考えるための道具箱

Thinking tool box

◎部門目標

2009-01-19 00:40:31 | ◎業
2009年度の部門目標[※1]は、「知識デザインの具体化」です。「知識デザイン」については、ビジネスユニット内では、すでに、何度かお話させていただいたと思いますが、この「知識デザイン」を私たちの具体的なアイデンティティとして確立していく元年と位置づけたいと思います。

部内のメンバーには、繰り返しになりますが、「知識デザイン」とは、クライアント企業や商品のなかに複雑に重層的に蓄積されている知識を、よりわかりやすくエキサイティングにデザインしていく技術で、もちろんここでいうデザインとは、単なるグラフィックデザインだけを示すものではなく、いわゆるコミュニケーション設計とかストーリーといったものを含むデザインということになります[※2]。

これまでの日常の業務も、この「知識デザイン」に極めて近い方法で取り組んでもらえていると思いますが、ちょっとした矜持もって、自覚的に、わたしたちの仕事は、「企業の知識デザインをサポートすることである」さらには「私たち自身が知識デザイン企業である」ということを目指してしていただければと思います。

このことによって、[対外的]には、あらゆる情報の非対称をなくしていくことで、豊かで正しい消費活動に貢献する会社であることを明確にし、[対外的]には、むしろこちらのほうが重要かもしれませんが、個人個人の知的好奇心がそのまま仕事に直結するという喜びのある会社である、ということをひとつの理想として、これが実現できる流れを作っていきたいと思います。

もちろんビジョンだけでは、お金は儲かりませんので、この「知識デザイン」という考え方を具体的なビジネスとして私たちの利益の源泉としていくために、4つのアクションをキーワードとしてあげておきます。

まず、知識デザインというものを端的にあらわす[商品]が必要です。これについては、すでに現状の仕事のなかでその息吹といえるようなものが生まれていて、たいへん力強く感じています。それは、たとえば、「雑誌型の情報カタログ」であったり「情報を徹底して集積する教育・研修ツール」であったり「ユーザーコミュニティ型のWEBサイト」といった仕事なのですが、今年はそういったものをパッケージとしてメニュー化・体系化し、対外的にアピールできるような形として完成度を高めていければと思います。具体的な成功事例が、どうすればプロダクツになるのか、これについては、みなさんもぜひ考えてください。

ただし、[商品]は、言うまでもなく[サービス]との両輪です。私たちはあくまでも「サービス業」なんだ、ということをあらためて強く認識いただき、「ここまでやるか」のCS(顧客満足)を追求していきたいと思います。この[サービス]が2つ目のキーワードです。そういったコミュニケーション活動のなかで、クライアントからの「ああ、こいつとは話ができる」といった地道な評価をコツコツと積み上げていくことで、はじめて「商品」が認められ、仕事がうまれるし、積み上げていくことでしか私たちの仕事は拡がらないと思います。

もちろん、これは、「おもねる」とか「こびる」といったことではなく、あくまでも「知識提供のサービス」による顧客満足です。ときには相手に憑依するほどの慮りをもって、本質課題(オーダー)を先読みし、相手がイメージしていた以上の回答を提出していく。そういったことが、私たちのような仕事における顧客満足の理想ではありますが、ハードルはけっして低くはありません。情報の知悉に基づいた仮説力といった技術も必要になります。

ただし、キャリアを問わず、最低限の満足を提供できる方法はあります。それは、クライアント企業の商品情報、市場情報などの「ファクト」とりわけ「見込客」に対するファクトに対する関心と蓄積です。これさえしっかり確保できれば、キャリアを問わずクライアントに、満足を提供できる可能性が増えるはずです。少なくとも商品情報についてくどくどレクチャーする必要がないという、それだけでも満足度は数ポイントアップするのではないでしょうか。

そのために、重要になってくるのは、「学習」と「対話」です。「学習」については言うまでもありませんが、今年はもうひとつ「対話」の技術を学んでいってもらいたいと考えます。新しいアイデアや知恵は、他の人との「対話」からしか生まれない、といっても言いすぎではないと思います。社内はもとより、クライアントと正しく発展的な「対話」「議論」を積み重ねることによって、他者のすぐれた考えを引き出しつつ、その発想をとりこんで自分のふところを広げていく、といった「対話」の力、というものを自覚的に学んでいってもらえれば、と思います[※3]。どうすれば、相手の意見にうまくかぶせるかたちで自分の意見を配置でき、結果としてよりよいアイデアを導きだせるのか?ネガティブな思考停止状態に直面したとき、御茶らかしではない方法、愛想笑いではない方法で、会話を進行させるにはどうすればいいか。切迫的なやりとりを平和的に着地させるためにはどうすればいいのか[※4]。上司の状況適応技術などをしっかり観察しながら学んでいってください。

整理すると、「知識デザインの具体化」としての「商品」「サービス」、それを支える「学習」と「対話」の技術、これが、今年、みなさんと一緒に手に入れたい、と考えていることです。

今年は、よく言われるように、チェンジの年でもあり、チャンスの年でもあります。言われているだけはなく、実際にそうだと思います。しかし、なんのあてもないのに「チェンジ」、「チャンス」と虚勢をはってもまったく意味はありません。何を「チェンジ」してくのか、なにを「チャンス」としてくのか、みなさんそれぞれがクールに考えていただきたい。「知識デザイン」という考え方は、そのためヒントとなりえると思います。

一方で、当然のことですが厳しい状況に直面することも多くなってくるかもしれません。しかし、それはもう起こりえることとしてあらかじめ織り込んでいただき、状況の変化に一喜一憂することなく、しっかりと地に足をつけていただければと思います。

危機感をもって悲観的に考えつくし、楽観的に対処していく。これをひとつの行動原則としていただき、1年が終わった頃には、みなさんそれぞれが「チャンス」を捕まえ「チェンジ」できた、といえる年にしたいと思います。本年もよろしくお願いします。

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[※1]どちらかというとビジョンに近いのかもしれません。こういう話をオフィシャルにする機会はなかなかないので、あえて意図的にビジョンに近い話をさせてもらいました。なお、ここで言う「知識デザイン」とは紺野登のアイデアに触発されてはいますが、意味的には敷衍(拡大解釈)しており、彼の定義とは少し異なります。
[※2]さらに、もちろん、グラフィックデザインも重要です。構造のデザインとコンセプトのデザインは、ビジュアルと両輪です。相乗であり補完である。だから、ツールのサムネイルや企画書の制作はつねに、グラフィックデザインを意識しながら進めなければなりません。
[※3]もちろん、クレクレくんのための対話ではありません。ギブ&テイク。つまり、「だす→かぶせる」が基本、出しがいのある対話、かぶせがいのある対話を。
[※4]「あの人はああですから」という前に、ほんとうに正しく対話ができたのかどうか、いまいちど省みてください。コミュニケーションの決裂は、結果を問わず、敗北である、というぐらいの自省が必要です。

◎知的肺活量。

2009-01-18 13:47:24 | ◎業
『榊原式スピード思考術』の新聞広告。「自分の頭で考える50の方法」と題して、50のアフォリズムのようなものが紹介されていて、もうこれ見るだけで、本誌を読まなくても充分じゃないの、と思えるけれど、いままさにこのとき伝えたいと思うものがちょうど10コにまとめられたので、転載(詳細は、東京朝日1月18日掲載の広告)。

[01]何がわからないかを正確につかめ
[03]わからないことを調べろ
[05]自分で確認できないことは信じるな
[07]常に逆の立場で考える
[14]論理に感情をまじえるな
[21]知識はあればあるほどよい
[33]テレビは原則観ない、観たいものを決めろ
[42]連想をしろ
[43]あきらめるな
[50]考えて考えて、考えぬけ

とりわけ[05][07][43][50]だな。人から、入れろと与えられた情報をなんの議論も疑いもなく機械的にスライドして使うのは、もう絶対にやめたい。読み手や聞き手のことを考えない単眼的な資料は、どれだけ時間をかけてつくってもたんなる紙とインクにすぎない。がんばって考えて80%がた資料が完成したとしても、あとの20%、考えるのをあきらめてしまったおかげで、80%の努力が認められないことはおろか、10%の評価もあたえられないことだってある。知的根性、知的タフネス、内田・平川の言葉を借りれば知的肺活量。根性・タフネスといってしまうとノックアウトだが、肺活量ならトレーニングしだいでなんとかなる。

「テレビ」の話はちょっと微妙だが、ようは、今なんの目的で見ているのか、ということをつねに自覚しておくということだろう。情報収集、知的好奇心への刺激、リラックス、物語(ストーリー)の構成のヒント……。もちろん、これらのバランスも大切だが、なにより、そこでみたことをクリティカルに人に話すことができるのか(つまり、いい悪いはともかく自分の未来に向けてなんらかの形でストックされるべきものかどうか)、といったことがフィルターになるかもしれない。

◎斉藤和義 歌うたい15<16@Zeep Osaka 081221

2009-01-08 00:12:07 | ◎聴
奥さんに連れてってもらう。「年末に、ガツンと一発」みたいなタイトルで書いていたけれど、書きかけのまま忘れてた。
セットリストにつけた◎はあくまで便宜的なもの。前座からアンコールまで、曲が終わるたびに、「すげえな」と呻いていた。ふつうのライブだと、それがたとえジャクソン・ブラウンやミスチル、ハマショーなんかであってもなかなか「すげえな」といった感想には至らないわけで、これは「すげえな」ことだ。ひとつはZeepなんでアンビエンス・エフェクトというか聴覚立体感のようなものにどっぷりつかったからなんだろうけれど、それだけではなくR'n R、R&Bのフォースのようなもの、ギターの神が降りてきたかのようなアウラを、曲やパフォーマンスはもとより、ギターやドラムのような利器からも感じることができたからなんだろう。なんていうのは、まあかなり言いすぎで、そんなふうに気負わないところにちょっとした爪が垣間見えるのが、せっくすちゃんのよいところ。だから、脱力の“いえ~ぃ”が、かっこうよいわけだ。

[01]僕の見たビートルズはTVの中 
[02]男節 ◎
[03]Hey! Mr. Angry man
[04]Baby, I LOVE YOU
[05]空に星が綺麗
[06]YOU&ME
[07]おつかれさまの国
[08]やぁ 無情
[09]レノンの夢も ◎
[10]BAD TIME BLUES
[11]彼女は言った
[12]Rain Rain Rain
[13]誰かの冬の歌
[14]約束の十二月
[15]何もないテーブルに
[16]歌うたいのバラッド
[17]ポストにマヨネーズ
[18]ささくれ
[19]劇的な瞬間 
[20]FIRE DOG ◎
[21]COLD TUBE ◎
[22]I Love Me ◎

□Encore1
[23]Don't Worry. Be Happy
[24]君の顔が好きだ

□Encore2
[25]ベリーベリーストロング ◎
[26]歩いて帰ろう

[02]はスタジオ録音ではどうしようもない曲で、その70年代フォークくずれのようなゆるさにより、だいたいにおいてスキップの対象となっていた。だからライブでしかも二曲目にリストするなんてどうかねーと思っていたわけだけれど、一転、リズムセクションのがんばりによりライブバージョンはロックロール、R&Bに進化し、それこそ、ライブの二曲目にふさわしい仕上げになっていた。スタジオ・バージョンはあれこれ計算しすぎてナマの獰猛さのようなものが削がれていたということなんだろう。よくわかんないですが、チームってのは大事ですよね。

[09]とか[20][21]なんかを聴くと、この人はほんとうにギター狂、ロック狂で、しょっちゅうギターばかり触ってんだろうなというのがよくわかる(実際は、そうではなく、曰く、そうなのは山崎まさよしらしい。しかし、ほんとうは彼も奥田民夫もギター狂だと思う)。そして[22][25]でギター・キッズの最高の戯れが炸裂する。ベタだけれど、この二曲はやっぱりよい曲だ。ベリベリは前にも書いたけれどなんど聴いても涙がでるね。とくにシャンプーのくだり。

あとあれだな、おれが大声であんなこと言うと、まわりから総スカンなんだろうけれど、斉藤なら許されるんだよな。女子は点数甘すぎ。

◎『デンデラ』佐藤友哉

2009-01-07 00:04:19 | ◎読
小説好きで、しょっちゅう小説ばかり読んでんだろうな、と明らかに忖度できる小説キッズの書いた小説が『デンデラ』。恒例の年間ベストの季節。ほぼ確定していた暫定順位に大きく影響を与えそうな佐藤友哉の620枚。2008年に終結したり、翻訳された正統派のメガ・ノベルに比べると、いささかたくらみがわかりやすいのが難点ではあるが、同じ土俵のその末席で賛否を議論をするだけの余地は充分にあると思える。これは、同じところをぐるぐる、ぐじぐじ回り続けたユヤに脱出口を照らした編集者の力が大きいような気もするが、やはり彼自身が、これまでとってきた表現手法やテーマを客観的に俯瞰できるようになったということなんだろう。これまで、あまりにも直截的にしか活かしきれておらず、それゆえにもて余していた表現手法やテーマの行き場をうまく正しく見つけることができたと思える。

遠野物語で語られた姥捨て山「デンデラ」や楢山節考などでは、一般的には捨てられた老人たちがただ死を待つのみ、という厳しい話になっているが、一方で、じつは生き延びた老人たちが新たな共同体を開拓し、自然な死を迎えるまで「デンデラ」で暮らしていたという話もある。佐藤友哉の『デンデラ』は、この説を受けたもので、物語の中心は、『お山参り』という間引きの儀式により、七十歳を迎え『村』に捨てられた老人たちが、新たな共同体を形成して生き延びるとすれば、どのような過酷が待っているのか、どのように生や死を目標とするのか、寸前のところで命を救い、落としていくのか、どのように自分たちの置かれた立場/やるべきことを感覚として理解していくのかといったことがゲームのようにシミュレーションされている。

したがって、登場人物は、すべて七十歳以上の老婆(+雌羆)ではあるのだが、言うまでもなく、佐藤友哉にとって必要なのは知力と体力・財力をもたぬ弱者を象徴するためだけの老婆という状況だけであり、だから、人の一切を老婆風にかかない。生真面目に考えると、このリアリティの欠如は大きな瑕となるが、角度を変えて見れば、じつはその無気力、行動力のなさ、どこからも真のリーダーがうまれない井戸端のような集団性、全体的にあんまりロジカルに考えてない風は、帰納的に導き出された老婆群のコンセプト(構造-肉を落とした骨)を確かにあらわしていて、中途半端にリアルな表現に拘泥するより、よっぽどリアリティがあるともいえる。

いってみれば、(具体例から構造を見抜く)ビジネス企画書風のプレゼンテーションということになるのだが、シャープな打ち手を導き出せなかったという点で、言い換えれば現時点では簡単に打ち手が見つからないノックアウトファクターといわれるような事象に取り組んだという点で、これはいちおう文学的であるとはいえる。これを書く/読むことによって、作者/読者が、とりあえず状況を分別できるだけの俯瞰的な視点は整理できる。整理できたところで、作者も作中人物も読者もなんら具体的行動の指南を得られるわけではないけれど、思弁のサイクルが少しだけ決壊し、外に広がる。

それはたとえば、これまでであれば[往生際]よくあきらめていたところ、そこからさらに[袋小路]に追い詰められ、[終止符]が間近に迫った、[土壇場]寸前に、[断末魔]を絶叫し、その先の[修羅場]を潜り抜け、さらに雪崩くる[瀬戸際]を迎えたとき、まだ[不退転]の「意志」をもてるのであれば、[大往生]を迎えられる。人からみれば滑稽な落命なのかもしれないが(実際に斉藤カユ(70)が往生に向かう結末の疾走は滑稽)、自分にとっては、安らかで、満足のいく瞑目だ。もっとも、そんなに簡単に諦めるつもりはないけれど。といったような思考かもしれない。

一方の動機に、例によってオマージュ&ブリコラージュがあり、書きたいことをいま自分が書くことのできる書きたい方法で書いた、というのがよくわかる。にもかかわらず、これまでのように生硬にもならず、滑稽ではあるがおふざけにもならず、脱キャラクターも成功し、その点でようやく作品論として語られる小説にランディングできた。一度、そのあたりのことをちっとはまじめに分解したいと思う次第である。
とかなんとか言っている間に、もう文芸誌の2月号がでる。時間ちょっと加速してねーか?

◎本屋とレコード屋で見るメモ。

2009-01-06 00:56:34 | ◎目次
地に足をつける。こういうときにこそ現れるいい加減な幻想の尻馬にのらない。あてもないのに、今年はエキサイティングだとか、チャンスだといった虚勢をはらない。しかし、悲観的な発言もしない。憂わない。私心・私事を滅却し、真のチャンスを見極め捕らえる直感・知恵・技術を。

[本屋]
◆『資本主義は嫌いですか』竹森俊平 日本経済新聞出版社/1890円
◆『大暴落1929』ガルブレイス 著日経BP社/2310円
◆『なぜ、アメリカ経済は崩壊に向かうのか』チャールズ・R・モリス 日本経済新聞出版社/1890円
◆『すべての経済はバブルに通じる』小幡 績 光文社/798円
◆『暴走する資本主義』ロバート・B・ライシュ  東洋経済新報社/2100円
◆『市場リスク 暴落は必然か』リチャード・ブックステーバー  日経BP社/2520円
◆『なぜグローバリゼーションで豊かになれないのか』北野 一 ダイヤモンド社/1890円
◆『格差はつくられた』ポール・クルーグマン 早川書房/1995円
◆『予想どおりに不合理』ダン・アリエリー 早川書房 1,890

最後だけちょっと違うな。

[レコード屋]
◆Freedom's Road
◆Trouble No More
◆Cuttin' Heads
◆Rough Harvest
◆John Mellencamp
◆Mr Happy Go Lucky
◆Whenever We Wanted

昔はあれだけ聞いていたのに盲点になっていたJohn Mellencamp。

◎可能性の中心。

2009-01-03 10:51:53 | ◎読
「その後、この「可能性の中心」っていう言葉は文芸批評の中ではある種クリシェのように繰り返されて、今なお機能しているん部分があるんですけど、それでも僕はこの「可能性の中心」っていうのはやはりいい言葉だなって思うんですね。本当は中心っていっちゃうと、これが核心で本物の可能性のど真ん中だみたいな感じがするから、中心っていう言い方も若干良くない部分もある気もするんだけど、要は「可能性」っていうものをどう考えられるのか、その作品に潜在している「可能性」、言い換えるとポテンシャルというか、つまりあるひとつの作品から、一体どういうことが、どこまで考えられるのか、その作品を聴いちゃったり見ちゃったり読んじゃったりしたことによって、その向こう側にどれほどの世界の広がりっていうのがありうるのか、っていうのが僕は批評だって思うんですね。………そして、この「可能性の中心」を必ずしも対象自身が知悉しているとは限らないわけですよ。……」
(『(ブレインズ叢書1) 「批評」とは何か? 批評家養成ギブス』佐々木敦 P31)

対象に入り込まないと何も始まらない。それは批評の世界だけではない。いや、仕事や生活においてすべからく批評の精神をもつことが大切なのだ。しかし、いうまでもなく批評は批判ではない。ましてやレッテルを貼り分類を決め付け、対象と自分の距離に結論を出すことでもない。Yes/No。そういった二項対立の罠に簡単にからめとられないような言葉や思考や態度を手に入れることこそが大切なのだ。

◎眠る。食べる。飲む。

2009-01-03 02:25:07 | ◎想
いくぶん気分がすぐれなかったので、外から帰ってきて午睡をとる。16:00ぐらいから、枕元にあった『西洋哲学史』を眺めていると、やはりくたびれていたのだろう、あっという間に眠りにおちる。一時間ぐらいでいったん目覚めるがどうも回復していないようだ。奇妙な夢の続きをみながら18:00ぐらいまでもう一度眠る。たっぷりと時間をとったわりには、全体的に眠りが浅く、どうも本調子じゃない。風邪気味だったので飲んでいた薬の影響だろうか。それでも、実家で食事の約束をしていたので、むりやり体を起こす。
予定されていた夕餉は、すき焼きで、この年齢になると牛肉は、きっと消化・分解にエネルギーが必要なのだろう、その食後の疲れを考えるとどうも気分が重い。いや、上等な肉なので確かに旨いことは旨いのだが、だから調子にのってビールをがぶがぶ飲みながら次々と投入されてくる肉をかきこんでいると、やはりしんどくなってきた。やめときゃよかったと悔い、いいかげんのところで箸をおく。
しかし、食べ終わって一時間もすると、だんだん気持ちがよくなってくる。そればかりではなく、なにかが漲ってくるような兆しすら感じる。
そして、いま夜中の二時。体は完全に復調した。たっぷり眠る。たっぷり食べる。たっぷり飲む。この基本が、生きていくために大切なことだ、とあらためて悟る。

◎fountain of music、fountain of joy

2009-01-01 02:38:44 | ◎想

2008年はいわゆる大御所といわれるようなアーティストがすばらしい音楽を考えてくれました。New Year's cardに挙げた、“Modern Guilt/Beck”、 “Time The Conqueror/Jackson Browne”、“Viva La Vida or Death And All His Friends・Prospekt's March/Coldplay”は、その音楽の泉のほんの一部に過ぎません。年の後半には幸運にも、“Everything That Happens Will Happen Today/Brian Eno & David Byrne”、“The Age Of The Understatement/The Last Shadow Puppets”といった、私の新しい趣味を拓くすばらしい音楽に出会うこともできました。いまさらながら目覚めたNeil Youngを深めていくという愉しみも加わりました。もちろん、Jackson Browneの久しぶりのジャパンツアー、斉藤和義のライブハウスツアー“歌うたい15<16”も大いなる豊かさを与えてくれました。
そしてJohn Mellencampの“LIFE DEATH LOVE AND FREEDOM”。これはまったくの盲点で、あわや聞き逃してしまうところでした。混乱の2008年を締めるにふさわしい静かで強い希望がそこにはあります。

Life is always in motion
New People to count on
Here we find a purpose
To sing a brand new song
Brand new song
Sing a brand new song
(A BRAND NEW SONG)

そして2009年。おそらくその希望を受け継ぐ、私の音楽の泉の最初の一滴は、“Working On A Dream”。Bruce Springsteenが新しく始まろうとしている世界を讃えます。そう、世界は新しく始まるのです。歓びの泉を満たすために、今年もたくさん水を飲み、ゆっくり、そしてしっかり歩きたいと思います。