考えるための道具箱

Thinking tool box

◎保坂和志の『朝露通信』の面白さを、あまり小説を読まない人に薦めるにはどう説明すればよいのだろう。

2014-11-23 00:31:37 | ◎書
保坂和志の『朝露通信』の面白さを、あまり小説を読まない人に薦めるにはどう説明すればよいのだろう。小説内で主人公が自虐的に「あんな、だらだらした文章で何も起きない話ばっかり書く人が……」と語っているのは芥川賞以来の世間的な評価なのかもしれないが、じゃあ「テキストを楽しむ小説もあるんだよ」というとそれは正確な説明ではない気もする。

実際に、何も起きないことはなく、文ごとに何かが起きている。他の小説以上に凹凸が激しいからじつは読むのに疲れる。なにも起きないから疲れるのではなく、起きすぎているから疲れるのだ。その間に、決定的なギミックを仕掛けてくるから余計にしんどい。だから、お金の勘定に心を亡くしていたり、心に世俗の錨のようなものを抱えていると、最初のページを開くが億劫になる……。って、そんな小説、読むの辛いだけじゃん。いや、それでもその第一歩を踏み越えれば、確実にやめられなくなる。密度?確かにそうだけれど、「密度が面白い」って、ますますハードルが高くなるよなあ。

じつは、「…何も起きない話ばっかり書く人が……」には続きがあって、それは「そんなに落ち着きがないなんて、意外だ。」というものだ。そしてこう続く。「意外ではない、だらだらしていると言われる文章が退屈しないとしたら細かく忙しなく動いているからだ」。どう?突然くるでしょ。ハッとするでしょ。こういう挟み方も保坂和志の小説の魅力のひとつだけれど、書かれていることにも魅力を説明するための糸口がある。

まず「退屈」の問題。もちろん保坂の小説だって長いものだと読み淀むことはある。しかし、それは「退屈だから」と言う理由ではなく、「退屈しないことに疲れた」からだ。疲れないがぎりいつまでも読み続けたくなる。そこに、ストーリーが面白くない「退屈」とか、ウソっぽいといった「退屈」は存在しない。それは、書かれているように「細かく忙しなく動いている」ことに起因するのだろう。「細かく忙しなく」はともかくとして、「動いている」。話題があちこち連鎖していくといったストレートな動き方はもとより、なんか「動いている」。もしかしたら「止まっていない」といった方が正しいのかもしれない。

大きなテーマをもつ小説であったり、事件を解決しなければならないような小説は、じつは解説のために「止まらざるをえない」ことがある。場合によってはその瞬間に「退屈」が到来する。保坂の小説は、答えのないテーマで書かれているから終わりようもなく(正確に言うと書かれているのは「問い」だから)解説のために立ち止まることはないし、毎日起きている「事件」はあくまで「事件」であって、「謎」ではないから解題の必要もない。日常が止まることなく動いている。そのなかで、何かが深まっていく。経験が深まっていくし記憶や追想が深まっていく。言葉が深まっていく。生活とはそういうものだ。

そんなことが書かれた小説なんだけれど、いやそんなことは書かれていないのかもしれないけれど、「僕は泣きそうな大声をワーワー上げて、一塁に座り込んだ。「こうだ!こうしろ!」石井君は頭の上でグローブを構える格好をした、僕は言われるまま頭の上でグローブを開いた、走ってくる石井君は間に合わず、そこで下からポォンと投げた、球は見事に僕のグローブに入った。」といったようなことは書かれている小説です。ちなみに、読点の打ち方は写し間違いではありません。どう?保坂和志。

◎『クリエイティブ人事  個人を伸ばす、チームを活かす』 (曽山 哲人・金井 壽宏/光文社新書)

2014-07-26 01:11:37 | ◎書
会社における共同幻想の創り方という観点では、至上の本である。だから、共同幻想について疑いのある人間にとっては得るものがない、となる。その延長上で「サイバーエージェントだからできるんだよ」という感想がでてくるのもうなずける。

別の観点は、急成長したベンチャーにありがちなことだが、よくわからない山師のような渡世人のような人材をたくさん抱え込んでしまい、そういう人たちを適正化ないしは合理的に排除していくための陰の制度とバーターで陽の制度を泥縄でつくっていった、というところか。端的なものが、「退職金制度」と同時に用意された「ミスマッチ制度」で、問題社員を退職勧告、もっと言うと依願退職に持ち込む流れをあらかじめルール化しておくというものだ(もっとも実際はそんな簡単にすむ話ではないと思うが)。フリーライダー対応と言ってはいるが、おそらくベンチャー荒らしマネージャー社員対応でもある?あくまで推測にすぎない一例だけれど「CAだからやらざるを得なかったんだよ」という部分はあるんじゃないかな。

そんな感じなので、「個人を伸ばす チームを活かす」とは謳っているが、動機付けの方法とか新規性のある人事制度を学ぶための本ではない。この本で読み取らなければならないのは、あらゆるところから溢れ出てくる問題への諦念とそれらを乗り越えていく不屈の修正力ではないかと思う。
実際にCAに限らず仕事場は、問題――それも人と人との関係を起因とするproblem、trouble、affair、defectへの対応の反復だ。

曽山も言うように「目の前にいる人に対して課題を指摘するのは、相手がどんな職種や肩書の人であろうと一番しんどい」ことに対峙していく。それはもう人間がやっている会社である以上はつきもので、なんらかのincidentは2日一度くらいは起こるものだとあらかじめ勘定にいれておいたうえで、いちいち塗りつぶしていくしかない。

これを対処療法に過ぎないと言ってしまうのはきれいごとで、やはり問題は毎日おこると心を備え、毎日起こるものだからとりあえずの答えを出し、ダメならダメでコレクトし続けていく泥臭い活動の先にしか正解の可能性はない。きれいな答えなんか嘘だ。レジリエンス?この部分にこそ、金井先生がコミットする意味があったということなんだろう。

◎『献灯使』多和田葉子(群像8月号)

2014-07-25 00:12:53 | ◎書
多和田葉子が『献灯使』で描く近未来は、最近の彼女のテーマの「鎖国」を軸に、日本を端緒に世界のすべてエコシステムがくずれていく世の中。たくさんの死んでしまった言葉への回想があったり、いっぽうで「言葉」を輸出し潤う国があったり、旧人類が新人類の適者生存を全面的に受容する感覚とか、その新人類が鳥っぽくなっていく描写とか、わずか100年のあいだにあっという間に起こってしまう出来事が多和田らしい蓋然性をもって語られる。
「私を離さないで」にも似た静謐さで語られる個々のエピソードが、悲壮だけれど微笑ましくもみえるのは、グローバリズムから遡行した世界、第一次産業が優位な世界こそが理想ではないかと思わせるからかもしれない。そういった側面は確かにある。人が自然と宇宙に逆らって犯してきた罪を、刺していく言葉はいちいち小気味よい。
しかし、最後まで読んだときに、根源的に賛同できない核心が見え隠れするのもまた事実だ。
ひとつは、新世界へと進化する重大なきっかけが日本であるとするなら、あのグルメ漫画との違いは何なのだろう?
そしてもうひとつは人間信頼のレベル差。結果として選択されているさまざまな、退化とも思える進化は人間が信じるにたるものの証しではある。しかし、一方で子どもを救うために、人間はもう少し頑張れたのではないだろうか。その人間の頑張りをもう少し信じるべきなのではないかと思うし、信じたいと思う。甘いのだろうか。

◎鍵を握るもの。

2009-07-19 00:41:40 | ◎書
こんなに上手くいかないのは、どこかに根源的でシリアスな問題があるのでなないだろうかと思って、俺はその壜のようなものと、蓋のようなものの噛み合わせをもう一度ギシギシといじってみた。その、絡み合いは、まったくスムーズかといわれればそうでもなく、1~2周まわしたところで、なにかがひっかかる。そこから無理やりまわそうとすると、完全につまってしまい、動かなくなる。いや、こんなふうに説明すると、まるで桃屋の瓶詰めの搾菜の開け閉めに苦労しているようだが、ここにあるのは、あくまでも、壜のようなものであり、蓋のようなものであるというだけで、実際のところは、なんなのかよくわからない。見た目は無難に言えばステンレスの水筒のようであり、不穏にいえば映画でみるようなプルトニウムとか生物兵器の詰め物のようである。ヒロシさんから渡されたこの装置は、彼によると、「鍵を握っている」らしいのだが、そんな空想のような効能は百歩譲ったとしても、そもそもその「鍵」は、瓶のようなものと蓋のようなもののかみ合わせにより発揮されるのか、それとも中に入っている粘り気のある液体に拠るものなのか、これまたよくわからない。よくわからないものを渡され、それが物事を支配するのだ、といわれるほど迷惑なことはない。

「ヒロシさん、いったいこれは…」
「最初はな、うまくかみ合わないかもしんないよ。でもな、毎日毎日ギシギシやってみな。そうすりゃ……」
「いやいや、それはわかるんですが、そもそも論として、いったいこれはなんなんすか?」
「かみ合わせ機械、だっていっただろう。鍵握ってんだよ。おまえ頭悪い?毎日毎日、時間を見つけて無心でかみ合わせりゃ、ちょっとずつな、上手くいくようになるんだよ」
「その上手くいくとか、いかないってのがよくわからなくて。いったい、なんのことを言ってるんですか?」
「それがわかるってことが、かみ合わせるってこったよ」

そんな俺たちのいっさいかみ合わない会話に割り込んできたのはミシマだった。

「そうですよ。アーさんは、ちょっと考えすぎ。深読みしすぎ。本当の意味なんて、あれこれ考えたって、わからないって。そもそも、ご名答が存在しているかどうか、なんてのもわかったもんじゃない。言われたとおり、そのまま信じておけばいいんですよ。ほら、このあいだって、トミモトさんの好みとか考えて考えて考えて抜いて、でも結局は、その読みが裏目にでて、ものすごい不味い雰囲気になったじゃないですか。」

ミシマをぶん殴りたいと思いつつも、俺は「まあな…そうだなあ…」と穏便にことを済ませようとした。「おまえの言うこともわかるけどな…」と口を開きかけたその前に、いきなりやつがぶっ倒れる。首のあたりをぐりんと傾けながら仰向けに、尻からではなく背中から引っくり返った。血汁すら飛び散った。

ヒロシさんが、手に持っていた、くだん瓶のような蓋のような装置の底でミシマの顔面の中心の部分にすさまじい打撃を加えたのだった。

その瞬間、俺は、ああそういうことか、と理解した。

◎赤塚不二夫、というより『GQ Japan』。

2008-08-03 00:53:07 | ◎書
訃報を聞いたので、家になんかあったっけかと思って探したけれど、おそ松くんが1冊と『天才バカボンのおやじ』しかなかった。アニメの『もーれつア太郎』で、親父さんが地獄に行く話は恐ろしかったなあとか、『まんが№1』は一度は読んでみたかったなあ、なんて考えていて、ふと思い出した。『GQ Japan』2000年9月号、特集:赤塚不二夫の脳みそ。養老のおやじ、金井美恵子、福田和也などの書き手をそろえたうえ、英語版『osomatsu-kun』に、呉智英による本人インタビュー。なんともCOOL!





この頃の『GQ Japan』は、偏りはあったもののかなり面白かった。「フェリーニの誘惑」「マイルスしか愛せない」「JAZZトランペッター不良論」「ボブ・マーリー」「007ジェームズ・ボンド」「ロックの殿堂」「音楽はドラムだ!」……特集はざっとこんな感じ。才知全開の白承坤と野口さんのアーディレクションもそうとうイケている。念のために言っておくと、いまの"意欲的に生きる男性のためのクオリティ・ライフスタイル誌"『GQ Japan』とは、出版社もパースペクティブもADもまったく別もの。なんで、こんなことになってしまうんだろうな。だいたい、クオリティ・ライフスタイルってなんなんだ。

日本版『月刊PLAYBOY』は、往年の『GQ Japan』の方向に近かったので、この路線でまい進すれば存続できたかも、と思うけれど、そんなおれですら1回も買っていないので、やっぱりダメだったんだろうな。偏っているのが雑誌というメディアの大きな強みだったのに、いまや偏っているということが重大な瑕疵になっている。ビジネスモデルの視点でいえば、「TVの終焉」とか「雑誌は終わった」なんてなんの自覚もなしに、鬼の首でもとったかのように言えるんだろうけれど、なんか悲しい。広告モデルという思想を抜いたあとに残るコンテンツはまだまだバリューのあるものも多いし、ネットではハンドリングの悪いものだってたくさんある、と思うんだけれどなあ。そうだ!なにも、衆知を活かすことができるのはネットだけじゃないんだよな。佐々木敦なんか始めている『エクス・ポ』なんかの同人誌なんかがちょっとしたヒントになるかもしれない。コンテンツの互酬。意外と面白いことになるかも。というか、なってるか。

◎ICカード地獄。

2008-04-08 23:31:42 | ◎書
最近は、いいけつをした男子が多くなってきたなあ、と思っていたら、なんのことはない、ポケットにいれている財布がカードで膨らんでいるだけだった。それもそのはず、世の中はカードに満ちあふれている。ちょっと前まではクレジットカード、そのつぎはポイントカード、そしていまはICカード。

SUICA、ICOCA、PASMO、PITAPA、PERIPA、PORIPA、PUPEPE……もうなんだかわかんねえ。先週は、みたこともない極悪な指名手配犯のような男の写真が印刷されたカードが届いた。よくよくみたら、煙草屋で羽交い絞め状態で簡易カメラで写された小生の写真だった。うひー。そんな残念なカードは、煙草自動販売機の成人識別カード「taspo」。機能は、それだけかと思っていたら、ちゃんと「ピデル」とかいう決裁システムもくっついている(ピッと出る、でピデルか?屁だけじゃなく身もでそうなネーミングですね)。

これだけカードがありゃ、現金はいらんのか?というと、そんなことはいっさいなく、ますます財布が膨らむばかりである。札束で膨らむんなら、ごっつい財布でも買うたろうかという気にもなるが、プラの板で膨らんでいるということは、その財布じたいがハンドリングやフットワークがよくないと、改札口で舌打ちでユニゾンされるのは目に見えているわけだから、依然として財布はコンパクトを旨としなければならない。

そして、満を持してついに登場したのが新幹線のEX-IC。じつはあまり知られていないが、というか知られないようなマニュアルしかつくってへんからなのだが、こいつは、いろいろと面倒なカードだ。ちなみに、かれこれ5回ほど品川と新大阪の駅員に質問したが、「え、そうとう面倒ですやん」といったら、5回とも「そうですね。すみません」と謝っていた。

なにが面倒か。その1。領収書の発行。いくつか選択肢はあるが、どれもこころもとない。まず入札するときにマシンからぬらりと利用票が発行される。車内での検札にも使われるチケットっぽいものだ。意外と厚い用紙に刷られているのでくしゃくしゃにしてなくしたりする心配はなさそうだが、これが領収書としてみとめられるかどうかは、総務的ルールだとまあ厳しいだろう。つぎは、WEB領収書。利用後、エクスプレスカードのサイトにいって、領収書発行ボタンをおせば、画面に表示され、宛名などを入力し、ワンボタンで出力。うん、きれいに印刷できた、いいねえ!なんて昨今の情報システムに感動している場合じゃない。まず、こういった紙を領収書として認めてくれない総務の審判長もいるだろう。そんなん、ただの紙やん、とか。だいたい、紙代、印刷代がこっちもちなんてすげえ受益者負担。なにより、やっかいなのは、この領収書が発行できる権利が、1日で失効してしまうことだ。まあ、ふつう忘れるわな。そんな忙しくない人が新幹線にのることはないし。だいたい連泊の出張だったりしたら出力したくてもできねーじゃないか。で、そんなふうにお怒りの人のために、領収書はちゃんと駅の窓口でも発行してくれます。一周まわってアナログに戻るというわけだ。こんな体たらくなので、手際よく発行してくれることは期待できそうもない。結局、これまでどおり、エクスプレスカードでふつうに予約して、ふつうに発券したほうが、まあ30秒くらいは遅いかもしれないけれど、格段に便利です。領収書発行のオブセッションに苦しむこともないし。

なにが面倒か、その2。たいていの人は、品川とか新大阪に住んでいるわけではないので、いくつかの電車に乗り継いでくる。そして、たいていの人の仕事場なり用事の場所が、品川とか新大阪であるわけはないので、そこからなにがしかの電車に乗りつぐ。EX-ICを使用した場合、これがJR系だとすると、やっかいだ。東京だったら山手線、大阪だったら、東海道線とか。
たとえば、品川に着いて渋谷まで山手線でいくとする。その場合、まず新幹線の改札で、EX-ICカードと所定の鉄道ICカードと重ねて通過しないといけない。ということは、電鉄系のICカード、具体的に言うと「SUICA」もしくは「ICOCA」をそもそも持っていない人は、いちいち新幹線の窓口で、目的地までの切符を発券してもらわなければならないということだ。これはアンチJR派は新幹線もお断りということか?いわゆるビジネス券(エコノミーチケットもしくはエクスプレスカード受け取りで発券される切符)なら、東京23区とか大阪市内までの乗車券は含んでいるわけで、新幹線の改札でとり忘れさえしなけば、目的の駅の改札をスマートに抜け出れる。たとえ、金町を越えても、マシンで精算すればなんの不都合もない。「SUICA」、「ICOCA」をもっていないだけでそんなエクソダスをあきらめなければならなくなる。

さいわいにして、わたしは栄光のカード「ICOCA」を持っていた。なんと奇遇。いまや、東阪問わず使える最高に便利なカードだ。しかし、さまざまな便宜を考えて、「ICOCA」は財布に、「EX-IC」は超整理手帳に格納している。これが、きわめて個人的ではあるが、大きな面倒に発展する。新幹線の改札を通過するとき、まあこれはわたしだけではないと思うけれど、多くの人がヘビーな荷物を抱えている。ひょっとしたらメンタル面でヘビーな荷物を抱えている人も多いかもしれない。だから、たいてい使えるのはどちらか一方の手だけ。想像してほしい。まず右のしりのポケットから財布をだす。スーツの左のポケットから超整理手帳をだす。これを重ねて通過。と思ったら、パートふうの説明レディに、それは無理だす、といわれる。そりゃそうだ。手帳も、財布もぶ厚いし、そもそも形が違うから上手く重ねられない。なんやかや余計なカードも入っている。で、それぞれのカードをそれぞれの器から抜くいて左手に重ねる。ぬいた器をいったんどこかに格納する。格納しないと手が足りないからね。で、右手でスーツケースを引き、読み取りにカードをあて改札通過。通過後、いったん停止し、格納していた財布をだし「ICOCA」を、超整理手帳に「EX-IC」を無事収容完了!……この間、約5分。は、言い過ぎとしても、パジャマに着替える程度の手間はかかってる。もし、改札の周辺で、みっともなくじたばたしているどんくさそうな男をみかけたら、それはわたくしだと思ってくださっても間違いではないです。すべてのカードを財布にまとめたらええんちゃうん?という向きもあるかもしれないけれど、長年の習慣はそんなにおいそれとは変えられるものではない。

面倒は以上。しかし、もうひとつ落とし穴がありますと。それは微妙なお金の問題。いちおうICはチケットレスなんで、東京-新大阪間は13,000円。エクスプレスカードなら13,200円。品川で乗り継いで渋谷で降りるなら、前者13,160円、後者13,200円。だんぜんICがお得。お得なんで池袋まで行ってみる。前者13,250円、後者13,200円。あれ?お得じゃなくなっちった。さらに、「上野→東京→新大阪→大阪」なんかでも、このお得じゃない問題が発生する。このことは、金が絡むのでマニュアルには目立つ位置にしっかり書いているから許そうかと思ったけれど、得な場合:「EX-ICサービスがおすすめ」、損な場合:「おねだんをご確認ください」なんて曖昧模糊とした書き方をしているので許さんとく。

ということで、これからは発展的に解消していくんだろうけれど(問題が、ね)、いまの場合は、まだまだ途上ということだな。そんな途上なカードはけっして財布にはいれんとこうと思う。

◎バートルビーになりたいよ。

2008-03-23 01:09:54 | ◎書
春なので、ちょっと、忙しい。もっともいまに始まった話ではないけれど。

[01]『バートルビーと仲間たち』エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳(新潮社)
[02]『小説の設計図』前田塁(青土社)
:結局、この2冊は買う。あきらかにバートルビーと前田塁になりたい、と思う。いや、なりたくないか。川上弘美(の小説)がSMだなんて、そんな着想できないもんな。ともあれ、川上ってそんな謀略がある作家だったかなと思い、買いだめしていた『真鶴』も読み始める。面白いので読み続ければよかったんだけど、鶴で鴎も思い出し、ずいぶんと長いあいだ、読みかけ放置していた黒川創の「かもめの日」も再開。ああ、これはためこんでいた小説の書き出しを大放出しているんだなあ、と気付くが、それはそれで、方法としてなくはないとも思う。後半戦になるとがぜん面白いエピソードも登場し、どうやら今回のトライで読了できそうだ。
しかし、あいかわらず、5分とか10分の小刻みな時間をつなぎ合わせる読書なので、そういうのが癖になってしまうと30分以上読み続けるのがしんどくなってくる。やっぱり、いちどバートルビーになるべきだな。公の場でね、ぼく、そうしない方がいいのです、なんて言えればねえ。

[03]『狂気の愛』ブルトン(光文社古典新訳文庫)
[04]『神を見た犬』ブッツァーティ(光文社古典新訳文庫)
:結局、この2冊も買う。『神を見た犬』の冒頭の「天地創造」を読み、ああブッツァーティとはそういうものなのかと思うが、そういうものなんだろうか。ここまで、あげた本のなかで、空き時間を活用して読むにはもっともふさわしい。いちばん早く読み終えることができそうだ。ブルトンはこの時期、ちょっときついかもしれない。
しかし、どう考えても、古典新訳は安すぎるなあ。

[05]『狂気の歴史』フーコー(新潮社)(古:¥1,000.-)
:こういうのは、見つけたときに買っておく。アンダーラインと書き込みのある古本だけれど、それが意外とまっとうなチェックにみえるので、よいアテンションになる。

[06]『Solo Acoustic, Vol. 2』Jackson Browne
:『Vol. 1』から3年ぶりという以上に、『Naked Ride Home』から6年もたっていることに、その時間の流れ方にちょっとひく。『Vol. 2』は、その『Naked Ride Home』からの曲が多いのだが、こうしてアンプラグドで聞いてみるとそんなに悪くはない。悪くはないが、これは仕方がないことだが「Sky Blue and Black」「In the Shape of a Heart」などと比べるとのその差は明らかだ。「Sky Blue and Black」はほんとうに素晴らしい。その、圧巻について誰かと語り合いたいのだけれど、そんな人はまわりのどこにもいない。

[07]『11』Bryan Adams
:Jacksonの新譜を買いに寄った真夜中のTUTAYAで、なんの前触れもなくリリースされていた。ブライアン・アダムスは、『On a Day Like Today』があまりにも素晴らしく、それ以降も大いなる期待をもち、新しい曲にのぞむが、このところその望みはかなえられない。聞くところによると彼は『On a Day Like Today』のセールスがあまりかんばしくなかったことに打撃を受けたらしいが、それもあって、『On a Day Like Today』の路線をあえて外しているのだろうか。いっぽうで『18 till I Die』のような方向に戻ることもない。『11』もいまのところはピンとこない。「Oxygen」と、「12」曲目のボーナストラック「The Way Of The World 」ぐらいか?まだよくわからないけれど。

ところでソニーからアナログレコードの音源をデジタル化できるプレーヤー(ターンテーブル)が発売されると聞き、価格が安いこともあって、これは買いだなあと思う。しかし、ちょっと待て。ほんとうにデジタル化する価値のあるLPが所有されているんだろうか?確かめるために、久しぶりに自宅のターンテーブルを埃にまみれながら結線してみた。
つまり、CDが入手しにくくなっている音源があるかどうか?ということなのだが、結果的にはstyxの『CORNER STONE』とGODIEGOの『Our Decade』くらいだった。あとは、おおむねCDで入手しているし、そうでないものもたいていは手にはいる。確かに、この2枚は、産業ロックの典型とはいえ、いま聴いても、充分に新規性と独自性がある。とくに『Our Decade』は、もっと伝説的に評価されてもいいんじゃないかとも思う。そういう意味では、ipodに投入したいところだが、だからといってこの2枚のためにデジタル化プレーヤーを買うにはあまりにもC/Pが悪すぎる。また久しぶりにターンテープルでLPを聴いてみると、曲をスキップできないことに少し苛立ちを感じてしまった。病といえば病なのだが、いまはまだ、スピーカーの前に鎮座して純粋に音楽だけに聴き入るような時間はない。

◎全ては繋がっている。

2008-01-31 22:55:14 | ◎書
▶昨日のジグソーパズルのピースの話で書き忘れたこと。まわりのピースで自分を再生・複製すると書いたけれど、逆に言えば、自分のピースでまわりの再生と複製を手助けることもできる。一歩間違えば、もとの話に戻って、「自分のピースにまわりを合わせさせる」ということにもなりかねないんだけれど、欠けたは1ピースは自分の意図だけで再生・複製されるのではなく、他の3辺・4方の影響も受けるわけだから、決して自分の思うままにはならない。

▶Hくんから『沿志奏逢 2』を借りた。「歌うたいのバラッド」を手放しで褒めたい。すでにネットで見ていたライブ音源よりも格段に力が入っている。もちろんオリジナルがすばらしいことは言うまでもないけれど、こちらはこちらで、新しい「歌うたいのバラッド」である。「関係」からよりよき新種が生まれている。

▶ようやくたどり着いた青山真治のブログと、偶然発見することができた『新潮』編集長の矢野さんのWEB日記を読んでいる。もちろん青山真治は映画であり、矢野さんは文芸が生活の幹にはなっているのだけれど、2人もそれ以外に中柱ともいえるような幹があることがわかる。そして、食べることへの記憶をかかさない。柱-中柱-食(飲)の間の刺戟や弁証のようなものが、それぞれの柱をより強力に滋味深くしていくのだろう。全ては繋がっている。

▶「月10,000円以上、本を買おう」というのは蓋し名言だ。字義どおりに受け取り「買う」だけでも意味はある。本を「買う」という行為は、まず問題意識を顕在化・構造化させるということだし、選ぶときにはリテラシーを発動させなければならず、それだけでじゅうぶん考えていることになる。毎月の習慣を繰り返すことで、最初はつたない課題化の思考技術やリテラシーも洗練されてくるだろう。もっと遡って、そもそも書店に「行く」だけでも意味はあるんじゃないだろうか。そこは高い頻度で更新される情報の抽斗だし、デザインのアンダーレイの倉庫である、と考えれば、自分の思考のよきパートナーになりえる。
こういった前提があるとして、では、どんな本を買って読めばよいのか。仕事という立ち位置で語る以上は、マーケティング、ターゲット、表現技法、WEBトレンド、デザインノウハウといった本であるていど基礎の部分をおさえることは必要だけれど、極論すればなんだっていい。小説はもとよりノンフィクション、人文思想、随筆、雑誌、漫画。きっと何かがどこかで繋がっている。学校の勉強と同じようなもので、直接的に役に立つことは少ないかもしれないが、勉強をしておくとトクになることが多いし、していないというデバイドで損をすることも少なくはない。なにがなんでも繋げてやろうといった、さもしい野心はいらないとは思うが、つねに繋がる可能性があることを自覚しておくことは大切だ。無意識に読んでいてピンときたところがあれば、それは、きっと何かに繋がるという信号なので、いったん本を置いてあれこれ思考をめぐらせてみる。そういったユーレカのためには、じつは様々なジャンルの本を並行して読み進めることが必要で、だからこそ10,000円が必要なのだろう。
そういった見方をするなら、あまりにも通俗的なベストセラーは避けた方がよいかもしれない。たとえば「ダディ」とか「宜保愛子の死後の世界」とか。べつにコンテンツを毀損するわけではない。どこかにちらっと書かれたダイジェストで充分なんだろうというのが大きいが、なにも自らマーケティング的な操作の成果に埋もれていく必要はないだろうし、どこかで漏れ聞く、定まってしまった評価を追認する読み方はどうも受動的になってしまい、いわばテレビを見るのと同じになってしまうからだ。

▶そもそも「本」以前に「新聞」についても言ってしかるべきかもしれない。「新s」なんかが始まっちゃったので、これを免罪符に、がますます加速するんじゃないかという懸念もあるが、年齢を問わず新聞の「購読をやめる」人の話をよく聞くようになってきた。WEBをリビングのモニターで家族全員でみているからそれだけで充分、といわれれば、充分な人には充分なんだろうなあとは思う。
新聞だって情報の上澄みでしかないわけだが、それでも、ページを捲りながら全紙面をスキャンすることで、自分の関心のない、だからこそ思いもよらないソースを発見できることがあるかもしれない。ネットニューズでこれをおこなおうとすればたいへんだし、そういった面倒をあきらめるということは、新聞各社の何かのフィルターがかかっているかもしれないトップページのニューズのしかも上澄みだけを目にすることになり思考の多面性を損ねることになる。「捲る」「折る」という身体感覚もなにかには寄与していると思う。
さらにいえば、情報を読むのではなく文章を読むという鍛錬にもなる。そう考えると記事下の書籍・雑誌広告だって貴重になってくる。ニュースサイトと新聞はやはり別もので、とりわけぼくたちのような仕事をしている人間にとってはどちらも必須ツールとなる。はずなんだけれどなあ。テレビジョン受像機は捨ててもいいけど新聞だけはなあ、とひとこと苦言を呈しておきたい。

◎関係についての観念メモ。

2008-01-31 01:15:39 | ◎書
ほんとは褒めたいんだけれど、あんまり手放しで賛同してあほうじゃねーかと思われるのも厭なので、ヘッジとして枕詞でいいがかりのような苦言を呈してみる。もしくは、ほんとは糞味噌に貶したいんだけれど、人格を疑われるのも厭なので、枕詞として慇懃無礼に栄誉を称えてみたりする。こういうコミュニケーションは歪んではいるとしても、対面の対話で表情の変化や身振り手振りをまじえて行うと、そのニュアンスや強調の具合によっては、かなり有効な潤滑油として働くこともある。うまくできれば、ものごとをより効果的に好感度高く、ソフトランディングで伝えるためのテクニックとしてかなり意味がある(もっとも、この場合の伝えたいことは、前者は「くそっ屈服。認めたくないけれど良いものとして認めざるをえない(と感じている)」で、後者は「長年積み重ねてきた、わたくしのすぐれた評価眼によると重大な瑕疵がある。(と感じている)」といったようなことなので、あまりおすすめできたものではないけれど)。

しかし、これを書き言葉でやられると、とたんに気分が悪くなる。もっとストレートに言えよ、と。

ええんやったらええで、手放しで褒める。あほうと思われたくなかったら違う見方を探してみて褒める。あかんかったらあかんで、いったん持ち上げるなんてことはせず、あかん理由を理解が得られやすいロジックとていねいさで指摘する。へんな言い訳や枕詞を考える労力を、こちらのほうに費やしたいもんだ。

つまりは、ものごとの中心を自他のどちらにおいているのか、つまり他者の心情をどこまで慮っているのか[※]、ということで、言ってみれば(良い意味での)ポジティブ教の話かもしれない。だから、先に述べたようなビヘイビアをとってしまうキャラクターは、「ポジティブ/ネガティブ」×「ふるまい/実のところ」=「4つの組み合わせ」のいずれかの場合にあてはまるんじゃないかと思い、あれこれと考えてみたけれど、うまくいかない。たとえば、ふるまいはポジティブだけれど、じつのこところ根はネガティブといった人はどうなのか。裏表なく根っからのオプティミストはどうなのか、とか。ほんの少し話しただけでいきなり人にラベルを貼ってしまうような人もいるけれど、そもそも人の類型なんてそんな簡単な話ではないのだと思う。
ただし、「わたしポジティブだからネガティブなこともポジティブに言うんですよ~」という人が、自分のキャラクターに無自覚に誤認があるようなケースは困りものだ。そんな場合は、往々にして「ネガティブだからポジティブなこともネガティブに言っている」ことが多い。もちろん帰納の精度は低い話だけれど。なら書くなっちゅうねん。

ところで[※]については、他人を慮っているようにみせかけ、結局は自分のためにやっているという点では、曲げて言おうとストレートに言おうと、そんなには違いはない。むしろ、より入念に「自分のため」を迷彩しているストレート派のほうがたちが悪く、婉曲派のほうが脇が甘い、といえるかもしれない。けっしてドラマ的シナリオ発想ではなく、人は掛値なしに、いっさいの無我で他者に献身できるのか、とったことを、学問的に分解した理論なんてあるのだろうか。うん、この路線で少し話が広がりそうだ。

ここが昨日のエントリーにつながる。たとえば、「全ては繋がっている」という感覚。もしくは、ジグソーパズルにおいて、1ピースがあるからまわりが決まるというのではなく、まわりが決まれば必然的に1ピースが特定できるのだという考え方。『生物と無生物のあいだ』で示されている考えにのっとれば、まわりがあれば自己は再生・複製できる、ということになる。それは、単純にまわりに合わせたり、なびくのではなく、なんども再生と複製をくりかえしながら座りのよい形に、つまり、他者が気持ちいい、そして自分も気持ちいい形にまわりと自己を微調整しながら調和させていくことなのだろう。冒頭の話から思いもよらないところに着地したけれど、まあそういうことだ。もう少しあれこれ考えてみることにする。

◎小島信夫。

2008-01-12 22:15:42 | ◎書
◎キッチンで夕はんの用意をしているウチの奥さんのところに寄っていって、キャバクでチンピラが絡むのをマネして、肩を組んでグハハとやっていたら、大きくあけた口を、米がたっぷり入った計量カップでふさがれた。おかげで口の中とか鼻の穴が米つぶだらけになり、さっきから涙目でカーッカーッとやっているのだが、どうやら鼻腔の奥に2~3粒残っているような感じで調子が悪い。だれかそういった場合の対処法を教えてくれませんか。

◎読んでる本
[1]『人間を守る読書』(四方田犬彦/文春新書)
[2]「燕京大学部隊」「小銃」「解説」(小島信夫『アメリカン・スクール』/新潮文庫)

▶[1]を読んでいると、黒田硫黄の『大日本天狗党絵詞』に触れる部分があり、ああそういえば最近読んでいないなあと気づく。ウィキとか彼のブログをみてみると、どうも病気のようで活動を休止しているようだ。現在、月刊アフタヌーンで休載中といわれている『あたらしい朝』は「1930年代のドイツ。ナチスの政治資金をうっかりネコババしてしまった二人の不良青年・マックスとエリックは、ほとぼりを冷ますために兵役に就く。しかし折しも戦争が始まってしまい、二人の人生の歯車は大きく狂っていく。」といったプチ群像劇でかなり面白そうなんだけれどなあ。『人間を守る読書』では、黒田の直前に、岡崎京子の章もあったりするので、べつだん関係づける必要はないけれど、がんばって療養して欲しいと願うしだいである。▶寝どことか電車とかトイレとかこたつとかで[2]を少しずつしこしこ読んでいる。というか、やめられない。たとえば、「燕京…」の

“外出の前日、冬になった幸福すぎる林の中を、カモフラージュ用にウェブスター大辞典を借り出して図書館から帰ってくると、行く手に蹲っている兵隊の姿が見える。それは誰かの排便しているうしろ姿であったので、知らぬふりをして通り過ぎると、
「古兵どのではないですか。水くさいですよ。阿比川ですよ。声くらいかけてくださいよ」
「阿比川か」
「見られちゃった上からは男らしく声をかけました。もうすぐ終わりますから待ってて下さい」
「なぜこんなところでするのだい」
「古兵どの、そうなんですね。ここのところまでくるうちは、こんな気配はなかったんです。ここまでくると、どういうものか急にたのしいように催してきたというわけです。これはどういうわけでしょう」
「たぶん、きれいなものや、幸福なものや、手に入れたいものが、ふんだんに見せつけられると、刺戟するのだろうな。泥棒だって慣れた奴は仕事の前に家のまわりですますそうだよ」
「泥棒といっしょにされた形ですね。ひどいですよ」
「どっちにせよ、此の冬の日だまりの幸福には心がいたむね、流されどおしのおれたちは、何か外部に流れをくいとめてくれるものが起らないと、生きている気がせず、不安だね」
「ぜいたくですよ。古兵どの。そういったところ、まさに悩める騎士ですな。少しずんくりしすぎますがね。これは冗談です。ほんとうはこの林の中で阿比川はあちらの方も同時に催して困っていたのです。明日はいっしょに遊びに行きましょう。なあに、阿比川は日本人として死ぬ覚悟が出来ています。自分は自分を産んだ米人の父親には恨みがあるだけです。なあに玉砕しますよ、ねえ古兵どの」
 阿比川は云い終わると、ズボンを直しながら、汚い手で僕の頭に無雑作にふれて激励した。”


といったくだりなんかを読むと、その状況もさることながら、微妙にズレまくっている能天気で滑稽な台詞まわしに腰をくだかれ、こうして書き写しながらどうも、ぶははと笑ってしまう。そして、こういうのが普通に書けることの幸せを感じたいものだと思う。ビンゴではないにしろ「解説」で保坂和志がいっているのも、これに近い視座の持ち方ということだろう。その状況をその場にいる当事者以外の視線でみない書き方。こういうのはやっぱり狂っている人間しか書けないのだろうとも思う。

◎たのむぜ、キーチ。

2008-01-12 01:08:41 | ◎書
▶『ビックコミックスペリオール』1月25日号の『キーチvs』はひどい。あきらかに新井英樹が筆をおろしていてない。そこまで忙しいのなら、落としてもらったほうがましだ。もちろんネームは考えているのだろうけれど、今回の味のないポンチ絵をみるにつけ、ストーリーと絵はあわせ技であり、そのいずれかが欠けてもマンガは成立しないということがよくわかる。TWIMの(生産システムに)震撼しただけに、きわめて残念だ。こんなにひどいのは「サイボーグ009」の「高い城の男」以来だ。

▶会社の業務においては、もはや、後ろ向きのこととか、目的合理的ではないことにかかずっている余裕はない。というか、かかずると碌なことはない。だから無視する。おれは基本的にコミットメントを行動の基本にしようと思ってきたが、最近、無視したほうがいいことがあることもわかってきた。そういったことは、おおむね滝山で形成されたコミューンのような形であらわれる。直感的にイヤだなと感じた優等生的言動。これに対して、裸じゃねーか、という勇気を奮い立たせるのはなかなか難しいものがあるが、長期的にはその直感が正しいことが多い。少なくとも、うまく論理的なクッションをおくことができないため感覚的に諭すように優しく、その実、高圧的で傲慢なことを言っている、ということにはなんとしても気づく必要がある。わかりにくい話ですんません。

▶昨日、今日読んだもの
[1]「高畠素之の亡霊」(佐藤優/新潮2月号
[2]『国家論』(佐藤優/NHKブックス)
[3]『地頭力を鍛える』(細谷功/東洋経済新報社)
[4]「燕京大学部隊」(小島信夫『アメリカン・スクール』/新潮文庫)

先月号は面白かったのに、とたんに「高畠素之の亡霊」にはついていけなくなった。いきなり各論に入りすぎてついていけない。労農派とか、感覚的にまったくわからない。だから『国家論』に戻り、ページを進める。すると、少しだけ右翼としての佐藤の立ち位置がわかってきた。その、国家をなくすという柄谷的発想には共感できる。新幹線のなかで[3]。あきらかに『問題解決プロフェッショナル』の焼き直しであり、「仮説・フレームワーク・抽象化(コンセプト)」=「結論・全体・単純」と見通しをよくしたということと、前提に知的好奇心があるととなえた以外の新しい発見はない。地頭の定義もちょっと無理やり感がある。ただし、『問題解決プロフェッショナル』をより饒舌に丁寧に語っているとはいえるので、もう少し追求してみる。いくら保坂和志が勧めても、近年の小島信夫についていくには、高度な読みのスキルが必要だ。というか正直面白くない。ただし、『アメリカン・スクール』の頃の小島信夫は抜群に面白い。カフカだといわれても充分に納得できる。たぶん、(小島と目される)主人公のいまいち空気を読めていない非力な強気が滑稽なんだろうな。いやあ面白い。

◎他責NG。

2008-01-11 00:44:24 | ◎書
▶20個話せば、1個くらいは正しいことをいえるかもしれない。また、自分で話す言葉で、話ながらなんかひらめくこともたまにはある。そんなふうに考えるととりあえず、思ったことを口に出すというのは間違っていない。ただし、たぶん、(1)口に出すコンテンツは、それなりのロジックが展開されているだけのある程度の長さが必要だろうし、(2)できるかぎり、思考にふさわしい言葉を使う必要があるだろう。瞬間芸みたいなことではだめだ。というか瞬間芸はできないわな。そっちの完成度を高めるほうがそうとうむずかしい。

「1ヶ月間だけ、思い切りがんばれば。」そうね、とうなづける部分は多いんだけれど、完成度が高いだけに下手すると、たんなるポジティブシンキングの呪文か、鬱の他人事診断か、自己啓発セミナーのテキストブックとして読んだ満足だけに終わってしまう可能性がある。ここで、たぶん重要視しなければならないのは、「他責のNG」と「非戦」じゃないかと思う。総じて「慮る心」ということかもしれない。

どうにかこの仕事を続けいけそうだと感じたのは、なにも、ロジカルシンキングの要諦がつかめたと実感したときでもなく、フレームワークというものの使い方が身に染みて理解できたときでもなく、もちろん、パワーポイントの型を発見したときでもない。きっと、「他責」にしないとは、どういうことなのか?ということがわかったときだと思う。そして、みんなが得する「非戦」ないしは「負け方」がわかったときだと思う。

「他責」とは、いうまでもなく「他人ないしは他の責任」ということだけれど、言葉としては広辞苑にも新明解にも載っていない。ぼく自身は、この言葉を、クライアントの共感を超え尊敬できるマネージャーから与えられた。彼は自身のマネジメント・ポリシーの上位にこの「他責」の禁止をあげ、スタッフの「○○のせいです」といったような言動には聞く耳をもたないという。つきつめていえば、外的要因を理由になんだかんだ言い訳をすることに対する叱責ということであり、そういう意味では、何かを建設的に発展させていきたいときのごく基本的な行動原則にすぎない、ともいえる。

しかし、じゃあこれができているか?といえば、なかなか簡単な話ではない。もちろん、「納期が遅れたのは、あなたからの指示が遅かったからだ」といったような形で、あからさまに、責任を擦り付けているような人はほとんどいないと思う。しかし、少しフェイズをズラしてみたとき、言動やそもそもの発想が「他責」になっていないかどうかをチェックしてみる必要はある。たとえば…、

□「指示をいただけないと動けません」⇒先回りできないものかね
□「メールでは送っておいたんですけれど…」 ⇒確認しなかった自分の問題だよな
□「ぜんぜん理解してくれないんですよね」 ⇒説明の仕方が拙いんじゃない
□「ちょっと情報が少なすぎます」 ⇒じゃあ自分で集めようよ
□「いや、そういうふうに書いていたんで、そのままコピペしました」 ⇒そこに自分の考えは?

こうして並べてみると、自分では考えることを放棄し、体のよい言い方で、考えるという行為を他人に委ねてしまっているということが見えてくる。いわゆるライフハックの中には、上手く他人を使うという定石があるが、他人に委ねるとも、責任は自分にあるということは忘れてはならない。他人がくだしたデシジョンの根っこには、自分の責任がぶらさがっているということを忘れてはならない。もちろん正当に責任の所在を主張しなければならないときもある。でもそれはよほどの最終局面のことだ。いちど、すべての原因は自分にある、と思ってみる。ただし、これを重責とか自虐的とか感じているうちは、きっと上手くいかない。や、こっちのほうがなんだか上手くいくよね、自分でコントロールできるよね、という実感をもてるまで繰り返し思うことがポイントになるかもしれない。「非戦」についてはまた別途。まあだいたい似たような話かもしれないけれど。というか、「他責」の話も冴えないので書き直そ。

▶昨日読んだもの
[1]『国家論』(佐藤優/NHKブックス)

結局、どうも小説という状態ではなかったので「かもめの日」は読まなかった。夜中の2時に読む本は、論理の補助線が明確なほうがよいわけで、だから『国家論』を選んだのだけれど、いまのところはどうも話のヘソみたいなものがつかめきれていない。いったい、佐藤のこの話は最終的にはどこに着地するのだろう。国家は暴力とか、がんばれ社会とか、新自由主義の寂しさといった話はくどいくらいわかるんだけれど、どうもそれだけではないような気がする。柄谷の世界共和国の話が出てきたあたりで、いろいろなものが繋がるのだろうか。いまだいたいスターリンの民族定義のあたりで、そういった断片は、博学の教科書という点では面白いんだけれどなあ。そんなことなので、このもやもやを断ち切るために、今日は佐藤の「新潮」連載の「高畠素之の亡霊」を読みそうな気がする。

◎しっかり水を飲むこと。

2008-01-09 20:57:30 | ◎書
▶今年は、ゆっくり水を飲む。場合によっては咀嚼しながら、反芻しながら。しかもたっぷり飲む。必然的に、ちょっとあいたわずかな時間に、たとえ少しであっても飲めるようにしておかなければならない。だから、つねに水を携帯する。もちろん、不味ければその場で吐き出す勇気も必要だ。

▶同じようにいえば、今年は、手と足を動かす。逆に言えば、手と足を動かしていなければ、眠っているのと同じ。そして、だから足跡をおとす。つねに道具をもつ。

▶昨日読んだもの
[1]「決壊」(平野啓一郎/新潮2月号
[2]「かもめの日」(黒川創/新潮2月号)
[3]「小説と評論の環境問題」(新潮2月号)
[4]『2015年の日本』(野村総研/東洋経済新報社)
[5]『住宅産業100+28のキーワード』(創樹社)
[6]『地頭力を鍛える』(細谷功/東洋経済新報社)

[1]TWIMのときに引き合いにだした平野啓一郎の「決壊」は、毎月、新しい展開と言説があり目が離せない。しかし、今回、沢野崇が悪魔に殺戮される弟・良介の記録DVDを観ている場面では、どうしてもTWIMとのダブってしまった。さすがのTWIMも、殺人者と一般人が対峙し、観念的な問答を繰り返しながらじわじわと死を見せ付けていくといった描写は描き切れていないため(たとえばトシが殺される現場を描いていれば、これに近いものになっていたかもしれないが、そんなマンガは正直みたくない)、そういった意味では、平野の勇気に感銘を受けるが、ある視点からみれば、TWIMと同じことをやっているんだよなあ、という感想は否めない。もっとも、全体を通してみれば、それは「決壊」を損ねるものではないが。[2]なんてのは、ふだんのビヘイビアでは、だいたい読まないことが多いのだけど、入り口が少し面白かったので読み始めてしまった。ただ、ヴォストーク6号テレシコワのくだりが終わったところで、急激に俗っぽく(下手に)なったので、とりあえずページを閉じ[3]の高橋源一郎、東浩紀、田中和生に移動した。今日の夜、もし同じページを開くところができて、テンションが持続したら読み続ける。ちなみに、黒川創という小説家のバックボーンはいっさい知らない。そんな知らない人の小説を読み出し、少し感じるものがあったのは久しぶりで、これはなにかの予兆かもしれない。仕事の都合上しかたなく[4]とか[5]なんかを調べてみるが、真新しい予測はないので、やや困ってしまう。仕事ぬきなら野村総研の予測は、網羅性もあってなかなか面白く読める。しかし仕事ぬきで読むことなんて小説でも書かない限りないなあ、と思ったところで、ならそういう視点で読めばいいじゃんと気づいた。ちなみに野村総研の予測シリーズには『2010年の日本』もあって、そのセグメントに頭が下がる。もっとも、10年版のほうはおもに「雇用形態」「国家財政」「団塊世代のセカンドライフ」「BRICs」の話なので、ぼくが直近で抱えている課題にはますます役立たない。[6]にある「フェルミ推定」なるものも、下手な予測の数を増やすだけで、ここでは決定的ではない。正直、予測はむなしい。

◎年末

2008-01-01 17:28:41 | ◎書
■なにしてたっけ?→ご近所と焼肉→日曜日の夜なので控えようとしたけれど、結局、焼酎を何杯も→「ウコンの力」→気がついたら朝→バタバタと新幹線→急遽、降車駅変更命令→八重洲地下街で古本→収穫と発見(R.S.Books)→喫茶店で打合せ→地域商品企画基礎資料分析→エリアイベント社内打合せ→家電系商品プロモーション社内ミーティング→クライアント勉強会下打ち合わせ→地域商品開発会議→社内コンテンスト審査→妥当な線で合意・決定!→BU合同忘年会→27:00まで2次会→タンカレー、ハーパー→「ウコンの力」→確かに効くが睡眠不足には勝てず→短く終わろうと思ったけれど結局長くなってしまった社内会議→勉強会事前資料追加作成→クライアント商品市場予測→社内賞審査→意外とすんなり→えらイベント企画→7:30起床→横浜方面→走って帰社→元クライアント来社→クライアント提出用資料確認→持ち帰り資料準備→ティップネス→GAPでコート→BS『日本のフォーク&ロック大全集』→浜田省吾2回登場→「埠頭を渡る風」はやっぱりいい→元気つけるためウコンの力→再びクライアント商品市場予測→『たかじんのそこまで言って委員会』→勉強会準備→M-1→BS『肉眼夢記~実相寺昭雄・異界への招待~』→ブックオフで予定通りの収穫→今年3本目ののどスプレーとか→温泉→TUTAYAでチャットモンチーの『生命力』→シャンパンいっぱい飲んだので「ウコンの力」→勉強会出張の準備→6:30起床→7:20京都に向け出発→合同勉強会→夜、合同忘年会@祇園→部長の歌の巧さにひるむ→若手舞妓が唄うCD買うas土産→25:30→京都駅前のローソンで「ウコンの力」→法華クラブ→8:00起床→京都から新幹線→会社→クライアントブランド系打合せ→引き合い先に電話、コンペ?→ABC→新商品マニュアルドラフト→朝早いし荷物も多いので23:30に退社→帰宅→東京電力から督促→とりあえず寝る→6:30起床→茨城→商品プロモーション打合せ→駅のフードコートでカレー→ミニミーティング→レイアウト移動→年末の仕事の仕込み→自宅のそうじ→7:30起床→クライアント打合せ→新メンバー来社→働き方についてミーティング→ひさしぶりのもりそば4枚→社内会議→年末仕事の仕込み→芋羊羹→ティップネス→不調→ルル内服液→ふらふらと帰宅→パブロンS→38.0℃→ダメ→ルル内服液→おじや→熱さまシート→少し快調な起床→お茶漬け→コルゲンIB透明カプセル→ビオフェルミン→少しまし→『ダイハード4.0』→『M:I:Ⅲ』→こっちにもマギーQ→かにしゃぶ→腹がダメ→『スパイダーマン3』→これは面白かった→7:30起床→だいぶ良い→餅とか食べる→年賀状起案→昼飯→腹がだめ→激しい膨満感→ダメ→寝る→引き続き膨満感→年賀状の"アイデア"完成→年越しそば→体調悪化→ガキ使→あまりのトイレ通いに自分でもイライラしてくる→2008年→寝る→起きる→実家→おせち→あまり食べられない→復調の兆し→あけましておめでとうございます。


■なに買ったっけ→
[01]『ほとんど記憶のない女』(リディア・デイヴィス/白水社)
[02]『完全読解 ヘーゲル『精神現象学』』(竹田青嗣・西研/講談社選書メチエ)
[03]『謎とき村上春樹』(石原千秋/光文社新書)
[04]『BRUTUS 読書計画2008』(マガジンハウス)
[05]『爆笑問題のニッポンの教養 哲学ということ』(爆笑問題・野矢茂樹/講談社)
[06]『花の回廊』(宮本輝/新潮社)(古)
[07]『静かな大地』(池澤夏樹/朝日新聞社)(古)
[08]『人間を守る読書 』(四方田犬彦/文春新書)(古)
[09]『世界の終わりの終わり』(佐藤友哉/角川書店)(古)
[10]『佳人の奇遇』(島田雅彦/講談社((古)
[11]『滝山コミューン1974』(原武史/講談社)(古)
[12]『真鶴』(川上弘美/文芸春秋)(古)
[13]『下流指向』(内田樹/講談社)(古)
[14]『小林秀雄の恵み』(橋本治/新潮社)
[15]『アメリカン・スクール』(小島信夫/新潮文庫)
[16]『国家論』(佐藤優/NHKブックス)

▶ベーシックな部分で読みたい作家だとかテーマが固定されていて、もうそれだけで量的には満杯なので、ある日突然、だれかに推奨された新しいカテゴリーの本に食いつくことは、たとえそれが高橋源一郎であったとしてもあまりなくなってきた。ただし、[01]の『ほとんど記憶のない女』は違った。id:tokyocatさんのさりげない引用を夕方に読み、いてもたってもいられず、まず、ABCに行くが見つけられず。でもまったくあきらめきれず会社からの帰路、25時前、ABCにないぐらいだからと期待せず立ち寄った閉店間際の渋谷の文教堂で幸運なことに発見できた。繰り返すけれど、ここまで僕を執心させる本はめったにない。やはり予想に違わず好きな小説だった。まあなんかどうでもいいようなことに何回も何回も思考を重ねるさまを綴った乾いた文体。ユーモアのあるサドン・フィクションが取りざたされることがおおようだけれど、僕は「サン・マルタン」にみられるようなbleaknessを、窮乏と破綻を静かに淡々とただ語るだけ、といった話にひかれる。ちなみに岸本佐知子によるとこれはオースターとの同居の話であり、なるほど『トゥルー・ストーリーズ』を読み返してみると「赤いノートブック」に、「サン・マルタン」をなぞる話がある。しかし、オースターの話は、もう後がないというときに必ず突然友人のカメラマンが訪ねてくる、という得意の偶然ストーリーに無理やり収斂させた嫌があり、これに限っては圧倒的にデイヴィスに軍配をあげたい。(しかし、リディア・デイヴィスの『ほとんど記憶のない女』の中の「サン・マルタン」に強い関心をもった同じ月にオースターの『トゥルー・ストーリーズ』が文庫化されるとは、これも信じたくない偶然ではある)▶[02]『完全読解 ヘーゲル『精神現象学』』は、長く予告されていたもの。2人で新訳を進めているのかと、思っていたが、こうきたか。ノートのような書き方なのでフレームをつかむまでは読むのに時間がかかりそうだ。▶しかし、予想外に時間がかかるのが[05]『爆笑問題のニッポンの教養』で、これはやはり文字に落として読むものではないなと感じた。TVプログラムのその場の勢いで理解できることもあるんだろう。▶『世界の終わりの終わり』[09]が2002年、2003年、2004年ときて、その先に2006年の『1000の小説とバックベアード』がある。いちおう著しい成長がみられるわけだが、この文脈の小説をこれ以上書き続けてもどうしようもない。ところで佐藤友哉を特集しているといわれている『ファウスト』はやっぱりでなかったな。▶『滝山コミューン1974』[11]には、高橋源一郎の「感動した」という惹句があり、この手の本で感動するなんてこの人はまたいい加減に褒めているなあと思っていたのだけれど、確かに1ヶ所、ページをめくる手をとめ思わず天を仰いでしまうがあった。欺瞞に満ちたコミューンの中心となった6年5組の生徒も実は当時そのプレッシャーのためにボロボロになっていたということが晒されるくだりなのだが、この1点をドラマタイズするために『滝山コミューン1974』は書き進められたといっていいかもしれない。そういえば、滝山七小ほどではないにしろ、確かに自分の小学校にもなんともいえず、いやな結束を保つクラスがあったし、クラスの代表があつまるいわゆる児童会役員会で、けっして自らの声ではないなんとも優等生的な集団行動の教義を振りかざす女子もいた。原の時代より2年ほど後なので、おそらく特定組織による運動は終焉に向っていたのだろうけれど、同じニュータウンということを考えると残滓はあったのかもしれない。いつか「青山コミューン」を。しかし、原の記憶力には驚くし、小学生にしてあの思考力というのは信じがたいな。▶[14][15][16]と、年末ぎりぎりに良い本がでた。

◎界隈の話に、少し噛んでみたり。

2007-12-11 23:38:24 | ◎書
▶「好きを貫く」ことを機嫌よく続けるための唯一の障害はきっと「時間」だ。押してくる「時間」さえ気にする必要がなければ、曲りなりにも自ら選んだ、いまやっているたいていの仕事は好きだと思えるのではないだろうか。
せっかく時間を忘れて没頭しているのに、誰かが時を告げると、不本意ながらも尺にあわせて丸めなければならない。だいたい、そもそもリミットが切られていて、なんの夢想をする暇もなく、だらだら楽しく下調べする間もなく、とりあえず機械的に手を動かし始めなければならないことがほとんどだ。
もちろんねじを巻くのは、影の発注者だけではない。明日、しゃんとした心身で好きなことをするためには、しっかり眠らないといけないので今日の好きをあきらめないといけない、という自主規制的なものものある。飯だって食わなければならない。
こういった時間ストレスが溜まってくると、好きに違和や不可能性を感じ始めてしまうことになる。結局、俺たちは「好きを貫く」時間を確保するために、その時間的制約から好きを少しずつあきらめ、でも、いつかはそういった時間を確保できるだろうという幻想の中でループし続けている。
もちろん、この無限ループで廻り続けること自体を「好きを貫いている」とみるオプティミズムはありだ。ただし、そのクスリの効果は、時間を確保するには金が必要なのだ、時間を買うために膨大な金を貯めなければならないのだ、というヤなことに気づいてしまうまで持続されなければならない。

▶中刷りとか駅貼りで、キャリア各社の新しいケータイをみていると、表層的かもしれないしペラいのかもしれないし、まあいまさら俺が言うほどことでもないのだけれど、AUとSoftbankのインダストリアルデザインは物欲をそそる程度にはちゃんとしている。それは俺の目でみてもわかるほどで、明らかにDOCOMOはいただけない。かっこよくしようと努力してかっこわるくなっていないか?きっとそうだ。
ふと、この電話会社のなかでも比較的先端をいくグループ企業の人と話をしたとき、「ウチはあなたの予想をはるかに超えて官的ですよ」と言われたのを思い出した。ケータイのデザインも原石はクールだったのだけれど、はんこをいっぱいおされる過程において、メーカーのデザイナーもツルんとしてきて、メタモルフォーゼというか崩壊していったのだろうか。弁証法のあんまりよくない見本?弁証法とは言わないか。

▶「プライドを捨てること」「自分を晒すこと」「人と出会うこと」「技術を愛すること」。ベーシックでとても大切な話。ただし、このIT戦士は結果論を体系的に語っているわけだから、その体系を受け取った俺たちは、かなり自覚的にこれらのファクターを全うしなければ身につかない。毎日、帰路にて、今日はプライドを捨てたか?自分を晒したか?新しい人に出会ったか?仕事に新しいアイデアを起用したか?といったことを自問する程度のことは必要だ。ま、自問できるような人は、そもそも身体に染み付いているのだろうけれど。

ところで「プライドを捨てる」というのは、捨てたことでうまくいった経験がないと、その勘どころがわかりにくいのかもしれない。基本は面従腹背ということだろう。言葉だけとると、卑屈だし対話者を裏切っているようであまりよくないたとえだけれど、ここで言いたいのは、Aを守るためにBというチンケな虚勢を切る、という判断をどう状況適応できるか、ということだ。そのAというのはもちろん立場によって異なるが、仕事における俺のAはもはや言うまでもない。

▶イソジンとバイシンを買った。ついでにヴィックス・メディケイテッド・ドロップも舐めたし、スパーク・ユンケルも飲んだ。なんか、風邪とかインフルのオブセッションにとり憑かれている。いまのところまあ快調。

▶インナーイヤーレシーバーをSONYのMDR-EX85SLに変えてから、初めて『言葉はさんかくこころは四角』が流れてきた。これまではアバウトな聴き方をしていたため気づかなかったけれど、新しいイヤフォンはじつに細かい音を拾ってきて、それがいろいろと工夫があることがわかって、あらためて、日なが音楽のことばかり考えている人の音楽はいいなあと思った次第。あと、SONYの技術を結集したといわれているやつだとか、BOSEとかのイヤフォンにしたらどんなふうになるだろう、というのが目下の希望。

▶そろそろ、今年買い逃していた本をチェックしておいて年末の楽しみとしたい。ざっと思いついただけでも……『生物と無生物のあいだ』(読んでいないのかよ)『国家の罠』『マジック・フォー・ビギナーズ』『佳人の奇遇』『世界の終わりの終わり』『滝山コミューン一九七四』『下流志向』『エレクトラ―中上健次の生涯』『なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集』『その名にちなんで』『旅の途中』『アイロンと朝の詩人――回送電車 III』……って、けっこうある。あと『シネマ2』なんかに無謀にトライしてもよいかもしれない。これだけ集まると値がはるので、まずちゃんとしたリストをつくって「ブ」とかに突入だ。というか「ブ」にはあるはずもないので、天牛・天地に突入だ。ま、そこにもほとんどないだろうけれど。どっかに2億円とか落ちていないかな。