「武田鉄矢、おおいに唄う。端やんメドレーショー」ってところか。いや違う。んなわけねえ。年齢差と歌のプロテスト性なんかを考えると、「ゆず トリビュート フォークル」?これならありえるかも。ゆずなら拓郎ってのもあるだろうな。
つまり、ブルース・スプリングスティーンの『We Shall Overcome: The Seeger Sessions』のこと。57歳のブルースがカバーした、フォークシンガー、ピート・シーガーは87歳で日本なら大正生まれ。よって田端義夫なんだけれど、もちろんたんに楽しいセッションというだけなら武田/田端も負けてはいないが、そこには寓意以外の意味がほとんど見出せない。そういうことなので、フォーク・クルセダーズのようなバンドということになるが、ではフォークルが汎用性の高い国民的シンガーか?というとそうでもないわけで、当然のことながらブルース/シーガーのような関係を、日本のフォーク・ポップ・ロックミュージックのなかで探すのはいささか無理がある。なぜいまピート・シーガーなのか、というところはブルースのライナーを読んでも、ノスタルジー的な部分以外の本意はわからないが、小さい頃からよく聞いていてふとしたはずみで鼻歌でも歌っているような曲を、普遍的なメッセージの意味あいもこめながら、思い切り(あたかもカラオケのように)唄いたかった、ということかもしれない。
このセッションのために集められたアコースティック&カントリー・バンドのなかで、ブルースは、ほんとうに楽しそうに、ピート・シーガーの素朴で実直な曲を歌っているが、公民権運動のテーマのようにもなっていた"We Shall Overcome"のような曲ではしっかり締めている。バンジョーのような楽器が多様されているため、当然のことながら能天気なカントリー&ウェスタンに聞こえるが、そこはやはりシーガーで、周縁のタフな人たちを見つめるまなざしはやさしく思慮深く、だからときに重い。こういった楽曲をきんきんにならず創れること、そしてそれを優等生ぶらずに歌えるところはアメリカらしいといえばアメリカらしい。
しかし、一方では、シーガー・セッションズ・バンドによる、ヨーロッパ&USツアーも挙行していて、このあたりは、世界に対してマルチチュード的ななにかを主張していうということかもしれないし、アルバム未収録の曲の"How Can a Poor Man Stand Such Times and Live?"という曲のいくつかのヴァースを、「ニューオーリンズの人々が直面している大きな試練のことを考えながら」、ブルースが新たに書き起こしたところなどをみると、そんなに楽しんでばかりはいられないよ、という立ち位置はより明解ではある。
ツアーでは『We Shall Overcome』からの楽曲からだけか、と思ったら、そうではなく
- Johnny 99
- Cadillac Ranch
- If I Should Fall Behind
- Open All Night
- My City of Ruins
- Ramrod
- You Can Look (But You Better Not Touch)
といったブルース自身の曲も演奏されており、これらの曲がシーガー・セッションズ・バンドで、どのようにアレンジされるのかはかなり興味深い。じつのところ、このバンドアレンジに、ブルースの曲はなじみやすく、たとえば"We Shall Overcome"や"Eyes On The Prize"は、『The Rising』に入っていたとしても違和感はないだろうし、逆に『The Rising』の"Waitin' on a Sunny Day"などは、シーガー・セッションズ・バンドのアレンジで聞きたくなる。
もちろんぼくは、ピート・シーガーなんて知る由もなく、最初は、大丈夫なのかねえ?と期待をもたずに聞き始めわけだが、これはこれで紛れもなくブルース・スプリングスティーンだし、とりわけさっきから何度も出てきている、"We Shall Overcome"の曲とメッセージにより、タフな毎日がいく分か救われている。
つまり、ブルース・スプリングスティーンの『We Shall Overcome: The Seeger Sessions』のこと。57歳のブルースがカバーした、フォークシンガー、ピート・シーガーは87歳で日本なら大正生まれ。よって田端義夫なんだけれど、もちろんたんに楽しいセッションというだけなら武田/田端も負けてはいないが、そこには寓意以外の意味がほとんど見出せない。そういうことなので、フォーク・クルセダーズのようなバンドということになるが、ではフォークルが汎用性の高い国民的シンガーか?というとそうでもないわけで、当然のことながらブルース/シーガーのような関係を、日本のフォーク・ポップ・ロックミュージックのなかで探すのはいささか無理がある。なぜいまピート・シーガーなのか、というところはブルースのライナーを読んでも、ノスタルジー的な部分以外の本意はわからないが、小さい頃からよく聞いていてふとしたはずみで鼻歌でも歌っているような曲を、普遍的なメッセージの意味あいもこめながら、思い切り(あたかもカラオケのように)唄いたかった、ということかもしれない。
このセッションのために集められたアコースティック&カントリー・バンドのなかで、ブルースは、ほんとうに楽しそうに、ピート・シーガーの素朴で実直な曲を歌っているが、公民権運動のテーマのようにもなっていた"We Shall Overcome"のような曲ではしっかり締めている。バンジョーのような楽器が多様されているため、当然のことながら能天気なカントリー&ウェスタンに聞こえるが、そこはやはりシーガーで、周縁のタフな人たちを見つめるまなざしはやさしく思慮深く、だからときに重い。こういった楽曲をきんきんにならず創れること、そしてそれを優等生ぶらずに歌えるところはアメリカらしいといえばアメリカらしい。
しかし、一方では、シーガー・セッションズ・バンドによる、ヨーロッパ&USツアーも挙行していて、このあたりは、世界に対してマルチチュード的ななにかを主張していうということかもしれないし、アルバム未収録の曲の"How Can a Poor Man Stand Such Times and Live?"という曲のいくつかのヴァースを、「ニューオーリンズの人々が直面している大きな試練のことを考えながら」、ブルースが新たに書き起こしたところなどをみると、そんなに楽しんでばかりはいられないよ、という立ち位置はより明解ではある。
ツアーでは『We Shall Overcome』からの楽曲からだけか、と思ったら、そうではなく
- Johnny 99
- Cadillac Ranch
- If I Should Fall Behind
- Open All Night
- My City of Ruins
- Ramrod
- You Can Look (But You Better Not Touch)
といったブルース自身の曲も演奏されており、これらの曲がシーガー・セッションズ・バンドで、どのようにアレンジされるのかはかなり興味深い。じつのところ、このバンドアレンジに、ブルースの曲はなじみやすく、たとえば"We Shall Overcome"や"Eyes On The Prize"は、『The Rising』に入っていたとしても違和感はないだろうし、逆に『The Rising』の"Waitin' on a Sunny Day"などは、シーガー・セッションズ・バンドのアレンジで聞きたくなる。
もちろんぼくは、ピート・シーガーなんて知る由もなく、最初は、大丈夫なのかねえ?と期待をもたずに聞き始めわけだが、これはこれで紛れもなくブルース・スプリングスティーンだし、とりわけさっきから何度も出てきている、"We Shall Overcome"の曲とメッセージにより、タフな毎日がいく分か救われている。