考えるための道具箱

Thinking tool box

わたしだけ?三菱自の広告批判。

2005-01-31 22:26:27 | ◎業
支援の大枠も決まり、その方法が正しいかどうかは別として(というかこの後に続く話からもわかるようにまったく正しくない)、三菱自動車工業の再生のレールはみえつつある。
しかし、最近の三菱自動車の広告を軸とした顧客コミュニケーションを見ている限りでは、あいかわらず官僚的な呪縛からは逃れることができず、彼らを支配し続けている勘違いは、完全に解体しない限りは潰えることはないのだろう、と思わせてしまう。

NIKKEI DESIGN誌2005年2月号(※)は、『「安全」を「安心」に変える伝え方』という特集のなかで「ありがとうから始める信頼回復」として三菱自動車工業の1月から始まった広告キャンペーンをとりあげている。話題の中心は、例のプチ感動新聞広告である。

「まず同社は2005年1月6日、全国紙などに新聞広告を掲出した。江戸川の土手、鎌倉の踏み切り、横浜の住宅街でそれぞれ撮影したという、国内のどこにでもありそうな風景の中に同社の自動車を溶け込むように置いた。日本人ならだれもが身近に感じる情景を強調し「マイナス状況の中でも乗ってくれている人に向けたメッセージ」(三菱自動車工業の関雅文・広報・IR部シニアエキスパート・企業広告担当)とした。
少し淡い色を感じさせる写真は、誠実に話をしなければならないという姿勢を表したものだ。小津安二郎の映画をイメージした表現という。
「いまも乗ってくれている人がいる」という一文から始まる広告中のコピーは、既存のユーザーと、今後乗ってくれるかもしれないユーザーに対してのお礼を伝える内容となっている。コピーの最後にある「いまも乗ってくれているあなたのために」と「いつか乗ってくださるあなたのために」との敬語の使い分けによって、前者には既存のユーザーに対する親しみを込めることで安心感を強調し、後者に対してはへり下って誠実さを一層強調するよう配慮している」(NIKKEI DESIGN 2005/2 P72-74)


この企業広告は、見方によってはある種の感動を呼ぶ「格好いい」広告ではある。しかし、少し考えてみればわかるのだが、三菱自動車は、まだこんなふうに格好をつけている場合ではないはずだ。
顧客(現ユーザー)を「親しみを込めて」とひとくくりにしてしまっているが、その「いまも乗ってくれている」人のさまざま気持ちを慮れば、こんなふうに簡単に演出材料として現ユーザーを引き合いにだしていいわけはない。とうぜん必ずしも親しくしてほしくないと考えている人も数多くいるだろう。親しみを受けいれている人も、それはけっして三菱の車の親しみを受け入れているわけではなく、たいへんな状況でへとへとになっている、いち個人としての営業マンへの親しみであることも多いのではないだろうか。
そして、そんななかでも場合によっては我慢しながら乗ってくれている人にはへりくだらず、これからのユーザーへの対応をより大切にするという発想は、たとえなんらかの調査に基づく結果だったとしても、どこか間違ってはいないか。
また、実際に販売と修理の現場の社員は、大きな不安を抱えながらも、不眠不休でそれこそボロ雑巾のようになりながら企業活動しているに違いない。それを、あのような安っぽい流行りの感動物語で美しくまとめてしまってよいものだろうか。小津の世界を目指してつくるこの「嘘」はたいへん罪深い。

思えば、彼らの広告・CFによるユーザーコミュニケーションは、品質問題が露呈する以前からひどかった。たとえば、クラプトンをBGMに「あなたの人生の重要な場面には、必ず自動車がありましたよね」といったようなこと訴求するCF。これも人によっては感動を呼ぶ演出といえるが、自動車会社が人の人生を語るなんておこがましくはないか。もちろんクルマは場合によっては人生を豊かにすることもあるだろうが、豊かになったかどうかを感じるのはユーザーであり、メーカーが押し売りするものではない。
もっと遡れば、気色の悪いエリマキトカゲを引っ張り出してきたCFだって根は同じだ。商品情報を伝えることをネグって、作り上げられたイメージだけを伝えるという姿勢は基本的に変わっていない。

NIKKEI DESIGN の記事は続く。
「現在はテレビCMにおいてもエンターテイメント性を一切持ち込まない。2004年10月に発売したコルトプラスの新CMにしても『有名人やタレントに商品の世界観を代弁してもらう段階にはない。今の三菱自動車工業には、自分たちの気持ちや商品を出しているという事実を素直に伝えるほかに伝達手段がない』(関シニアエキスパート)」(NIKKEI DESIGN 2005/2 P74)
「…今後は消費者の意識がどう変わったか調査を続けながら、少しずつユーモアのある方向に戻していこうと考えていると言う。」(NIKKEI DESIGN 2005/2 P74)


すでに充分に安っぽいエンターテイメント性が持ち込まれていることになぜ気づかないのだろうか。少なくとも、いまはまだ「イメージ広告」も出稿すべきときではない、と思うのだがどうだろう。そんな広告表現ロードマップを描いている場合ではない、と思うのだがどうだろう。

いったい三菱自動車にとって消費者とはなんなのか?顧客とはなんなのか?もっといえばクルマとはなんなのか?エンドユーザー、もしくはものづくりを知らない支援先にこのことが解読できるのだろうか。

         ●
う~ん。けっこう辛口ですね。でもまあ社会的企業だということで、批判の矢面にたってくださいな。営業の現場、メンテナンスの現場、開発の現場でタフな毎日を送られている員の人たちにはほんとうに申しわけないですが。いかれたへそ曲がりの戯言と流してください。ただ、わたしが言いたいのは、きわめて単純なことで「もっと商品のことを伝えてくださいよ」ということにつきます。このあたりは難しいけれど、わかってもらえるのではないか、と。


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(※)これ以外のNIKKEI DESIGNの記事は、初田製作所(ハッタ)の簡易消火具「CASSO」のデザイン、コクヨの「地震対策生徒用デスク」、ヤマタニの震災対応ラジオ付き懐中電灯「マルチパワーステーション」、シャープの石油ファンヒーターのデザイン、日産自動車の「ラフェスタ」、コンビの子守帯「ニンナナンナ」、タカタのチャイルドシート「takata04-neo」、「ツーカーS」(説明書がいらないくらいの携帯)のデザイン、トステムの防犯サッシ「デュオPG」、松下電産のホームネットワークカメラ「BL-C10」、テムザック三洋の監視ロボット「ロボリア」といった製品、さらには卵メーカー・イセ食品の広告表現、カゴメの「野菜一日これ一本」のネーミング、やきそばUFOほかのパッケージなど、安心・安全のコミュニケーション・表現技法と盛りだくさんの特集。わたしは、創刊当時購読していたんだけど、しばらく気に留めない間に、昨年初頭くらいからですかね、ずいぶんよくなりましたよ、この雑誌。


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これが装丁の見本。

2005-01-26 16:36:36 | ◎読
講談社の担当者は、これをみて愕然としたでしょうね。「やっぱ、デザイナーの起用を間違えたなあ」って。「デザイナーの短慮の理屈だけじゃあだめだよなあ」って。場合によっては、いったん「熊の場所」にもどって、いちからやり直したいと考えているかもしれない。いや、「やり直せ!」と命じられているかもしれない。

いくら贔屓目に見ようとしても、あいかわらず書店で浮きまくっている講談社現代新書のとなりに、なんとも言えず美しい空間が誕生した。
「ちくまプリマー新書」。その洗練された知的な意匠、手にしっとりなじむ質感は、まさにシリーズ書籍の装丁のお手本だ。さずが、クラフト・エヴィング商會。表題部分でシリーズとして統一感をもたせつつ、背景のパターンを書籍ごとに変えるという離れ業をやってのけた。書体の選択、背景パタンの選択・色調など、どれをとっても、プロフェッショナルの仕事といえる。斤量が重いのが気になるが、まあいちおう子供向けの本ということで許そう。もし、図書館蔵書などを意識して強くした、といったことを考えていたとすれば、ほんとうに頭があがらない。

コンセプトは、以下にあるように、中高生をターゲットとした入門書的な新書である。

「ちくまプリマー新書」は、「プリマー=入門書」という名にふさわしく、これまでの新書よりもベーシックで普遍的なテーマを、より若い読者の人たちにもわかりやすい表現で伝えていきます。彼らの知的好奇心を刺激し、それに応えられるものを目指します。学校でも家庭でも学べない大事なことを、「近所のおじさん、おばさん」のような立場から、わかりやすく、まっすぐに伝えていきます。そして、若い読者にもちゃんと伝わるような本は、他の年代の読者にとっても有意義なものになるはずです。

ということで、第1回配本のうち、わたしは『先生はえらい』(内田樹)を購入したのだが、その本意は、内田樹というわたしのバーチャル師匠を、娘に教えてやりたい、というところにあった。内容は、おそらくレヴィナスの師匠論や、ラカンの「あえてわからなく言う」といったところに展開していくような感じで、正直なところ小学6年生なら「わけわからん」ということになりそうだが、まあ、人とのコミュニケーションについて盲目的にならないようなトレーニングにはなるかもしれない。おそらく「自動車教習所の先生」と「先生としてのF1ドライバー」を比較するくだりなどは、「師匠」というもののあるべき形について多少はわかってもらえるだろう(ムリか?)。そういった意味では、大人が読んでも、かなり歯ごたえのある内容にはなっている。


「ちくまプリマー新書」は今後、高橋源一郎『教科書にのらない小説』、小川洋子と藤原正彦の『世にも美しい数学入門』、鴻上尚史『お芝居をつくろう』のほか、天童荒太、養老孟司、さらに、繰り替えす橋本治、赤瀬川原平、南伸坊などの筑摩人脈など、中高生だけに読ませておくにはもったいないラインアップへと展開する。隔月ではあるが、楽しみがまたふえた。



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通りすぎた、スーパーカー。

2005-01-25 19:41:21 | ◎聴
学生の頃はかなり音楽を聴いていたんだけれど、職に就いてからはなかなか時間を割くことができなかった。そのため、約15年ほどの大きな空白があり、国内外を問わずトレンドや状況などがまったくわからなくなっていた。もちろんその間も、たとえばジャクソン・ブラウンのツアーには毎回顔をだしていたし、The PoliceのコンプリートBOX(※1)を買ったり、浜田省吾やスプリングスティーンの動きはチェックしていた。でも、ただそれだけだ。つまり、過去に学習したことの枠を超えることはいっさいなかった。
気がつけば日本のチャートは、どちらが曲名かグループ名からわからないような新しいバンドでうまっていたし、米国のチャートはまるでHIP-HOPチャートのようになっていた。

したがって、すでに30回くらいは聞いている『スーベニア』のスピッツだって比較的まじめに聞きだしたのは『ハヤブサ』以降だし、くるりを知ったのは『ばらの花 』なので、彼らのそれまでの音楽活動期間からみれば、いまだごまめ階級といわれてもしようがない。

そして、スーパーカー。だいたい、スーパーカーを聴くような人は「中学3年のときにはじめて」といったような、将来に向け何かがみなぎっている人が多く、ぼくのように中年になって枯れてから経験するのは音楽関係者でもない限りレアではないかと思う。
スポーツジムでバイクに乗っているときに聴視した「AOHARU YOUTH」のPVがなぜかしっくりきたため、ぼくとしてはかなり冒険の部類に入ると思うのだが、ただそれだけの情報で思い切って『HIGHVISION』を購入してみた。異様な静謐感と電子的なビートではじまる「STARLINE」を聴いたときに、久しぶりに自分の音楽直感の自信が回復できた。この「まったく新しい切り口のYMO」のようなバンド、かといって決してデジタル一辺倒ではない生音の美しいバンドは、まぎれもなく懐かしいロックであり、凝縮しかけていたぼくの音楽価値観をふたたび拡散へとむかわせる大きな契機となった。「いやあ、やっぱりいろいろ聴いてみるもんだ」と。

そのスーパーカーがどうやら解散してしまうらしい。残念である。と、同時に解散といった、そんな枠組みを決めずゆるやかな共同体として続けるか、「散開」とかあいまいにしておけばいいのに、と思った。まあ、若い人たちだからしようがないか。そんな若くないか。

手元に残る彼らの作品は、
『HIGHVISION』
『16/50 1997~1999』
『ANSWER』(初回生産限定盤)
『WONDER WORD ep』(完全生産限定盤)

今週末にでも、『Futurama』を追加しつつ、3月のB-SIDE COMPLETE ALBUM『B』を楽しみに待とう。

と、WEBサイトをつらつら見ておったら、なんとくるりのドラマー、クリストファー・マグワイアがバンドを抜けていたではないかい(正確には「離れ」た)。こちらもそうとうショックだが、答えは2月末発売のシングルででるか。

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(※1)正確には、『Message in a Box: The Complete Recordings 』。基本的にThe Policeが発信したすべての曲が収められている。アルバムは全部LPとして所有していたため購入したCD。そもそも『Synchronicity』なんて、擦り切れて聴けなくなっていたからちょうどよかった。「擦り切れる」といえば最近はそんな心配しなくていいんだけど、もしLPだったら、『The Rising』『How to Dismantle an Atomic Bomb 』は確実に擦り切れているね。



舞城王太郎は、村上春樹ではないか?

2005-01-24 23:37:45 | ◎書
と、愚にもつかない仮説をたててみる。もちろんこれは、「ピンチョンは、サリンジャーではないか」という風評を下敷きにしているわけだ。

先週、仕事がかなりキツかったにもかかわらず、この数年めったにかかることのなかたひどい風邪をひいてしまい、どこかの三門越しに川がみえるすれすれの恐怖を味わったのだが、そんなさなかにもかかわらず、『煙か土か食い物』『熊の場所』を枕元においてしまったため、「恐怖」というものを深く考えざるをえなくなりなり、結果として妄想に点火し、肥大が加速している。

もちろんサリンジャー=ピンチョン説については、すでに『サリンジャーをつかまえて』(イアン・ハミルトン)などにより、ゴシップ以外のなにものでもないことが明らかにされている。にもかかわらず、この説がある程度の信憑性をもってしまうのは、両者が隠遁者であることはもちろんだが、それ以上に共通するのは両者を貫く「人間をとりまく得体の知れない何か」の追求というテーマだろう。

ピンチョンの場合は、それは端的に「陰謀」という形で、市井の個人を翻弄していくということになる。結果、個人はその「陰謀」に強いオブセッションを感じながらも、それを受け入れ、対峙していくなかで、ある種、偏執狂化していく。かたや、サリンジャーは(サリンジャーについては深読みしていないのでえらそうなことはまったくいえませんが)、普通の生活に突然切り込む「狂気」を描き、そのなかで、個人は自棄したり、ときには自裁していく。どちらの場合も、もの凄く恐ろしい「得たいの知れない何か」を書き出していて、両者ともその「恐怖」は人の中に潜むものであることを明示している。

「恐怖」の克服にあたっては、ピンチョンの場合は希望的にいくつかの方法を提示しているかにみえ、サリンジャーの場合は絶望的な諦念を提示しているかにみえるが、しかし、前者は結局のところ業のような抗えなさを露呈することになるし、後者は最終的な答えは出さずに一抹の光の可能性を残す。ここにあるのは、どちらがどうか?という判断はつけることができないものの、まさに、ダーク・サイドとライト・サイドの関係だ。
ダーク・サイドとライト・サイドは最終的にはどちらが正しいかもわからない。少なくとも、その世界に足を踏み入れてみる必要はある。これがつまり、ピンチョンとして答えが出せなかったものをサリンジャーとして書き、サリンジャーとして答えが出せなかったものをピンチョンとして書く、ということになる。そうしながら、相互を滋養にしながら、「得たいの知れない何か」への耐力を見出していく。こういった2つの顔の関係性は、あってもおかしくはない。

翻って、日本の二人を考えてみたとき、隠遁者である舞城と隠遁者的である村上という関係以上のものが見出せそうな気がしてきた。「得たいの知れない恐怖」に対抗するための答えを見つけたかのようにみえる舞城と、その答えをもたもたと見つけ出せないかのように見える村上。動的で俗っぽい物語の中に静的な時間を埋め込む舞城と、静的でクールな物語の中に燃える欲動を配置する村上。そして、暴力、NDE、異界などの共通項。

さて、いかがなもんでしょう。風邪が抜けきったら、考えてみたいテーマですね。まあ、どこかの人が考えつくしたあとかもしれないけれど。



ストレス解消BLOG。

2005-01-19 00:27:51 | ◎読
年末から、仕事でタフな状況がずっと続いており、かなりイラついているので、ついつい本を買ってしまう。積読どころか、買ったことすら忘れないよう、最新刊のラインアップも含めメモしておこう。

『世界文学を読みほどく スタンダールからピンチョンまで』
(池澤夏樹、新潮選書)
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「読みほどく」ってのがいいじゃない。池澤夏樹っていう人は、小説については、『マシアスギリの失脚』以外は、まったくだめだけど、読解については、さずがに幼少のみぎりから鍛えられただけあって、なかなかに深いところがある。たとえば、『読書癖』『ブッキッシュな世界像』『海図と航海日誌 』などまさに指針となるような書評、作者評をおこなっているわけだ。さすがに、『百年の孤独』年表などは、読むのが面倒くさくなるが、対象への慈愛が感じられて好ましい。今回の『世界文学を読みほどく』は、これまで彼が上記のような本を通じて考えを深めてきた世界文学の大家、大作について語った京大での講義をまとめたもの。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、メルヴィル『白鯨』、フォークナー『アブサロム、アブサロム!』、マルケス『百年の孤独』、ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』ほか10の作品が語られている。例よって『百年の孤独』読み解き支援キットなどもついているのでこれまでの焼き直し感はいなめないが、自分の作品『静かな大地』なども解読しているので、面白そうではある。

『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』
(高橋源一郎、朝日新聞社)
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よくわかないんですね。小説トリッパーに連載されていたものらしい。彼はほんとにあちこちで連載しているから、今後は、同時多発的に(←こんな小説もありましたね)単行本がでてくるだろう。トリッパーなんてまったく買う気もおこらないので、本書に集められた掌編のことは一切知らないが、『もてない孤独な男と女がアダルトヴィデオの現場で出会う。その愛の行方は? お子さまランチのようなセックスから究極の深い経験へ。性愛の喜びと試練にみちた、堂々のエッチ「暗黒恋愛」小説集。』ということなので、『あ・だ・る・と』の続編のようなものか。あれ?『唯物論者の恋』は、どっかで読んだっけ?おかしいな、トリッパーなんて買うはずもないのに。

『煙か土か食い物』
(舞城王太郎、講談社文庫)
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前回も書きましたけど、そうとう嫉妬していますね。なんか『ファウスト』も買っちゃいそう。東浩紀も連載しているみたいだし。

『実録・外道の条件』
(町田康、角川文庫)
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もちろん『パンク侍、斬られて候』の影響です。『耳そぎ饅頭』も講談社文庫に入ったので、愉しみ愉しみ。

『東京ファイティングキッズ』
(内田 樹  平川 克美、柏書房)
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遅ればせながら。ずっと逡巡していて、その理由は、あまりマクロ的な話とか倫理的な話を語られてもなあ、と勘違いしていたわけで、『東京ファイティングキッズ2』があまりにもぼくにとって重要なテーマを扱っていたため即買い、でした。平川さんの→『反戦略的ビジネスのすすめ』の原点というところでしょうか。最近、平川、内田、平川、内田…こればかりですね。ちょっと盲信するのを戒めたほうがいいかも。

『ニーチェと悪循環』
(ピエール・クロソウスキー、ちくま学芸文庫)
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なんでこんなの買うんでしょうね。じつはニーチェ好きなんですよ。今年のテーマをニーチェか、ヘーゲルか、引き続き現象学にするのか、これを決めるためにも。でも読み終わるころには今年が終わってしまうかもしれない。まあ、永劫回帰について、なんらかの答えが得られるかもしれない、と思いつつ。

『フェルディドゥルケ』
(ゴンブロービッチ、平凡社ライブラリー)
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ゴンブロービッチって人にはなんだか会いたくないね。とっても偏屈なおっさんのようだ。もっとも青二才であるわけだから、価値観は凝縮していないかもしれない。じつは、少し「不服従」って発想がいいんじゃないか、と思いはじめてもいる。脱構築とか反論とかしても、どうせ聞く耳もってくれないんなら、って感じでしょうか。まあ、「不服従」というより「やりすごし」といったレベルでしかありませんが。

『文学界 2月号』
(文藝春秋)
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もちろん、こちらもお忘れなく。『文学界』を選んだ理由は (1)1月号でいろいろ連載が始まったためその勢い---高橋、内田、小谷野 (2)映画特集---蓮實、阿部、金井 (3)筒井康隆の連載(『大いなる助走』の21世紀版といわれたらねえ。→で実際、面白いです。久しぶりに筒井康隆という感じでしょうか) (4)川上弘美の新連載 (3)渡部直己の『文学の徴候』評(はっきり言ってこれはようわからん。言っちゃっていいですか…。文章下手すぎって。)………なんだか、ものすごく充実していますね。


以上。早く2月になんないかなあ。でもいま2月の案件の準備してたりするから、結局、忙しいままかも。神さま。


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『極西文学論』の難題。

2005-01-17 14:59:02 | ◎読
ちょっと、とりとめもないことをだらだら書いてみます。

最近、当BLOGで、何度か見え隠れしている『極西文学論』(中俣暁生、晶文社)の話。ぼく自身がかなり忙しく断片的に、随時的にしかページをめくることができず、それ以上に読みの拙さもあってじつのところ作者の中俣さんの主張しようとしていることが正しく理解できていない。と思う。もちろん各論では理解・共感できる部分もかなり多いので、これまでのBLOGでも好意的に取り上げてきたんだけど、総論として「いま、極西文学という定義を行わなければならない意義」については、その必要性があるのかどうかなんだかよくわからない。きっとリニアに読めば芯は読み取れると思うのだが、ちょっといまはそこまでの余裕もないのでどうしようか、というところだ。

『極西文学論』は、舞城王太郎、吉田修一、阿部和重、保坂和志、星野智幸という五人の現代文学作家と村上春樹を対比させながら、さらにアメリカとの位置関係において、彼らの思想とスキルを規定していこうという試みではある。これら重要な作家を統合的に考えた批評はたぶんないので、そういった点では、一読しておく意味はある。と思う。

で、これまでは、「J文学」とか「ライトノベル」といった商業的なラベリングしか与えられていなかった彼らに(流派ではない)なにか軸を通そうとしていて、その共通項の基盤を彼らの「視線・視座の取り方」と、それにちなんで「視線にさらされる恐怖への対抗」においている。このことを、彼らの作品に含まれる、ミクロ的な「物理的な水平位置移動」「それらを見る(俯瞰からの)視線」、マクロ的な「西への運動(アメリカとの位置取りを含意しながら)」という要素から解読しようとしている。

「視線のとり方」と「恐怖への対抗」については、以下のような結語を読めばわかると思うけれど、ある程度は受容性は高い。

「一九九〇年代以降に登場した一連の作家---保坂和志、阿部和重、吉田修一、星野智幸、舞城王太郎---は、小説のなかに「自分自身を見る眼差し」を意識的に組み込んでいるという共通点を持つ。彼ら(そう、私が問題としているのは一貫して男の問題のみである)が小説内に導入している「自分自身を見る眼差し」は、「見る/見られる」という関係が固定化した場合に必然的に生じる権力構造を買いたいするための対抗的な装置だとひとまずは考えられる。この装置がビルトインされた小説と、そうでない小説は、あきらかに異なる読後感を私たちに与える。この装置がビルトインされた小説は、かならず作品内で視線がゆるやかな---ときには激しい---運動を起こす。作品内の視線はときには浮上し、ときには思いがけず急速に移動し、ときに乱反射を起こし、ときには暴発し、ときには反転を繰り返して止まらなくなる。」(P.225)
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「一九九〇年代以降に登場した一連の作家たち(それにしても、彼らをいったい何と読んだらいいのだろう)は、村上春樹が「恐怖」の問題を乗り越えようと幾度も試みながら、最終的にはつねに失敗してきた地点---そこが私たちにとっての「熊の場所」(舞城王太郎)である---を迂回することなく、その地点を踏み越えていくことを試み、それに成功した人たちだと私は考える。」(P.267)


たとえば、視点/視線の問題は、阿部和重の『シンセミア』と村上春樹の『アフターダーク』を比べたときに明らかだ。村上春樹が、視点/視線の問題にあれこれ悩み試行を続けている間に、阿部和重はエキサイティングに自在に切り替わる多元視点(それを的確に表現する文体のバリエーションとボキャブラリー)を見事にやってのけている(※1)。保坂和志の努めて小説的ではない視線も、極めて小説的である『アフターダーク』へのカウンターとして、わたしたちが生きる現実というものに対して強い力をもつ(ただし、もちろんこれは『アフターダーク』を貶めるものではありません)。

得体の知れない「恐怖」はあくまでも自分のなかにあるということ、そこから人を救う言葉の力のあり方については、村上春樹が失敗したというのは語弊があり、正確には「村上春樹とは別の方法で登った」ということだろう。たとえば、『阿修羅ガール』のアイコの臨死体験、それに続くシャスティンの森の話。余計な部分という評価もあるが、ぼく自身は、ここがなければ、一章の破天荒さと最終章の静謐さは生きず、恐怖への対抗措置を舞城らしく表現していると考えている(※2)

しかしながら、これらのことの証左として繰り広げられている、物理的・地理的な位置取りについての論証には、用意・引用されるオルタナティブなエピソードがあまりにも多く、広範囲におよぶため(EX.ジャック・ケルアック、タルコフスキー、ラフカディオ・ハーン、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、サイモン&ガーファンクル、ヴィム・ヴェンダーズス、バトル・ロワイヤル・吉本隆明、森………)、完全に話の幹を見失ってしまう。同書での試みは、現代日本文学の大きな地図(全体像)を描いてみよう、そのうえで、主要作家の関係性を見出してみよう、ということではあるのだが、枝葉の部分で関係性をつけようとしているためかなり見通しが悪い。

また、村上春樹については、『神の子どもたちはみな踊る』への言及が彼の他の作品に比して少なく、この作品を深く読み取らない限りは、「全体像」には到達しえないだろうと思われる(※3)。全体像地図としてのフレームは形成されつつあるが、まだいくつかのピースがうまっておらず、現状で完成しているところまでのそれをみなければ、読み手としてのぼくは正しい認識ができないというところか。

おそらく、中俣さんは「極西文学論」について、あと何回か書き、語りつくさねばならないだろうし、ぼく自身もこの発想を契機として触発されるかたちで、いろいろ考えてみたいと思う。きっと『ノルウェイの森』『海辺のカフカ』『カンバセーション・ピース』『ニッポニア・ニッポン』はもう一度、読み直さなければならないだろうし、すでに別項で記したように星野智幸について、集中的に付き合ってみる必要はありそうだ(吉田修一は、ちょっとわかなんないですけど、まあ家に『パレード』があったと思うので、それ読んで決めます)。また、中原昌也、佐藤友哉、そして町田康の扱いをどうするのか、とったことも考えなければならない。

そういった意味では、この難物『極西文学論』は、今年、なにがしかの物語を考えていこうとしているぼくにとって考えを深めるための最良のトリガーとなったことは間違いない。このBLOGを端緒としていろいろ考えてみよう(もちろん、本業に少し余裕がでてくるかもしれない2月以降)。

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(※1)芥川賞の選考では、宮本輝が「阿部さんは修練を積んできたのか、小説家として芯のようなものが太くなった」と珍しく褒めているわけだが、このコメントの真意は全文を読んでみないとわからない。ただし、初期の頃のうねる蓮実重彦文体の幅が、『無情の世界』以降拡がり、『シンセミア』で大きく結実し、その余波を『グランド・フィナーレ』もじゅうぶん引き継いでいるという点だけをとってみても、『グランド・フィナーレ』での芥川受賞は正しかったのではないかとも思える。

(※2)この忙しいのに舞城の『煙か土か食い物』(講談社文庫)にはまっている。もうたぶんどこかで語られているのだろうと思うけれど、彼はその隠遁の仕方も含めて、かなりピンチョンのスタンスに近いと感じる。もちろん到達したとはまったくいえないが、日本の小説家のなかでは、ピンチョンの百科全書的ジャンキーさにいちばん近いところにはいるのではないか。ああ、こんな雑多な小説、おれも書いてみてえ。

(※3)1月16日付朝日新聞に掲載された村上春樹の「地震のあとで」というエッセイは、すでに自明だけれど『神の子どもたちはみな踊る』の重要性をあらわしている。このエッセイじたいは、すでに何回か語られたノモンハンでの臨死地震体験などのエピソードを中心としており新しいところはないが、たとえば以下のような一文は、彼にとってこの作品重要性をあらわしているだろう。
「この連作短編は、失われた僕の街とのコミットメント回復作業であると同時に、自分の中にある源と時間軸の今一度のの見直し作業-僕はそのとき50歳になっていた-でもあった。その6編の物語の中で、登場人物たちは今もそれぞれに余震を感じ続けている。個人的余震だ。彼らは地震のあとの世界に住んでいる。その世界は彼らがかつて見知っていた世界ではない。それでも彼らはもう一度、個人的源への信頼を取り戻そうと試みている。」
やはり『神の子どもたちはみな踊る』は、近年のエンセンシャル村上春樹だと思うし、ぼく自身、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』についで好きな小説かもしれない。
また、以下のような立ち位置を堅持する以上、やはり彼は、高く評価されてしかるべき作家だと思う。
「物語という通路をとおして、ある場合には我々は静かに心を結び会うことができる。目には見えないところで、震動をひっそりと分かち合うこともできる。物語にできるのはそれくらいのことでしかないのだが、それはおそらく物語にしかできない種類の心的結託ではあるまいか、と僕は考えている。」


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『グランド・フィナーレ』を迎えたわけですが。

2005-01-13 20:27:51 | ◎読
13日20:00現在、獲ったという情報以外なにもないわけだが、まあ、獲ってしまったね、という感じですか。いま、『グランド・フィナーレ』で獲るということは、なかなかにややこしい問題もはらんでいるわけで、一歩間違えば、作者と作品を切り離せないやからから、ひどい非難を受けかねない。ずっと、ごっちん、ごっちんとか言い続けていたところなんかを知られたらなおさら変な男として定義づけられる。まあ、きっと変な男なんだろうけど。

この物語を、「美しい完全なる救済の物語」と読み取れば、まぎれもなく、美しい受賞ではあるが、選考委員は、そう読み取ったのだろうか。はたまた、この物語は、ここで完結していると読み取ったのだろうか。たとえば輝じいが。

まあ、いずれにしても、このあたりのことは、コメントほかその後の動きを見てみないとわからないが、相対的にも、絶対的も、とってしかるべき作品が選ばれたということでたいへん正しい結果であることは間違いない。そして、一般社会にでても正しく評価されることを願うばかりである。
今後の阿部和重の、さらなる不気味さ、不穏さ、偏執性を発揮していく活動に期待したい。また続報でもしてみます。

芥川賞に阿部和重さんの「グランド・フィナーレ」

 第132回芥川賞(日本文学振興会主催)の選考委員会が13日、東京・築地の料亭「新喜楽」で開かれ、芥川賞は阿部和重さん(36)の「グランド・フィナーレ」(「群像」12月号)に決まった。
 阿部さんは、1994年に群像新人文学賞でデビューした中堅作家。今回は、ロリコンの男が仕事も家庭も失って故郷に帰る姿を描き、4度目の候補で受賞を果たした。既に一昨年の長編「シンセミア」が伊藤整文学賞と毎日出版文化賞をダブル受賞しており、実力には定評がある。(NIKKEI NET 社会ニュース)


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体験、星野智幸。

2005-01-11 13:28:00 | ◎読
BLOG上でのおすすめや、『極西文学論』(中俣暁生、晶文社)での気になる言及もあり、冒頭4~5ページで放置していた『目覚めよと人魚は歌う』(新潮文庫)を一気に読んでみた。
そして『アルカロイド・ラヴァーズ』が芥川賞候補からもれてしまったのはおそらく残念なことだろうが同作はもとより次作にはおおいに期待できると感じたし、とりあえず、『ファンタジスタ』(とりわけ、小学生がつくった「終わる人の会」の教義の最後で「言葉は終わりました」という衝撃を残す『砂の惑星』)には食指を動かしてみようと思える作品ではあった。

大きな目は少し緑がかって睫毛が長く肌は薄いシナモン色をした日系ペルー人の青年ヒヨヒトは、暴走族との乱闘事件に巻き込まれ伊豆高原の家に逃げ込んだ。そこでは恋人との夢のような想い出に生きる女・糖子が疑似家族を作って暮らしていた。自分の居場所が見つからないふたりが出逢い触れ合った数日間を、サルサのリズムにのせて濃密に鮮やかに艶かしく描く。三島由紀夫賞受賞作。 (新潮文庫解説)

星野智幸が自ら語るように、『目覚めよと人魚は歌う』は、この後に続く他の作品同様、社会的ないしは政治的、さらには国家的な課題設定を契機/動機として書き始められたのだろう(=実際にあったと言われる日系ペルー人と日本人暴走族の乱闘事件)。

しかし初期作ゆえのていねいな書き方、言い方を変えれば気負いがうむ、過剰な描写とおそらく幾度となく繰り返された推敲が最初に考えた着地点を変容させたように思える。もし、勢いだけで書いてしまえば、たんなる帰国子女の寄る辺なさ=アイデンティティ喪失をトレースした、ありがちな自分さがし物語に終わってしまうところを、さまざまな考えを起想させる密度の高い物語に踏みとどまらせた。

したがって、この小説が読み難いとか、難解と感じられるのは、けして構成や登場人物の実体の希薄さやあやうさのせいではなく、それとは逆で、一行一行に必ず深い意味が付与された、その濃密な文体のせいである。希釈しながら、読み継がねばならず、それゆれに翻訳語の解読のように手間隙がかかるということだ。解説で角田光代が難解と語ってしまうのは、同業者としてまったくもっていただけないが、彼女が直感している異国感もこの文体とワーディングに起因するのではないか。

そして、この濃密な書き方は読み手との描写の共有化という点で奏功している。冒頭の糖子の登場の情景は、その意味内容が予感的で不確かであるにもかかわらず、確実にイメージできる。伊豆箱根鉄道田京駅からのヒヨヒトたちの道程もしかり。おそらく星野智幸がイメージしているとおりのことをわれわれもイメージできているに違いないという安心感がある。

また、同時にこの書き方は、五名の登場人物が、出会うことによりケミストリーを起こし、根のない人生の処し方を受容していく、その変容が確かではあるが微か/幽かであることを的確に現している文体になっている。
人はなにかを考え答えをだしていくうえで、まず一人の他者との呼応関係が必要になる。しかし、ともすれば同質化に近い行動をとってしまうこの二者の関係には第三者の価値軸という触媒が重要になるのだ。それは、ヒヨとあなに対する糖子であり、糖子と密夫に対するヒヨであり、密生と糖子に対するヒヨである。第三者軸の投入により、思考と事態は好転するか悪化するかはわからないが確実に進展していく(※1)。
星野智幸の濃密な書き方は、他者との関係および第三者との関係により、自身の考えの微妙な変容を受容していくプロセスを描いていく手法のひとつとして、ある、と考えられないだろうか(※2)。もし、言葉が淡白であれば、変容があからさまであり、嘘っぽい物語なってしまうだろう。

ただ、過剰はときに主題をぼやけさせてしまう、ととらえることもできる。このことは多様な読み方を受け入れるという点ではなんら問題はないのだが、『目覚めよと人魚は歌う』においては、物語にとって重要であるはずのサルサ/ラテンのリズムがかき消され、なめらかに聞こえてこないのは残念ではある。この点においては村上龍の『KYOKO』などのほうがエキサイティングではあるが、今後の洗練への期待もこめて、しばらくはその後の星野智幸につきあっていこう。


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(※1)「第三者」についての議論については、新しくはじまった、内田樹さんと平川克美さんの往復(メール)書簡、『東京ファイティングキッズ2』がかなりすごい。
(※2)このあたりの解読や書き方はかなり未消化。たとえば、『目覚めよ…』は、政治・国家的な課題設定で始まり、いったんは普遍的で個人的な物語に正しく換骨奪胎(or昇華)されるが、共同体外の第三者の価値基準を受容するという点では、結局はまわりまわって、現代の国家的/国際的な課題への含意に帰還する、といったことも言えそうだが、他の作品もよみつつ、もう少し考えを深めたい。


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PR雑誌『広告』は、文房具好きが作っているか?

2005-01-08 18:11:54 | ◎使
電通が発行するPR雑誌『アドバタイジング』は以前にも少し触れたけど、たとえば「団塊マーケティング」といったかたちで、面白くはないが、マーケティングなどを考える仕事に多少なりとも役に立つ特集を提供してくれている。いっぽう博報堂の提供する『広告』はどんなもんでしょう?

自宅にあるバックナンバーを振り返ってみると、たとえば東紀浩の特集や「日本はマンガなのだ!」といった特集など、『アドバタイジング』とはずいぶん様子が違う。マーケティング・マガジンというよりは、トレンド・エンターテイメント雑誌に近い。

そして、今回の文房具特集。
『広告』はぶだんはちょっとスノッブを気取っているような人しか買わないような雑誌なんだけど、文具マニアは基本的に目ざといため、本号については、すでに相当数のWEB、BLOG上で語られているに違いない。以下の、タイトルを見る限りでは、文具好きが比較的わくわくするコンテンツにはなっている。

◎特集/文房具が教えてくれたこと
●文房具ワールド 串田孫一/●ソニーの開発者が文房具について考えた!/●パリの文房具屋さんで「シルブプレ」/●文房具ピープル 街の文房具屋さんからコレクターまで/●ノートのひみつ ジャポニカ学習帳の学習/●人類にとって理想のノートとは? 明和電機/●ロディアに学ぶ ノートのつくりかた/●To Design The Ruled Line of Notebook/●もっと楽しい手帳ライフ案内! 信頼文具舗 和田哲哉/●佐野研二郎とクオバディスの工場に行ってきました。/●クオバディス 広告オリジナル手帳 服部一成 野田凪 佐野研二郎/●このアイデアは、この文房具から生まれました(藤田晋 小石原はるか みかんぐみ 谷山雅計 斎藤賢司 石原壮一郎 疋田智 イッセー尾形)/●文房具CMに見る「ウケる技術」!/●ペンは剣より強し! 消しゴムはもっと強し!?/●この文房具のココがすごいんです!/●文房具王たちのトリビアな午後/●もうひとつの文房具の世界/●ggが選ぶ! グッドデザインな文具たち/●デザインと文房具のアートな関係 MoMAに入った文房具/●文房具、エディトリアル系/●文房具のある風景 しりあがり寿 ヒロ杉山 野村訓市 蜷川実花/●文房具コラム9/●読書の時だって文房具は私たちの想像力をはばたかせてくれます 文藝 文房具 小山奈々子 片岡義男 鹿島茂 長嶋有


たしかに、最近書店に並ぶ文房具関連の書籍・雑誌とは一味ちがう切り口にはなっていて、博報堂人脈でなければ集まらないようなラインアップでもある。まさにガジェットらしい大量のテーマが用意されているし、価格じたいもPR雑誌だけあって廉価になっているので、基本的に文具好きの人は、盲目的に購入すればいいと思う。

…なんですけど、過度な期待は抱かないほうがいいかもしれないです。なぜなら、『広告』は、トレンド・エンターテイメント雑誌であり、そうである以上、トレンドを追いかけるという点で、その記事内容は表層的であり、新しい情報は一切ない、から。
あくまで「いまなぜかブームになっている、文具というものを遊んでやろうか」という軸を超えてはいないし、それゆえに、けっして文具好きが編集したわけではないというのがみえてしまうんですね。話題だからやってみた、って感じのね。
たとえば、博報堂に所属するAE(orAP)のうちあまり優秀でない人が、得意先企業に御用聞きツールとして持参して、担当部長に「いま文房具が流行ってんですよ」「ふーん文具ねえ」「だから新春キャンペーンのプレミアムはホッチキスで」「ふーん」とやっている場面を想像していただけば、わかってもらえるかもしれない。

文具好きが知りたいのは、おおむね(1)自分が使っている文房具の新しい使い方(2)自分が知らない新しい文房具の紹介/文房具店の紹介なんですよね。たとえば、『手帳200%活用ブック』がマニアにとって興味深いのは、他人の使い方のディティールがノウハウとして吸収できるうという点で(1)であり、『デザインステーショナリー』『趣味の文具箱』『机上空間』などのエイムックでの、これでもかの物量を目を皿にして探すのは(2)にあたる。

この点で『広告』は、マニアの期待には完全には応え切れていない。と思うんですがどうでしょう。たとえば、著名なアートディレクターがノートのリフィールをデザインする「To Design The Ruled Line of Notebook」は、けっこういい線いっているんだけれど、起用したタレントが文具好きでないだろうからどうしようもないアイデアばかりで残念だ(辻村久信さん除く)。「このアイデアは、この文房具から生まれました」なんてのは、上記(1)に近いんだけど、それぞれの使い方で徹底して詳解されていないため、肩透かしの感はいなめない。

たしかに、クオバディスの工場にってオリジナル手帳を作成するという試みなどは面白い。が、そこで創造された、オリジナル手帳が希少価値以外の価値のないようなデザインにあがってしまっているので(好きな人は好きなデザインなんだろうけど)、「流石!博報堂さん、手間もヒマも金もかかっているよ!」という感想しか浮かばない。「そのオリジナル手帳をおいらに作らせてくれよ」というのが、マニアとしての率直な意見だ。

まあ、考えてみれば過去のマンガ特集なども、そうだったわけで、雑誌としてはアマチュアだからしようがないか。そういう意味では、特集とは関係ないがもっともそれらしいオリジナルの「電通VS博報堂 編集長対決」という記事がいちばん面白かったりして。

って、まただらだらとやってしまいましたよ。いずれにしても論評するほどの話ではなかったですね。文具を辿ってこられたみなさますいません。まあ、買って損はしないとは思いますが。


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芥川賞候補発表。第3の男はうまれるか。

2005-01-06 22:48:25 | ◎書
事前の予想に始まり、今日発表された人たちに対する評価まで、第132回芥川賞候補についておおむねのところは、柿玉蔵さんが詳しく正しく分析されていおり、もうそれ以上なにも語るべきことはないんだけれども、なぜか阿部和重が候補にあがってしまったので、このインシデントについて少しだけ考えてみる。

ご存じのとおり、阿部和重は、すでに新人とはいえないほどの数の作品数を残しているし、とりわけ『インディヴィジュアル・プロジェクション』『シンセミア』(伊藤整文学賞、毎日出版文化賞受賞)といった重要な作品も書きあげてしまっている。『無情の世界』は、野間文芸新人賞をとっているし、そればかりではなく群像新人文学賞を受賞した『アメリカの夜』は第111回芥川賞候補(受賞作は、室井光広 の『おどるでく』)、「トライアングルズ」(『無情の世界』所収)で第118回芥川賞候補(受賞作なし)、『ニッポニアニッポン』で、第125回芥川賞候補(受賞作:玄侑宗久『中陰の花』)にもなっている。

ふつうに考えれば、すでに評価が決定づけられている阿部和重に、重鎮がさらなる賞を与えるという行為は、恥も外聞もない、ということになる。しかも、直近ならまだしもずいぶん昔に何回も持ち上げておいてのことなので悪質ではある。
まあ、マーケティング競争戦略上はよくあることで、市場リーダーの地位に位置する企業の定石である「後だしじゃんけん作戦」ということにはなるのだが(マネ下電器、ですね。2005年現在は、まねしないエクセレントカンパニーになっちゃいましたが)。

たとえば、小学館漫画賞には、こうした時期を逸した受賞例がたくさんあるのだが、過去の芥川賞では、どうだう。受賞者一覧をみながら、それぞれの作家の作品歴を照らし合わせてみたが決定的なものはみつからなかったしいていえば、町田康の『きれぎれ』になるが、彼とてそれ以前に文学的話題騒然の作品があったというわけではない。

とうぜん、だれがみても「目利きの甘さ」「先見性のなさ」を回復すべくあたふたしているようにみえるわけで、文藝春秋自身もそのことは重々承知のうえなのだろうが、それでもなお阿部和重の『グランド・フィナーレ』を候補にあげるということはじつは大きなジレンマを抱え込むことになる。

たしかに『グランド・フィナーレ』は掌編としては驚愕の作品で、その構成・画角、言語感覚は絶対的には高い評価を受けるに値する。したがって、もし、ここでこの作品を落としてしまうと、賞の評価軸が問われ信頼を失墜してしまう。いっぽう、受賞させてしまっても、あたかも迎合的に見えてしまうその行為により、賞の作為が露呈してしまう。基本的には、永劫不可触のままにしておくべき作家/作品だったのだが、『映画覚書』あるし、そうもいかかなったのだろうか。そういった意味では、今回は久しぶりに「受賞作なし」にしてしまったほうが、多くの頭を抱えている人たちが安堵することになるのかもしれない。

もっとも、そんな思惑とは関係なく選考委員は、純粋にモメながら選ぶわけで、例によって顔ぶれをみていると、柿玉蔵さんの言うように、なんとなくいつものパタンどおり中島たい子の『漢方小説』が残りそうではある。毎度、候補に上げるという行為で阿部和重の評価を代替しているようで釈然とはしないが。
というか、もう芥川賞なんていらないよね。村上春樹、島田雅彦のあとを継ぐ第3の男でいいじゃん(←ちょっと短慮な見解ではありやすが)。
受賞しちゃって急遽かき集めたちょっとした未読の短編と合本で本になったりしたら、そのちょっとした短編のために本買うのももったいないしね。


【第132回芥川賞候補:賞の発表は13日】
●阿部和重「グランド・フィナーレ」(群像十二月号)●石黒達昌「目をとじるまでの短かい間」(文学界十二月号)●井村恭一「不在の姉」(同九月号)●白岩玄「野ブタ。をプロデュース」(文芸冬号)●田口賢司「メロウ1983」(新潮八月号)●中島たい子「漢方小説」(すばる十一月号)●山崎ナオコーラ「人のセックスを笑うな」(文芸冬号)


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というか、今日は、こんなことを書くつもりではなく、博報堂のPR雑誌『広告』の文房具特集や、再開した保坂和志のメールマガジンのなんだかわけのわからない内容や、別の意味でなんだかわけのわからない文芸評論『極西文学論』(中俣暁生、晶文社)などについて触れたかったんだけど、これはおいおいやっていきます。


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町田康のスパークするバカ言語。

2005-01-04 15:02:16 | ◎読
『アフターダーク』は、がんばれば書けるかもしれないが、どうあがいても、何年かかっても書くことはできないだろうと思わせるのが町田康の『パンク侍、斬られて候』(マガジンハウス)である。
すでにさまざまなかたちで高い評価を得ている小説だが、もっとも端的なのは朝日新聞書評の中条省平の短文だろう。

「(パンク侍…)は、著者初の長編で時代小説。腹ふり党の反乱に立ちむかうパンク剣士のゲリラ戦というふざけた題材で、全編ホラとむだ話の連続から、世界の破滅と救済という巨大なテーマを浮き彫りにする鮮やかな手際は天才というほかはない」(朝日新聞2005.12.26)

この短い文章を読む限りでは、中条は物語の構成力とストーリーテリングに天才という称号を与えているように見えるが、彼とて、そこだけに着目しているわけではないだろう。

たしかにこの小説の全編各所に埋め込まれた寓意は洗練されており、それが町田に真意に基づくものかどうかは別として、現在の日本と世界のていたらくに対し、衝撃的なバツの悪さを与えている。

城中での無用な権力闘争とそこから派生するリストラクチュアリングに右往左往するサラリーマン武士の言動は現代においてありがちな組織構造の機能不全を端的に言い表しているし、若輩のきわみパンク侍・掛十之進が老獪のきわみ重臣・内藤帯刀に懐柔されてしまうくだりは、よく見かける若造の客気といやな権力の、勘弁願いたい交渉事だ。
謀により失脚し最果てに飛ばされた同じく重臣の大浦が、結局はあてがわれた猿まわしの任務に新しい生きがいを感じていくライフスタイル、自分が理解できない事変の発生において小賢しい対処療法は繰り出すものの、根本問題の解決をどんどん先送りにしてしまうビヘイビアなど、なんで小説家がここまで知ってんの?と思わせるほど見事にビジネスの世界の膿とくだらなさを照射している。おまいらが勝ち組とか負け組とかいって、さもそのことが人間にとって大切な評価基準であるかのように喧伝している世界は、こんなにもしょーもない、虚無的で嘘臭いむだ話を日夜繰り返しとるわけや、と。

物語はこういった矮小な世界を断罪するだけではない。世界を条虫(=真田虫)の腹の中にたたえる宗教団体「腹ふり党」のあほらしい教義や腹ふりダンスは、どこかの新興宗教に対し、立ち直れないほどの一閃をくらわしているし、莫迦と猿の最終決戦は、人の争いというものは、それが飲み屋での諍いであれ、もっと大掛かりな国の喧嘩であれ、結局は「莫迦と猿の闘い」以外のなにものでもないことを言い切った。

もちろん、含意はこれほど明示的なものだけではない。たとえば、人智と言葉を解する猿の大将・大臼の「なるほど。本当に人間と猿を混ぜ合わすのか。俺は俺が猿として支配層に入ることによって現実を破壊しつつ、最終的にはより低次のところで現実の一角をしめ、そのことによってこの世界を存続させようと考えていたのだが。しかしまあそんなものは大抵の革命政権がそうなわけで別に目新しいことではなかった。つまり俺は敗北した。我が事敗れたり」といった台詞が、さらりと脱構築という発想の抽象性ゆえの弱みを一蹴しているかのようにも読み取れる。

全編を通じて、トリックスターが、裸の王様をつまびらかにしているわけだが、じつは、ごく普通の人間的身体感覚にもとづき、いいことはいい、悪いことは悪いというシンプルな判断基準を提起しているに過ぎず、このことが、最終ページのすばらしい会心の一撃に集約されている。そしてこのストーリーラインは、たしかに凡百の小説家のスキルでは構成できないだろう、と思わせる。

しかし、この小説の抱腹絶倒を支えているのは、物語の構成力だけではない。いや構成力ではないというべきかもしれない。それは、町田康のほとばしる言語感覚であり、スパークするバカ言語であり、ここにこそ天才的という称号を与えてしかるべきである。
時代劇の日本語と現代の日本語をボーダレスに縦横無尽にまさに使い尽くす手法、この無境界性ゆえに許される、へんな言葉・読めない言葉・辞書にものっていないような言葉・死語・紋きり型の言い回しの多用により生まれる違和感と妥協のないギャップが、読むわたしたちを爆笑と失笑の渦に巻き込む。

これはまさに中学生のときにに初めて筒井康隆に接し、『関節話法』(※1)で腹が千切れそうになったとき以来の爆笑感覚であり、サザンの年越しコンサート「暮れのサナカ」における『マンピーのGスポット』や『愛と欲望の日々』のバックダンサーへの演出の(もしくは同曲のPV。とりわけ♂♀のマーク)、「バカやなあ」という失笑感覚である。さまぁ~ずのマイナスターズ(※2)の楽曲のはちゃめちゃな詞づくりといったほうがわかりやすいかもしれない。ここまで、マジになって書評してきたが、そんなことがまったくバカバカしくなってくるような言葉と状況の混乱が全編を通して描かれているのだ。

そして、こういった饒舌で膨大な珍妙な言語を駆使しながら小さな物語で大きな物語を描いていく技術は、少なくともすでにあの頃の筒井康隆を超越し、もはやガルシア=マルケスの近くに位置するといえるかもしれない。彼のこれまでの詩作や『くっすん大黒』などでの、へんな、しかし真に正しい言語感覚によるもの語りが、この一作に集結した。

文学は漫画を超えられるのか?という議論は、おおむね「文学を超える漫画が登場してきた」つまり「漫画が文学を超えた」という文脈のなかで、「では、逆に文学はどうなのか?」と語られる話ではある。2項対立する表現手法のうち、これまで文学というジャンルは、いささか分が悪かった。ストーリー漫画はもとより秀逸のギャグ漫画は文学に比して圧倒的に力があるという意見もあるかもしれない。
しかし、ここにある『パンク侍。斬られて候』は、文学を軽く超えてしまった文学による漫画である。「なにをしてもいい」という文学の制約を枠ぎりぎりまで使えばここまでできるんだ、ということをあらわした最高の一作に違いない。ちょっと褒めすぎっすかね?


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(※1)『宇宙衞生博覽會』(新潮文庫)所収。
(※2)さまぁ~ずの大竹扮する「ヘローことへロ岡瞬」率いる6人のバンド。彼らのライブではおなじみで、ここでの演奏を中心とした楽曲がCDにまとめられている、とまじめに紹介するような代物ではなく、ただ呆けてなにもかもを忘れて爆笑したいときにみる/聴くもの。かなり面白い。



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新しく、そして強い物語を。

2005-01-01 00:16:42 | ◎紹介
あけましておめでとうございます。

昨年9月からはじめた、BLOG「考えるための道具箱」もようやく軌道にのってきました。当初は、まさに日記風に日々のくだらないことを書き連ねていたわけですが、最近では書評やプランニングの方法論などについて比較的まとまった文章をエントリーできるようになってきています。いずれも駄文の域は抜けきれていないエッセイにすぎませんが、習慣化したこの行為により、文章を書くことの愉しさと、考えをまとめていくことの気持ちよさをあらためて感じることができました。

さて今年は、アイドリングもじゅうぶんになりましたので、ひとつ大きな物語を紡いでみようかと考えています。はたして機が熟しているのかどうかはわかりません。じっさいのところはゴールもみえていません。ただ、とりあえずはじめてみれば、倦ねながらもどこかにはいきつきそうな予感があります。

少し悠長な書き方をしていますが、じつは、心を揺さぶるのは、物語を創る力を得ることが急務ではないか、との想いです。いま、社会と世界は、きわめて稚拙な「物語」により動かされてしまっているというのがわたしの実感で、この嘘っぽい物語に動員されてしまわないような耐力をつけることが重要ではないか、ということです。
そのために、大塚英志の考えるように、単純な構造に収斂されてしまわない物語、たとえば、2項対立で善悪が評価されてしまわないような物語を、いまこの時代に立てる力が必要と考えるのです。それも、できる限り急いで。
言うまでもなく、これは大きくは反グローバリズムとしての心の持ちようであり、受容するために多様性を識る、という覚悟でもあります。

2005年、どれだけ多くを識ることができるのか。どれだけ多くの確かな言葉を残すことができるのか。まあ、そこそこの年嵩になってきたので、少しはまじめに考えてみようというわけです。

今年も、なにとぞよろしくお願いします。

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また、過去のエントリーは、「●INDEX-1 2004年09月/10月」「●INDEX-2 2004年11月/12月」で、一覧できます。どうしようもない戯言や、無用に長いだけの試考ばかりですので、タイトルにだまされないようにお気をつけください。