考えるための道具箱

Thinking tool box

リージョナルな仕事。

2006-04-19 17:04:27 | ◎業
このほとんどブログを更新していない一ヶ月のあいだ、なにをしていたかというと、仕事で東阪名はもとよりそのほかあちらこちらの地域を飛び回っていた。
や、もっとも、毎日出向いていたというわけではないから、「ブログを更新していない」っていうのは言い訳以外のなにものでもないただ単につけただけの枕詞であり、ましてや「飛び回っていた」なんてのはほぼ虚言に等しいわけだけど、こういう誤った思い込みを、なにくわぬ顔で書けるのもブログの魅力です。もしくは書き言葉の魅力か。というかどーでもいいか。

いずれも、以前におつきあいをいただいたクライアント担当者に呼ばれて、ということなんだけれど、こういったリージョナルな仕事を進めていくことは、じつはたいへんに面白いということがわかってきた。

地域拠点に呼ばれるということはおおむね拠点長ないしはそれに近いポジションとして異動した人から呼ばれるということで、そういった人はたいてい「できるマネージャー」であったり「すごいリーダー」(※)であることが多く、正しく課題化がすすんでいるため目的合理的な議論ができる。かつ、ほぼ組織を掌握できているということや、対策を施すサイズが限定的であるということもあって、戦略が一気に貫通しやすく同時に実行可能性も高い。
そんなことだから、議論をしたりヒアリングを行う際の対話がとても楽しくなる。この人ともっと話を続けていたいという状況で仕事ができることは、言い換えれば、仕事を超え人として敬愛できるパートナーと仕事ができるということは、ときには苦役とも思える仕事人生においてこのうえない幸甚である。

とりわけ、北丹で再会したのは、組織の活性化を天職としているようなマネージャーで、別組織・別業種でありながらも「この人のもとで仕事をしたい」と思える稀有な人物である。当然のことながら、数年前初めてお会いしたときと、そのスピリッツはいっさい変わっていない。
今回、彼は「顧客に向けてのマーケティング施策」と「社内のモチベーション&スキル向上を前提としたマネジメント施策」を緻密に絡み合わせ一気に事業革新をおこなう術策を打ちたて、結果としてまさに初期に描いていていたそのままにシナリオを着地させるという神業のような戦略をやってのけてしまった。このケースを構造・体系化し、水平展開すべく資料化するのが今回のミッションであり、いままさに膨大にあるすべてのファクトを分解している。どれも要諦となりえるエピソードであるため骨の折れる作業ではあるのだが、筋が通っているだけにわくわく度合いはかなり高い。だからといって、このきわめて属人的なやり方が、水平展開可能なマニュアルとしてに仕上げられるかどうかは別問題なんだけれど。

さて、リージョナルなアカウントの仕事は、本題以外の部分にもたくさんの魅力が隠されている。こんなことでもない限り一生行くことはないだろうと思われるような地方に足を運ぶことは、それだけでもじゅうぶん楽しいわけで、ましてや、仕事そっちのけで夜を徹して飲み語るといった催事なんてのがついてくると、欣快の至りだ。じつのところ、数年前までは公私を問わず、なんか知らんところに行ったりすることや宴席のようなものが苦手だったんだけど、ここ数年来、コミュニケーションの虎の巻を皆伝されて以来、そんな場を心底楽しめるようになってきた。

宴席というか飲み会を愉しむためには、利害のない状況、利害を超越しているように見える関係が演出できていることが大きな前提になるわけだが、先の北丹のケースもこの例にもれない。夜が早い地方都市の広大なアーケードを徘徊しながらクライアントとともに開いている店を探し、しかしようやく見つけることのできた料理屋はたとえしがなくとも海が近いだけあって異様なほどに魚が旨く、だから酩酊も加速し話もつきない。もう一軒、あと一軒と店を重ねるうち、真夜中にもかかわらず着信した、社員からの「契約成立」の報告を「そうかよかったなあ。ほんとうによかった」とやさしく称え、「あいつはほんとうにだめなやつだったんだよ」と感涙で語る彼に、正しい仕事人の魂をみた。

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(※)『日経文庫-経営組織』。ここで、金井壽宏は、2つのタイプに貴賎はないとしつつも、「できるマネージャー」はどうもサポート的な位置づけにおかれていることは否めない。持論である「究極のマネージャー」はやはり「すごいリーダー」に同化してしまうのだろうか。分類された属性を見る限りはじつは「破壊と創造」以外は、両素養をあわせもっている組織の長は多いような気がするが。
MBWAについて調べたかったので、この古い本を取り出してみたが、ほとんど記憶にない付箋やアンダーラインでよれよれになっていた。その部分を読んでみるとやっぱりいいこと書いてある。

散歩。

2006-04-11 20:03:44 | ◎書
日曜日は、午前中にクライアントとのやりとりも含め業務を完了し、午後2くらいからフリー状態に。
天気もよいので、娘と散歩に出た。巨人戦(※1)とか阪神戦の中継もあったり、いよいよ満杯になり危機的状況にあるHDDレコーダーの視聴整理も行わないといけないなあと思いつつも、こんな日に、こもっていたら、人間ドック以降よくなりつつある体調も退行することだろうと思い、昼食後、緩む前に動くことにした。

最終目的地を、天牛書店と江坂のTUTAYAとし、ふだんであれば車で10分の世界を、のらりくらりと歩いてみる。google mapによると往復で6kmほどの距離。途中で服部緑地公園をぶった切るので花見もかねて、ということになる。もちろん、この花見の時期の緑地公園は、そこから発する肉の匂いと炭の煙幕の充溢が周辺2kmくらいまでおよぶのではないかと思えるほどの原始人的集落になっており、おそらく今週がピークなのだろう、公園じたいがぼやけてしまうほどの人手だった。TVのドラマの早速の影響を受けてか、テニスにいそしむ若者が多かったり、本気で野球に取り組む馬鹿猛者がいたり、静かに各々が別の文庫本を広げるというたいへんに好ましい恋人たちが戯れたりと、なんだかんだいっても、みんなが笑っている風情は、ぼくたちの気持ちを幸せにしてくれる。コミュニティのバリエーションとか深さはそれぞれ違うのだろうが、人はやはりこういう日があることを目指して毎日を乗り切っていかねばならないのだ、というきわめてあたりまえのことを復習した。

緑地公園の駅の近くの新しいちょっと格好をつけたお店なども新しく発見しながら新御堂筋につきあたり、バッティングセンターに多大なる魅力を感じつつも天牛書店へ。あいかわらず外の陽気なんてそしらぬ顔の陰気な店内。新古での収穫はないものの、念願の講談社文芸文庫の『白鯨』をみつけ、それでも文庫なのに上下1,600円という価格に多少は躊躇しつつ購入。だからというわけでもないけれど、100円棚で中島らもといしいしんじの『その辺の問題』いしいしんじはできるだけすみやかに読まねばなどと感じつつもスルーしていたので、彼の肉声的なるものを聞いたのはこれがはじめて。著作のタイトルとか評判だけで、聖人いしいのイメージを勝手に積み上げていたのだが、なんと驚愕の一冊。ずっと「人生を…シリーズ」を横目でみながら、なぜ、町田康との対談を?と首をひねっていたのだけれど、中島らもとここまで渡り合えるなら、なんら疑問に思うことはなかったわけだ。小説の前に、まず「人生を…シリーズ」で、いしいしんじの正しくない読者になろう。しかし、こういった利害関係のないところで、たとえばご近所との居酒屋談義というか床屋談義のようにに非生産的に迂論をぶつけあうのはやっぱり楽しいなあ。

あとは、TVドラマの早速の影響を受けて『Happy! 完全版』を2冊ほど。連載時は読んでいたのだけれど、基本的に要所しか思い出せない。『20世紀少年』のような現在の浦沢路線の迫真感はないけれど、面白くないことはない。なんてあやふやなことはなく面白い。ところで『20世紀少年』といえば『Invitation』の浦沢特集によると、どうやら4月中に第1部が完結するらしいが、いまって第2部じゃなかったのか。それとも見間違いか誤植か。
さらに、密かなたのしみ『新・野球狂の詩』。はっきりいって御大はだれている。だけどやめられない。これを機会にWikipediaを見てみたが、そうとう充実していて、そこで書かれている往年の嬉しがりこそが、御大の真骨頂なのだ。そのほか、娘が中高生に大人気の作家のIWGPシリーズの文庫を2冊。これは、きっとぼくは読まないだろう。

天牛書店をあとにし、TUTAYAへ向かう。ふだんは上新田の店なのだが、郊外のTUTAYAは品揃えが限定的でほしいものが揃わないので、期待していたのだが、基本的に同じ品揃え。六本木店とかにいくと革新的なラインアップになっていたりするのだろうか。収穫なしで帰路につく。

帰宅。土曜のティップネスの新プログラム(※2)に続き、日曜もそこそこ運動したので、阪神戦と巨人戦を交互に見ながら昼ビール。しかし、今年の巨人はほんとうに面白い。

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(※1)気持ちはわかるけれど、巨人戦は地上波でも放送してください。
(※2)ティップネスは4月から新プログラムで、今後、よほどのことがない限り「カーディオQuest&カーディオARASHI」の2コマを受けることになる予定。名まえが変わっただけで新しくもなんともないんだけれど。

3ヶ月で考える。

2006-04-08 17:52:11 | ◎書
新年度も始まってもう1週間以上もたとうとしているのに、きっと要領が悪いんだろうなあ、どうも仕事が終息しない。もちろん、世の中のすべてのことに3月-4月の断裂線があるわけではなないのだから、じつは新年度というのは幻想的というか雰囲気的なターニング・ポイントにすぎない。そんな、仮想の祭を意識しすぎて、終わることと終わらないことが混在するから期末は忙しいということになる。といったことに加え、珍しく体調がすぐれないことも重なり、なかなかだらだらだらだら書きつけていく時間が見つからない。よって、クリスプに文字をおいていくだけにしようかと思ったけれど、いまビジネスにおける「期」についてふれたので、少しだけこのことについて書き留めておこう。

文脈では、どうやらぼくは「ビジネスの期」というものにいまいち賛同していないようだが、そんなことはない。もっとも、信頼交換のなかで終わることなく連綿と仕事関係を続けていけることに甘い理想を感じているので、むりやり押し込むとか、お願いするとか、処分するとか、そんなことに一喜一憂するといった本末転倒なハードなランディングは避けたいほうではある。ということなんだけれど、それゆえに逆説的に「期のような」マイルストーンを意識し続けることが大切ということになる。

受注生産産業であり、会社規模が小さく、拡大基調でもなく、ルート営業的な、(うちのような)会社だと期の感覚が希薄になってしまうことは否めない。そういった会社は、チーム、部署単位では、クライアント企業の業績動向に思いっきり左右されるので、期計画の確度をあげられないことも大きな理由かもしれない。しかし、だからこそ、短いスパンで受注動向を追いつつコレクトしていくことが重要になるし、小規模な事業での短いクールの計画であれば、自分のスキル目標とシンクロさせやすいという取り柄もみえてくる。

とはいえ、1ヶ月というのはいささか無理があり意味のない区切り方だ。いくらアジルな時代とはいえ、起案からアウトプットまでが1ヶ月で完了するマーケティング施策はあまりない。確度をあげるためには、毎週の社内会議でミッションの完了時期を報告議論しなければならないし、そんなことをせずに「えいや」でだす計画なんて無意味はおろか有害になってしまう。

きっと3ヶ月、つまりクォーターで考えるのがちょうどよいのだろう。もちろん、四半期というのは多くの企業で、決算期とまではいかないにしろ採用されている経営判断のクールではある。しかし、IR対応でないかぎり現場ではさほど重用されていないというのも実情ではある。

一度、自分の抱えている案件や、クライアントの事業状況を3ヶ月という視点でみてみよう。そのうえで、案件を3ヶ月単位で完了させていく引力をはたらかせてみよう。もし、得意先企業の新商品が6ヶ月後に発売予定なら、3ヶ月×2にわけたかたちのマイルストーンをおいてみよう。同時に、案件の完了と連動して取得できるスキル目標を埋め込んでみよう。たとえば、3ヶ月後のB企業のWEBサイトのローンチ時には、並行して勉強するAjaxのようなものが埋め込まれている、といったようなことだ。
もちろん、しんどいけれど新しいパートナーにしか依頼しない、といった3ヶ月を設定するといったことでもいいかもしれない。あ、いうまでもなく、今回もターゲットが限定的な話です。以上。

以下、クリスプに。3月の中・後半から今日までおさえた本などのメモ。

『バリュー消費』(田村正紀)
『次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?』(柴崎友香)
『いつか、僕らの途中で』(柴崎友香・田雜 芳一)
:これは、柴崎らしい本のつくりになっている。もちろん他の作者でもこういった形式と手法は可能だろうが、柴崎のように語りかける雰囲気をリアルにつくりだすのは、なかなか一筋縄ではいかない。
『はじまりのレーニン』(中沢新一)
:100円だったので。
『チョムスキー入門』(町田建)
:350円だったので。
『反文学論』(柄谷行人)
『プラスティック・ソウル』(阿部和重)
:うーん、やっぱり面白い。自称失敗作といわれているこの小説は、全体的な堀の浅さとか、バリーライトの強さを間違ってしまい、まぶしくて見えないまま幕が閉じるようなエンディングなどのことをを問題視しているのかもしれないが(そんなこと誰も言ってないけれど)、最後の1行を読み終えたあと、瞬時に冒頭の1行に戻るという循環的な読み方をしてみればすべての問題が消し飛んでしまう。こういったとろも含め形式の真骨頂で、たとえば、『インディヴィジュアル・プロジェクション』を読み終えたその足で『アメリカの夜』を求めた人にとっては、切断線前の集大成として、かなり楽しめる。ただ、「初対面の4人がゴーストライターとして協業し小説家をつくる」というめっぽう面白いテーマなんだから、もう少し遊んでほしかったという気持ちは否めない。批評空間への連載のなかで仕方のない部分もあったのだろうが、これもひとつの形式ということか。
『盾-シールド』(村上龍/はまのゆか)
:『いつか、僕らの途中で』と同じようなつくりであっても強迫観念しか残らないさびしい絵本である。『歌うクジラ』なんかをやっているので少しは期待を寄せたが、「人間は心の柔らかい傷つきやすい部分を盾で守っている」ということがテーマであるのなら、もっと静かな切り口もあったのではないだろうか。村上龍は、一定のサイクルで小説のテーマをかえる続けることを旨としてきたが、1サイクル前に戻ってしまった。ほんの箸休めなんだろうとは思うけれど。
『スチュアート・ホール』(ジェームス・プロクター)
:カルスタは、その範囲の広さとかバリエーションの豊富さ、層の重なりにより、関係する本をどれだけたくさん読んでもどうも周縁をうろうろするだけで中心部がつかめない。やはり、ホールのことを少しは知っておいたほうがよいかなあ、ということで評判の青土社のシリーズを。
『ビフォア・セオリー―現代思想の“争点”』(田辺 秋守)
『これだけは、村上さんに言っておこう』
『一九七二』(坪内祐三)
:文庫になったら買おうと思っていたので。近頃は文庫化がほんとうに早いなあと思っていたら2003年の本なので、むしろ自分の時間の流れの速さにショックをうけた。ちなみに一九七二年、ぼくは小学2年生。担任にしょっちゅう拳骨で殴られていた記憶しかない。さすがに、そこからここまでの時間の流れは速くない。
『病いの哲学』(小泉義之)
:これはすごい。現代思想とか哲学が、これほどいまの暮らしを考えていくにあたって役立つなんて。
というか「こういった考え方をすれば、(正解は得られないかもしれないけれど)ほら、考えつくせるでしょう」ということをていねいにといてくれている。まだハイデガーのあたりなんだけれど、ぼくはいったいぜんたい何を考えたいのかが少しわかってきた。
『コミュニケーション力』(齋藤 孝)
:この“マニュアル”は、あなどってはいけない。疑ったり、深く考えたりせずに、ここで書かれているそのままのことをいちどビジネスの現場で愚直におこなってみると効果てき面のはず。ただし、愚直にやるのが難しいのだ。
『PLUTO 第3巻』
:オリジナルの定期購読をやめたので単行本を買うことにした。特別仕様のほうには、浦沢直樹が高校生のときに書いた原稿が転載された別冊付録がついている(まんがノート)。羅生門のストーリーを時代だけけ変えてほとんどそのまま漫画化したもので、『ライオンブックス』か『タイガーブックス』かと見まがうほどの手塚絵。しかし、巧すぎる。
『文藝 春号』
:高橋源一郎特集。よもや5回も結婚しているなんて。町田康や中原昌也の質問状、内田樹や柴田元幸との対談など力いれすぎ。青木淳悟のトリビュート短編なんてのも面白かったですよ。台詞まわしが中原昌也に似てきたかな。
『もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング』
:ご近所のご厚誼により、いちはやくDS Liteを手にすることができた。評判どおり、DSだけあって面白い。通過儀礼として脳トレと格闘しているが毎日できるわけでもないので、脳年齢は安定しない。短期記憶をいじめるような作業はこれまでは苦痛だったんだけれど、漢字記憶のようなトレーニングが最近好きになってきた。ひょっとして、打ち合わせの前とか、企画作業に臨む前に1つ2つトレーニングを行えば場が活性化するかもしれない。

3月の中・後半から今日までの出来事はまた別途。