は、これまで取り組んだことのなかったタイプの仕事が動き出したり、いっぽうで、ちょいと気合いのはいるミッションなども与えられたりしてなんだか中期的な展望が開けてきた。

なーんてね。もちろんこれは妄想ではないのだけれど、まあ、ふだんはこんなふうに書くことはない。まるでどこかのセミナーに参加してきたようなようなこのホジティブ・シンキングは、きっと『健全な肉体に狂気は宿る』のせいだ。

『幸福論』の春日先生とのこの対談における内田師匠は、最近、過剰なまでのステイトメントを発信していてネタが枯渇しているのかと思いきやそんなことはまったくなく、ここでも新しいコンセプトをどしどし提示していて、あいかわらず、なんというかとてもクレバーだ。内田語録はともすれば箴言集になりそうでもあるのだが教条的教育的な部分を確実に回避しているため、説教には陥らず(※)、大人の男として格好いい物言いとして受け入れらる。その正しさはもちろん疑わなければならない部分もある。しかし、内田樹は、そもそも人はわかりあえないという前提に立っているだけあって、そのスタンスが聴く人に自由という余地をあたえるぶん、逆に信用度が高い。そこでは、疑う/疑わないなんて、肝の小さい話は吹き飛ばして、この師匠と議論をオルタナティブに(?)アウフヘーベン(?)したくなる。この言語能力・対話力は、どうやったら身につくのだろう。

以下、第4章までの抜書きの一部。

◎「ある意味『JJ』さえ読まなければAVなんか出ないですんだ少女たちというのが何百人かいるわけですね。そうなると罪作りなメディアだなあと思いますね。どっちにしても読者を「まとめてどこかへ連れて行く」メディアはあまり信用しちゃいけないんです。………だから、この本も…読んだ人が途方に暮れるような本にしなければなりません。」

◎「でも時間の中では「一秒後の私」はもう「今の私」とは別のものでしょう?だから「変わらない私」がどこかにいる「ほんとうの私」を探すことはあり得ないわけです。……そういう当たり前のことに気づかないのは、みんなが時間を空間的に表象しているからなんです。

◎「そこで「変人」戦略というものを採用する人がいるわけですね。春日先生とかぼくとか。「変人」というのは最初からマジョリティの端っこの方にいるわけですよね。群れの中にいるんだけれど、いつでも逃げられるように端にいる。」

◎「人間というのは、他人から聞いた話というのはあまり軽々には信用しないくせに、自分がいったことばというのは、どれほど不合理でも信用するんですよ。」

◎「たぶん洋服というのは、その人の一番弱い部分とか感受性のやわなところが外部に露出しているところなんでしょうね。粘膜みたいに。きっと。だから、(なにか指摘されると)すごく傷つきやすいんだ。」

◎「わたしのところに来るような患者さんというのは、だいたいこだわりとプライドと被害者意識の三点セットなんですが(笑)。」(春日)

◎「逆に、ものすごく出処進退の鮮やかな人もいる。いつのまにかやって来て、短い間に挨拶して、でもその一言がジーンと胸に残るような……そういう人を見ると「修行ができてるなあ」と思いますね。……「このたびはどうもご愁傷さまで……」「いや、遠いところをお運びいただきまして……ま、ご一献」「は、これはどうも……」みたいにそこそこにこやかに談笑して、七分三十秒後くらいに、ふと振り返るともういない(笑)。」

◎「ある大きなイベントには必ずそれと同じ強度、同じ規模の原因があると発想する人って要するに「原因が見つからないで困っている人」なんです。…………だからある状態の出現について、単一の原因を求める人というのは、「原因を探し求める」というみぶりそのものによって、「原因がうまくみつからない」という事実を認めているんです。」

ということで、休日が1日となって、またそれもなんだか忙しい1日になりそうなので、今日はここまで。なんとも無為なエントリーでした。八重洲の古書店で、ようやく星野智幸の『ロンリーハーツ・キラー』を見つけたので、ぼちぼち読み始めてみよう。

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(※)帯の「自分探し禁止!!」とか「説教ライブ!」なんてあほうな惹句はやめたほうがいいんじゃないですかね。編集者もサラリーマンだから仕様がないのだろうけど。

子供たち怒る怒る怒る。

2005-08-16 00:05:59 | ◎読
『子どもがもっと子どもらしかった。今は子どもが子どもでいられない。焼跡では八つの子どももスリや物乞いに堕落する。いや、堕落するな、などと誰がいえる?誰も堕落したくてしてるわけじゃない。孤児になりたくてなったわけじゃない。あいつらが可哀相だ。みんな無責任な軍人、政治家どものせいだ。オレは一時間ごとに思っているよ。子どもを救え、と。子どもを追い詰めたろくでなしに正しい裁きを下せ、と。』



これは、島田雅彦が『退廃姉妹』のなかで、孤高の復員兵・後藤に語らせた台詞。とくになんのことはない教育的なメッセージなんだけれど、彼の作品タイトル『子どもを救え!』が、うまく使われていたので隅を折ったページのひとつ。もっとも『子どもを救え!』は、郊外に暮らす結婚後の千鳥とみどりの話という以外に、そして「久しぶりに島田雅彦もっと読んでみよう」と思った以外は、ストリーリーや状況設定などまったく思い出せないのだが、まあそのあたりはどうでもよくて、「一時間ごとに思っているよ。」というのはとても格好よい。

文学というものがどのような形であれ(とあるQOLもしくは人生のケースのシンプルな描写であれ、説教であれ)、人の生き方のサンプルを示していく以上、そこには多かれ少なかれ「子どもを救え」が含意されている。うそだと思うなら、古今東西、国内海外を問わず、「この作品のテーマは“子どもを救え”である」と思い込んで読んでみればいい。きっと、「うん、そういわれてみればそうだよな。作者は、子どもたちの未来に向けてこの文を書いてといえるよなあ」と合点がいくに違いない。

例えば『半島を出よ』。まあ、これはわかりやすい。同じレベルで『コインロッカーベイビーズ』もそうだろう。町田康の『パンク侍…』や『告白』は、もし読解力があり悩み多き中学生が読めるのであれば必ず元気が与えられる。堀江敏幸の『河岸忘日抄』は生き方の重要なケースのひとつだ。『罪と罰』、『響きと怒り』、『オウエンのために祈りを』……『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』に『キーチ!』、バースの『レターズ』………『拳闘士の休息』、『岬』…………『万延元年のフットボール』……『Xのアーチ』…『スロータハウス5』……。すみません、書棚で目ついた本を列挙しただけです。やっぱ無理がありました。いやちょっとまて、そうでもないかな。うーん、ダメだ、こじつけだ。ごめんなさい。

佐藤友哉の『子どもたち怒る怒る怒る』をひっぱりだすための理屈としては、少し無茶をしすぎました。長く無意味な前説、失礼しました。久しぶりに書くと碌なことねえ。

気をとりなおして『子供たち怒る怒る怒る』。丹念にそしてシャープに描かれた「痛さ・怖さ」により、この小説のある部分は、『殺し屋1』のように所有することさえおぞましいと言わないまでも、ぼくにもう2度と読み返されることはないと思われるのだが、逆に言えば、それはユタヤンが、いわゆる文学的にも取り上げられている表現技術の巧さを示す証左でもある。一連の、間違いなく宮本輝の逆鱗に触れる暴力的な物言いは、それゆえ、ユタヤンになにかの文学的な賞をを与えることはしないかもしれないが、読み手に、わけのわからない汗が脇の下から流れる緊張感を与えるレベルに達していることも重要な事実である。

この子どもにこんな心の軋みを書かせるなんて!作中の子どもたちをこんな悲壮な状況に追い詰めるなんて!いったい大人たちは何やってんだ。ここまで書き連ねてきたように「子どもたちにささげるメッセージ」に弱いぼくにはとても納得性が高かった。こんなおやじを納得させてしまうところなんて、ひょっとしたら新世代のスーパー小説の旗手としては物足りないのかもしれないけれど、次の世代・残された世代として引き受けた未来をなんとかしていこうという意志は(本人は「めっそうもない、そんなことひとかけらも考えていない」というかもしれないが)、確かに潜在的に内在していて頼もしい。

子どもには、大人にありがちな文脈のなかでもなく、周りの人の影響でもなく、泣くときがある。疎遠な親戚の葬式の涙でもなく、人が安易に死んでしまうTVドラマを見たときの涙でもなく、卒業式で流す涙でもなく。それはおおむね悔しささに起因することが多い。レベルは人それぞれに異なり、弁当を掠め取られたときに泣く場合もあるし、名前を揶揄されたときかもしれないし、鹿十されたときかもしれない。ようは、自分でコントロールできないよくわからない理由で、そんな理由にもかかわらず自分の中のとても大切なものが損なわれたときだ。子どもの頃のその感覚は確かに身体のどこかに残っているのだが、こんなに歳を重ねてしまうともう思い出せない。その感覚のある部分が、ユタヤンの子どもシリーズ(ってもほとんど子どもシリーズか)では巧く描けているように思える。

鏡家の話を最初に読んだときは、「なんだい子どもはこんな話し方しねーんじゃないの」という、一般的な感想しか思い浮かばなかったけれど、いま、『子供たち怒る…』の一連の短編を読んだところで、子どもはもっと大人で、大人風に間違った考えを持つから
ユタヤン的発想ならあんなふうな物言いになるのだ、と腑に落ちた。

もちろん、逆にみれば、若書き、というか若気の至りによる落ち着きのない書き方はかなり直裁的なのだけれど、とりあえずこの元気を買っておこう。というか、結論を出すのは、もうちょい他の小説も読んでからだね。といいつつも、残虐な予兆が感じられる作品はきっと読まないだろうな。気が弱いもので。

全員バンドへの幻想。

2005-08-15 09:39:53 | ◎聴
南総里見八犬伝、真田十勇士はもとより、サイボーグ009にしてもアストロ球団にしても、未来永劫連綿と続くと思われる特撮戦隊ものにしても。
何人かの人間が集まり、ときには自分だけにしかない専門能力と個性を発揮し集団の勝利に貢献し、またときには、自分にないはまったくない能力を誰かに補われ、意外な形で勝利を手にする。仲間がそれぞれの強み弱みをしっかり引き受け、そのことを自覚する過程において、支え委譲することの重要性を知り、精神的に成長し、何某かの目標を完遂する、このグループダイナミックスを日本の人たちは好み続けてきた。そして、ご多分にもれず、ぼく自身もこのメンタリティをしっかり受け継いでいる(もちろんファンタスティック4などのアメコミを見る限り、これは日本人特有のものではないのだけれど)。

しかし、この協力集団がうまくいくためには、たとえば3人なり4人なりのそれぞれが専門能力に突出しているのは当然のこととして、それ以外の能力についても基本的に常人より高いレベルを達成できているということが前提になる。

これは、現代の実社会における、協力集団のひとつであるバンドを例にとれば端的だ。それぞれが楽器を受け持つが、たとえばふだんはボーカル専門の人間がときにはキーボードもたたくし、ギターマンは弦がつくものならならなんでもOK。メインボーカルはいちおう決まっているが、じつは全員がなかなかよい歌声をもっていて、アルバムには必ず全員がメインボーカルをとる曲が挿入されているのはもちろん、あまつさえアルバムのラストの重要な曲のボーカルを務めたりもする。とうぜん曲作りの才能にも長けていて、全員の持ち味をいかしたバラエティに富んだアルバムができあがるし、逆にそのときに誰かがリードをとってプロデュースすればその人の好み全開の作品ができあがる。おいおい、こんなバンドいるのかよって?そう、滅多にいないのです。だから、ぼくはQueenが好きなのですよ。

全世界的な商業的なバンドとしては初めてQueenを知って以来、バンドたるもの「全員バンド」たるべし、とこだわり続けてるんだけど、じつは後にも先にも、そんなバリエーション豊かなバンドは(ぼくの狭い音楽範囲に限れば)彼らだけなんですよね。楽器の掛け持ちといったレベルのことはあっても、曲をつくる人間、それを歌う人間はおおむね固定されていることが多いし、たまにメンバーが歌ったり作ったりすることがあったとしても、おおむね色物っぽいことが多い。商業作戦上いたしかないことであるとはいえ、一方でバンドはメインボーカリスト、メインライターの才能に委ねられることが多いのもまた事実。

じゃあQueenの4人がバランスよく能力を発揮していたか?といえば、じつはそこまで完全ではないのだけれど、他のバンドに比べ、ボーカルや曲作りが分散されているのも事実で、なによりフレディの曲以外によいものが結構あったりするのが大きい。幼いころは、新譜がでるたびに、歌詞カードをみて、これは誰の曲で、誰が歌っているのか、ということを調べるのをものすごく楽しみにしていたひとりです。

というわけで、ishmaelさんにこっそりと囁かれたQueenの15曲は、そんなことも考えながら、わりあいにQueenらしくないところで。ベストというか、いまここですぐに聞きたい15曲というところでしょうかね。絞れないので17曲で。

Killer Queen, Death On Two Legs, I'm in love with my car, 39, You and I, Good Old-Fashioned Lover Boy, Drowse, Sleeping On The Sidewalk, My Melancholy Blues, Don't Stop Me Now, More of That Jazz, Dragon Attack, Rock It (Prime Jive), Staying Power, Under Pressure, I Want to Break Free

うん。よいバランス。このバランスがQueenを長続きさせた(させている)ポイントなんでしょうね。きっと。なお、好きなアルバムは、QUEENがいろいろと変わったことにトライしていった写真の3連発。ファンクラブに入っていたような人には酷評されるかもしれませんが。

島田雅彦と矜持。

2005-08-12 10:16:34 | ◎読
易きに流れて『退廃姉妹』。易すぎて品川-新大阪間プラスαの3時間程度で読めてしまったんだけれど、その3時間を釘付けて放さない。島田雅彦のエンターテイメントは絶好調だ。そして洒落ている。「無限カノン」以来の、そして昭和偽史へのチャレンジが始まって以来の島田雅彦は、ポリティカルな見地、レリジャスな見地からは厳しい意見もあるかもしれないが、(『フランシスコX』なども含めて)ぼくは大好きだ。
彼は、現在の小説メディアを席巻する感動エンターテイメントに、同じ感動エンターテイメントで対抗することで、ベストセラーを狙っていると思われるが(たぶん)、もしこの『退廃姉妹』が、それ相応のプロモーションを享受できれば、きっと多くの人が賛同する作品に昇格するに違いない。

『退廃姉妹』は、過酷な戦後を生きる姉妹のたくましさとうつくしさを、少ない枚数のなかで凝縮した群像を背景に描く。強い決意をもって進駐軍の兵士たちに身を投げ出し、彼らを迎え入れる施設つくってしまう行動的な妹。特攻帰りの男の罪と悲しみのすべてを受け入れる理知的な姉。そして、彼女たちをとりまく人たちの爽やかで強靭な生命力。
もちろんエンターテイメントだけあって、人の心の微細な動きや深遠を夢や日記に代替させるといったような小賢しい手法をふんだんに使っているわけだが、そういった部分でも因果を巧みにまとめておりなんとも気持ちよく読める。しかし、この小説全体に流れる気持ちよさを支えているのは、なにもそんな表現技法ではない。多くの作中人物に注入された「矜持」こそが、この小説の気持ちよさを支えている。

矜持。それは、どうしても邪で独善的な場合の用法が目立つ「プライド」とは少し異なる。誇りを守る敬虔で強力で静謐な意志といった言い方がもっとも近いかもしれない。貧しても鈍しない一線があること。自分ではない守るべきもののために人間として約束をまっとうすること。なんだか、安っぽいハードボイルドのようでもあるが、おそらく、最近「矜持」というものについて深く考え続けているのであろう島田雅彦から生み出される、人物造形は格段にシャープになってきている。彼がナショナリズムという言葉に代替させてきたのは、国粋的な思想でもなんでもなく、すべての人間がもつべき矜持であると思いたい。プライドに拘泥してきたアイロニカルな青二才の本意と核心はここにあったのかもしれない。

矜持をいとも簡単に棄ててしまえる人間が多いこのしょぼい世の中において、というかそもそも矜持への無自覚や自分勝手な拡大解釈が許される世の中において、彼の怒りと諭しは、強力で共感できるカウンターになる。
やっ!島田雅彦!頼もしい!最後に「そんな日本へようこそ。いつの時代でも退廃姉妹がお相手します」って言ってしまえる、あいかわらずの青二才ぶりも、さらに頼もしい。

さて、怒涛で不眠の数週間が終わり、とりあえずなんとか夏期休暇にはいることができました。万歳。いつかこういった異状事態の乗り切り方をビジネスノウハウとして残してみたいと思っていたりもするけれど、おそらくそれは書き留めるようなものではなく、思考と行動のプロセスの再現フィルムでしかなく、これについては現状継続している社内的な研修プログラムでパフォーマンスしていければ、というところか。

で、その万歳の夏期休暇は、結局回避できなかった3つほどの宿題や、2つほどのお彼岸行事や、これまで忙しさにかまけけてできなかったもろもろの用事やだらだらで、すでに満杯。なのに『オーシャンズ12』とか『モーターサイクル・ダイアリーズ』なんてのを借りちゃったり、真鍋かをりのくだらないプロダクトプレイスメントドラマをみたり、おそまきながらいがらしみきおの『Sink』なんかも買っちゃっているので、なかなかアウトプットとしての「考えないための道具箱」が返上できない感じです。まあ、くどいので、ブログのタイトルまわりくらいは変えてみますか。

鶏、鶏・辛、辛、辛…。

2005-08-02 20:38:58 | ◎書
あいかわらずバタバタしているので、夕食にローソンでカウンターフーズをみつくろってきて食べはじめて愕然とした。
●新潟コシヒカリおにぎり 辛口仕上げ豚カレー角煮
●おにぎり屋 高菜めんたい
●からあげくん レッド
●つくね棒
内容のあまりの侘しさに愕然としたのではなく、無意識に買って「辛い系」がかぶっていることに気づいて愕然としたのである。「からあげくんは、ハバネロ味は辛すぎてだめだ。レッドにしよ」ってところまでは細心の注意を払えていたのだが、その他の選択において、ザルはだだ漏れだったというわけだ。
よくよく考えれば「チキン」もかぶっている。と考えていたら、昼ごはんが親子丼だったことを思い出した。そういえば、昨日の夜は、ピリ辛和風鶏からあげだったし、昼はチーズささみかつ丼だった。鶏、鶏・辛、鶏、鶏、鶏・辛、辛、辛
「おれ、食べるもんには、こだわらないほうだから!」ってのはきっとこういう人のことをいうのだろうって思った。悲しい。

えーと、本の話とかしないとだめかなあ。じゃ、とりあえず、仕事として読んでいるやつ。『ブランド・ポートフォリオ戦略』『グローバル・マーケティング 第2版』『ブランディング・ゲーム』。なにがやりたいのかは推してしかるべし。『ブランド・ポートフォリオ戦略』はアーカーの新刊で、またもや斜め読みしにくいかなあ、と思っていたけど、そうでもなく、「本を使う」という機能面では合格点。営業の待ち時間のあい間、TULLY'S COFFEEで集中したら1時間ほどで全体の構造が把握できたのはラッキーだ。複数ブランドの関係性という課題にもいちおう応えてくれている。まあ、基本的なことしか言っていないというのもわかっちゃいましたけれど。以上。

ごく最近の、ごく地味な活動。

2005-08-01 21:39:09 | ◎読
クライアントや社内のミーティングで土曜日の夕方まで東京に滞在し、いったん大阪の自宅に帰り、また日曜日の夜に帰還。「大阪に帰ってきたら、しんどいんちゃうのん?新幹線とか」と家族に言われているのだけれど、じつは往復のその新幹線の5時間という時間、そこでのON-OFFの切り替えが、わたしのメンタル&フィジカルコンディションを制御しているともいえ、なんとしてでも帰るという習慣をつらぬいているわけです。いま、もしかしたら、いまいちばん愉しい時間は、新幹線に乗っている時間かもしれない。Peaceful time & space!耳元をぶんぶん飛び回る虫はうるさいけど気にせず日夜頑張ってます!って、やっぱちょっとしんどいわ。
予想どおり、夏休みまではグウの音もでないんだけど、まあそんなちょっとしたPeaceful timeをつかって読んだ本の感想とか夢想とかのフラグメンツを。

『土の中の子供』。連載時の「新潮」をひっぱりだしてきて読んでみた。『遮光』のとき同様に、切ったり埋めたりといった破壊の身体性への言及は気になり、ほんとうは、そのあたりついて感想を寄せなければならないのかもしれないけれど、なにより感じたのは「文体のマイナーコード」ということ。音楽にマイナー&メジャーコードがあるように、それは文体にもある。なにが文体をマイナーorメジャーたらしめているのか?音楽のような和音の構成要素といったルールはあるのか?「音」が、「明るい響き」「悲しい響き」と感じられるところになにか理屈(理論)があるとすれば、「文体のマイナー性」というのは「語感」に集約されてしまうのだろうけれど。きっとすでに明確な答えがあるか、もしくは答えなんて出ないか、のどちらかなんだろうなあ。
まあ、ようは、いまどき珍しく暗い(とか硬い)ってことなんですけどね。

●アガンベンの『バートルビー 偶然性について』ishmaelさんが、はてなでキーワード化したまさにその日、青山ブックセンターで新刊平積みされていたので、これも啓示と思い購入。メルヴィルの『バートルビー』については、(そもそも日本で翻訳が容易に入手できないこともあって)まったく知らなかったんだけど、欧米の多くの小説家や批評家がこの小説の主人公が不条理に発声する「しないほうがいいのですが(I would prefer not to)」というフレーズについて言及したくなるのはよくわかる。しかし、それ以前に、描写を中心とした小説の書き方自体がすばらしく、そちらのほうの感想などを書いてみたいと思っているところ。たまたま『白鯨』を再読しだしていることもあり、そっちはそっちであらためてはまっていることもあり、なんだかメルヴィルの夏になりそう。

『イブの眠り 第4巻』。あれから半年以上もたって、ようやく1冊。これほどスローペースで書いているにもかかわらず、1冊にまとまったときのドライブ感には敬服する。ただし、『YASHA』とのからみが多すぎて、「外伝」以外のなにものでもない展開になってきているのが少し残念か。やはり吉田秋生には、新しい物語を期待してしまう。

●佐藤友哉。『子供たち怒る怒る怒る』を入手したんだけど、その前に、と思い、昨年の『群像』掲載の「チェリーフィッシュにうってつけの日」と「小川のほとりで」を、ややまじめに読んでみる。ユヤタンビギナーだしグラス家の話まで戻っている時間もないので、真新しい感想はいまのところありません。ただ、「小川のほとり」の後半の小川のほとりでの鏡家の姉妹のコミュニケーションはなかなか面白かった。おそらく、この関係性はThe only chaildのぼくには書けないかも。いや書けるか。妹感覚は無理か。

●ELOの『TIME』。「トワイライト」が「電車男」の挿入歌になっているなんて露知らずTUTAYAで借りる。じつは、『TIME』のLPは、聞き込みすぎて聞けなくなったので2枚も買っちゃったというくらいにはまっていた。きっと、オールタイムベスト10に入ると思う。久しぶりに聞いてみると、俗っぽいけどやっぱりいい。まあ、ELOはこれだけなんだけどね。そういえば、styxの『Cornerstone』なんてのも久々に聞いてみたいなあ。万歳、産業ロック!

●おおむねの人がふだんは関心をもっていないことを、極めて興味深く、ドラマチックに伝えるにはどうすればいい?答え。沢木耕太郎に書いてもらう。このことは『新潮 8月号』に掲載された「百の谷、雪の嶺」を読めばよくわかる。登山家の山野井泰・妙子夫妻がヒマラヤのギャチュンカンに挑み・敗れ・帰還し・恢復していくまでの厳しいプロセスを活写したこのノンフィクションは、登山にまったく関心のない人をも冒頭からひきこみ一気に読ませてしまう。沢木耕太郎の真骨頂。久しぶりに沢木を読んだ気がした。それもそのはず、最近の彼は、まとまった形で正しいノンフィクションを書くことはなく、色物にせいを出すことが多くなっていた。たとえば、自分自身が題材となってしまうドキュメント(『イルカと墜落』)。それだけならまだしも、小説まで。自分を描くこれら一連の作品は、正直、よくなかった。
もう沢木を読むことはないだろうなあ、と思っていたが、ふと読み始めた「百の谷、雪の嶺」で、彼は山野井の恢復に沿うように復活していった。「小説化」の欲動と闘っていたのかもしれないが、よくぞこらえた。やはり沢木はノンフィクションだ。くだらない自伝小説なんかで晩節を汚すのではなく、もしできるのであれば『冷血』(※)のような方法で筆をおいてほしい。

こうしてみると、忙しいなかでも、けっこう読んでるなあ。でも、なにか意見をかけるほどのめりこんでいない、ってことだね。きっと。

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(※)新潮社の9月の新刊情報によると、どうやら『冷血』は再販されるらしい。『百年の孤独』の翻訳リマスリングみたいなもんかなあ。それともたんに、保坂の『小説の自由』で初めて知った人からの要望が多かったから?いずれにしても瀧口を超える訳が実現するかどうか興味深い。あと、なんで新潮社は最近ブローディガンに注力してんだろ。『アメリカの鱒釣り』なんて貴重な本を文庫化するなよ。まあ、新しいの出すみたいだから許すけれど。同じ月に出る『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』ってのも気になるけれど。