考えるための道具箱

Thinking tool box

◎SANKEI EXPRESS。

2006-11-25 22:06:59 | ◎業
すでにいろいろな形で評価を下されている、SANKEI EXPRESSについて、手に入りにくくなる前に。

□GOOD

●旧態にある新聞社においてこの試みじたいは面白い。企画を実行までもっていけるところは産経新聞社らしい。
●コンセプトが明らかで一貫している。もはや若い世代では、ネットがあるから新聞は購読していないです、という人も増えているが、そういった人たちに「紙としての新聞」に目を向けてもらう、という考え方に対してにさまざまな具体策を集中させた。掻い摘んだ記事、手に馴染むサイズ、駅売り70円という価格設定、記事のエンタテイメント性など。
ただし、新聞の場合、こういったターゲット設定が奏功するかはどうかはわからない。どちらかというと、思いっきり失敗してることのほうが多い。たとえば「TOKYO Lady Kong(東京レディコング)」。最近もほかになんかあったような気がする。無くなるんじゃないか、と急いで買いに行ったあれはなんだったけ。ああ、そうだ朝日だ。『SEVEN』だ。どっかに残っていないかなあ。
●手順を踏んだマーケティング。とりあえず、首都圏・京都市の宅配でスタートしたのでしたっけ。一ヶ月たったいまでは、大阪では駅売りで買えます。販売地域・チャネルについてはさまざまなオプションはあっただろうけれど、テスト的にスタートしたのは正解。
●厚い。32ページ。これは新聞好きにとってはたまらない魅力。紙面提携もしている「USA TODAY」なんて、最近はわからないけれど、昔は別冊につぐ別冊で凄まじい厚みになっていたものだ。
●読むところはある。この手のもの創刊時には、結局「読むところないねえ」というのが致命的な課題になることが多いが、さすがに日刊紙だけあって読むところはある。もし、時間はたっぷりあるのにポケットには小銭しかない、というときには、ぜひ。
●佐藤優のコラムなんてのも載っています。読者からのコメントに対する回答、個人に対する意見など、筆致がブログ風なのが面白い。というか、ブログの転載?……うわあ「ビジネスアイ」からの転載だ。
●ワン・ソース・マルチユース。2~3日前に、たとえばZAKZAKなどでアップされていたコラム記事がそのまま転載されている。正しいかどうかは別として、賢い使い方ではある。
●美しい新聞。同紙の広告戦略のとおり、手が汚れない、というのは結構大きなベネフィットではある。新聞ではないけど「ビッグコミックスペリオール」なんてのは酷くって、読んだあとに真っ黒になった手に愕然とすることも多いので。
●ネットとの連動。編集長と記者が「いまのところ」しっかりとブログを書いている。真偽のほどはわからないが、コメントでの受け答えも行っている。
●DTPでの効率化を目指しているところが見て取れる。これは、読者サイドのGOODではないが、「フジサンケイビジネスアイ」同様、制作システムへの「トライアルじたい」は好ましい。ところで、「SANKEI EXPRESS」もJANコードをとっているのだろうか。

□NO GOOD

●まず、ターゲット設定。これは選択の問題なので正しい答えはないわけだが、当面、企業としての新聞社は新聞の危機より、トータルで新聞社の危機を考えたほうがいい。確かに「若者の活字離れ」はいつの時代においても手軽に合意が得られやすい問題ではあるが、課題抽出が手軽なものほど、解決の答えが導き出しにくいものはない。ここは若年層というより、むしろ、数年後には駅売りの「サンスポ」「夕刊フジ」の部数が激減することを考えれば壮年対策も必要という選択しもあったかもしれない。壮年の埋め合わせを若年で、と考えたのかもしれないけれど、その場合、宅配スタートはいちおう間違ってはいる。リタイア向けに、サンスポもフジもぶっこんだぶ厚い宅配日刊紙なんて発想もあるかもしれないけれど、こればかりはやはりギャンブルするしかない選択だ。もっとも、チャネルについて、す早いコレクトは行っているようなので、これはなかなか興味深い。
●ヨコ組み。ぼくは何が何でもタテ組みというほどの信者ではないが、このヨコ組みはまったくいただけない。新聞というものは、そもそも斜め読みが基本ということを考えたとき、やはりヨコ組みでは、飛ばし読みができないということを露呈してしまった。
同じヨコ組みであっても、もう少し読みにくさをカバーできるような、レイアウトやタイポグラフィを熟慮する必要はあっただろう。
●美しくない。美しい、といっておいてなんだが、紙面のデザインについてはまったく美しくない。スカスカ感が否めないのは、きっと「白場」の微妙なバランスだろう。罫線とかちょっとしたデザインエレメントが下手なパワーポイントみたいだ。「フジサンケイビジネスアイ」のときもそうだったが簡易DTPの限界?いや、じつはこれもむしろヨコ組みレイアウトの限界かもしれない。
●アートと称するが、アートでもなんでもないエンタテイメントページが半分以上を占める。アートならいいんだけれどね。もちろん黒谷友香の大きな写真だって間違ってはいないけれど、それはWEBでいいです。
●ワン・ソースをマルチユースしすぎ。フジサンケイグループの文字媒体のダイジェスト版といっても言いすぎではないような気もする。もっとも、「持ち歩くためにWEBをプリントアウトしたもの、それがSANKEI EXPRESSです」というなら話は別だが。
●もし、これを新聞というなら、さすがフジサンケイグループだといわざるをえない。記事の「選択と集中」というのは聞こえがいいが、そこには確実に確信犯的なもの、ないしは恣意が介在するわけで、社説により意思を表明するならともかく、記事の選別による意思の分別はたとえ悪意とか計算がないとしてもあまり正しくはない。また、現実的にはいわゆる五大紙については新聞というのはなにも情報を仕入れるだけのものではなく、複眼的な視点を知る場であることも重要になっていて、ここを端折るということはやはり新聞としての機能を放擲しているといわざるをえない。もっとも、プロモーション・キャッチフレーズを除いては、「SANKEI EXPRESS」のことを「新聞」とは言っていないわけだけれど。

◎1000の小説。

2006-11-23 14:21:20 | ◎読
小説の今を考えるという点で、今年『新潮』は、他の文芸誌よりもつねに一歩先を行っていた、とは過言だろうか。編集長の矢野さんが、後記などで表現する「新しい言葉」「新しい作家」「新しい飛躍」「新しい文学」が、どの地平へ向かおうとするものなのかはそれほど明確ではないし、幾人かの作家の新しい試みも完全に成功しているとはいえないかもしれないが、それでも、いまの『新潮』には、言葉というものの失速に抗おうとする新しい言葉の胎動が確実にみてとれる。いまでは見慣れてしまってほとんど気づくこともないが誌名(社名)にこめられたミッションを忠実になぞっている。

ことのことは、もはや号数としては本年最後となってしまう12月号でも顕著だ。もちろん、新しい試みであるがゆえに、他方では、その表層的な軽さとかコードのようなものからの逸脱が顰まれることも多いだろう。たとえば、それは佐藤友哉であり、中原昌也であり、舞城王太郎であり、場合によっては平野啓一郎までも入るかもしれない。しかし、少なくともいえることは、彼らが、何かを「考えさせる」「考えざるをえないような」言葉を提出していることは確かであり、また、考え方やその表し方・接し方はそれぞれ違うとしても、文学はひょっとしてどこかでまだ生きているんじゃないか、とその帰還を待ちわびていることも確かだろう。彼らが、こういったことに自覚的かといえば、自覚的でないものも認められるが、それは自覚がデフォルトになっているため、自覚されないというだけであって、このあたりが愛と死というツールだけには異様なまでには自覚的で、かたやそれを表現する言葉の不可能性を一切疑うことのない平台のブロックバスターとは次元のまったく違う話である。もちろん小説というものは、たとえどのようなものであっても書き切ることはそれだけで敬うべき、す晴らしい行為だと思うし、経済行為としても有意義ではあるかもしれないが、向かう方向がひとつだけということ対し誰かが鐘をならし続けなければならない。

●佐藤友哉の『1000の小説とバックベアード』は一見すると、なにかのパロディのようにしか見えない。架空の職業、やみという敵対集団の存在、展開の主導を握ってしまう女性の唐突な登場は、まぎれもなく村上春樹だし、後半にいたって言及される、けっして表現することのできない死への諦念や『日本文学』の擬人化、太宰(だざいの変換候補の一番目が堕罪だなんて!)の重用はまさに高橋源一郎だ。さらに、本文とほとんどまったく無関係と思われる形で配置されているチャプタータイトルは、それを列挙するとわかるが、確実に「作家になりたい人のための小説入門」である(「作家志望者はまず無職になれ」「こまったら新キャラクターを登場させよ」「古典は必読だが読みすぎるな」…)。いったい本気で書いているのかちょっとしたおふざけなのか。
そして、その戯れに輪をかけるような、正直さ、というか直截さ。小説や文学を書くことの徒労と無力感と、その先に盲点のように見え隠れする希望。これらを表現する手法としてはあまりにもストレートだ。これは青臭さなのか?青臭さへのパロディなのか?たとえば、『1000の小説とバックベアード』で言うところの「片説家」ではない「小説家」であれば、きっと1、2の小説を書けば途端に直面してしまうような、「書いている先から感じる、くだらなさ」、「書くことのなさ」そしてそれを乗り越えるには、「書き続けるしかない」という内省をここまでダイレクトに、あたかも創作プロセスを公開するように書いてしまうことは正しいのか?斜に構えているのは間違いないとしても、ほんとうのところの佐藤の立ち位置はよくわからない。しかし、少なくとも370枚書き切る問題意識は決して低くはないし、自覚的としかいいようのない工夫は巧みではある。小説というものに対する多彩な愛着から生まれる仕事は、やはり片説家の仕事ではない。確かに、それがいいか悪いかは別として、この小説は、佐藤友哉の新しい手数ではある。どこかの兼小説家のような言葉に対する見当違いな正義感に比べるとはるかに格好いい。

●先月から連載が始まった平野啓一郎の『決壊』は、今月号においてもその緊張感を持続している。とりわけ面白いのは、崇のポリフォニーの兆しとにもなりえるかのような異様な「語り」だ。日常の対話のなかで突然でてくるこの芝居の台詞のような語りはいったい何なのか。『1000の小説…』と同じようにストレートに説明的な吐露は何を意味するのか。作中における意味合いを理解するためには、もう少し崇という人間についての情報が必要だ。ひとついえるのは、小説において、紋切り型で埋め草のような会話に対峙できるは、真にリアリティのある会話だけではなく、たとえ巧くなくても言葉の強度であってもよいということだろうか。『決壊』の相変わらずの薄気味悪さについては、注視したい。

●ただし、中原昌也の今月の『怪力の文芸編集者』はいただけない。手法としては面白いし、現代詩という点でまぎれもない小説だし、読みながら吹きだしてしまうわけだが、それでもこれは中原昌也だから許されるという、注釈がつくしろものである。つまり新人賞の応募小説に書いても一切評価されない。いや、新人作家は間違ってもこんなもの書かない(書けない)だろうから、そういった意味では、オリジナリティのある言葉かもしれない。

しかし、1000の小説という発想は意表をついて面白い。1000を決める事業なんて起こしたくなる。

◎出口汪の論理エンジン。

2006-11-22 02:34:52 | ◎読
「流行っているらしいんですよ」と、Nくんに紹介されたとき「『論理エンジン』なんて、また高橋メソッドみたいな一攫千金のネーミングつけるなんてコマーシャリズムの骨頂だなあ」と思っていたのだけれど、WEBサイトで、『[出口式]論理力ノート』をみつけたとき、「ああ!」と、繋がった。その「ノート」は、いわゆるコンビニムックで、1週間ほど前に、朝食を買いにいった、まさに会社の近所のA/Pでみかけていて、「まだまだ、論理思考ブームにのっかれるものだなあ」と期待せずに手にとったところ、冒頭から「他者意識」とか「自立心」といった前提に触れていて、それが「構造化」「弁証法」「全体図」さらには「読書」といったキーワードに展開していくに至り、あれ、結構まっとうなこといっているよなあ、といささかの驚きを覚えつつも、朝一番で、購買意欲までボーっとしていたので買うまでにはいたらなかった。そのあとも、いちおう気になってはいて、いくつかの書店で軽く物色はしていたのだけれど、この手のコンビニムックは宿命的にパッとでてパッと消えるものだという先入観もあり、しかも所詮はコンビニムックだしなあ、と思い、なかば忘れかけていたところ、まさに偶然らしい偶然で繋がったというわけだ。

早速、ちょっと本気になって『[出口式]論理力ノート』を探したところ、京橋の紀伊國屋であっさり見つかった。それこそコンビニ“図解”ムックだけあって、1時間もあればおおむねのところは読みきれるのだけれど、最初に感じた印象どおり、「論理的に考えてアウトプットする」ということについて、この出口汪の論理思考学習法はかなり本質的なところをついている。というか、ブームの滓のようなものも含めて量産されているロジカルシンキング入門書において、そういった結局は誰かの露骨なモノマネにしかなっていなものとは一線を画す秀逸のコンセプトだと思える。

もちろん、文章を書くことや話すことについてのテクニカルなノウハウについても核心をついているが、それ以上に、全体を覆っている論理思考の意味というか、論理思考の必要性を思う立ち位置のようなものが、他者とのコミュニケーションの難題という前提の上にあり、それは切実な課題解決から生まれてきたのではないか、と思わせるほどのプラクティカルさをもつ。

そういったことも踏まえてここで学びたいテーマをピックアップすると以下のようなことになる(本文のタイトルから抽出)。

●論理は「他者意識」から生まれる
●「自立心」が論理力を発達させる
●論理を意識しなくなるまで習熟せよ
●「譲歩」「弁証法」を意識すれば、明快に読める
●要点を取りだして「因果関係」をつかむ
●相手の語った「常識」や「前提」を疑ってみる
●ものの本質をじっくり論ずる
●「話し言葉」と「書き言葉」の違い
●設計図をつくって全体を眺めてみる
●「体形」と「お洒落」に気を配る
●読書によって器を大きくせよ

こうやって書いてしまうと、かなりあたりまえのようにみえるが、じつは、論理思考、というか、言葉により他者をわかることや理解してもらうことの不可能性が決定的であるとしても、それでもそこに1mmでも0.5mmでも近づくために粘る思考法はこれ以上でもこれ以下でもないような気がする。結局、ビジネスマンをはじめとする市井の私たちは「論理学」を学ぶわけではないのだから、最小限のロジカルシンキングが身に付けばよいのだし、そういったロジカルシンキングであれば、先天的なものではなくトレーニングで修得できるのであり、そのための正しい近道がここにある。

これを受験のためのテクニックというアウトプットにしてしまうと、多少なりとも誤解を招きそうだが、こういった方法論(というか考え方)が世の中には存在し、それを早いうちに知り、習熟することが、その後の暮らしにおいてプラスに響くわけだから、とりあえず、受験のための勉強法として強制的に学ばせる、という考え方はある意味間違ってはいない。

思えば、高校3年生のときに、現国の授業は通常の履修範囲のプログラムと、それとは別に受験対策用の2コマを受けていて、前者はきわめて感性的に文学というものの深さや面白さを教えるものであり(テキストは、たとえばブルーノ・タウトの桂離宮に触れる一文)、後者は文章の構造を徹底して読み解くといったもので(こちらは、桑原武夫の『文学入門』を1年かけて読みきるというもの)、私は双方の授業により文学とか文章によるコミュニケーションへの関心を強く持つことになったのだが、その両方は、それぞれ、こういう意味合いで大事なのだ、というからくりを統合的に示唆してくれる人がいたら出口汪のような考え方にもう少し早く到達できていたかもしれない。

なお、おおむねのところは普段から考えていたことと一致しているのだが、ひとつだけ「●「接続語」「指示語」で流れをよくする」という部分が文章テクニックの定石から離れているという点で瞬間的には違和を感じた。いわゆる「トピックセンテンス」と「サポーティングセンテンス」をつなぐ際に、文章の流れ方により解らせることが、「うまい文章」の要諦であり、接続詞ばかりが目立つ文章はあまり「賢くない」と、いうことを教わってきたし、商業的な文章を書く場合は、それらの使用制限をかなり重要視してきた。たとえ初稿では多用したとしても、最終的には抜く、という推敲も行ってきた。しかし、それこそロジカルに考えたときには、「接続詞」「指示語」を正しく使うことが、たとえ文体自体がゴリゴリしたとしてもわかりやすさを担保できる、という考え方は至極まっとうである。とりわけ、斜め読みを前提とするWEBライティングにおいては、あえて「接続詞」「指示語」を使う、ということが重要になるかもしれない。これは少し検証してみよう。

◎誰と話せばいいのか。

2006-11-13 14:23:13 | ◎業
ある側面において、私は独りである。理由はまあどうでもよいが、これはまあいたし方ないことだから、そのことに悪態をつくというわけでもないし、別にそういった状況がとりたてて苦行というわけでもない。しかし、さまざまな要件の処し方についてときには他者と確認をとることも必要である。それは、判断の軸のバリエーションをできるだけ多く知ることであり、戒めを知ることであり、場合によっては自分の言動がそれほど大きくは間違っていないことの確認でもある。
したがって、そのときの他者は、利害関係の少ない第三者であることが望ましい。それは主軸となっている共同体からできるだけ離れたところで活動する個人が良いことは言うまでもなく、たとえば、自分とはまったく異なる職種であり、職業観を持ち、しかし立場的には自分と近いところにある知人、学生時代の友人や近隣に住む職業人といった人たちとのオープンでプレーンな対話のようなものも非常に重要になってくる(もちろん直接的なメリットを何も求めない長期的な互酬の関係)。

しかし、実際のところはそういった異種・異能の人とそんなに頻繁には会うこともできないわけで、その点で、たとえどれほど優秀な経営者であっても歴史との対話、傑人との対話の中にフレームワークを求めるというのは、実感としてよくわかるようになってきた。ただし、私の場合は、以前にも書いたように猛省すべきことなのだが、日本を始めとする東洋の歴史の深淵を知ることについての優先順位がなかなか浮上しない。だからといってはなんだが、現在は、そのあたりのことを近現代の西洋の思想や小説の言葉に託している。そこにある直裁的な答えのなさにこそ、その答えについてあれこれ考えてみることこそ、有効な第三者的存在の持ちようではないかと思っているわけだ。もちろん、そのような対話を蓄積したからといって、すばらしい人格が形成されるわけでもなく、つねに判断の軸がブレない指導者が誕生するわけでもない。むしろ、物の見方と価値の多様性ばかりが蓄積され、世界のよくわからなさが深化するわけだが、そのことにより、前言撤回の勇気とリニアな思考からの解放が与えられることこそが重要ではないかと思う。これが基本型。

一方でもっと直接的な指南を受けることや、現代に生きる人にロールモデルやメンターを措定(?仮託?)することも、単純なエネルギーの注入という点では捨てたものではない。たとえば、ここまで書いてきたようなことはまだ完全に私の血肉にはなりきれていないけれど、平川克美氏のビジネスや言葉についての発想に負うところが大きいし、また『会社は誰のために』といった大きなつくりの本であっても、そこ語られている、「私心を捨てる」ことについての考え方は、私のような小さい人間が物事を判断していくときのひとつの拠り所にはなるだろう。

こういった形で仕事への立ち位置を丹念に語るものが参考になる場合もあるし、一方でその勢いだけで、おいおまえなにを挫けているのだ、と諭すようなものもある。最近では波頭亮という経営コンサルタントが著した『プロフェショナル原論』などがこれにあたる。これは、プロフェッショナルの行動原則のようなものをコンサルティングファームの実態に投影しながら明確にしていくことを主軸とする本で、たとえば以下のような形でプロフェッショナルの掟を構造化しようとしている。
(1)クライアント インタレスト ファースト(顧客利益第一主義):すべてはクライアントのために
(2)アウトプット オリエンテッド(成果志向):結果がすべて
(3)クオリティ コンシャス(品質追求):本気で最高を目指す
(4)ヴァリュー ベース(価値主義):コストは問わない
(5)センス オブ オーナーシップ(全権意識):全て決め、全てやり、全て負う
レベルの差はあるといえ、またプロフェッショナルとまではいかなくともごく普通の職業人として、いくつかの項目に共感できる。とりわけ(1)や(5)、さらに、(ある程度議論のできる状態でアウトプットできるスキルとして)少し解釈を変えた(2)などは、標語にしてもよいくらいだ。
ただし「掟」というだけあって(rulesではないわけだ)、読み方次第では、プロというよりただ闇雲に経営コンサルタントという共同体の中での仕事の厳しさと矜持のようなものを浮かびあがらせているだけにみえなくもない。しかし、だからといってこの本がNGかといえばそんなことはなく、じつは、この本を読む私にとって、重要なのはそういった部分であるともいえる。たとえば、プロフェッショナルの「体を動かすのを好む」「タフである」という行動特性、同調無用のインディペンデント性などが、さらに異常ともいえるハードワークがなんの論理も因果もなく挙げられているが(ファクトは集積されている)、これらはある種の気合いとしてストレートに身体に入ってくる部分が多く、体育会的な発想もあながち間違ってはいないと思わせるし、重労働は確かにあってそれは避けられないが、いかに報われるようにするかについてあれこれ考えをめぐらせることこそが仕事だ、という基本的なことにあらためて立ち返らせてくれる。

世界には、アクチュアルであれバーチャルであれ、また理知によるものであれ感情によるものであれ、行く先を照らしてくれるものがほんとうにたくさんある。そして、いまはまだ、大海のほんのひと握りどころか、ひと摘みにも触れられていないことが救いである。

◎『SPEEDBOY!』について、もう少し。

2006-11-06 20:58:07 | ◎読
予想どおり、珍しく一気に読み終えることができたんだけれど、結局のところこれは『山ん中の獅見朋成雄』の前後に書きためられたエチュードなんだろう。ある登場人物の性格をおおむねのところ固定してみて、まず彼/彼女をスタート地点に置いてみて、ルーレットで進む方向を決める。南東や東北東はもとより、N.32.8°E.といった、無限の選択肢が小説というものの可能性であり、そういった意味では、『SPEEDBOY!』は舞城の無限の想像力の力量を示すものであり、「データベース」のマイニングの巧さを示すものである。なにより重要なのは、これが「遊び」であり、こんなふうにひとり遊びを続けられる、舞城の才能を羨めばいいのか、状況をつくりあげた努力を敬えばいいのか。

ところで、「登場人物の性格をおおむねところで固定してみて…」と書いたが、じつは「性格とテーマを…」と書いて「テーマ」を消した。もちろん、これは(マーケティング的な外野力に引かれているものはもちろんそうでなくても)あらかじめテーマを決めて書かれている小説、さらには、結果として明確でそれ以外に答えがないようなテーマを提出してしまう小説の浅薄さを思ってのことだが、『SPEEDBOY!』について「テーマ…」を勘繰りたく思ったのは、きっとニーチェのせいだろうと思う。いうまでもなく「超人」と「永劫回帰」のことだ。

その確かさを同定できないのは歯がゆいところだし、たとえば「永劫回帰」についていえば、ニーチェが考えるところの「永劫回帰」とはまったく異なってもいる。寸分違うことのないまったく同じ人生を繰り返すとしたら、いっさい迷わずにその選択肢を取れるだけ強い意志をもって毎日をいきているか?といったような問いに、さまざまな生き方の選択肢をとる成雄の物語は、まったく応えていない。むしろ、その場の状況に応じて、かなり重要な問題であっても刹那的な選択をしているかのようにもみえる。しかし、一方でまた、そこに選択への揺るぎと迷いのない意志があるのも、また確かである。このあたりが、「なんとなく」ニーチェを想起させる理由でもあるし、ぼくが「なんとなく」成雄のキャラクターに惹かれる理由でもあるのだろう。成雄のもつその強さは、一歩間違えば、独善的な原理主義のキャラクターに見えてしまうし、実際に会うことができれば、そのことを強く意識をせざるをえないのだろうけれど(つまり嫌なやつ)、そこにある精錬された強さは人を(僕を)ひきつける。このあたりは、ともすれば何かのプロパガンダに利用されてしまいそうであり、そんなところまでも、ニーチェ的といえばニーチェ的である。

ちょうど中村書店に青土社の現代ガイドブックシリーズ『フリードリヒ・ニーチェ』がでていたので、成雄のことを思いながら読んでみよう(ちなみにこのシリーズは「あらかじめ特別な知識はなにも要求されません」というだけあって、忙中でも迷いなしに読むことができる)。

最近買って、中途半端に読んでいる本。

2006-11-04 20:36:46 | ◎読
どうせ読むのなら、日常の仕事や経営課題への解が書かれているような本を読んだほうがいいのだろうけれど、タフなストレス状態のなかではバランスも必要だ。前にも書いたことがあるが、ぼくの場合は、つねに4~5冊の本を持ち歩きすべてをパラパラと斜め読みするだけでも充分なストレスコントロールのための一助となる。もっとも、そういった読み方をしているせいもあって、最近では完読している本が少なくなってきているが、もはや、通読するような本の読み方はあきらめていて、むしろ読み通すより、いちおう全体は把握しつつも特定の部分を集中的に考え踏みとどまりながら読むといった方法のほうが意味があるんじゃないか、と勝手な解釈をしている。

とはいえ最近はそんな時間すら確保するのが難しくなってきて、しょっちゅう箱いっぱいにつまったボールを、がさがさゆすりながら、なんとか見つけられた隙間に、いくぶん意地になって本を押し込んでいるような感じだ。しばらくは、とりあえず買っておくだけの「読書」が続く。

SPEEDBOY!(舞城王太郎)
:これは『群像』に掲載されたとき、どうせすぐに単行本になるだろうから、と見送っていたのだけれど、新しいシリーズの「講談社BOX」という望ましい形で発刊された。やはり、舞城の本はこれくらい手軽でジャンクなほうがいい。『ディスコ探偵水曜日』のほうは、のらくら続いているにも関わらず、そのペースにもついていけず読みきれていないため、まず手軽な『SPEEDBOY!』を読み始めることにしたのだけれど、冒頭の「線の上を走り続けるのは難しいが空中に並んだ点に順番に体当たりするのはたやすい。走るとき、僕の意識は足にはなくて胸にある。走る先に浮かんで並ぶソフトボール大の白いほんわかした玉を僕はみぞおちのちょっと上くらいに当てていく。」という一文に驚かされる。これはもしかしたら超一流のスプリンターの思想そのものではないか?といっても言いすぎではない嘘である。このあと、成雄が、走る速度を超科学的に加速していくプロセスが丹念に示されるのだが、そこでも嘘のリアリティが連綿と続く。「他人の意識は自分の身体にブレーキをかけるだろうか?」といったような発想には、物事の深淵を考えつくしていないとなかなか到達しない。この小説は、めずらしく短時間で一気読みしてしまいそうだ。
思えば酷評も多かった『山ん中の獅見朋成雄』について、ぼく自身は成雄の人格を含めて惹かれていたのだから好意的な視点は当然か。『SPEEDBOY!』の成雄とは別者のようだけれど、人は変わっていない。この性格形成の一貫性もすばらしい。
マリ&フィフィの虐殺ソングブック(中原昌也)
:このくだらなさの勢いを見ると、もう無理して長いものは書かなくてもよいのではないか、果ては場合によってはタイトルを考えるだけでもよいのではないか、と思わせる。とはいえやはり、だれかしっかりした不屈の編集者が四六時中介護しながら長編を書き上げるさまをみたいという気持ちは完全にはあきらめきれない。
熊の敷石(堀江敏幸)
コレラ時代の愛(ガブリエル・ガルシア=マルケス)
:珍しく『わが悲しき娼婦たちの思い出』を短時間で完読することができたのは、マルケスの語りに加え、木村榮一の訳の負うところも大きいだろう。『わが悲しき…』は、事前の触れ込みでは、なんとなく「淫らさ」みたいなものが強調されていて、それなら少しうんざりするなあと思っていたのだが、そこはマルケス、人生という世界を肯定し、純度高くろ過した。その前段階ともいわれる『コレラ…』もまた楽しみだ。
世界は村上春樹をどう読むか
:パワーズの村上評を読み逃していたので、こちらもよい形の本にしてくれた。つい最近、清水良典のたいへん興味深い『村上春樹はくせになる』を読んだあと、そのくせを思い出し『羊をめぐる…』なんかを再読したりしたのだが、村上春樹はやはり面白い。読み返すたびにここまで異なる視座が提供される長編小説はほかにはあまりない、ということを実感した。
ロリータ(ウラジミール・ナボコフ)
:こんなにも早く新訳を文庫化してくれるのは、一部では不評だが、ぼくとしては嬉しい。どうしても早く読みたいものは単行本で買って、すぐに文庫化されても、どうしても早く読みたいわけだから不服はない(たとえば『コレラ時代…』が来春文庫化されても)。こういった、自分自身の真芯ではないがいつかは読みたいと思っているような本や、旧訳は読んだけれどなあといった本(『冷血』)こそ悩みどころだったのだが、この商魂には大きく賛同する。しかし、一方では、いま翻訳中といわれている、あれとかこれとかを加速することに注力してほしいものでもある。
ほぼ日手帳の秘密2007
:なんにしても手帳を書くことはとても大切である。ほぼ日手帳は、ぼくが使うというわけでなないのだけれど、たいへん魅力的な手帳である。じつは、商品開発のプロセスなども学ぶところは大きい。