考えるための道具箱

Thinking tool box

◎たまにはライフログ。

2007-11-26 02:09:57 | ◎書


こちらのほうでも。あんまり、べき論が続くのもなんだし。

『ロング・グッドバイ』(矢作俊彦/角川文庫)
:単行本を買いそびれていたので。いわゆるエンターテインメントは、少し苦手なのだけれど、矢作俊彦は読める。とはいえ二村シリーズははじめてなので、これから遡っていくことができれば。とはいえ、本の置き場が右のような状況なので、半年先まで、予約はいっぱいです、ってか。ただ、ちょっと読み始めたところ、まあ言うまでもなくこの「LONG」ふうの導入にひきつけられ、やめられなくなり、一気に100ページほど。ほんとうに矢作は「WRONG」なやつである。そういえば『マンハッタン・オプ』の完全版復刊も始まっているようなので、こっちも抑えるか。ようは、歴としたハードボイルドは読める、ということだ。

『これがMBOだ!』(島田晴雄+CVC)
:マネジメント・バイ・アウトって、なんかやったろう!って感じの言葉だな。いや、そんな気概はともかくとして、気になるのは資金だけれど、やはりPEファンドみたいな話になるのだろうか。いずれにしても、市場の短期的な評価に左右されない、というのが本来の会社のような気がするんだけれど、これは甘いんだろうな。

◎ところで。ちょっと前にこのブログに"平野啓一郎""決壊""退屈"の検索ワードからのアクセスがあったが、これはうなずけるところもある。そこで、語られている話は、まさに現代のある部分を綿密に凝縮させた猟奇的な事件簿なので、場合によっては、エキサイティングで、エキセントリックな展開と感じられてもいいはずなのだけれど、そうならないのは、『決壊』が、現在の日本で発せられているすべてといえるほどの言葉を丹念に、ある側面では機械的に拾い出そうしている、きわめて冷静沈着な実験だからだ。
たとえば、「新潮12月号」の掲載分を見てみると、それは、予算を消化しておかないといろいろアレなんでやっている、なんの情報も意義も信念もないサラ金のTVCFの描写であり、ワイドショーのレポーターのかなり恣意的で悪意に満ちた現場検分の語りであったりする。
真骨頂は、観覧者参加型のトーク・バラエティ番組収録の現場のシーン。ほんとうにくだらないコメンテータの言説を、ごくふつうにくだらなく書き留めていき、あたかもすべてがファクト(ノンフィクション)であるかのように退屈にしあげて、(くだらないTV番組をみているような気持ちに)読者を辟易させるのだが、もうほんとうにダルいなあ、と気持ちが萎えかけた、そのよい頃合を見計らって、ほんの一瞬、するどい虚構を挿入してくる。このテンションが、『決壊』のすばらしさであり、そこには文学者の書く小説として何かと一線を画したいという強い気概が見えるように思える。
連載から1年を経て、物語のある部分の緊張は最高潮に向っている。ただし、『決壊』は平野の小説には珍しく、ここまでかなり拡散してきた。この壮大な「(日本)覗き見」小説は、最終的には、その覗き見趣味に痛烈な批判をもたらすために、さまざまに張り巡らされた伏線をまとめにかかるのか、それともリアリティたっぷりに放置するのか(=世の中には開いたって閉じないものがけっこうある)。このあたりも、『決壊』も大きな見どころではある。

◎ずいぶん酒に弱くなってきた。そんなに飲んでいないのに、なぜあんなに酔っ払って、朝起きたらなぜこんなにつらいんだろう、と検分のため飲んだ酒を書き留めてみた。(1)生中×1、(2)芋焼酎ロック(銘柄不明)×2杯(ただし、ごくふつうのタンブラーに表面張力が発生するほど、なみなみと注がれた異常なロック)、(3)スーパードライ×コップ1杯、(4)ボウモア(ロック)×2杯 (5)ボンベイサファイア(ロック)×2杯。いや、そんなに飲んでないことないな。致命的なのは(2)だな。なんか、俺がほんとうの忘年会の日程を決めようとか騒いで無理やり決めさせたという伝聞もあるようだけれど、そんなことを言った記憶はまったくなく、これはちょっと、悪意に満ちたでっちあげによる冤罪っぽいなあと感じている次第である。
ということなので、頭がぐらついて仕事もはかどらないため、はじめて「ウコンの力」ってのを飲んでみた。ほんとうは、飲んで寝る前に服用すれば朝スッキリらしいのだけれど、宿酔にも効いたよ。

◎Magic/Bruce Springsteen

2007-11-23 13:35:40 | ◎聴
数日前、ちょっとした戯言として、ずっと聞いておきたい50曲というのを選んでみたけれど、ことブルース・スプリングスティーンの項目に関しては、新しいアルバムがでるたびにまったく無効になる。いまTUTAYAなんかに行くと、堂々と「ボス復活」といった、Point Of Purchaseの広告が飾ってあって、これが日本における一般的なブルース・スプリングスティーンの認識、つまりは『Born in the USA』以来のヒットの予感といったことなのだろうけれど、ブルースは『USA』以降も、比較的コンスタントに、しかもさまざまなスタイルで楽曲を提供し続けてきて、その多くがそれまでの曲を超えている、という点では「復活」といわれてもかなり違和感がある。

ブルースの場合、なにかよくわからないタイミングでレコーディングだけはされていて発表されていないような曲や、ライブで先行して演奏される曲、ライブだけで演奏される曲といったものもたっぷりあるわけだが、そういったものは少し横に置き、新しくスタジオでレコーディングされアルバムという形で発表されたものだけに絞ってみたとしても、リズムとメロディと詞は、いつも新しく、よくここまで、それまでなかった新しさのバリエーションを引き出してくるものだ、と感心する。

身びいきであることは否定できない。しかし、ぼくが昔からかなり聞き込んでいてオール・タイム・ベストにあたるようなアーティストと比べてみてもその差はあきらかに思える。たとえば、ジャクソン・ブラウンなんかは、新譜のペースが格段に落ちてきているし、もちろん最近も(といっても90年代)、『Sky Blue And Black』とか『Barricades of Heaven』といった珠玉を打ち出しているとはいえ、そういった曲は、1枚のアルバムに1、2曲あるかいないに過ぎない。だから、彼の3曲を選ぶときはさほど悩むことなく昔の引き出しからひっぱりだしてくることになる。また最近ライブをみて、そのパフォーマンスとエンターテインメント性について確信を深めながらもあらためて見直した浜田省吾にしても、曲はまだしも、詞については、ダメぶりを発揮していて、あの『愛の世代の前に』や『パーキングメーターに気をつけろ』の頃の含意の才能は、そのタイトリングも含め完全に枯渇している。これらをみたとき58歳にしてなお、それまで自分がつくったことのなかったサウンド、思索の深い言葉を提供し続けているブルース・ブルーススプリングスティーンのRock & Rollマインド&スキルはすばらしいといわざるをえない。

つまり、新譜『Magic』は、そういったことを、より端的に表現したアルバムだということだ。確かに、今どき、11曲(+1曲)という収録曲の少なさは、数だけみると物足りなさはある。しかし、きっとブルースのことだから、この倍以上の曲がレコーディングされていて、ファンからみれば、それは収録曲とは寸分違わぬ完成度の高いものに違いないのだろうけれど、まるで陶芸家がほんのわずかな瑕疵により焼きあがった作品を破壊してしまうように、数々の名作をこのアルバムから外したのだろう。だから、残った11曲(+1曲)は、すべて、いっさいの隙もない。ぼくたちとしては、外れた曲が今後『Tracks Ⅱ』として日の目を見る日を待ち望むわけだが、まずは『Magic』のコンセプトとして厳選された曲をとことんまで愉しみたい。というか、愉しむ以外になにすればいい?

もっとも、全世界のファンがすべからくこの新しいインシデントを喜んでいるわけではなく、まあ、俺こそがボス党党首といわんばかりの人のなかには、まったくダメなんて言っている人もいるようだけれど、そういう人も、もう少し聞き込んでみれば、にじみ出る良さを感じることができるかもしれない。だいたい前作『The Rising』にしてもそうだったじゃないか。

01. Radio Nowhere
02. You'll Be Comin' Down
03. Livin' in the Future
04. Your Own Worst Enemy
05. Gypsy Biker
06. Girls in Their Summer Clothes
07. I'll Work for Your Love
08. Magic
09. Last to Die
10. Long Walk Home
11. Devil's Arcade
(12.Terry's Song)

「Radio Nowhere」はきわめてキャッチーだ。これぞ、ブルース・スプリングスティーンらしい曲、と思えてしまうのだが、じつは過去の曲のどれを繰ってもみても、これに似た曲はない。「My Love Will Not Let You Down」か?

This is radio nowhere, is there anybody alive out there?
This is radio nowhere, is there anybody alive out there?
Is there anybody alive out there?
I just want to feel some rhythm
I just want to feel some rhythm

まあもうこれ以上ないというくらいかっこいい詞だ。ライブのオープニングで、いつものように"Is there anybody alive out there?"なんてシャウトしたあと、この曲が始まったら、恥ずかしいけれどもらしてしてしまうかもしれない。言うまでもなくマックスのタイトなドラムの真骨頂だ。そういう意味では、ブルースらしい曲というより、Eストリート・バンドらしい曲ということになるかもしれない。ただ、この「ブルースらしい、誰かに似た、らしくなさ(ややこしい言い方でごめん)」は、きっと賛否がわかれることだろうし、そのキャッチーさゆえ、最終的には『Born in the USA』における「Born in the USA」になっていく可能性もある。実際にぼくも、続く「You'll Be Comin' Down」からスタートすることが多くなってきた。でも、どうしようもなく、聴きたくなるときがあるんだよなあ。

「You'll Be Comin' Down」は、一転してライトな印象をもつ曲だが、このビッグサウンドをぼくはかなり好意的に迎えたい。語られているのは「あんたもいつか落ちぶれるよ」ないしは「もと自分がいたところに落ちてくる」みたいな話だから、あまり手放しには喜んでいられないのだが、それでも何か力をつけたいときにテーマを繰り返し口ずさみたい気分になる。ところで、『Magic』には、ほかにもそういった、重く深い含意があって、けっしてストレートではない詞が多い。いろいろと推測を立てて、あれこれ考えてみなければ本意がわかりにくいというのは確かなのだが、具体的な事象から、普遍的で生きていくうえで重要な概念を想起させ、オーディエンスの胸にしっかりやきつける詩人としての手腕にいっそうの磨きがかかったといえる。このあたりは、最近のブルースらしいし、テーマといい選び抜かれたワードといい、たとえ言語圏の違う人間でも立ち止まらせてしまう。

ほんとうは一曲ごとに、ていねいに考えを費やし感想を書いていきたいのだけれど、どうにも言葉が追いつかない。以下、特筆すべき点を、キーワード、つぶやき風に。

「Livin' in the Future」:きっとライブを重ねるごとに、「Darlington」や「Sunny Day」、場合によっては「Tenth Avenue Freeze Out」みたいに成長していくことになるんだろうなあ。
「Your Own Worst Enemy」:このアルバムのなかでベストだと思っている。サウンドはストリングスが効いていて、ブルースのなかでも新しいジャンルに属する。エンディングの「Your flag it flew so high It drifted into the sky」の部分への流れ方は、詞も含めて感動的ですらある。
「Girls in Their Summer Clothes」:厚みのある、フィル・スペクター風な音作りが濃厚に「復活」というか「出現」してきたイメージ。流れるような若い歌声が効いている。これも選びたい良い曲。
「I'll Work for Your Love」:もし、3曲選ぶとすれば最後の1曲はこれ。なんの惑いもないシンプルで元気のでる曲(詞には多少、宗教的な含みがあるようだが)。
「Magic」:不気味で地味なフォーク風だけれど、じつはシャープなかっこいい曲。シーガー・セッションズ・バンドの音も起用しているようで、この数年間の活動がうまい具合に、ブルースの新しい血肉となった。
「Last to Die」:十八番のマイナーロック。もし、これがなければ、アルバムがかなり物足りなくなる。「Further On (Up the Road)」とか「Gloria's Eyes」もっというと「Atlantic City」なんかが、ぼくがブルースから離れられない大きな理由でもある。
「Devil's Arcade」最近のブルースのバラードの新しいジャンルのひとつであり、迫るような音作りは見事。逆に、最近あまりみかけないのが、「Racing In The Street」「Streets Of Philadelphia」「Back In Your Arms」のような、「ブルース」ならではのバラードで、欲をいえば、こちらの方向も久しぶりに聴きたいところではある。

ワールドツアーの第2期の日程も発表されたようだけれど、残念ながらまだ日本には至らない。FM802の来日嘆願署名の伸びもいまいちだ。11月23日現在、1317人。もし城ホールなんかでライブやったら、確実にアリーナじゃないか。あ、「大阪でライブしてほしい」署名か。しかし、それでもボスファンはこんなに少なかったのだろうか。

◎『ウェブ時代をゆく』-長文の追記。

2007-11-20 21:18:58 | ◎読
世の中には、いかんなくネガティブパワーを発揮する人がいるが、そういう人と2~3時間ほど打合せをしていると、こちらが瘴気にあてられる。打合せが終わった後、自分がなんともいえないしかめっ面をしているのが、鏡なんかみなくても、そのこわ張り方でわかるし、身体に注入された負のエネルギーは、ひどい場合は1日2日身体から抜けない。場合によっては、その影響力をフィジカル面にも行使することだってある。当のパワーの持ち主自身は、それを自身の生きる源泉として物事を遂行していくことが身体になじんでいて、どんどん拡大再生産を繰り返すわけだが、まわりの人間はたまったものではない。

そんな暗黒面のフォースから逃れたいときに『ウェブ時代をゆく』を開いてみる、というのはあまりに短絡で安直だろうか。「好きを貫けアジテーションへの反応」のように盲目的すぎるだろうか。
しかし、Mr.ChildrenのライブDVDを見たあと『ウェブ時代をゆく』を眺めたとき「おい梅田、なんて小せえんだ」と思い、『ウェブ時代をゆく』を読んだあとMr.ChildrenのライブDVDをみたとき「おい桜井、もっと現実を見よ」と思えるようなオルタナティブなバランス感覚さえもてれば、その盲従は咎められるほどのことでもないだろう。たとえがマズいな。いや、まあそんなややこしいことを考えなくても、斜にかまえていても別になんの得もないわけだから、まずは梅田のコンセプトをしっかり受け止めてみよう。

たしかに、エネルギーを充填できる教えをまとめた本はほかにもたくさんある。それは、精神論的なものであったり、同じ職業や立場として課題をわかちあえたり、問題解決のためのフレームをあたえてくれたりするもので、ぼくの場合は、ビジネス面においてはドラッカーやオグルビーや金井壽宏や伊丹敬之や平川克美であったりする。もちろん、「追認」によりエネルギーを回復できることもあるが、ここにあげたような人たちは、それまであまり考えたこともなかったような「コンセプト」を提示することにより、ぼくを考えさせることも含めて刺激を注入してくれる。
より未知のコンセプト、それはまだ完成しているとはいえないかもしれないが、梅田の思考にはその足がかりがある。完成させるのは、きっと創発された読者ということなのだろう。

もちろん『ウェブ時代をゆく』で紹介されているのは、すべて梅田が発明したコンセプトというわけではないが、梅田フィルターで集められたものも含めて、どちらかというとあまり取りざたされそうもないものを拾っておく。

■Only the Paranoid Survive
「病的なまでに心配性の人だけが生き残る」。インテルのアンディ・グローブの言葉。その言葉だけをとってみれば、これは自分と考えを一にしているという点で追認となる。ぼく自身も相当な心配性で、日夜マズいことにならないためには、どうしたらいいのか、どこまでやったらいいのか、というオブセッションに頭を抱え、やらなくてもいいこところまで手間と時間をかけてしまう。そのおかげもあって、大きな成功なんてほど遠いが、まあなんとかやっていけている。
また、これまで、優秀営業パーソンのヒアリングを相当数こなしてきたが、そこで明確になったひとつの共通項も「心配症でビビり」である。彼らは「顧客が、どこか別の競合社と話しているんじゃないだろうか」「顧客と2日間あっていないけれど心変わりしているんじゃないだろうか」「今日、顧客に出した提案書の社内での評価はダメだったんじゃないか」と、まさにパラノイアのように最悪の結果を始終妄想し、(電話では気が引けるので)何か反応を起こすためにメールや手紙を送ったり、用もないのに先方の事務所に行ってみたり、要求もないのに別の切り口の提案書もっていったりと顧客につきまとう。結果的にそれらの行動が、顧客の眼には慮りや熱心さに写ったり、なんやかや対話をおこなう時間がふえたり、提案が勝手にブラッシュアップされていくことで、多くの発注を獲得するにいたる。営業面での成功法則。書かれた言葉だけをとってみれば、そういうことだ。

しかし、梅田はそこに新しい息を吹き込んだ。病的に心配性であるべきなのは「自らのコモディティ化」なのだ、と。最初はすばらしいといわれていたことでも、発注者との関係が数年も続くとごくあたりまえになってくる。コストダウンなども含めて、価値を「月並み化」させていく引力が働くわけだが、これは取引上しかたのないことだ。
そのときに、コストダウンについて防戦をはることも重要かもしれないが、同じエネルギーを新しい技法と思考の開発に振り向けたほうが建設的だし、なにより、企画の受注を生業とするような会社(人)のほんとうの仕事は、クライアントの思考がおよびもしない新しい方法を提起していくところにあるわけで、これを考えれば、少しでもコストダウン要請が働いた瞬間に、価値は終わった、と俊敏に反応する必要があるかもしれない。自分はコモディティ化していないか?自分の作成している企画書はコモディティ化していないか?自分がいつも語ることはコモディティ化していないか?といったことをつねに内省しなければならないし、誰かが知っていて自分が知らないことがあるのなら、自分の知識がコモディティ化しはじめている兆候ではないか、と疑わなければならないだろう。

■「知的生産」の成果とは「書くこと」
「本を読むという高度に知的な行為もアウトプットがないなら「知的消費」に過ぎず「知的生産」ではない」。梅棹忠夫の話。『夜はまだ明けぬか』を最後にもうかれこれ20年以上、梅棹の著作を読み返していない。そういえば『日本語と事務革命』なんて色ものっぽい本も、なにかのタイミングで入手していて放置したきりだった。『情報論ノート―編集・展示・デザイン』なんてわくわくするタイトルの本も、きっとどこかに死蔵されているはずだ。梅棹を思い出させてくれた、梅田に深謝しながら、探して読み返してみよう……。といったような動機づけは、梅田が書いてくれなければ発動されなかっただろうし、ぼくも梅田の本をただ読み流すだけでは、梅棹を再ブックマークすることもなかっただろう。「知的生産」とまでもいかない、ほんのささやかなことに過ぎないが、書くことで生まれることは確かにある。

■新しい職業
自分の職業を人に話すとき、うまく説明できないことが多くなってきた。ぼくの仕事は言ってしまえば、広告・プロモーションやマーケティング周辺のなんでも屋なんだけれど、なんでも屋風情にもかかわらず、十数年なんとかやっていけているのは、それなりの需要価値があるということかもしれないが、一方で、この5年間くらいのスパンでみてみると、市場(需要)にあわせて、それが意図的にか環境に適応するための変態かは別として、仕事の内容は変質し、レンジも大きく広がっている。梅田が言うような仕事ほど、スケールの大きいものではないが、確実に「新しい仕事」化している。きっと、このタイミングで、自分の仕事は何なのかというのを考えてみることが必要なのだろう。仕事の内容を棚卸し、構造化し、定義してみる。その定義がうまくいけば、新しい価値を創り出すことができるかもしれない。もちろん「コンセプター」なんて怪しげで地に足のついていない定義はまったくダメだけれど。

梅田はさらにたたみかけるように、「新しい職業」に必要なものとしてウェブ・リテラシーを掲げている。ただし、それは一般に想起できるような「リテラシー」なんてものでなく、「ウェブで何かを表現したいと思ったらすぐにそれができるくらいまでのサイト構築能力を身につけている」といった、きわめてハードルの高いものだ。初見では、さすがに「梅田とおれでは完全に脳のつくりが違うや」と本を閉じかけたが、よくよく考えてみれば、ほんの数年前までは、パソコンを前にした記述法なんかは、まったく想像もつかなかったのに、そこそこ使えるようにはなっている。そう考えたとき、ウェブが新しいノートと鉛筆になるんだよ、と言われたなら、これはもう勉強せざるをえない。彼が掲げている4つをすべて習熟することは、無理としても(1)と(2)くらいはなんとかしたいところだ。

■志向性の共同体
梅田自身もこのことについてはややユートピア的に位置づけているように感じる。現実的に、いま居る仕事環境は、おおむね「志向性の共同体」といえなくはない。多くの人がそう感じるだろう。ただし、それが理想的に機能しているか?というと、かなり改善の余地がある。「これが明確に志向性の共同体なんだ」と思えるには、やはり「文系のオープンソースの道具」が欲しい。というか、文系的仕事におけるオープンソースとは、具体的にどういったものなのか、について10個ぐらい事例を固めてみなければならないだろうと思う。社内のブログとかSNSが、なかなか活性化しなかったり、(ぼくだけかもしれないが)仕事において人力検索なんかを積極的につかう気がおきないところみると、道具の完成度に加えて、やはり、理系の場合と同じく「人生をうずめている」仕切りとか目利きみたいな人間が必要なのではないか、と思う。自分が人生うずめろよ、って話かもしれないけれど。

■自助の精神
数年前なら自己責任なんていやらしい言葉に埋没して、発見されることのできなかった発想だ。その当時だって、もちろんいまだって、自己責任に萎える気持ちを軽くしてくれるツールはない。自己責任ってどうすればいいんだ?という質問に対する回答はおおむねネガティブなものしかないだろう。しかし、「自助」ってどうすればいいんだ?という問いには「勤勉の継続」というシンプルで強力で建設的な解がある。これはすばらしい。

■世界の不平等の是正に取り組む新しい仕事
ビル・ゲイツがこんなこと言っているなんて。いや、これはどうころんでも自分には関係のない話なんだけれど、一生に一度くらいは言ってみたいなあ、と思ってメモ。

以上。梅田さん、解釈が違っていたらごめんなさい。

◎自覚的なコミュニケーション。

2007-11-18 11:39:07 | ◎業
といった話は何回もしているかと思ったけれど、そうでもないかもしれないので。
これをいっちゃうと元も子もないかもしれないが、他者を過信してはならない。話したことはちゃんとわかってもらえているよね、と甘えてはならない。人の琴線を自分の琴線と同じと考えてはならない。他者は自分とは違うということに対して、徹底して畏怖をもたなければならない。だから、基本的には、コミュニケーションはできないものだ、と思っておくぐらいの構えが必要だ。どれだけ上手くいっているようにみえても、気づかない間にワームホールは生まれている。

しかし、現実世界においては、それでもコミュニケーションしなければならない。そのことを恐れるわけにはいかないし、あきらめてもいけない。いわゆる利害の発生しない日常的なコミュニケーションであれば、あまり慎重に考える必要はないだろう。そういった状況でのコミュニケーション問題は、さらなるコミュニケーションにより、解決に近いところまでにじり寄ることはできる。深慮が必要なのは、当然だけれど、そこで行われるコミュニケーションが、利益を生み出したり、逆に多大なる損失を発生させる可能性がある場合だ。いうまでもなく、おもにビジネスでのコミュニケーションということになる。

そこでは、自分の素のままで行うコミュニケーションは得策ではないばかりか、きわめてリスキーだ。だから、あえてふだんの自分とは違うコミュニケーションをとることに自覚的にならなければならない。これは確かに難しいけれど、あるひとつの方法を選ぶことで、ずいぶんハードルは低くなる。その方法とは、誰かが書いたシナリオにそったロールを役者としてプレイングすることだ。そんなことは、果たして可能なのか?上手くできるのか?と思うかもしれない。しかし、考えてみよう。家でリラックスしている自分とオフィスで執務している自分が同じ心持ちだという人はいないだろう。友人や恋人と話す電話と、会社で受ける電話の話し方が一緒だという人もいないだろう。そこに差があることに自覚的になり、その差を少しだけ拡げてみる、少しは演出も加えながら。そう考えれば、なんとなく上手くいきそうな気がしないだろうか。

「口下手なわたしが年間50台売りました」なんて言っている名物営業マンも、きっとこの方法を自覚的に遂行しているのではないんじゃないだろうか。かく言う、わたし自身も、素の状態では、まったくしゃべらない人間だ。むしろ話たくないし、1年間ぐらい誰かと会話をしなくてもきっと平気だと思う。そんなことだから、テンションの張りが弱いときのコミュニケーションはかなりもうメタメタだ。いや、そんなことはどうでもいい。こういったロールをうまくプレイングするスキルを身につけることも大切なのだけれど、より入念に考えなければならないのは周到に計算されたシナリオだ。先ほど「誰かが書いたシナリオ」と意味ありげに書いた。もちろん、書くのは自分なんだけれど、そこには客観的な視点が必要だし、ふだんの緩い自分からは想像もできない行動を描く必要があるため、自分とは違う「誰か」と示唆したわけだ。むしろ、俺はコミュニケーション下手です、と(それが事実かどうかは別として)感じている人なら、ふだんの言動の逆張りで書くくらいがちょうどいいかもしれない。
当然だけれど、シナリオは状況適応的でなければならないため、完璧なライティングのノウハウなどはない。しかし、コミュニケーションによる惨事をおこさないためにいくつかの基本的なコードのようなものがある。10時間たっても解決の目処が立たないこの問題は、あのとき3秒配慮しておけばなんとかなったかもしれない、といった類の惨事をふせぐためのコードだ。

【1】希望的観測を描かない。
むしろ、最悪の状況を徹底的にイメージし、それを乗り越えるためのシナリオを書いてみる。相手は「こう考えてくれるだろう」「まさかここまでのことは言わないだろうとか」といった好意はないと思ったほうがいいし、「メールを送ってんだからそれなりの善処をしてくれているだろう」「便りがないのはよい報せ」といった根拠のない仮定にとらわれるのは賢いとはいえない。直感的に「まずいな」と思ったことは、ほぼ確実に「まずく」発展していく。そこまで断定的でなくても、少しでも違和感をもったなら、「まずさが現実となる場合」の対応策をシナリオに組み込んでおくべきだ。

【2】見切るな。ひとりで閉じるな。
「これだけ言っておいたのだから、後はまかせて大丈夫だろう!」「メールどおりに対応しておけばいいんだな。2つの意味にとれるけれど、文脈からみてAだな。きっと」……もう、気づいているかもしれないが、これらの話を終わらせているのは、「あなた」だ。しかも、すべて話の途中だ。開いたものは閉じるまで見届ける必要はあるし、最後は、双方が合意のもとで閉じなければならない。閉じることには多大な責務が発生していると考えれば、何かを賭す覚悟でもない限り、そうやすやすとひとりでは閉じられないはずだ。シナリオには正しいコーダが必要だ。

【3】相手のシナリオも描く。
他者はわたしとは違う考え方をもつ。ここまでは正解だ。陥りがちなのは、「他者の考え方=わたしとは違う考え方」と他者をひとくくりとして錯覚してしまうことだ。けっして他者はひとつ(ひとり)ではない。言うまでもなく、10人いれば10人の考え方・感覚・ビヘイビアが存在する。たいへんだけれど、それぞれの人が、ある事象に反応して描くであろうシナリオを、個別に徹底的にイメージすることが、ものごとを正しくすすめていくことの鍵となる。彼ならどう考えるか。それをふまえた上で自分ならどう考えるのか。ふたつのシナリオをからませながら、統合的で最適な脚本を描くことに腐心してみる。しかし、これはなにも、自分の存在や主張を無にするということではない。シナリオを弁証法的に創っていくと理解したい。

【4】最後は正直。
謝罪コミュニケーションのシナリオは高度だ。損失を最小限におさえたいという引力が働くため、あらゆる繕いの言葉が用意される。しかし、繕いの言葉は、また別の繕いの言葉を必要とする。これはもう慣用的な禁忌だし、ごくふつうに考えて、そんな繕いだらけのシナリオを創っていると、微細な辻褄あわせにだんだんイライラしてくる。おれはいったい何やってんだと、すべてを投げ出したくなる。これは、身体が正しく反応しているということだ。ただ正直にありのままを伝える。「正直に言っているのだから酌量を」なんて小ざかしいことも考えずに誠実に言葉を積み上げていく。ひょっとしたら、ここだけは、「謝りたい」と思う、素の自分でいいかもしれない。結果として、確かに損失を蒙るかもしれない。正直な行動が評価され将来的にはプラスに転じるなんて、少しは期待してみたことさえ叶わないかもしれない。しかし、少なくとも「あいつはウソをつく」とは思われない。「いい訳がましいやつ」とも思われない。そう思われさえしなければ、いつかどこかで挽回はできる。

【5】話そう。
もはや言うまでもない。話したって伝わらないのはわかっている。しかし、それでもわたしたちがよりどころにしなければならないのは肉声だ。ここまで、他人を信じてはならないといった絶望的なことを書き連ねてきたが、肉声には一縷の希望がある。めんどうがらずに2秒でも3秒でも話そう。「よろしく」と言い、「了解しました」という反応をえるだけでも、メールと対話では機能のもつ意味がまったく違ってくる。話せば、なにかがうまれてくる確率が高くなる。もちろん、良いことばかりとは限らない。しかし、悪い話だって、それが早い段階で聞けたのなら、打ち手はやまほど考えられる。そういった意味でも、肉声は絶対的に重要だ。どうせ自分とは違うシナリオなんだ。くどいくらい饒舌な人物を描いたっていいじゃないか。

こんなふうなコードで、一度、シナリオを書いてみる。そうすれば、いままで見えなかったコミュニケーション上の問題点が浮き彫りにされることだってあるだろう。じつはこの問題点を把握できる、ということがいちばん大切なのかもしれない。シナリオどおりにうまくロールを演じきれなくても、いったい何が問題なのかを正しく理解してさえすればアドリブがきく。

◎なぜメモをとるのか。

2007-11-14 22:09:53 | ◎業
といった話は何回もしていてくどいんだけれどもう一度。もちろん目的は備忘以外のなにものでもない。ただし、その備忘のフェイズは「長」「中」「短」期の3つにわかれる。一般的な「メモ」の目的として、わかりやすいのは「中」だけれど、重要なのは「長」と「短」だ。

■「中」:これはごく直近にアウトプットを出さなければならない用件について、対話者の与件を忘れないようにまとめていくもので、いうまでもなく、重要な要求をもらさないこと、後からの効率的な復習を支援するといったことが基本的な役目となる。だから、技術として必要なのは、おおむねのとことろ判読性のようなものだ。ただし、わかりやすい文字を書くとか、速記的なテクニックではない。もちろん、それはそれであるに越したことはないのだけれど、なにより重要なのは、ヒアリング内容を、完成度は高くなくてもよいが、ほぼ瞬時に「構造化」してみせることで、いくつかの事柄の関係性さえ把握できれば、(1)躍起になって全文をメモする必要がなくなるし (2)構造図を眺めることで、与件の抜けや論理のおかしさに気づくことができる。
そもそも構造化というのは、複数の人の間での共通理解・共通認識を確保するために行うものだから、対話者とのその場での合意形成に役立つのは言うまでもないが、後日、読み返す他者としての自分との理解の共有にも役立つ。ランダムにかかれたメモだと「あれ?なんのことだっけ」とか「どっちが先の話だったかな」と思い出すのに無駄な時間を過ごしてしまうことがあるかもしれないが、構造化・関係化された、つまり図形化されたメモであれば、そのメモを書いた時点での「自分」は忘れてしまっていても、重要で必要十分な骨格だけは共有化できる。これが、(3)つめのメリットだろう。

■「長」:長期・継続的に考えるべきことの起案・発見メモということになる。誰かの話を聞いているときに、また議論しているときに、なにか面白そうなことが、目の前を過ぎったと思える瞬間はどんな人にも訪れる。たとえば「これは将来のビジネスのネタになりそうだ」とか、「ああ、ずっと考えているあのことは、こういう形で着地させればいいんだ」といったようなことだ。きっと、なにかキーワードのようなものになることが多いだろう。こういった、原石のようなものを「キャッチアップ(笑)」するには、たぶん相手と対話しながら並行して別のことも考えておかなければならないといった少し高度な技術が必要だが、それはそれとして、少なくとも鈍く光るそのヒントをすかさず覚書きできるような、まとまったスペースをメモ帖のどこかに確保しておきたい。書き残しておいたものを、少しでも時間のあいたときに(あまり空くことはないかもしれないけれど)、また定期的に見直しながら、拡張的なアイデアを書き加えてみたり、3日前にメモしたワードとつないでみたり、また寝かしてみたり、といった他者としての自分と弁証(dia-lectic)を繰り返すことで、起案の原石が徐々に形を現していく。それが今すぐではないが、将来の何かに繋がるんだという可能性を少しは信じてみたい。

■「短」:私たちには、人の話を一方的に聞いて相槌をうつだけで1時間過ごすような時間の余裕はもはやないはずだ。時間を割いて聞いた人の話は、「自分のもの」としなければもったいない(たとえ反論であったとしても)。そのためには、聞きながら考えて能動的にブックマークをつける必要があるだろう。「あとで読む(考える)」は確かに便利ではあるが、まずあとで読まないし(考えないし)、読んだとしても(考えたとしても)そこに意見交換がなければ効果は半減する。「中」の項では、相手の話のキモをできるだけ正確に構造化していくことの重要性を書いたが、「短」の視点でみた場合は、相手の話から想起できたことを書きとめ、自分の言葉として、「その場で」逆発信していくためのメモが重要だ、ということになる。つまり、残すメモではなく、消費されるためのメモだ。その目的は、対話・会話を活性化させるためだけというものであってもかまわない。活性化すればするだけ新たな視点が生まれてくる可能性は高くなる。話を振られたときに、なにも反応しないのは、まあ言語道断で、まずこの課題をクリアするためにつねに触手を敏感にしておくというのもあるが、何か話せるときでも、たんなる感慨ではなく、対話が次につながる気の利いたことを言えてはじめて、いま聞いた人の話は自分のもとなる。「たぶん、いまのお話には3つのポイントがあると思います……(異なる視点、批評的視点の提示)」「○○の視点でみたとき、3つほど聞いておきたいことがあるのですが……(批評的観点をもった質問力)」といった切り出しができれば、だいたい話は発展していく。人間は原則として聞いた端から忘れていくものなので、「せっかく気の利いたことが思い浮かんだのに、あれなんだっけ」とならないようにメモは消費されるべきだ。せっかくの弁証法的対話が言葉足らずにならないためにも。

かように、メモはモノやコミュニケーションをクリエイトするための最初の一歩として、かなり重要なツールとなる。ここまで計算づくじゃなくても、また定式の「ライフハック(笑)」ようなものを意識しなくても「まず、紙の上で考えてみる」というのは基本にして絶対に忘れてはならない習慣である。というかスキルなのだろう。人の話を聴くときに、ビジネスタイムに人と対話をするときに、紙と鉛筆を持ってくるのと持ってこないとでは、そこで過ごす時間、その後の時間に大きな差がでてくる、ということを戒めたい。だから、そういった動機付けを物的に強制するために、書きやすいペンとノート、気に入ったペンとノートが重要になる、というのはあながち間違ってはいない。

◎『ウェブ時代をゆく』

2007-11-11 19:20:51 | ◎読
結局、梅田望夫のWEB3+1部作はすべて入手することとなった。本来であれば、そのオプティミズムに対し、自分のなかでなんらかの批評がうまれてしかるべきなのだけれど、その圧倒的なオプティミズムにほだされているのか、ネガティブにとらえる意味があまり発見できない。彼の発信は、どう考えても、刺激的なのだ。

ぼくは、ちょうど『ウェブ進化論』が発行された直後に、以下のようなことを書いている。

『さて、当の『ウェブ進化論』はどうかというと、すでに多くのところで語られていることだと思うが、語られていることの多くが、いわゆるITの文脈にはみえないというところがポイントかもしれない。まだ、ブログあたりの章までしか読んでいないので、確定的なことはいえる立場にはまったくないし、うまくキーワードを提起することもできないんだけれど、これを読んでいて「生き方を考えてみる」といったような言葉が浮かんできた。ただし、それは同書で書かれているようなインターネット/ウェブとの緊密な暮らしを盲目的に信奉するということではなく、それもあるしこれもある、というリテラシーをより強めていかねばならない、といったほうが近いのかもしれない。』

その後、梅田は、あっという間に、まさにウェブ時代の「生き方」について、さまざま角度から提言を行い、人々の心に実行力を行使するマスター・ヨーダとなっていった。『ウェブ時代をゆく』は、その思想を集成したまさに経典となっており、3+1部作のなかではもっとも重要なつくりになっている。いまはウェブになんらかのかかわりを持つものだけの教典に過ぎないのかもしれないが、今後、5年10年の間に(梅田の言うところの中間層1千万人にとって)確実に物事の中心にウェブ/インターネットが置かれる時代がくることを考えると、かなりのあいだ、通用する汎用性の高いテキストになっていくと思える。梅田自ら「福澤諭吉の『西洋事情』と『学問のすすめ』が対になった存在であるのと同じ意味で、ウェブ時代の意味を描いた『ウェブ進化論』と対になった「その時代に生まれる新しい生き方の可能性」をテーマとした本を、いま時をおかずに書かなければと思ったのだ」と、やや大きく出ているが、これは許容してもいいんじゃないかと思える譬えだ。

概念としてより精度の高まった「高速道路」や、「けものみち」、「ロールモデル」といったキャッチーなコンセプトは、ほかにまかせるとして、ここでは「クリエイト」と「学び」という部分に関して、備忘しておきたい。

マーケティング的には、まことしやかな潮流として、また便利な理屈として「モノからコトへ」と語られることが多い。確かに、人は少ししか差異のないモノを買い増したり買い改めたりすることに食傷しているし、所有することの無意味性やマイナスに気づき始めており、「モノ」の時代が終わりつつあることは実感としてもよくわかる。しかし、その先の「コト」とは何か?という問いになると、途端に勢いがなくなる。そこにも、たとえば「物語(ストーリー)」といった便利な概念があるにはあるのだが、じゃあ人は、エンターテイメント・サービスではなく耐久消費財においてもストーリーを買っているのか?といわれると話はかなり限定的になる。
そこに出てくるのが「クリエイト」である。人は「モノ」の代わりに何を求めるのか?その答えが「クリエイトすること」である、というのはかなり納得できる。

『「ウチの子どもたちを見ていても、具体的なモノを買いたいという欲求は最近あまりない。(中略)じゃあ何を面白がっているかというと、何かをクリエイトすることかな、と思う。YouTubeのビデオやブログだけじゃない。(中略)これまで自分一人の力では手の届かなかったものに、なんらかの力を及ぼせる、その手ごたえがある。彼らはそれに熱狂しているのだ」』

梅田の言説ではなく海部美和のブログからの孫引きであるが、このことは総表現社会へのパスがますます広く拓かれている/いくことを明確に示している。もし、そういった人たち(中間層1万人)が増加すると、やはり経済の構造は変わっていく。という以上に、世に様々な表現物が溢れてくるというなんとも楽しい状況が見えてくる。自分も創るし人の創ったものに対してあれこれ意見を交換する(与太をとばす)という過ごし方が日々の生活においてプライマルになるとすれば、これほどの(小)確幸はない。「経済のゲーム」というインフラがないと「知と情報のゲーム」は空転するだけはないかという考えもあるが、たとえば人がクリエイトすることをサポートするところに、スモールビジネスは確実に存在するわけで、うまくはいえないが共同体型の互酬の気持ちのよい商売も生まれてきそうな気もする。
いっぽうで、いまなにかを「クリエイト」するような仕事に携わっている人は、「クリエイト」のコモディティ化に、かなり危機感を感じておく必要があるだろう。いきなり大きなトレーニングは無理だとしても、たとえば「ブログ」「デジカメ」「ムービー」といった程度のスキルはごく当たりまえのものとして、高度に備えておかなければならないだろう(自戒をこめて)。

そこから考えると「学び」が、世界を気持ちよく過ごしていくためにも重要になってくる。これが二つ目の備忘である。『ウェブ時代をゆく』は、いってみれば全編を通じて「この革新的で、垣根のないフレームを前にして、学び続けよ、そして考え続けよ」と唱えているテキストである。ただし、強要ではない。「学び」を怠らなければ、世界は何十倍にも楽しくなる可能性を持っているということをそしてその可能性のパタンを、ていねいにいくつもの事例を積み上げながら教えてくれているのだ。「群集の叡智」において、なにかひとつでも存在感を残しておける技術と思想を学んでおいたなら、暮らしとキャリアが、ある日突然大きく変わるかもしれない。そんな未来への期待も持たせてくれる。このことは、残りの人生のほうが確実に短くなってしまった私のようなロートルにも大きな刺激となる。

もし、ひとつ慎重に考えなければならないことがあるとすれば、「クリエイト」と「学び」が、つまり「知と情報」が、新しい時代において、旧時代のようなエスタブリッシュメントになりうる可能性もある、ということだろう。新しい時代において、新しい形のエスタブリッシュメントになるなら、なんら問題はないのだが、そのためには、やはり「哲学」と「文学」が永続することが重要になる。

◎専門性。

2007-11-10 23:53:23 | ◎業
全社的な会議で「専門性」という話がでた。そのときの私の発言を、要素を付加しながら正確にまとめてみる。

こういった仕事で、個人のキャリアにおける成果をあげようと思えば、「専門バカ」にならなければならない。「専門バカ」なんて言い方は何かと誤解を招きがちだが、ここで言いたいのは、一度は「専門バカ」にまで降りていくといった経験がないとだめだということだ。そのときの分野は問わない。コピー・ライティングでもいいし、WEBでもいいし、編集でもいい。もちろん、カスタマー・インサイトでもいいし、プロジェクト・マネジメントでもいい。特定の分野における製品知識でもかまわない。また、キャリア形成において時間的余裕があり、しっかりバカといわれる領域まで降下できて、かつそこから浮上できるのなら、べつに一度でなくても、何度でも専門バカになったっていい。さらに、そこで特定の専門性の魅力に気づいたのであれば、ジェネラルの世界に浮上できなくなったって、そのひとつの道にまい進することを心から応援する。ただし、いま、その領域に踏み入れたことのない人にとってみれば、気の遠くなるような勤勉が必要になるのは言うまでもない。

なぜ「専門性」が必要なのか。ひとつは、そこまで大量の情報を身の回りにおき、そのことだけを集中して何時間も何日も、寝食を惜しんで、深く深く考え続けてはじめて見えてくるものがきっとあるはずだし、逆に、そこまでしなければ見えないものも必ずある。そこで見えたものでなければ、自家薬籠中のものとして語れない。自家薬籠中のものとして語れなければ、オフィシャルの場で語る意味はまったくない。そして、そこまでしなければ見えないものしか世の中では通用しない、というぐらいに思っておく必要がある。コミュニケーション産業の周辺はかなり高度化している。

「我々としては、そういうことは概念だけ知っていればよく、あとはプロに任せたらいいのだ」とう人もいる。もちろん、そういう生き方もある。しかし、この箴言には慎重に向きあわなければならない。まず、そういう言い方をする以上は、引っ張りだしてくるプロを質的にも量的にも大量に抱えているメタプロにならねばならない。しかし、仲良し倶楽部ではないわけだから、自分自身にある程度専門的な知見がない限りは有効なネットワークはついてこない。最強のメタプロでもないのに、あれもこれもプロに任せすぎたため、結局は自分の中で、より実践的な専門性がひとつも形成されず、人がいなければ、結局なにもできなくなってしまった、という人を私は何人も見てきている。

いやいや、こういった仕事は人の塊というチームでやるもので、そこでのリーダーシップがうまく発揮できればいいんだろ、という声も聞こえてくる。先の「概念だけ…」にしても「チームで…」にしても、いまや美談としてセオリー化しているが、その美談の影に隠れた意味にしっかり気づく必要がある。チームというのは原則として、目的にむかって合理的にことをなす集団である。トレーニング中のジュニアを除いて、その目的達成に対しなんらかの知見のあるメンバー、つまり専門性のあるメンバーで形成されていなければチームを組んでいる意味がない。そして、そういったメンバー5人で、2×3×5×2×4の相乗的な力が発揮されたとしても、最終的にそこに0が乗算されれば0になるのだ。このことを忘れてはならない。チームを組むときに、あいつはこの分野の専門としていれておきたい、という評判が社内外で囁かれる程度の専門性は身につけアピールしておきたいものだ。ジェネラルなリーダーではあるが、じつはあの分野とあの分野についてはかなり深い、といわれるディレクターなりプロデューサーというのが、というのが理想的ではある。

「専門性」が必要な二つ目の理由。正確に言うと「専門性」を何が何でも身につけなければならない二つ目の理由は、これまで専門的と思われていたことが、加速度的にコモディティ化しているからだ。総表現時代。総学習時代というのもあるかもしれない。

顕著なのは、コピーライティングか。ちょっとした巧みな文章をかける人は、ほんとうにたくさんいる。そういったなかで、専門性の高いコピーとはどういったものなのか。定義はもとより、具体的な技術で総表現を凌駕するようなコピーライティングを鍛錬していかなければならない。ある商品を前にして、ヘッドラインはもとよりボディコピーにおいても誰でもが書けるような自動化された文章を書いてしまうことにつねに恐れを感じなければならない。
差別化のためにどうすればいいのか。悟性的なるものは重要だ。しかし、感性的なるものも欠かせない。前者については、ファクト収集力・把握力、仮説力そして構造力に磨きをかけることだ。つまり、こういったことを伝えなければならないからこのコピー要素が必要なのだ、ということをしっかり議論できるコピーでしか、競合他社とも一般人とも差別化できない、ということだ。後者については、気のきいた語彙をたくさんストックしておく、というのは確かにある。もちろんそれはテレビで誰かが言っていたようないかしたクリシェではない。テレビ漬けになっていると、無意識のうちに盲従的に、そういった言葉を使ってしまうので注意が必要だ。
もはや、こたえは一つしかない。この日本において書かれたものを読みまくるしかないのだ。そして、普段から書きまくる習慣をつけるしかない。しかし、なにより重要なのは(「何を言う」かは揺ぎなく論理づけたうえで、かつリーダビリティは前提として)、「どう言うか」の部分について、自分らしさを出してみたいという意志に徹底して執着することだ。なにか流されずに(「なにか」の中での、いちばんのエネミーは自分だ)、新しいファクト、新しい仮説、新しい表現に固執することを繰り返すことでしか、差別化できるコピーは生まれないし、それがないとそもそもコピーライティングなんて、まったく面白くない。

マーケティング知識なんていうのも同じだ。たとえば、クライアントのマネージャーの元には、そういった知識は、受動的とはいえ、彼のもとに集う広告代理店、マーケティング会社、経営コンサルタントからまるで上納されるかのようにたくさん集まってくる。私たちが学習の手綱を緩めれば、あっという間にクライアントと話ができなくなる。つねに、能動的に新しい理論を仕入れること。それを実践できるフレームワークにオリジナリティを加味してブレイクダウンしておくこと。もし、ある程度の高みを目指すなら、こういったことをストレスをかけて実行していかなければならない。
私が、よく言う「つねに、新しいものを目指すべきだ」という号令の真意はこういうことだ。

もちろん、どの分野で専門的になるのか、ということを発見し意志を固めるのはかなり難しいとは思う。しかし、探す意志、目指す意志をつねにもたなければ、いつまでたってもことは進まない。肩肘をはらずに、波に乗るような気分で、そういった専門性へのアンテナを張ることができて、見つけたときは一気に深みに入っていける。そんなふうなのが理想なのだけれど。

◎いまさらながら。

2007-11-08 22:50:32 | ◎書
村上春樹の小説の登場人物には感情移入できる。そればかりではなく、これはまるで俺のことを言っているのではないのか、と、本来、違いが明確な個体であるべきものが、あたかも同期しているかのように感じることも多い。そして、このことは、強い批評の眼をもって読む人は別として、多くの人が感じているのではないだろうか。しかし、その原因は特定のキャラクターに対する共感や好意度から生まれているものではないことに気づいた。彼があらわそうとしているのは、人間の普遍であり、人間の無意識の普遍なのだ。いまさらながら。まるで井戸の底に降りるように、普遍の底に降りていく。だから、彼が長編小説の執筆において限りなく消耗する、とまことしやかに語るのは、あながち嘘ではない。

もうひとつ、いまさらながら、『文藝』の笙野頼子特集を買う。この時期、リアルの世界からも、バーチャルの世界からも、マストではないかという囁きが聴こえてきたので。しかし、誰かと同じで笙野頼子の作品は読んだことはない。『レストレス・ドリーム』くらいは古本で買っていたかもしれないけれど、いまとなっては、探すのものたいへんだ。そういった意味では、『文藝』なんか買っている場合ではなく、まず『笙野頼子三冠小説集』なんだろうけれど、ここから始めてみる。何かを何度も何度も考えて、それを冗長で饒舌な言葉で表現している場には、きっと学ぶべきものがある。

さらに、いまさらながら、2007年度の文芸誌の低調に気づく。そうでもないのかな。去年は毎月、4誌並んだらどれを選ぶか迷うことも多かったのだけれど、今年はほとんど悩まない。『新潮』の連載が面白く(というか、平野と舞城と高村)、これを定期購読としてフィックスしているため、もう豊かな選択肢を形成できず、簡単にあきらめていたのかもしれないが、まあ簡単にあきらめられた内容だということだったのかもしれない。確かに『新潮』は、連載のほか、引き続き、いくつか新しい試みを提起してはいるのだけれど、だいたい1号に1本で、これは他も同じような状況だから、昨年のように、『群像』の3本と『文學界』の2本と、それでも譲れない『新潮』の1本といった悩み方が格段に減ったということだ。もう少していねいに読めば違ってくるかもしれないな。今月の『新潮』の田中慎弥なんかも冒頭を眺める限りはとりあえずよい滑り出しになっているようだし。

最後に、いまさらながら、Firefox とThunderbirdのロゴはよくできているなあ。

なんか、ほかにも、「いまさらながら」があったかもしれないけれど、あんまり覚えてないや。「いま」だ、という瞬間をしっかり覚えておくような記憶力を復活させるためのまじないなんか唱えるより、なにかを着想したり違和感を感じたりした、「いま」だ、と思った瞬間に、たとえそれが定着していなくても、確信がもてなくても、行動するなり発言するのがよいのかもしれない。

◎ハードで理不尽なトレーニング。

2007-11-04 17:19:28 | ◎書
バレーボールのワールドカップが始まっている。ゲーム中継の合間をぬって、へヴィーな練習中の風景が差し込まれる。あいかわらず、過度ともいえるTVプログラムの演出だ。しかし、実際に競技をプレイしていたものとしては、その場面をなんともいえない感慨で眺めることになる。

たとえば、レシーブ練習。コーチから手向けられるのは常軌を逸した速さのスパイクの連打であり、ちょっと努力しただけでは届きそうもない理不尽な場所に落とされるボール。いわゆる「ワンマン」といわれる練習法だ。広いコートに、たったひとりでコーチから繰り出されるすべてのボールを受け、追う、きわめてシンプルなしくみ。競技スポーツとしてのバレーボールを経験してきた人間にとっては、このシンプルな行為の繰り替えしこそが聞くだけで身が少しは引き締まる恐怖すべきトレーニングとなる。いや、これはトレーニングでもなんでもない。3分から10分間、ひどい場合は30分以上。回りの怒号と歓声のなか、立てなくなるまでボールを追い回すことを強要され、立てなくなれば、コートの外にいる人間が腕をつかみ、シャツをひっぱり無理やりコートに対峙させられる。ときには、コーチの「もうやめるか?コートから出るか?」との叱責に、「やります、できます、お願いします」と呼応しなければならない。もはや、ボロボロの体でこんなことを続けても、技術が向上することは一切ありえない。もちろん、こういった練習はほんの一部に過ぎない。徹底的に体と心を痛めつける練習がバリエーションを変えて日夜繰り返されているのだろう。

僕はそういった環境のチームで主将を務めたことがある。高校生のときだ。つまり当事者であり主謀者であったということだ。最初は、というかプレーヤーのとしての現役時代の大半は、伝統的に受け継がれてきた非情のプログラムに盲目的に従い、積極的に自分を含めたすべての選手たちを打ちのめすことに邁進していた。しかし、一方で、練習を繰り返してもいっこうに強くならないチームに業を煮やし、じつは最終的な局面、つまりチームを引退する直前には、そういった練習の理不尽さ、非合理さに気づき始めていた。俺たちには、もっと合理的で、何かの根拠、それは何かはわからないが、何か科学的な発想に基づいた練習法が必要ではないか、と。

だから、大学に入ってからは、あんなバカみたいな環境でバレーボールをするのはやめよう、と体育会ではなく同好会を選んだ。選んだ同好会は、結局は体育会なみにタフなクラブで練習じたいはかなりキツかったわけだが、それでも、技術の向上について合理的な議論がなされていた。この方法には充分納得できた。なにより、それがあることで高校のtきは毎日がいやでしようがなかったバレーボールの練習を心底たのしむことができた。

人生をやり直したいか?という問いがある。ぼくの答えは、まあ「NO」だ。ただし高校のチームのキャプテンを除いては。あの3年間だけは、もう一度、組み立てなおしてみたい、とずっと考え続けている。フィジカルにキツいのはかまわない。それこそ、あの頃以上の負荷をかけることに一切の異存はない。しかし、もっと「考える」べきだったのだ。それこそ、授業なんて出ないくらいの勢いでもっともっと技術向上のための合理的で連動性・関連性のある練習方法を考え尽くすべきだったし、ときには監督やOBのコーチに掛け合い、無茶な練習は受け入れるが、一方で個人個人の技術をていねいに修正していくような指導もしてほしい、と直談判すべきだったのではないか。その方法については、もうやり直すことなんて絶対にできないとわかっていながらも、この歳になるまで、ほんとうに何十回、いや何百回と夢想しシミュレーションしてきた。

しかし、この話の結論は、まったく逆の方向に落ちる。たしかに、「ワンマン」のような練習はまったく合理的ではないと思うし、そんな無慈悲で浅慮な行為が行われる場をリードしていた過去をやり直したいと悔いてはいる。悔いてはいるのだが、現実的にTVで放送されている、あの頃のコートと寸分違わない映像をみると、競技スポーツには、肉体と精神の限界まで降りていく経験は必ず必要であり、その限界を体と心でしっかり把握し、把握したうえでそれでもそこからもう一歩踏み出せる自分自身の可能性を知っておく必要がある、という思いに抗うことはできない。ぼく自身に、焼き付けられた烙印が、数年を経て疼いているということなのだろうか。仕事やふだんの暮らし、思考において、いちどは底が抜けるまで降りてみるべきだ、ということを指摘する根底には、この精神があるのかもしれない。もはや、スポーツだけとは限らない。襤褸きれのようになりながらも底というものを間近でみて、届くか届かないかのギリギリのところにある、光を放つ、しかしながら泥でできた可能性の高い縄に手を伸ばし、なんとかつかんでみる。そして、なんの担保もない泥縄を握り締めて、声を振り絞って再び立ち上がることができたなら、そのとき見えるものはそれまでと大きく違っているはずだ。この経験は何ものにも変えがたい、というのは一理あると思うのだが。

◎しばらく修行に出てもらいます。あ、ipod持っていってもいいよ。

2007-11-03 17:44:56 | ◎聴
壊れてるから50曲しか入らないけれどね。1アーティスト3曲まで?それ許してもらえたからといってもなあ。

【01】「I Know There's An Answer」The Beach Boys(*1)
【02】「Day in the Life」The Beatles
【03】「Lonesome Tears」Beck
【04】「Nights on Broadway」The Bee Gees
【05】「Everybody Loves You Now」Billy Joel(*2)
【06】「Like A Rolling Stone」Bob Dylan
【07】「Land of Hope and Dreams」Bruce Springsteen(*3)
【08】「Tenth Avenue Freeze-Out」Bruce Springsteen(*4)
【09】「Atlantic City」Bruce Springsteen
【10】「Back To You」Bryan Adams
【11】「Desperado」Carpenters
【12】「陽の照りながら雨の降る」Cocoo
【13】「Take Me」CASIOPEA(*5)
【14】「A Rush of Blood to the Head」Coldplay
【15】「Until I Believe in My Soul」Dexy's Midnight Runners
【16】「Touch Me」The Doors
【17】「Break On Through」The Doors
【18】「Yours Truly, 2095」Electric Light Orchestra
【19】「The Pretender」Jackson Browne
【20】「Sky Blue And Black」Jackson Browne
【21】「Say It Isn't True」Jackson Browne
【22】「観覧車’82」KAI FIVE
【23】「Mind Games」John Lennon
【24】「Authority Song」John Mellencamp
【25】「Human Wheels」John Mellencamp
【26】「MILESTONES」Miles Davis(*6)
【27】「WALKIN'」Miles Davis(*7)
【28】「あんまり覚えてないや」Mr. Children
【29】「Worlds end」Mr. Children
【30】「Smells Like Teen Sprits」NIRVANA
【31】「Acquiesce」OASIS
【32】「Go Let It Out !」OASIS
【33】「The Masterplan」OASIS
【34】「the final cut」Pink Floyd
【35】「Message In A Bottle」The Police(*8)
【36】「No Time This Time」The Police
【37】「Omegaman」The Police
【38】「A Whiter Shade Of Pale」Procol Harum
【39】「Dragon Attack」QUEEN
【40】「Don't Stop Me Now」QUEEN
【41】「Under Pressure」David Bowie/Queen
【42】「Miss You」The Rolling Stones
【43】「My Life Is Dedicated To My Music」SHOGUN
【44】「A Hazy Shade Of Winter」Simon & Garfunkel
【45】「Come on you」SINGER SONGER
【46】「Boat On The River」Styx
【47】「New Year's Day」U2
【48】「Discotheque」U2
【49】「Citizens of Silence」Yellow Magic Orchestra
【50】「グッドモーニング」くるり
【51】「How To Go」くるり(*9)
【52】「からっぽのブルース」Southern All Stars
【53】「cream soda」Supercar
【54】「Electric Sea」Supercar
【55】「夜を駆ける」Spitz
【56】「哀しみのプリズナー」桑田佳祐
【57】「質量とエネルギーの等価性」桑田佳祐
【58】「ベリー ベリー ストロング~アイネクライネ~」斉藤和義
【59】「歌うたいのバラッド」斉藤和義
【60】「アゲハ」斉藤和義
【61】「誰のせいでもない雨が」中島みゆき
【62】「夜曲」中島みゆき
【63】「家路」浜田省吾(*10)
【64】「終わりなき疾走」浜田省吾
【65】「ON THT ROAD」浜田省吾(*11)

やったー!65曲もコピーできたよ。って、そんな問題じゃないな。そうとう無理があると思うんですけれど、そうまでしていかないといけない修行なんですかね。


(*1)「Hang On To Your Ego」でもいいです。
(*2)『Songs in the Attic』収録
(*3,4)『Live in New York』収録
(*5)『SUPER FLIGHT』収録
(*6)『MILES DAVIS IN EUROPE』収録
(*7)『MILESTONES』収録
(*8)東京or大阪ドームどうだろう。現役時代なら確実に獲りに動いたけれど。あくまで3ピースなので、たとえば、DVDの『LIVE GHOST IN THE MACHINE』なんかを見ていると大きな会場だと少しつらいんだよな。というか3ピースで演るのかな。プレミアム席30,000円お土産付って、升席じゃないんだから。
(*9)『ベスト・オブ・くるり Tower of Music Lover』収録
(*10)『The Best of Shogo Hamada vol.2』収録
(*11)『On The Road 2001』収録