「えー、お取り込みのところ、たいへん申し訳ありませんが、乗車券を拝見させていただきます」
言った刹那、秋葉博司は、あ、またやっちゃった、と悔いた。「お取り込みのところ」なんて、なんて余計な言葉が口からでるのだ。しかも「えー」なんて溜めまでついて、これじゃあ、すげータイミングを計ってたみたいじゃん。いや、実際に計っていたのだが、そんなふうに策を弄するとき、だいたいにおいて秋葉博司は適切なコミュニケーション対応ができない。計っている間に、事態にもっとも適していると思われる台詞をあれこれ考えて、ああこれがベストだと思われるご名答に達し、その解を何度も復唱することで言葉が自分のものとなるまで完全に記憶してみるのだが、言い出す直前になると、せっかく覚えたキーワードが真っ白に弾け飛び、でももう口は半分くらい開いているものだがら、発語までのコンマ1秒の間に海馬をフル回転し続けるものの、重要なフレーズは発見できず、結局はまったく考えてもみなかったボキャブラリーが、だらりと口から漏れ落ちてしまう。もちろん、その言葉は最適解とは程遠く、そればかりではなくまったく真逆の効果をもたらすことも多く、ときに大いなる怒りと不信を招く。幸いなことに、車掌という要職について以来、そういったミステイクが暴力沙汰に発展したことはないが、初老に差し掛かった上司が、その慇懃無礼な態度により乗客の止所無い憤怒を買い、デッキ近くでボコられているのを見かけるにつけ、いつかはわが身と慄きつつ、そのオブセッションがさらなるストレスを生み、薄氷を踏む思いで言語生活を営んでいる。
今回だって、ほんとうは「お疲れのところ、たいへん……」と切り出そうと思っていたあげくがこの体たらくだ。しかし、「ああっ」とか「うー」なんて唸りながら泣き出す女と、鬼の形相で一心不乱にお菓子をぽりぽり食い続ける男のまぎれもない不倫のこじれの果てを目の当たりにしたとき、「お取り込み」以外のどんな言葉が最適解として選ばれるのだろう。そんなことを詮索した瞬間に、「お疲れのところ」という言葉が完全にスパークし、次に結晶化したときは、「お取り込みのところ」と変容していた。文脈の正しさが、空気の正しさ喰ったといえば、聞こえはよいが、リアルの世界ではなんのブックマークもいただけない。案の定、振り向きざまの女の顔はもの凄い渋面で、こちらサイドとしては、いっさい必要もないのに腰からわざわざ取り出したキャリングターミナルに目を落とすしか逃げ場はなく、落としたからといってなにも時計がぐるぐる回るわけもなく、よく言われるようにその一瞬が永遠に感じられる時を過ごすことになる。
長いインターバルを経てようやく彼女の手帳のようなもの中から引き出され手渡された特急券・乗車券は紛れもなくひとり分であり、ここで始めて、ふたりには男女の関係はまったくなかったことを思い知らされる。秋葉博司は、えーそうなのかよー、と気落ちすると同時に、またまたやっちゃった、と悔いた。つまり、ほんのわずか垣間見た材料だけを拠り所に、妄想を誇大に各方面に膨らまし、はたまた誰が言い出したのかも定かではない伝聞だけで、他人のキャラクターを揺ぎなく断定してしまう癖。まあ、このたびは、「わっ、二人きりでのトリップなんて!」とか直截的に発信したわけでないぶん、「やっちゃった」わけではないのだから、業は軽いといえば軽いのだけれど、事の発端のすべてがこの早合点にあるということを考えれば、絶大なるボーンヘッドであることは相違ない。さすがに「たいへん失礼をいたしました」といったような失言はなんとか寸でのところで食い止めたが、この一件に、今日の占いカウントダウンハイパーのように呪縛され、これから新大阪まで約2時間30分延々と続くのぞみ153号の全業務において立ち込める漆黒の雲の存在を垣間見た気がした。そして虚脱。落胆。阻喪。すわ、新横浜にて逐電。そんな目論見さえも頭をよぎる。
べつに女の客が「取り込んでなんかいません!」とか「不倫カップルなんて失敬な!」なんて激しているわけではないのだから、ほんとうは負のスパイラル回転をいますぐに止めるべきなのだが、そんなときに限って、乗客にボコられて苦渋をひん曲げてでも愛想を保とうとする上司の歪んだ笑みが頭をよぎり、しどろもどろになる必要なんてまったくないのに、しどろもどろになって女の検札を終え、しどろもどろに次の男の乗車券・特急券の提示を待つような、人生しどろもどろの旅を続けることになる。実際に、男の乗客が、いつまでも自分の乗車券・特急券を取り出すそぶりを見せない苛烈なしどろもどろ時間が続き、これをなんとか断ち切ろうと、再びナイスなトークを繰り出してしまう。「お食事中のところ、まことにお手数ですが、乗車券・特急券を……」なんて言っちゃえば、ぼりぼり食うこの貧しいお菓子がおれのお食事か?おれのディナーか?ってなもんで、結果的には礼節を欠いたことになってしまったこの慮りに、さすがに男の乗客は大きく反応する。はあん?といった威嚇的な雰囲気が場を覆いつくさんとするなか、それが救いとなるのかどうかはわからないが、いやむしろ新たなしどろもどろライフの幕開けとなる可能性の方が高そうではあるが、すでに検札を終えた前の席から、ひとまず場をブレイクするだけのインパクトのある手が差し伸べられた。
「人、座ってへんのに、なんでこんな下げるかなあ。なあ、おばちゃん」
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▶『ジグソーパズル専門店(仮)』
▶『ジグソーパズル専門店(仮)』<2>
言った刹那、秋葉博司は、あ、またやっちゃった、と悔いた。「お取り込みのところ」なんて、なんて余計な言葉が口からでるのだ。しかも「えー」なんて溜めまでついて、これじゃあ、すげータイミングを計ってたみたいじゃん。いや、実際に計っていたのだが、そんなふうに策を弄するとき、だいたいにおいて秋葉博司は適切なコミュニケーション対応ができない。計っている間に、事態にもっとも適していると思われる台詞をあれこれ考えて、ああこれがベストだと思われるご名答に達し、その解を何度も復唱することで言葉が自分のものとなるまで完全に記憶してみるのだが、言い出す直前になると、せっかく覚えたキーワードが真っ白に弾け飛び、でももう口は半分くらい開いているものだがら、発語までのコンマ1秒の間に海馬をフル回転し続けるものの、重要なフレーズは発見できず、結局はまったく考えてもみなかったボキャブラリーが、だらりと口から漏れ落ちてしまう。もちろん、その言葉は最適解とは程遠く、そればかりではなくまったく真逆の効果をもたらすことも多く、ときに大いなる怒りと不信を招く。幸いなことに、車掌という要職について以来、そういったミステイクが暴力沙汰に発展したことはないが、初老に差し掛かった上司が、その慇懃無礼な態度により乗客の止所無い憤怒を買い、デッキ近くでボコられているのを見かけるにつけ、いつかはわが身と慄きつつ、そのオブセッションがさらなるストレスを生み、薄氷を踏む思いで言語生活を営んでいる。
今回だって、ほんとうは「お疲れのところ、たいへん……」と切り出そうと思っていたあげくがこの体たらくだ。しかし、「ああっ」とか「うー」なんて唸りながら泣き出す女と、鬼の形相で一心不乱にお菓子をぽりぽり食い続ける男のまぎれもない不倫のこじれの果てを目の当たりにしたとき、「お取り込み」以外のどんな言葉が最適解として選ばれるのだろう。そんなことを詮索した瞬間に、「お疲れのところ」という言葉が完全にスパークし、次に結晶化したときは、「お取り込みのところ」と変容していた。文脈の正しさが、空気の正しさ喰ったといえば、聞こえはよいが、リアルの世界ではなんのブックマークもいただけない。案の定、振り向きざまの女の顔はもの凄い渋面で、こちらサイドとしては、いっさい必要もないのに腰からわざわざ取り出したキャリングターミナルに目を落とすしか逃げ場はなく、落としたからといってなにも時計がぐるぐる回るわけもなく、よく言われるようにその一瞬が永遠に感じられる時を過ごすことになる。
長いインターバルを経てようやく彼女の手帳のようなもの中から引き出され手渡された特急券・乗車券は紛れもなくひとり分であり、ここで始めて、ふたりには男女の関係はまったくなかったことを思い知らされる。秋葉博司は、えーそうなのかよー、と気落ちすると同時に、またまたやっちゃった、と悔いた。つまり、ほんのわずか垣間見た材料だけを拠り所に、妄想を誇大に各方面に膨らまし、はたまた誰が言い出したのかも定かではない伝聞だけで、他人のキャラクターを揺ぎなく断定してしまう癖。まあ、このたびは、「わっ、二人きりでのトリップなんて!」とか直截的に発信したわけでないぶん、「やっちゃった」わけではないのだから、業は軽いといえば軽いのだけれど、事の発端のすべてがこの早合点にあるということを考えれば、絶大なるボーンヘッドであることは相違ない。さすがに「たいへん失礼をいたしました」といったような失言はなんとか寸でのところで食い止めたが、この一件に、今日の占いカウントダウンハイパーのように呪縛され、これから新大阪まで約2時間30分延々と続くのぞみ153号の全業務において立ち込める漆黒の雲の存在を垣間見た気がした。そして虚脱。落胆。阻喪。すわ、新横浜にて逐電。そんな目論見さえも頭をよぎる。
べつに女の客が「取り込んでなんかいません!」とか「不倫カップルなんて失敬な!」なんて激しているわけではないのだから、ほんとうは負のスパイラル回転をいますぐに止めるべきなのだが、そんなときに限って、乗客にボコられて苦渋をひん曲げてでも愛想を保とうとする上司の歪んだ笑みが頭をよぎり、しどろもどろになる必要なんてまったくないのに、しどろもどろになって女の検札を終え、しどろもどろに次の男の乗車券・特急券の提示を待つような、人生しどろもどろの旅を続けることになる。実際に、男の乗客が、いつまでも自分の乗車券・特急券を取り出すそぶりを見せない苛烈なしどろもどろ時間が続き、これをなんとか断ち切ろうと、再びナイスなトークを繰り出してしまう。「お食事中のところ、まことにお手数ですが、乗車券・特急券を……」なんて言っちゃえば、ぼりぼり食うこの貧しいお菓子がおれのお食事か?おれのディナーか?ってなもんで、結果的には礼節を欠いたことになってしまったこの慮りに、さすがに男の乗客は大きく反応する。はあん?といった威嚇的な雰囲気が場を覆いつくさんとするなか、それが救いとなるのかどうかはわからないが、いやむしろ新たなしどろもどろライフの幕開けとなる可能性の方が高そうではあるが、すでに検札を終えた前の席から、ひとまず場をブレイクするだけのインパクトのある手が差し伸べられた。
「人、座ってへんのに、なんでこんな下げるかなあ。なあ、おばちゃん」
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▶『ジグソーパズル専門店(仮)』<2>