そのころ、世に数まへられぬ古教授ありけり。

この翁 行方定めず ふらふらと 右へ左へ 往きつ戻りつ

2月22日(日)

2009年02月22日 | 昔日記
 「業務」で出勤。電車の吊り広告、横浜元町商店街のポスターは一見サンデー先生みたいだけど、「ひとみ座」なんてまだあるのかねえ? 「ひょっこりひょうたん島」だな。しかし、「ジェスチャー」だの「チロリン村…」のほうがずっとなつかしいな。

 仕事はさっさと終わったので、さっさと帰宅する。パートナーはお尻が痛いとか言って寝ている。娘は明日が就職面接でパニック状態。まあ、就職なんて、食っていければよいのだから、深刻に考えることはないと思うのだが…。お父さんが大学生の頃は、就職票には皆、「但し文学部を除く」と書いてあったものだ。「身をえうなき者に思ひなして」(『伊勢物語』)いたから平気だったけど。

 それでも、受験した教員採用試験は、島根県と東京都と両方ともうかった。東京都の試験は簡単で、源氏物語が出たが、本文を読まなくても答えられる、人をバカにしたような問題だった。試験場の席が一番後ろで、試験が終わると、「はい、一番後ろの人、答案回収して」と命じられ、集めて行ったところ、前の奴らは全然出来ていなかったので、わ~い合格だ!と確信したもんね。昔の試験は実にいい加減だったんだな。

 島根県は50倍くらい。たしか採用枠は2名。面接の時、信用失墜行為を言ってみろと質問され、めでたく採用されたら覚えますです、はいと答えたっけな。結局大学院に進学することにしたので、教育委員会まで断りに出向いたが、応対に出てきたのが、高校の時に生物を習ったM先生だったのにはまいった。面接なんぞは、何を言われてもたじろがないことと、腹を立てて喧嘩しないことだと、娘にはアドバイスしておく(大丈夫かな?)。

 博士課程の試験に落ちた時も、よし女子高の教員になってやろうと、山手線の内側にある某女子学園(現在は共学校になっている)の面接に行ったけれども、ここは「理科の××先生、昨年度の生徒会長○○さんと結婚!」という見出しの学校新聞を見せられて、退散した。

 なんだかんだで、27歳で結婚して、東京で自立して来られたんだから、「治まる御代」(山本夏彦か!)である。お父さんはどうせ早死にするだろうから、娘よ、早く自活できるようになってくれよ。頼みます。