考えるための道具箱

Thinking tool box

We shall overcome some day

2006-05-31 00:54:13 | ◎聴
「武田鉄矢、おおいに唄う。端やんメドレーショー」ってところか。いや違う。んなわけねえ。年齢差と歌のプロテスト性なんかを考えると、「ゆず トリビュート フォークル」?これならありえるかも。ゆずなら拓郎ってのもあるだろうな。

つまり、ブルース・スプリングスティーンの『We Shall Overcome: The Seeger Sessions』のこと。57歳のブルースがカバーした、フォークシンガー、ピート・シーガーは87歳で日本なら大正生まれ。よって田端義夫なんだけれど、もちろんたんに楽しいセッションというだけなら武田/田端も負けてはいないが、そこには寓意以外の意味がほとんど見出せない。そういうことなので、フォーク・クルセダーズのようなバンドということになるが、ではフォークルが汎用性の高い国民的シンガーか?というとそうでもないわけで、当然のことながらブルース/シーガーのような関係を、日本のフォーク・ポップ・ロックミュージックのなかで探すのはいささか無理がある。なぜいまピート・シーガーなのか、というところはブルースのライナーを読んでも、ノスタルジー的な部分以外の本意はわからないが、小さい頃からよく聞いていてふとしたはずみで鼻歌でも歌っているような曲を、普遍的なメッセージの意味あいもこめながら、思い切り(あたかもカラオケのように)唄いたかった、ということかもしれない。

このセッションのために集められたアコースティック&カントリー・バンドのなかで、ブルースは、ほんとうに楽しそうに、ピート・シーガーの素朴で実直な曲を歌っているが、公民権運動のテーマのようにもなっていた"We Shall Overcome"のような曲ではしっかり締めている。バンジョーのような楽器が多様されているため、当然のことながら能天気なカントリー&ウェスタンに聞こえるが、そこはやはりシーガーで、周縁のタフな人たちを見つめるまなざしはやさしく思慮深く、だからときに重い。こういった楽曲をきんきんにならず創れること、そしてそれを優等生ぶらずに歌えるところはアメリカらしいといえばアメリカらしい。

しかし、一方では、シーガー・セッションズ・バンドによる、ヨーロッパ&USツアーも挙行していて、このあたりは、世界に対してマルチチュード的ななにかを主張していうということかもしれないし、アルバム未収録の曲の"How Can a Poor Man Stand Such Times and Live?"という曲のいくつかのヴァースを、「ニューオーリンズの人々が直面している大きな試練のことを考えながら」、ブルースが新たに書き起こしたところなどをみると、そんなに楽しんでばかりはいられないよ、という立ち位置はより明解ではある。

ツアーでは『We Shall Overcome』からの楽曲からだけか、と思ったら、そうではなく
- Johnny 99
- Cadillac Ranch
- If I Should Fall Behind
- Open All Night
- My City of Ruins
- Ramrod
- You Can Look (But You Better Not Touch)
といったブルース自身の曲も演奏されており、これらの曲がシーガー・セッションズ・バンドで、どのようにアレンジされるのかはかなり興味深い。じつのところ、このバンドアレンジに、ブルースの曲はなじみやすく、たとえば"We Shall Overcome"や"Eyes On The Prize"は、『The Rising』に入っていたとしても違和感はないだろうし、逆に『The Rising』の"Waitin' on a Sunny Day"などは、シーガー・セッションズ・バンドのアレンジで聞きたくなる。

もちろんぼくは、ピート・シーガーなんて知る由もなく、最初は、大丈夫なのかねえ?と期待をもたずに聞き始めわけだが、これはこれで紛れもなくブルース・スプリングスティーンだし、とりわけさっきから何度も出てきている、"We Shall Overcome"の曲とメッセージにより、タフな毎日がいく分か救われている。

小説の愉しみ。

2006-05-27 23:11:26 | ◎読
小説より面白いものは、この世に存在しない、とまではなかなかいいづらいところもあるが、かなり面白いものであることは間違いない。そのことは、小森陽一先生の『村上春樹論』を読むとよくわかる。

『村上春樹論』(*1)は、「海辺のカフカを精読する」というタイトルどおり、『海辺のカフカ』というテキストに絞り込んだ批評であるが、ここで小森は、神話への冒涜、自我・死者との対話の回避、歴史の消去、なかでも女性嫌悪(ミソジニー)といった視点から『海辺のカフカ』を、かなり厳しく断罪しており、憎悪すら感じさせるその程度は批評というよりむしろ非難といったほうがいいかもしれない。作者とテキストを切り離していない言説が多分にみられ、場合によっては村上春樹をはじめとした団塊世代のさまざまな局面での無責任さをあげつらっているとも読めなくはない。もっとも、このテキストを、単純に癒しと救いの物語と読んでしまうところに問題はないともいえないが、ようは、このように、見方を少し変えるだけで、読み手の立ち位置に合わせていく通りもの読み方ができ、それが許されるところに小説の面白さのひとつめがある。

小森は、村上春樹があたかも善の象徴であるかのように造形したカフカ少年の判断や行動とナカタさんのイノセンスに隠匿された暴力性やそれゆえに罪を許されるかのようなキャラクターを手厳しく否定し、同時にそのキャラクターを「しようがないよね」と肯定しているかのような、ティピカルな団塊世代としての態度を村上春樹に見出し、そこに対してなにかいいたそうでもある。

もちろん、そういう読み方もまったくもって許されるわけだが、いっぽうで、村上春樹が、カフカ少年とナカタさんというキャラクターを否定も肯定もしていないところにも注意しなければならない。いや、結局は、どちらかの立場に立つのだろうが、ストーリーを読む限りでは、なんともいえない。ナカタさんとジョニー・ウォーカーが対峙する場面について、小森は、ネコではなく人を殺めることすら許されてしまうようなナカタさんの造形について課題化しているが、村上春樹は、「そうやって知らず知らずのうちに最も重い罪を犯してしまうこと、犯してきてしまった人物」がここにいて、そういう最も憎むべき人物としての「自分」をさらすことで、これまで犯してきた何がしかの罪を贖っているのではないか。しかも、すべての女性に対して。という見方もできなくはないが、どうだろう。つまり、カフカ少年とナカタさんを、誰かを損ね続けてきた人生における自分の脆さ、あざとい免罪、自分の罪深さの象徴とし、そういったわからないように遂行される悪こそが最大の悪であり、その悪は自分の中にある、という読み方で、小森の読み方をさらに一回転捻ってみるということになる。

こういった意見は、再精読しているわけではないため、きわめていい加減なものだけれど、小説というテキスト(エクリチュール)を前にしたとき、こういういい加減な意見も小森の精緻な意見も、仲正昌樹の言うところの「作家の主体的なコントロールからはずれた“付随的な効果”を評価するという視点に相違なく」(*2)、しかし、そこで「作家の真の意図」への確度を高めていくといった大それたことを考えなければ、小説というものはほんとうに楽しくなる。

そういった意味で、読み方を限定してしまうようなプロモートの仕方、つまりあたかも正解があるかのような印象批評的態度に対し問題があるというところは、小森先生に全面的に賛同するし、その物量作戦と同等の力をもってしか、甘い誘いに対抗できないだろうと小森が考えたのであれば、本書の度を越えた厳しさもわからないでもない(ただし、すべてをポリティカルな問題に結びつけようとする誘いは偏重しているととられてもしようがないし、もはや食傷気味ではある)。

もうひとつの小説の魅力、正確に言うと「長編小説」の魅力について、今回、小森におおいに教えられた。長編小説というのは、ここでも仲正昌樹の定義を借りると「単なる“散文で書かれた長めの虚構の物語”ではない。「長めに書くことができる」というメリットを利用して、一つの作品の中に、登場人物たちの創作とか対話、書簡などの形で、韻文、戯曲、短編小説(Novelle)、伝説、警句、文芸批評、学術論文……など他ジャンルのものを挿入することができる(略)」総合的な芸術であり、『海辺のカフカ』において、その長編小説としての魅力がいかされているのが、多彩なカフカ少年の読書遍歴にあわせた、文芸批評の部分である。

夏目漱石の『坑夫』『虞美人草』『三四郎』、カフカの『流刑地にて』、バートン版『千夜一夜物語』…。小森は、これらの小説群も『海辺のカフカ』に先行したであろうテキストとして精読している。ぼくが『カフカ』を初読したときは『坑夫』以外はさほど、深く気に留めることはなかったのだが(全体をおおうストーリーがあまりにもエキサイティングで読み飛ばしてしまったのだろう。こういった、テキストの巧さも村上春樹に罪なのかもしれない)、小森が指示する、間テキスト性は非常に興味深い(反も含めて間テキスト性)。もちろん、そういった関連性を探るのも面白いことには違いないのだが、そこから「小説読書の拡がり」が派生してくるほうがもっとも面白い。

たとえば、ぼくは、小森が『流刑地にて』について詳解していることに啓発され、もうずいぶん前に読んで、いまではディティールのほとんどを忘れしまっている岩波文庫の『カフカ短編集』(*3)をひっぱりだしてきたわけだが、そこで『流刑地にて』はもとより、『万里の長城』、『判決』、『掟の門』……と読みの連鎖がとまらなくなってしまった。今回は、『海辺のカフカ』を読み終えてしまったあとの飛び火なので、実害はなかったが、もし読みの途上でカフカに飲み込まれたら『カフカ』をいつまでたっても読み終えられない、といったことになってたかもしれない。それはそれで、これも小説の愉しみのひとつではあるが。

しかし、これだけ面白いテキストが世の中に存在することを考えると、そのテキストを生産するというのは、かなり大胆な挑戦ということになるな。


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(*1)『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。』ってな本も最近出ているようだ。でもこの話って、『ねじまき鳥の探し方―村上春樹の種あかし 』で、さんざんっぱら語られたことじゃないの?同一作家による再生産だったりして。
(*2)このあとの引用も含めて『「分かりやすさ」の罠 ―アイロニカルな批評宣言 』より。前日、第一章だけの感想をエントリーしたが、この本がほんとうに面白いのは二章の後半から三章。ためになった。
(*3)重要な三作品から再読し始めたわけだが、もちろんそれ以外もこのうえなく面白い。ほんとうに小説は面白い。

中原昌也。

2006-05-15 00:16:55 | ◎読
高橋源一郎をして「ところが、中には本当のことを言ってしまうやつがいる。書くことがないとか、文学は本当のことを言っていないとか。しかし、そう正直に書いてしまうことが重要なのではなく、彼らが世界そのものをそういう正直な目で見ていることが大切だと思うんです。つまり、彼らが書くものの中に、そういう世界の構造そのものが見えてきてしまう。彼らは本質的ことしか見えない、だから話が飛ぶんですね。」「文学というものが、自己破産することなしに、原理的な「自由」を実現することができるとしたら、ああいうものになるのかもしれないという気がします」(*1)といわしめた、中原昌也が、またぞろなんか面白い憤怒をやらかしてくれないかなあと期待しつつ、『子猫が読む乱暴者日記』を読み、『あらゆる場所に花束が…』や「新潮」連載時の「点滅……」(*2)などを再読したりしてみた。

で、『子猫が読む乱暴者日記』の「闘う意志なし、しかし、殺したい」なんてのを、これ再読する意味あるんかなあ、と思いつつ、なかば義務的に3度ばかり読んでみると、なんというか、3回とも面白かったことに気づく。人間だから、解釈しようといった気分になるのは避けられず、たとえば、ふふん、これは全編『集団幻覚ガス』のせいだなんて、短絡的な謎解きになびいてしまいそうになるが、絶対にそんなことなく、中原は書いた先から『集団幻覚ガス』のことなんて忘れているんだろう。「お、『集団幻覚ガス!?』いけるねえ」と、「この『集団幻覚ガス』は、もはや単なる『幻覚ガス』とは違います」って書いてみたはいいが、きっと、すぐに『集団幻覚ガス』のことをくわしく書くのが面倒くさくなって、それでも、まあ1枚か2枚はがんばってみたものの力尽きた感じで、その後は、でたらめに場と主体を転換させていく。そこでは『ダ・ヴィンチ・コード』以上のアポリアが展開されているわけだが、もし「わたし小説というものを初めて読むのです」という人が、この文字の羅列に触れた場合、それはそれで、納得しそうな気もする。言葉にならないものを、印刷物として定着させようとしんどいことをしてみるのが小説なのか、と。

さて、忘れていた(というか書くのが面倒になった)『集団幻覚ガス』だが、じつはそれは中原が『集団幻覚ガス』になってしまったからだ、という考え方はどうだろう。つまり、この物語の神の目は『集団幻覚ガス』ということだ。もちろん、そんな主体は前代未聞だし、コンパスや三角定規に考えさせ、行動させるといったようなことは1回だけで勘弁願いたいわけだが、それでも「おれはガスだよ」「ガスが見てるよ、へへ。」という立場で読んでみると、かなりの場面で納得いくところがある。結末の「無意味な争いも、憎しみで精力を消耗するのもバカバカしい。もともと人間はそんなことに参加しなくとも、常に身体も心にもある種の痛みを感じている。苦痛を乗り越えて、新しい意識を作り出せ」といった口上も、なんか『集団幻覚ガス』に言われると説得力ある、わけないか。やっぱり、解釈なんてやめろバカってことだな。それを「小説」に言われるといちおう異議を申し立ててみたくなるけれど「詩」に言われると、グウの音もでない。

こういったものが「世界の構造」「原理的な自由」かと問われれば、そうであるような気もするが、盲目的に「まさにそのとおり」と断定するには、まだ考えが足りない。そんなこともあって、またぞろ薄いのにCDなんかついていて、文庫版の『子猫が読む乱暴者日記』のように、小説的なあとがきがいたって充実している『KKKベストセラー』の本文を読んでみたいのだが(*3)、5月はなにを狂ったのかやる気たっぷりの筑摩の猛攻(*4)のおかげで財布に札がなくなったため買えないでいる。CDいらんから、1000円割ってくれ。

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(*1)「文藝」2006年夏号、柴田元幸の高橋源一郎インタビュー「小説より面白いものは、この世に存在しない」。
(*2)『名もなき孤児たちの墓』所収。
(*3)あとがきだけ読んでみた。これに端を発した憤怒の手記。楽しい。いちど島雅彦課長と阿部主任と中原社員がそろって立ち飲み屋にいるところとかみたいもんだ。
(*4)言うまでもなく、ちくま新書、ちくま文庫、ちくま学芸文庫の5月新刊の浪費促進戦略のこと。(●:買った本 ○:きっといつか買う本)
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●『「分かりやすさ」の罠 ―アイロニカルな批評宣言』(仲正昌樹)
●『生と権力の哲学』(檜垣立哉)
○『高校生のための古文キーワード100』(鈴木日出男)
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○『増補 現代思想のキイ・ワード』(今村仁司)
○『流浪 金子光晴エッセイ・コレクション』
●『戦闘美少女の精神分析』(斎藤 環)
○『世界がわかる宗教社会学入門』(橋爪大三郎)
○『S&Gグレイテスト・ヒッツ+1』(橋本治)
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○『自己・あいだ・時間 ―現象学的精神病理学』(木村 敏)
●『フーコー・コレクション 1 狂気・理性』
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二項対立。

2006-05-11 16:02:48 | ◎読
ちょうど、「二項対立」という考え方について、自分なりの思考ストーリーを固めておいたほうが良さそうだなあ、と気になっていたところに、 仲正昌樹の『「分かりやすさ」の罠 ―アイロニカルな批評宣言 』が発刊された。

「ちょうど、気になっていた」というのは、保坂和志の考え方に触れたことによる。ぼく自身の基本にある考え方は、「二項対立で片付けるな」というところなのだけれど、ほんとうにそれでいいのか、といわれると自信をもって答えることができない。「世の中のできごとはそんなにわかりやすく答えがでるものではない」という考え方と、それとは逆の「知識と論理が浅く、ほんとうはでるはずの答えがだせない」が相克してるというわけだ。

その考えの足しになったのが『途方に暮れて、人生論』のなかの「善と悪の差は本当にあるのか?」というエッセイである。『途方に暮れて、人生論』は、保坂和志にしては珍しく現在批評風になっていて(もちろん、これまでどおり周縁への許容が前提)しかも、まるで内田樹かと見紛わんばかりにわかりやすい箴言的なるものを連発している。たとえば「カネのサイクルの外へ!!」なんてはのその最たるもので、カネのある人が、カネで買えないものはない、という言説を批判する際にとるべき行動について、成長経済サイクルからの離脱するカネの使い方を提起するなど、まさに、現在らしい。同じような思考法で、「善と悪の差は本当にあるのか?」も進むわけだが、保坂が幼い頃から、疑念を持ちごく最近まで解消することのなかった「善人と悪人の違い」--つまり双方に特定の信念がある以上は、どちらも差がないのではないかという迷いに、ようやく終止符が打てたという話である。

手元に本がないので正確には引用できないが、そこで保坂が提示した考えというのは「善はすべての人の幸せを考えるのに対し、悪は自分の幸せしか考えない」というきわめて拍子抜けするようなものである。しかし、いろいろなものにあてはめて考えると、かなり妥当性は高いことがわかる。あまりにシンプルすぎるため、疑いの目は必要だが、「世の中の事象は安易には二分化できないというその気持ちはわかるけれど、じゃあどのような立ち位置にいればいいの?」いった素朴な問いかけによる思考停止状態への、少しの風穴にはなる。この保坂の考えにより、場合によっては(考えつくせば)善悪の超越的基準というものがあるかもしれない、と靡いた。

そんなこともあって、善悪に限ってではあるけれど、二項対立が「ちょうど、気になっていた」ところの仲正である。とはいえ、いまは第一章の「二項対立」を読んでいるだけなので、もちろん、「二項対立は分かりやすさの罠のひとつである」という話にはなっているのだが、それが、全体テーマのなかので、全体なのか一部なのかはよくわからない。『なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論』以来、いつもにも増して怒りすぎている仲正の本を読む機会がなかったのだが、『「分かりやすさ」の罠』は、わりあいに淡々と論をすすめており、気持ちのいい斬り方も認められるので(じつは、この本は「わかりやすい」んだけれど、そんなこと言うと、きっとまた怒られるね)、「二項対立」という腑分け方への情報をもう少しため込んでいく。

柴崎友香。

2006-05-07 16:47:02 | ◎読
柴崎友香は、言葉をひとつひとつかなり丁寧に書きつけている。ようやくわかったのだけれど、これが彼女のよいところだ。もちろん、よりほんとうらしい描写、空間展開というのは柴崎の持ち味なんだけれど、その大きな前提として、丁寧な書きつけがある、ということだ。

これにより、ふだんのフルタイム・ワーク・ライフのささやなか一側面がきわめてゆったりと味わい深く描写され、ともすれば、自分自身ですら「まったく同じくだらないことの繰り返しです」といってしまいそうな毎日の些事が脚光を浴びる。同じような毎日であったとしても、しっかり耳と目を研ぎ澄まして外と他者からの音とかすかな動きの変化を捉え、そのことを楽しむ回路さえ持つことができれば、日々の暮らしはここまで豊かになる。

『フルタイムライフ』は、芸大出身でありながらも、意に反して、というかたぶんさほど大きなこだわりもなく、梱包機器メーカーの総務事務という職を選んだ主人公の新入社員としての10ヶ月(※)の1年間を描いた小説だが、そんなことだから、会社というもの、上司、同僚というものの固有性がその1年間のなかで徐々に認識されていき、その「認識されていく加減」とか、それだけでなく会社というものにつきものの、登場しすぐに退場していくためすぐに忘れてしまうような人と出来事の「消失の加減」などさえも、1年という時間軸のなかに、的確に配置されている。はじめは名まえと顔も一致しなかった別の部署の上役のことが、だんだんわかってきたり、初めての来客応対に気合いがはいるものの、終わってしまえばもうそのことをしばらく思いだすこともない、といったようなことだ。
「あの人のことがだんだんわかってきた加減」といったことは、振り返って思い出して書き込もうとすると、じつはかなり難しく、虚構のなかでは「ようやくわかってきた」みたいな直接的な力技を使ってしまうこともありがちだ。そういった小技、つまりメタ的な記述をいっさい使わず、時間の経過と蓄積を、主体が話しえる書きえる言葉だけをていねいに積みあげていくことで体感させてしまうところは凡百の才能ではないと思える。

このこと同様に、物語内で起こっているすべてのことは、「解説語」を使ってしまえばすべからく解説可能なのだが、柴崎は解説しない。これは『フルタイムライフ』において勤務時間外ライフのなかでおこる恋愛的出来事の描写にも現れていて、「あっ」と思ったあとなんとなくじわりと結晶化していく感情や、「えっ」という間に終わってしまう二人の関係の本質的なあっけなさみたいなものを、しょうもない心理描写を最小限に押さえ、空間軸と時間軸でうまく表現している。

こういった日常・恋愛小説はともすれば、うまい日記として終わってしまうことが多いのだけれど、そうはならないのは、つまり、ごく普通の日常を描くことが小説たりえているのは、きっと余計な言葉がそぎ落とされているからだろう。よくよく読んでみるとムダな言葉がほとんどない。これは、計算されたものなのか本能的なものなのかはよくわからない。しかし、たんなる描写だけであれば、話はここまで「面白く」読み進めることはできない。事物・事柄の描写を正しく行おうとしたとき、自覚的でないかぎり冗長に余計な言葉を費やしてしまい、表現上のつやみたいなものをくすませてしまうことや、それだけでなく、読み難くなってしまうなんていうのはよくあることだ。最小限の言葉と最小限の語彙で状況を立ち上げさせる柴崎のフィルター、丁寧なろ過機能のあるフィルターはたいしたものだと言わざるをえない。

と、ここまで感じるままに柴崎の小説の魅力みたいなものを書いてみたが、どうもうまく表現できていない。なんというかこんなふうに漢字をたくさん使って分析的に読む小説じゃないのだ。小説の技術というか舞台裏には実際に高いレベルの技が(もしくはモノ書きとしての本能的資質)がたくさんつまっいるのだが、そのことを表面ではいっさい感じさせない。
それどころか、ふつうの女の子の軽いつぶやきのように見せてしまう。このことの凄さをなんとかうまく表わしてみたいのだが、その力は今日の私にはない。いまのところの力の限界点が「丁寧な小説」という仮説なのだろう。

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(※)5月~2月。4月~3月でないのは連載の関係ということかもしれないが、少なくとも5月から始めようと考えた切り出し方をしているところはやはり計算づくということだろうか。