考えるための道具箱

Thinking tool box

◎界隈の話に、少し噛んでみたり。

2007-12-11 23:38:24 | ◎書
▶「好きを貫く」ことを機嫌よく続けるための唯一の障害はきっと「時間」だ。押してくる「時間」さえ気にする必要がなければ、曲りなりにも自ら選んだ、いまやっているたいていの仕事は好きだと思えるのではないだろうか。
せっかく時間を忘れて没頭しているのに、誰かが時を告げると、不本意ながらも尺にあわせて丸めなければならない。だいたい、そもそもリミットが切られていて、なんの夢想をする暇もなく、だらだら楽しく下調べする間もなく、とりあえず機械的に手を動かし始めなければならないことがほとんどだ。
もちろんねじを巻くのは、影の発注者だけではない。明日、しゃんとした心身で好きなことをするためには、しっかり眠らないといけないので今日の好きをあきらめないといけない、という自主規制的なものものある。飯だって食わなければならない。
こういった時間ストレスが溜まってくると、好きに違和や不可能性を感じ始めてしまうことになる。結局、俺たちは「好きを貫く」時間を確保するために、その時間的制約から好きを少しずつあきらめ、でも、いつかはそういった時間を確保できるだろうという幻想の中でループし続けている。
もちろん、この無限ループで廻り続けること自体を「好きを貫いている」とみるオプティミズムはありだ。ただし、そのクスリの効果は、時間を確保するには金が必要なのだ、時間を買うために膨大な金を貯めなければならないのだ、というヤなことに気づいてしまうまで持続されなければならない。

▶中刷りとか駅貼りで、キャリア各社の新しいケータイをみていると、表層的かもしれないしペラいのかもしれないし、まあいまさら俺が言うほどことでもないのだけれど、AUとSoftbankのインダストリアルデザインは物欲をそそる程度にはちゃんとしている。それは俺の目でみてもわかるほどで、明らかにDOCOMOはいただけない。かっこよくしようと努力してかっこわるくなっていないか?きっとそうだ。
ふと、この電話会社のなかでも比較的先端をいくグループ企業の人と話をしたとき、「ウチはあなたの予想をはるかに超えて官的ですよ」と言われたのを思い出した。ケータイのデザインも原石はクールだったのだけれど、はんこをいっぱいおされる過程において、メーカーのデザイナーもツルんとしてきて、メタモルフォーゼというか崩壊していったのだろうか。弁証法のあんまりよくない見本?弁証法とは言わないか。

▶「プライドを捨てること」「自分を晒すこと」「人と出会うこと」「技術を愛すること」。ベーシックでとても大切な話。ただし、このIT戦士は結果論を体系的に語っているわけだから、その体系を受け取った俺たちは、かなり自覚的にこれらのファクターを全うしなければ身につかない。毎日、帰路にて、今日はプライドを捨てたか?自分を晒したか?新しい人に出会ったか?仕事に新しいアイデアを起用したか?といったことを自問する程度のことは必要だ。ま、自問できるような人は、そもそも身体に染み付いているのだろうけれど。

ところで「プライドを捨てる」というのは、捨てたことでうまくいった経験がないと、その勘どころがわかりにくいのかもしれない。基本は面従腹背ということだろう。言葉だけとると、卑屈だし対話者を裏切っているようであまりよくないたとえだけれど、ここで言いたいのは、Aを守るためにBというチンケな虚勢を切る、という判断をどう状況適応できるか、ということだ。そのAというのはもちろん立場によって異なるが、仕事における俺のAはもはや言うまでもない。

▶イソジンとバイシンを買った。ついでにヴィックス・メディケイテッド・ドロップも舐めたし、スパーク・ユンケルも飲んだ。なんか、風邪とかインフルのオブセッションにとり憑かれている。いまのところまあ快調。

▶インナーイヤーレシーバーをSONYのMDR-EX85SLに変えてから、初めて『言葉はさんかくこころは四角』が流れてきた。これまではアバウトな聴き方をしていたため気づかなかったけれど、新しいイヤフォンはじつに細かい音を拾ってきて、それがいろいろと工夫があることがわかって、あらためて、日なが音楽のことばかり考えている人の音楽はいいなあと思った次第。あと、SONYの技術を結集したといわれているやつだとか、BOSEとかのイヤフォンにしたらどんなふうになるだろう、というのが目下の希望。

▶そろそろ、今年買い逃していた本をチェックしておいて年末の楽しみとしたい。ざっと思いついただけでも……『生物と無生物のあいだ』(読んでいないのかよ)『国家の罠』『マジック・フォー・ビギナーズ』『佳人の奇遇』『世界の終わりの終わり』『滝山コミューン一九七四』『下流志向』『エレクトラ―中上健次の生涯』『なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集』『その名にちなんで』『旅の途中』『アイロンと朝の詩人――回送電車 III』……って、けっこうある。あと『シネマ2』なんかに無謀にトライしてもよいかもしれない。これだけ集まると値がはるので、まずちゃんとしたリストをつくって「ブ」とかに突入だ。というか「ブ」にはあるはずもないので、天牛・天地に突入だ。ま、そこにもほとんどないだろうけれど。どっかに2億円とか落ちていないかな。

◎文学のニュース。読んでないけれど。

2007-12-09 21:40:30 | ◎読
▶なにより驚いたのは、08年1月号のすべての文芸誌に中原昌也が書いているということだ。月例の四誌横並び広告を見た俺は思わずコーヒーを吹いてしまった。大丈夫か、中原。その叫びが、断末魔かどうかを確かめるために、とりいそぎ、『新潮』の「忌まわしき湖の畔で」と『群像』の「新売春組織「割れ目」」を読んでみた(いちおうちゃんと読んでます!!)。そして、衒学的なこととか文壇への迎合なんかをぬきにして、素人目にみて、そうとう面白いと思ったし、なんといっても文章が巧くなったと思った。これらを読んでいるとき、筒井康隆を読みふけっていた中学生の頃の、あの「やめらない」感覚が少し蘇ってきた気がした。

とりわけ「忌まわしき湖の畔で」は、「点滅……」に継ぐ、中原にしては稀有な大長編で、全体的なフレームは「点滅……」を大きく抜け切れていないとはいえ、その自/他、内/外の直結は、さらに一歩底が抜けた。その精神状態の狂いは、もはや尋常ではない。反面、中原文体の完成度は高まり、それにつれ次々とうまれる中原語彙もいっそうの磨きがかかり、巧い文として昇華されることで、狂いと正常のボーダーをあいまいにしてしまう。

「忌まわしき…」では、冒頭、TVに登場していると思われるミュージシャンについて語りながら、彼の歌に代替することで、これまでどおり、「小説を書くこと」への呪詛と恥辱、その悔恨を言い表しているくだりがあるが、そういった悪態は、この小説に限っては、これまでのように連綿と続くのではなく、その部分だけにとどまる。ある意味で、まずその部分で毒をいったんすべて出しつくし、再びその毒が溜まりだすまでの間に一気に書き上げてしまったというようにも見受けられ、それが「忌まわしき…」が「あーあ、また毒づいているよ」とならず、一定のテンションを保ちながら、ときに底抜けの大笑いをよぶ可笑しい小説に仕上がった理由のようにも思える。
この2つの小説を読む限りにおいて、もうだれの目にみても、中原は玄人だけに評価される色物ではなくなったような気がする。

▶どこかの誰かが、新潮社は(というか文学の世界は)、「評論を切った」とかいった、根拠もファクトもまったくない妬みを書き連ねていたが、多くの評論が新しくスタートした「新潮」を前にして、彼はまず謝罪会見を開かねばならない。

新連載の評論は、佐藤優、四方田犬彦、丹尾安典、杉本博司。あちらが終わったばかりの佐藤優をすぐに起用するのはどうかなあとは思うが、いま書く気と書くべき情報が漲っている佐藤にはいろいろやってもらったほうがいいのだろう。

四方田の「月に吠える」は文化月評。まず思ったのは、俺はやはり四方田の書く文章を、ほぼ全人的に受け入れてしまう、ということだ。とくにドラマタイズされたわけでもないし、とりたてて巧みでもない彼の評論やエッセイが体に馴染むということは、どこかその乾いた語り口、それだけではなくさらには視点とか思考方法に近いものを体感しているということかもしれない。その妄想癖とか都合にまかせた記憶力について一部の地域で非難をよんでいる四方田ではあるが、俺は俺で、きっと今後も受け入れていくだろう。

今回、若松孝二の『実録・連合赤軍』をとりあげた約40枚ほどの評論も、一気に読み上げることができたし、いますぐにでもなにがなんでも『実録・連合赤軍』を観る時間を確保しなければと思わせる、微に入り細を穿つ詳説は、1968年になにかを深く考えた(それが正しいかどうかは別として)ものだけが書きえるレビューなのだろうと思えた。(ところで『実録…』で遠山美枝子を演っているのはあの坂井真紀なのか。すげえな。)

▶もはや触れるまでもなく(文系ネット上で)話題の『新潮』の特別付録CD「詩聖/詩声 日本近代名詩選」は、矢野さんの面目躍如というところか。いつかは形になるのだろうと思っていたが、古川日出男の朗読とは見事に予想を裏切ってくれる。近現代詩なんてきっと意志はあっても時間と契機がなくマジメに読むことはないだろうと思っていた俺にすばらしい機会をあたえてくれた。

この文芸誌史上初の試みにより解禁となった音声による文学経験は、きっと広い可能性をもつ。それは、川上未映子のパフォーマンスであったり、誌上(?)「ラジオデイズ」であったり、「詩のボクシング」とか、まあこれはかなわないだろうけれど、村上ソングズ・ジャズ入門であったり、本人による短篇の朗読であったり。あとは野田MAPや大江の文学入門の映像DVDとか。他誌も、二番煎じなんていわずに、どんどんトライしてほしいところだ。

▶CDのような派手な演出はないが、グラビアページ(これも文芸誌ほぼ初じゃないか?)による『群像』の試み「文学の触覚」というプロジェクトも、なかなかのもんだ。小説家とメディアアーティストによるコラボレーション(メディアアーティストってのがちょっとわからないが)。それがたとえ編集者の口車であったとしても、それを面白がって受容してみるという小説家の態度があればこそ、『作家』は殺されることはないだろうと思う。この「文学の触覚」というのは、実際に、展示会として東京都写真美術で館観る/読むことができる。予定をくると1月20日あたりに観にいけそうな気がする。

▶「野間文芸賞」と「新人賞」の発表は、これもニュースのひとつに違いないんだろうけれど、こんなに地味なやり方だっただろうか。しかも、選ばれた新人賞のうちのひとつは、去年の夏に発表された西村賢太の『暗渠の宿』である。しかも、候補作に『灰色のダイエットコカコーラ』が入っていたりもする。発表年度というより、単行本刊行年度ということなのだろう。ある意味でゆったりしたムードともいえ、そういった何かに急かされないし、妙なビジネスが動かないところから、地に足がついたものが選ばれていくというのも一理ある。俺はあまり好きではないが、『暗渠の宿』が選ばれたのもひとつの正義だろう。もちろん『灰色のダイエットコカコーラ』であっても、それは変わらない。この調子でいくと『チチトラン』がメジャーな賞をとりそうなので、『イン歯ー』は、まあいいだろう。

▶大きなニュースは、平野啓一郎の『決壊』でも起った。これまで、幾度となくニュースを繰り返してきた同作において、もはやこれ以上の大きなニュースが登場する余地はないだろうと思われていたところに起ったニュースは、過去最大級ともいえる。

今日の朝までごく普通の生活を営んでいた市井の一市民に、何かの閾値でも越えたかのように連鎖的にふりかかる社会的難題と暴力の数々。そこにあるのは、現代の世界において、俺たちはそういう状況にまきこまれる可能性を孕んでいるというお行儀のよい教訓ではない。そこにあるのは、いまこの世界に生きているということがもはやそれだけで暴力であり、それら暴力との折り合いをつけることはきわめて難しいが、一方で、たとえば、どれだけエキセントリックなニュースが起り続けたとしても、またそれらのインシデントが劇場の中で行われているようにみえたとしても、たとえば、人の生き死にのようなことに、決して「慣れて」しまってはいけないということを、書き連ねた読み易いとはいえない、乾きゴツゴツした文章である。
この憐憫とか感情の起伏に流されない、ただの文章が書けるということがすなわち、小説というゆるぎないジャンルの『作家』なのだ。

▶なんだかんだ言っても、一番のうれしいニュースは、雑誌の正月号は充実しているという伝統を、今年も『新潮』と『群像』という2つの文芸誌が守り続けてくれたことだ。俺がまだ小さかったころは三が日というのは、あいている店もなく、エキサイティングなイベントもなく、ほんとうに暇なひとときだった。きっと全日本国民が暇だった時だろう。

だからこそ、そのもてあます暇対策として、師走には、新春特別と目された通常月よりはひときわ分厚い雑誌がたくさん店頭に並び、だからこそ、毎月は買わない雑誌なんかも特別に買い込むことも許されて、小さい子どもから大人までがそんな何冊もの雑誌に囲まれ大晦日を迎えることができた。そんな幸せな時間を約束してくれる分厚く、新しい試みのある雑誌を提供してくれた、2人の編集長に感謝したい。もっとも、幸せな時間をたっぷり確保するためには、12月ぎりぎりまでなにか得体の知れないものと格闘し続けなければならないが。

◎わたしのわからない世界へようこそ。

2007-12-07 00:28:05 | ◎書
ケータイ小説なんて、
いいのか悪いのか
よくわかんないよ…。

ただ、思うのは…


…アレ書くのって、
フィジカルに大変なんじゃないかな
っていうこと。
指紋ツブれちゃうんじゃないか、とか。


ちゅーか、ホントにケータイで書いてるのか?
オレの勘違いか?


2008年1月号の『文學界』は、
「ケータイ小説は『作家』を殺すか」。

なんて物そうなタイトル…。

こういうのに似たものって
なんだろう。

倖田來未?

でもアレはお金かかってるよ。
あ、ああこれに近いかな。


みつを。

違うか。
ヤンキー先生とかそんな類か。
不幸自慢カラオケ?
まるで、おばちゃんじゃん。


いずれにしても、

やっぱり…


マジメに議論する話じゃねーな。

ところで、

「時には優しく時には厳しく
男としての意見を的確に言ってくれる。」って…

もっと、オレたちがイメージしているような
ケータイ小説らしい文章が
書けなかったものかね。


「優しいときもあるし
厳しいときもあるけど、
男子としての考えかたを
ちゃんと言ってくれるんだ」

とかね。でもこうなると
演出になっちゃうんだろうな。
アノ世界では。


きっと「小説」なんて
いっちゃうから
ややこしいんだ。
じゃ、なんだろ。

毎日あなたに届く
感動レター。

届かれても鬱陶しいだけ

……だよね。

カテゴリーにもなってないし。

小説、ってなんて便利な言葉なんだ。


ちなみに、

『ミステリアスセッティング』も
ケータイ小説。これは歴とした小説。

もし、みんなが
『ナントカ花』とか『ナントカ空』の次に
『ミステリアス…』に行ったとしたら…。

そして、その次に
『ピストルズ』なんかに行って…

村上春樹とかに戻ってきたら…

ほんでもって
なにかの拍子でサリンジャーなんかに
たどりついたとしたら。

それはそれで、
桶屋はもうかった、ってことだ。

もちろん、仕掛け人とっては
そんなクソみてえな志なんて、
便所に捨てちまえ、
ってことなんだろうけれどな。


その志を確認するために、
『文學界』を立ち読みしてくるか。



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◎雑談。

2007-12-03 23:12:57 | ◎書
▶川上未映子をじつは二十歳前後の人なのかなと勘違いしていて、奇妙な奇天烈な言語感覚に畏怖を感じていたのだけれど、じつはそうではないということを知って、多少は得心というか安心する。

しかし、言語のテンションを一定に保てる持久力は普通でないことは確か。ちょっとしたミニ文章ならあれぐらいのリアル関西弁書き言葉は誰でもこなせるのだろうけれど、長い文章のどこから切ってもそういった言霊が漲った文章を書くのはかなりタフな作業だろう。

その魂がしっかりと身体に根付いていて、「知らん間に湧き出てくるんですよ」ってなことでもない限りはフィジカルにしんどいはずだ。そのことは、いちど文章を模倣してみればわかる。

▶12月2日付の朝日新聞で「大みそかの「紅白」は必要ですか?」と題した著名人アンケートの結果が掲載されていた。質問のひとつ「もし紅白歌合戦がなくなったら、公共放送としてのNHKに、大みそかに何を放送してほしいですか」への回答が面白かったので雑談してみる。

黒沢清の「みんなのうた特集」なんてのは狙っているのが見え見えだし、清水良典の「全民放番組の1年間の高視聴率番組ハイライトを流し、それを遠慮会釈なく批評するトーク番組」なんてのも批評がリアルすぎて「そうだね」というしかないんだけれど、いくつかは、おーと思えるアイデアもあった。

たとえば、「芥川賞と直木賞を年1度にして、この決定を大みそか夜に行い、その選考会を実況生中継する」というのは中条省平のアイデア。一見すると、アイロニーたっぷりにみえたり、逆に文学の危機に対する大仰な警鐘のように聞こえたりもする。

しかし、これはきっと、そういった大きな使命感を振りかざしているようなものではなく、軽快に「文学という言葉の学について、政治や社会・経済と同じように床屋談義する機会があってもいいのではないだろうか、なぜなら言葉の幅、バリエーションこそが、政治や社会・経済のようなややこしい話をだれもが共有していくときの礎となるものだから。そのことに「ああ」と気づくためにも」と訴えているようなものなんじゃないだろうか。ダメか、話は大げさになるか。まあいいや。

この国民的イベントにより、小説のレベルの底上げをはかるのもいいし、エンターテインメント性が強くなってもいい。ケイタイ小説のような新ジャンルの賞も設けるのもいいかもしれない。音楽と同じように言葉で、みんながわいわいやることができれば……といった考えならいけているような気もする。都知事ももっと真面目に本を読むようになるだろうし。まあ、でも1回切りだな。

手塚眞の「NHKの総力を結集して作り出される豪華なミュージカル・ドラマ」も興味深い。なんせ「総力を結集」するんだ。ちょっと力を集めただけでも『ハゲタカ』みたいなドラマワークができるんだから、結集なんかしたら、そうとう凄いことになりそうな気がする。
ただし、ミュージカルというのが、今は少しイメージしにくいか。町田康の回答「忠臣蔵」とか、みうらじゅんの回答「映画・大脱走」とあわせ技にする、という手はあるかもしれないなあ。ミュージカルで?!

あとは平田オリザの「その年に起った戦争や内線の映像をただただ流し続ける」というのは教科書的な答えのわりには、ありかなあ、と思うけれど、この方向性で『映像の世紀』を超えるのはかなり難しいような気もする。「それ(代案)はNHKが考えること」という藤原智美の返し方も回答としては面白いが、これは思考停止ワードだな。

紙面ではすべての回答を紹介しているわけではなく、漏れたものは、後日「アスパラ」にアップするらしい。稲葉振一郎、苅谷剛彦、隅研吾、呉智英、橋本治、原武史、平野啓一郎、古川日出男、星野智幸、堀井憲一郎、松浦寿輝…なんて顔ぶれが読みどころか。

で、ぼくは、というと、なんだろう。小説、音楽、建築、商品、お笑い、映画など、さまざまなジャンルの国民投票ランキング?もしくは、NHK風「たかじんのそこまで言って委員会」?やっぱり音楽か。その年に日本でリリースされたアルバムから、専門分野別の識者と国民でベストを決めてライブ。29日の夜から初めて、歌謡曲やロックはもとよりクラッシクも含めて。「アルバム発売」ってのがよい歯止めになりそうな気がするんだけれど……。うーん、日曜日の野球五輪予選の日韓戦の再放送でもいいか。

▶ところで、その日韓戦は、いまさら言うまでもなく、あらためて野球というか、プロ野球の面白さが実感できる良い試合だった。ぼくは、いちおうシーズン中はG党なので、Gがからまない試合はあまり見ることはないのだけれど、昨日のようなオールスターズの必死さ加減をみると、というかそもそも今期途中でもう気づき初めていたのだけれど、他チームにもほんとうに愛すべき選手たちがたくさんいる。

もちろん、こういった寛容な気分になれるのは、Gの弱体化にともない、Gをいやらしく目の敵にしているような選手が少なくなってきたせいもある。もちろん、その頂に御座します/ましたのは星野仙一で、まあ彼はなんだかんだいってもあくまでアンチGを貫いているが、それでも、最近ではGをおじいちゃんのように優しくあつかってくれて、でもそれは決して昔ほどきつい皮肉はなくなり、その接し方をみるにつけ、彼自身も冷静に平等に全プロ野球を評価できるようになり皮がむけたようにもみえる。また、川上憲伸なんて選手も、昔はほんとうに憎ったらしかったんだけれど、この間の日本シリーズあたりからは、素直に、ずいぶん長い間がんばっているいい選手だよな、と思えるようになってきた。川崎とか稲葉といったパシフィック・リーグの選手も新鮮だし、9人のなかでよいキャラクターを発揮している(まるで水島マンガのように)。

ただし、そこには、昨日の岩瀬や上原のようなきわめて高い緊張感のなかでの必死さが必要で、ではこのあたりのテンションはシーズン中はどうか?というと少し心もとない。これを考えると、セパを混ぜて1リーグにしてしまうとか、短期のリーグ戦的なものにしてしまうとか、トーナメント的にしてしまう、というようなアイデアも、あながち悪くはないような気もする。いずれにしても、来年は、もう少しまじめにプロ野球をみるように再帰しよう。もっとも、TV中継があったら、の話だけれど。