考えるための道具箱

Thinking tool box

◎バートルビーになりたいよ。

2008-03-23 01:09:54 | ◎書
春なので、ちょっと、忙しい。もっともいまに始まった話ではないけれど。

[01]『バートルビーと仲間たち』エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳(新潮社)
[02]『小説の設計図』前田塁(青土社)
:結局、この2冊は買う。あきらかにバートルビーと前田塁になりたい、と思う。いや、なりたくないか。川上弘美(の小説)がSMだなんて、そんな着想できないもんな。ともあれ、川上ってそんな謀略がある作家だったかなと思い、買いだめしていた『真鶴』も読み始める。面白いので読み続ければよかったんだけど、鶴で鴎も思い出し、ずいぶんと長いあいだ、読みかけ放置していた黒川創の「かもめの日」も再開。ああ、これはためこんでいた小説の書き出しを大放出しているんだなあ、と気付くが、それはそれで、方法としてなくはないとも思う。後半戦になるとがぜん面白いエピソードも登場し、どうやら今回のトライで読了できそうだ。
しかし、あいかわらず、5分とか10分の小刻みな時間をつなぎ合わせる読書なので、そういうのが癖になってしまうと30分以上読み続けるのがしんどくなってくる。やっぱり、いちどバートルビーになるべきだな。公の場でね、ぼく、そうしない方がいいのです、なんて言えればねえ。

[03]『狂気の愛』ブルトン(光文社古典新訳文庫)
[04]『神を見た犬』ブッツァーティ(光文社古典新訳文庫)
:結局、この2冊も買う。『神を見た犬』の冒頭の「天地創造」を読み、ああブッツァーティとはそういうものなのかと思うが、そういうものなんだろうか。ここまで、あげた本のなかで、空き時間を活用して読むにはもっともふさわしい。いちばん早く読み終えることができそうだ。ブルトンはこの時期、ちょっときついかもしれない。
しかし、どう考えても、古典新訳は安すぎるなあ。

[05]『狂気の歴史』フーコー(新潮社)(古:¥1,000.-)
:こういうのは、見つけたときに買っておく。アンダーラインと書き込みのある古本だけれど、それが意外とまっとうなチェックにみえるので、よいアテンションになる。

[06]『Solo Acoustic, Vol. 2』Jackson Browne
:『Vol. 1』から3年ぶりという以上に、『Naked Ride Home』から6年もたっていることに、その時間の流れ方にちょっとひく。『Vol. 2』は、その『Naked Ride Home』からの曲が多いのだが、こうしてアンプラグドで聞いてみるとそんなに悪くはない。悪くはないが、これは仕方がないことだが「Sky Blue and Black」「In the Shape of a Heart」などと比べるとのその差は明らかだ。「Sky Blue and Black」はほんとうに素晴らしい。その、圧巻について誰かと語り合いたいのだけれど、そんな人はまわりのどこにもいない。

[07]『11』Bryan Adams
:Jacksonの新譜を買いに寄った真夜中のTUTAYAで、なんの前触れもなくリリースされていた。ブライアン・アダムスは、『On a Day Like Today』があまりにも素晴らしく、それ以降も大いなる期待をもち、新しい曲にのぞむが、このところその望みはかなえられない。聞くところによると彼は『On a Day Like Today』のセールスがあまりかんばしくなかったことに打撃を受けたらしいが、それもあって、『On a Day Like Today』の路線をあえて外しているのだろうか。いっぽうで『18 till I Die』のような方向に戻ることもない。『11』もいまのところはピンとこない。「Oxygen」と、「12」曲目のボーナストラック「The Way Of The World 」ぐらいか?まだよくわからないけれど。

ところでソニーからアナログレコードの音源をデジタル化できるプレーヤー(ターンテーブル)が発売されると聞き、価格が安いこともあって、これは買いだなあと思う。しかし、ちょっと待て。ほんとうにデジタル化する価値のあるLPが所有されているんだろうか?確かめるために、久しぶりに自宅のターンテーブルを埃にまみれながら結線してみた。
つまり、CDが入手しにくくなっている音源があるかどうか?ということなのだが、結果的にはstyxの『CORNER STONE』とGODIEGOの『Our Decade』くらいだった。あとは、おおむねCDで入手しているし、そうでないものもたいていは手にはいる。確かに、この2枚は、産業ロックの典型とはいえ、いま聴いても、充分に新規性と独自性がある。とくに『Our Decade』は、もっと伝説的に評価されてもいいんじゃないかとも思う。そういう意味では、ipodに投入したいところだが、だからといってこの2枚のためにデジタル化プレーヤーを買うにはあまりにもC/Pが悪すぎる。また久しぶりにターンテープルでLPを聴いてみると、曲をスキップできないことに少し苛立ちを感じてしまった。病といえば病なのだが、いまはまだ、スピーカーの前に鎮座して純粋に音楽だけに聴き入るような時間はない。

◎トークライブ。

2008-03-17 01:41:52 | ◎観
滅多にないことだけれど、トークライブなんかに行ってきた。内田樹さん×平川克美さん(密度の高い会場で2時間過ごすといくら面識がないとはいえ敬称は略できないので「さん」づけ)。ずっと平川さんの活動などで喧伝されていた「ライブカフェAgain」の1周年記念イベント。おおむねふたりがどこかで書いていたような話が多かったし、このふたりだからといってとくに神々しいわけではなく、ごくふつうのおっちゃん同志のうちとけたしあわせなカンバセーションだったわけだけれど、こういった気取りのなさこそが両名の魅力なんだなあ、とあらためて感じた。

驚いたのは、リアルなふたりを見るのも、声を聴くのも始めてだったにもかかわらず、体躯も声もしぐさも、これまでイメージしていたものと寸分違わなかったことだ。普段どおり彼らが書き記したものを読むような感じで、なんの違和感もなく、話に入り込めた。ふたりの著作を相当読んでいるとはいえ、これにはちょっと意表をつかれた。なんだろう。文体も蓄積されていくと身体性をおびてくるということだろうか。たんなる、希望的・錯覚的解釈だろうか。

内容については、講演会でもセミナーでもないので、つっこんだり、質問したり、とりたてて批評的に論じる必要はないわけだけれど、ああいった親密な空間だけに、一方的に聴くというよりは、対話に入っていきたくなるようなところもたくさんあって、前のほうに座っていたら、なんかちょっと言ったかもしれないな、と思う。「それは世界共和国です」とか。

そういったようなところでは、それこそ「世界共和国」の可能性/不可能性について話が発展したら面白かっただろうし、アルカイーダの話は9条2項の抑止力の話に展開する可能性もあったかもしれないし、「自分ではない異物との接触」のところでは、内田さんの“他者”話なんか聴きたかったか。「だいたい、でいいんだ」なんてのはローティかな。あとは禁煙問題だな。昨今の重大でファナティックな迫害状況について、平川さんと夜を徹して話したくなったよ。(わずか2時間で、これだけ話題の振り幅があるなんて、いったいどんなトークライブだったんだ、と思うかもしれないけど、そんなトークライブだったわけだ)。

仕事があったので早々にAgainをあとにしたけれど、もし残っていたらそんなような話の展開になったのかな。

ともあれ、繁用でかつシリアスなアポリアをいろいろと抱えている身を少しゆるくすることができたことに深謝したい。そして「続編」があれば、また参加したい。

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ところで、オープニング前に流れていた、ロイ・オービンソンのトリビュート風のライブ映像はDVDになっているのだろうか。ブルース・スプリングスティーンとかジャクソン・ブラウンが楽しそうに演っているのをフルで見たくなった。

あと、びびったのは、武蔵小山の商店街。パルム商店街。こんなところにこんな巨大なアーケードがあるなんて。ありゃ天六以上だな。

◎決壊の決壊。

2008-03-08 23:44:03 | ◎読
▶平野啓一郎の『決壊』が完結した。いや「決壊」した、という言い方のほうがあっているかもしれない。期待を裏切ることのない劇的な結末だった。まだ、なんらかの体系な感想は書けるとは思えないので、この最終話“permanent fatal error”の最終章が、とりあえず、読者としてのぼくにあたえた現象だけを書きとめておく。

▶予定では、品川-新大阪の道中のうちの1時間くらいで読めてしまうだろうとたかを括っていたのだけれど、結果的に、完全に読み終えるまで、京都に着く少し前までかかってしまった。昨夜の睡眠が浅かったため途中で睡魔の手に落ちてしまったということもあるが、それ以上にそもそも魔と闘わなければならないほどの、「読みがたさ」があったというのが大きな理由だろう。最終章にもなっているにもかかわらず、まだ登場してくる新たな他者たち。誰も聞いていないよ、とでもいいたくなるようなエピソード(壬生実見の展覧会)の挿入。それまでの流れをスムーズに受け、話を安定したかたちで発展させていく、というところに、小説のリーダビリティがあるとすれば、とりわけこの最終章は、定石をかなり意図的に壊しにかかっていると思えた。一部には、『決壊』はリーダブルだという意見もあるようだが、部分的に、それは往々にして「会話」にみられることが多いのだが、舌を巻くほど読みがたいアーティクルがみられる。その集成がこの最終章だろう。

▶一行一行が大きな意味をもつため、それを読み飛ばしてしまうと、話が大きく転調してしまい、状況というか、わけがわからなくなり、何回も読み直しても事情と感情の変化がみえにくくなってしまうところが数箇所ある。どちらかというと精読に近いかたちで読み進めているにもかかわらず。これはいったいどうしたころだろう?最近、『ペット・サウンズ』のような超絶的に読みやすい本ばかり読んでいたからだろうか?

▶その答えは、読み進めるうちに、徐々にわかってきて、結末において確証となる。これは、精神が破綻した人間の言動を活写しているからなんだと。そこまでいかずとも、自刎の予兆にとらわれてしまい、そのために精神がズレはじめている人間の、ある意味で「意識の流れ」だからなんだと。数限りなく挿入される崇の場違いで奇妙な笑いはそのあかしのひとつだ。読みながらじっさいにぼくは、クエンティンのあの有名な徘徊の1日を思い出してしまった。どんどんと内に入っていって収縮していく人間の心。この錯乱を読みとこう(書き尽くそう)と思えばとうぜん難渋になる。「わからなさ」は「異常さ」だったのだ[*1]。

▶その果てにある決壊は、きわめて衝撃的な表現技術である。その瞬間を書きとめた言葉は嘘ではあるが、無上の嘘だと感じた。「そのとき」は、きっと、こういうことなんじゃないか、という蓋然性の高さが身体におちた。脈々と続いてきた大きな物語を断ち切るにふさわしい言葉だ。だからこそ、読み終えた後、しばらくの間は、これ以外のいっさいの文章に集中することができなくなってしまった。同じ『新潮』には、古井由吉の新作や宮沢章夫、小野正嗣の久しぶりの小説が掲載されているにもかかわらず、まったく頭に入らない。もうひとつ手元にあった『文學界』の十一人対談「ニッポンの小説はどこへ行くのか」もなんかムカつくばかりだ[*2]。これがぼくが受け止めてしまった2つめの現象である。

▶読むためのリハビリテーションが必要で、読み終わったあとも現世への復帰の手続きが必要になる。これが、言葉で書かれたということを、いまはとりあえず称えたいと思う。
おそらくこの大きな物語は限りない詠嘆・称賛と、とめどない攻撃・論難をもって受け止められるのだろう。今後、できる限り時間をみつけて、できる限り「作品論」として『決壊』のことを考えてみたいと思う。

[*1]このことをつめるために崇と室田の対話をもう少し読み解く必要がある。「罪と治療」「病と治療」、そしてICD-10などの考え方に、崇じしんが絡めとられてしまったということだ。
[*2]ようやく復帰できたのが、中原昌也の第一声のダルさのおかげであり、たかだか対談の言葉とはいえこれもまた凄いことではある。ちなみにぼくが連載で読んでいた小説を単行本でも落手するのはまれなことだけれど、きっと『決壊』については、手元におくことになると思うが、同時に、やはり『ニートピア2010』も買っておくべきだと最近強く思うようになってきた。

◎佐々木敦の『絶対安全文芸批評』。

2008-03-03 21:33:42 | ◎読
ちょっと最近は話がストレートすぎるな。しかも生硬だ。なんかダメだ。ほんとうは、もう一段上のところからみて、身軽にひらりとやさしくのりこなせないかな、と思う。もっと、いろいろと……って、何日か前に書いたじゃん!!しかし、このことを再び思い知らせる本が出た。佐々木敦の『絶対安全文芸批評』。装丁なども含め、「軽さ」にあふれている。しかし、その軽さは80年代の浅慮で軽薄なものとはひと味ちがう。原理に拘泥することなく、それがだめならこれ、これがだめならあれとどんどん出てくるカード。そういった意味でのフットワークの軽さだ。もちろん、これは佐々木の悟性と感性と拠り所と筆力に負うところが大きいが、いっぽうで、ゼロ年代に入って、あきらかに前世紀末とは異なる文学の「多彩な確かさ」のようなもの(もちろんすべての小説が確かさを取り戻しているというわけではないが)の影響もあるのではないか。

考えてみれば、阿部和重以降の文学について、概括した文芸批評集は、これまでトンデモ本のようなものしかなかった。そこで無理やり試みられた体系化や構造化のようなものは、キンキンになって格好はつけてみたものの、少ないファクトと独善的な誤読、網羅性の欠如により明らかに破綻していた。そんな停滞を横目に、ほんのジョークのようにだされた『絶対安全文芸批評』は(というより佐々木敦のけっして派手ではないこの数年間の批評活動は)、少なくとも、「まず大量に読む」というアプローチその一点だけでもほめ称えられるべきじゃないだろうか。そして、闇雲に非難するのではなく、まず評価してみる(褒める)という態度から、生まれる批評はこんなにも建設的で次代のヒントにあふれているのだ。

くりかえすけれど『絶対安全文芸批評』は見事であり、佐々木敦の「文芸誌好き」という趣味、というか姿勢の表明におおいに組みする。重い話を軽くさばく。しかし軽さのなかにさりげなく埋め込まれている重量級の想い。経験にとらわれることのない柔軟なパースペクティブ。しかし、経験がものをいう広角な守備範囲。そこに散りばめられた語彙は、たとえテクニカルなものであっても、けっしてスノッブにみえることはない。ときに挿入されるのは、小説への愛着のあるやさしいひとこと。文芸誌の外から書いているからという理由で「絶対安全」と称している、この相対化こそが、『絶対安全文芸批評』の確かさを担保している。いまこのよくわからない時代において、召喚の可能性が見え隠れする「文藝」を詳解する本としてその試みを手放しでほめたい。なんだかテンパって足踏みしていた(けっして文芸担当ではない)批評家がきまり悪くみえてくる。
この本についてはいずれもうすこし手厚く考えてみる。どうやら『エクス・ポ』を買わざるをえない雰囲気になってきた。

そのほか、亦候・無闇・矢鱈と本を買い込んでしまっているので、読むんの忘れんようにメモだけ。あいだに『ウェブ時代5つの定理』みたいな本が入っていくると、いちおう決めてはいる順番のようなものがよれよれになってしまう。

[01]『絶対安全文芸批評』佐々木敦(INFASパブリケーションズ)
[02]「生の一回性の感覚」加藤典洋(文芸時評・朝日新聞0227)
[03]『視点をずらす思考術』森達也(講談社現代新書)
[04]『蝶のゆくえ』橋本治(集英社文庫)
[05]『知識デザイン企業』紺野登(日本経済新聞社)
[06]『成熟と喪失』江藤淳(講談社文芸文庫)(古)
[07]『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ(集英社文庫)(古)
[08]『ヘーゲル「精神現象学」入門 』加藤 尚武(有斐閣選書) (古)
[09]『デジタル類語辞典第5版』
[10]『ペット・サウンズ』ジム・フリージ/村上春樹(新潮クレストブックス)
[11]『ティファニーで朝食を』カポーティ/村上春樹(新潮社)
[12]『ユリイカ 3月号 新しい世界文学』(青土社)

▶ときに暴走するトンデモさ加減は脇に置いといて、加藤典洋の文芸批評にまつわるコンセプトの立て方は[02]においても、あいかわらずキャッチーである。今回のテーマは「(文学とは)生の一回性の感覚」。筒井康隆の狂気『ダンシング・ヴァニティ』、穂村弘の『短歌の友人』、東浩紀の一連の(非)干渉(「小説と評論の環境問題」、『ゲーム的リアリズムの誕生』)を軸に。ちょっと思うところもあるので抜書きメモだけ。なかにある「棒立ち」の感覚というのがちょっとよくわからないので穂村の原典にあたること。
(※佐々木敦からの流れで読むと、トンデモ批評家の正体は加藤のように読めてしまうが、そんなことはない。着地は別として加藤のアプローチは信頼に足る)

「(映画ソラリスでは)死の不可能性が逆に死の意味をありありと感じさせる……」
「反復によって笑いのめし打ち消した果てでなければもはや『生の一回性』の哀切な表現は、言葉では作りえない……」
「『たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう』(今橋愛)。穂村はこんな若い歌人の歌をあげ、この歌は『殆ど棒立ちという印象』だが、その『過剰な棒立ち感』にいまは『奇妙な切実さや緊迫感』が宿っている、と言う。「棒立ち」とは想いと『うた』の間にレベル差がないこと。その背後では世界観が素朴化し、『自己意識そのものがフラット化している』。……」
「物語内での読解ではなく、物語外の関係性を含んだ環境的な読解へと進み、ゲーム的リアリズムともいうべき第三の読解のレベルを作り出さなければいま広義の文学で起っている『生の一回性』をめぐる先鋭的な試みは取り出せない。」


▶[03]は一気に読み終えた。森達也を読むのはじつは始めて。九条二項の話などは、文化遺産にするという話より、蓋然性が高いと思われた。しかし、耳を折ったのは残念ながらそこだけだった。▶[05]の考え方をもとに、ながしかのビジョンを明文化していきたいと考えている。紺野の考えとは多少なりともズレがあると思うけれど「知識デザイン企業」という、ワードは、なにかワクワクするものを想起させる。▶[07]はなにも河出の世界文学全集版がでたばかりのいま買わなくてもいいんだけどね。▶待望の[09]。これによりさまざまの遅滞がおおきく改善する模様。これほど確度の高い類語辞典は、リアルの辞典では発見できない。▶よくわからないけれど、村上春樹の訳文がとっても馴染んでいるような錯覚を受けるのが[10]。まさに村上春樹の良質な音楽エッセイのようだ。“I Know There's An Answer”と“Hang On To Your Ego”の関係なんかがわかってなかなか面白いんだけれど、でもきっと村上春樹訳じゃなかったら読まなかっただろうから、またまた彼に感謝しなければならない。▶その日たまたま『バートルビーと仲間たち』が書店で見当たらなかったので、とっても見当たりやすかった[12]を一連の村上春樹とあわせて落手。徳用が充満していて、たいへんパフォーマンスが高い。『ユリイカ』はこうじゃなくっちゃ。

◎『ウェブ時代5つの定理』。

2008-03-02 02:49:53 | ◎読
さすがに金曜日の夜はへとへとになる。べつに土曜だからといって仕事が途切れるわけではないから、そこで弛緩するわけにはいかないのだけれど、少しは弱気に休息したい気分にもなる。しかし、梅田望夫の『ウェブ時代5つの定理』を帰りの新幹線のなかで一気に注入した結果、そんなダウナーな気分がたちどころに吹き飛んだ。これは、あまりにも単細胞だろうか。イノセントにすぎるだろうか。いや、斜に構えるのはやめておこう。あいかわらずのオプティミズムに、いつものように外野からはひどい野次が飛び交いそうだけれど、たとえつかの間であっても、オレが元気になったんだから、それでいいじゃないか。

箴言?日本でもっとも有名な箴言といえば、例の便所のカレンダーだ。そんなものが役に立つのか?そんなのもので、梅田望夫はほんとうに10年間も勉強し続けたのか?そう、世の中には二種類の箴言がある。ひとつは、やさしく傷を舐めてくれるだけの言葉。そればかりではなく、なにも難しいことは考えなくてよいんだよ、と思考停止の心得すら与えてくれるもの。これをして勇気がでる言葉とほめそやす商売もある。しかし、それはまったくの嘘だ。ただの文字が自分を自動的に変えてくれるなんてことは絶対にない、それだけで目的化されてしまった言葉、前後の文脈を一切イメージさせないようなアブストラクトな言葉はおおいに怪しむ必要がある。
もちろん、『ウェブ時代5つの定理』で梅田が集めたビジョナリーといわれる人たちの箴言は、それとはまったく違う言葉だ。そこにあるのは、何かを考えなければならないということをエンフォースする言葉だ。仕事人として処し方を考えるキューとなる言葉。その言葉をひとつのミッションのようなものとしたとき、たとえば組織を考えるうえでの具体的なビジョンやバリューが次々に浮かんできて、一刻も早く自分の言葉に焼きなおして、どこかにプランを書きとめたくなるようなトリガーとなる言葉。そんな刺戟であれば確かに勉強になる。

しかし、そんな才能のあるビジョナリーの言葉は、天才奇才の彼らだけにしか使いこなせないものではないのか。少なくともITやウェブを生業としている人たちにしか役に立たないのではないか。たしかに、目次やチャプターをみてみると、そのうちいくつかについては、いまの私の仕事や生活とは直接的にはあまり縁のないようなテーマだ。けれども、それらのアフォリズムはすべて相対化できる余地がある。逆に自分なりのパースペクティブで相対化しなければほんとうの効力は発揮しないし、もっといえば勝手な誤読をすることではじめて作用し始めるというものかもしれない。

だから、なにも梅田望夫のガイドを借りなくても、箴言だけ集めて読み漁ればいいんじゃないか?という考えは違っていて、彼が学んできたプロセスを知ることがきわめて重要になる。もう少しレベルを落とせば、「箴言でも勉強できるんだ」という、その方法を知ることが『ウェブ時代 5つの定理』の二次的な価値ということになる。

これから私は、ここで掲げられた至言や警句を与件としてインスパイアされ、事業と組織のプランを書きはじめることになるだろう。その手始めとしていくつかの言葉をメモしておく。

▶最高の倫理観を持って、物事に対してオープンで正直であれ。そして隠し事をしてはいけない。(スティーブ・ウォズニアック)

この言葉の数ページあと、梅田がはてなの近藤社長について以下のように語る。
「……しかし私は、才能やリーダーシップという問題ではなく、彼という人物の根っこの部分に、信頼に足る正直さ、他者に対する公正さを持つひとりの人間としての魅力を感じました。長く仕事を一緒にするには、そういうことがすべてです。」
私がかかわっている仕事は、多少なりとも知識やデザインのようなものをあつかうこともあり、ある程度、悟性と感性に支えられた技術が必要である。もちろん最低限のところはクリアしてほしいが、なにより重要な評価軸は、正直と公正である。素直で実直といったようなことを加えてもいいかもしれない。そこから生まれる謙虚さと勤勉があれば、人はいつか大きく化けることができる。そう信じたい。

▶間違った人を雇ってしまうくらいなら、五十人面接しても誰も雇わないほうがいい。会社の文化は計画してつくられるものではなく。初期の社員たちから始まって、徐々に始まって、徐々に発展していくものだ。(ジェフ・ベソス)

次年度、私の部門では新卒は採用しない。その理由は、まさにこのベソスの言葉にある。向後、たとえ1年といえども、人のつながりが途切れるのは、将来的に大きなダメージになる可能性があることはよくわかっている。なにより、昨年度、入社したスタッフにはたいへん申しわけないと思う。しかし、何度も採用面接を繰り返すなかで、少しでも「それはいいんだけれど、こっちがなあ」と首を傾げるたくなるところが少しでもある人は残念だけれど採用しないほうがいいということがよくわかってきた。梅田は、この言葉に続き、関与するスタッフが「一人でもノーと言ったら採らない、全員イエスでなければ採用しない」というグーグルの例をあげている。そういえば、以前、高橋俊介が『知的資本のマネジメント』だったかで、「できる限り多くのスタッフが何度も面談を繰り返し、ほんとうに一緒に仕事をしていきたい、と思える人しか採用しない」という海外の広告会社の例を紹介していた。もちろん、できるだけ多くの人たちが採用を希望してくれるよう企業価値を高めていくことが前提ではあるけれど、いっぽうで方法論についてはあらためて議論したほうがよいというきっかけとなる言葉だ。もっとも、後半に書かれた文化の形成という部分も、採用以上に重要なんだけれど。

▶トップレベルのチームはマネジメント重視ではなく行動重視でなければ駄目だ。(ゴードン・ベル)

もちろん、うだうだ考えるより、走れということではない。「……(ベンチャーの世界では)誰かを探す間に自分がやれば終わりというような仕事は、気付いた人が片付けて、先へ走っていかなければならないのです。ゴミを捨てたり、ピザを頼んだりするような、些細でどうでもいいことを、自分でやってしまうか、それとも『これをやる奴は誰なんだ』と人を探すか、という違いは本当に大きい。『行動重視』というのは、そこにいる奴が自分の手を動かせ、というメッセージです」ということだ。もちろん、ベンチャーだけに限った話ではない。できれば、肝に銘じてほしい言葉ではある。誤解をふせぐために言葉をつけ加えるとすれば、大きなことは人に任せて(人と協業し)、些事は自分でさっさと片付けろ、ということだ。いずれにしても、すべからく……

▶「誰かにやれと言われたから」という理由で何かをするな、という雰囲気がグーグルには浸透している。(マリッサ・メイヤー)
▶一からすべて命令してほしいなら、海兵隊に行けばいい。(エリック・シュミット)


自分で考えてみなければ、ものごとは正しく進まない。

▶政治的になるな、データを使え。(マリッサ・メイヤー)

佐藤優に言わせれば、議論を事実ではなく利権で勧める答えがでない、ということになる。ファクトが大切なのは、現業の受注案件だけではない。自分のやりたいことを明確に訴え、それが会社を過ごしやすいものとするためのキモとなるんだ、といったようなことがあるのなら、それを感情で働きかけてもものごとは動かない。まず、ファクトをそろえ、ロジカルで蓋然性の高いストーリーを提示してほしい。ただし、それらの前提となるのは圧倒的な対話力である。そこに弁証法的な思考スキルも加えなければならない。だから、次のような発想が重要になってくる。

▶会社は答えによってではなく、質問によって運営している。(中略)
ずばりその通りの答えを提示するのではなく、質問をすることによって会話が刺戟される。会話からイノベーションが生まれる。イノベーションというものは、ある日朝起きて「私はイノベートしたい」といって生まれるようなものじゃない。質問として問うということで、よりイノベーティブなカルチャーが生まれるのだ。(エリック・シュミット)


これはすばらしい気づきだと思える。質問を軸とした会話が漲っている、五月蝿いオフィスはやはり理想だ。

▶私たちは非常に複雑な問題を、その問題がどれほど複雑か人々に知らせることなく、解こうと試みている。(ジョナサン・アイブ)
▶インターネットは、人間の最も基本的な要求、つまり知識欲と、コミュニケーションをはかること、そして帰属意識を満たすことを助けるものである。(エリック・シュミット)


この二つは、いま私が、紺野登の『知識デザイン企業』からヒントを得ながら考えている部門のビジョンにおおいに関係してくる。近々、なにかこたえのようなものを出したいと考えている。しかし……

▶私たちは混沌を保ちながら経営していると思う。(エリック・シュミット)

というのは紛れもない事実である。なにも、きっちり整理しなくっていい。効率の悪さから生まれるユーレカだってある。取り繕って、美しくまとめようとすることだけに引力を働かせてはいけない。この「混沌」ないしはそこからうまれる「朝令暮改」を肯定することへの勇気と確信を与えくれる重要な言葉だ。

ほかにも協創すべき言葉はたくさんある。いずれ追記を書くことになるとは思うけれど、今日はもう遅いのでここまで。

PS:梅田さん、当ブログを平野さんにお伝えいただき、ありがとうございました!