そのころ、世に数まへられぬ古教授ありけり。

この翁 行方定めず ふらふらと 右へ左へ 往きつ戻りつ

5月31日(日)

2009年05月31日 | 昔日記
 中世文学会第二日。研究発表を聴きに行く。今回、発表は6本だが、皆レベルが非常に高かった。さて、機関誌に論文が載るのはどれか、激烈な競争になりそうである。私が研究指導を担当している院生も発表をさせていただいたが、落ち着いて、うまくできたと思う。質疑でオタオタしなかったのが、何よりよかった。丁寧に、ほんとうに時間をかけて調べ、整理した内容であるということは、聴衆によく伝わったことだろう。まあ、ざあさんは高座の芸人みたいな愉快な発表をなすったし、トリのSさんは貫録十分、美空ひばり!という感じだったが、こういうのは、至りて後のわざである。院生は院生らしく、という意味では、120点だったと、指導教授ながら思いました。

 昼休みにはA師匠のご指導で、水曜夜の練習をする。資料展観を見そびれたので、帰りがけ、総会をパスして参観した。T先生ご所蔵の六家集は、とてもよい本だった。よりによって『拾遺愚草員外』の堀河題百首の序のところが開いてあったが、三類本のようだな。でも、上に中が合写されているというのは珍しい現象。調べさせてもらえないかなあ。

 K先生に捕まり、叱られる。ずいぶん昔に依頼されていた校注本が、一体いつ仕上がるのかただされた。汗、汗。一人ではにっちもさっちもいかないので、共著者をお願いしたいと申し出た。ちょうど会場にN氏がおいでだったので頼み込む。前向きに検討していただけることになった。

 Y書店のSさんに、下谷の「北山コーヒ」の珈琲の粉をいただいた。帰宅後、パートナーに渡したら、大喜びでありました。

5月30日(土)

2009年05月30日 | 昔日記
 中世文学会の大会である。委員会があるので、11:00に会場校へ行く。司会を誰にするだの、総会の段取りだの、あるいは秋の大会の計画などなど。それでも1時間半ほどで終わり、お弁当をいただく。

 今日は第一日のシンポジウムで、パネリストは阪大の天野文雄氏と学習院女子大の徳田和夫氏だった。芸能をめぐるテーマが設定されたが、この間、伊勢物語注と能楽の関係を扱った博士論文を審査させられたばかりだったので、天野氏の報告は勉強になったし、徳田氏の風流(ふりゅう)の論も興味深かった。

 徳田氏の掲げられた風流記録のうち、『拾芥記』の「歌心尼一手持文一手持登橋。大江山いくのゝ道の遠けれはまた文も見ぬあまのはしたて」をめぐっては、小式部内侍が尼になった伝承があるのか?などという質問が出たが、「まだ文も見ず天(尼)の橋立(登橋=はしご?)」の言葉遊びなのだろう。要するに、尼のハリボテが、一方の手に開いていない手紙(文)を持ち、他方の手にはしごを持っているという風流が作られたという記録だろう。だから、小式部内侍自身とは関係なく、あくまでも歌意を言葉遊びで可視化したものに違いない。

 懇親会は案外参加者が少なかったが、なかなか豪華で、つい食べ過ぎてしまった。

5月29日(金)

2009年05月29日 | 昔日記
 朝、メールを開いたら、教育学部の非常勤N氏より、18:15からの授業にゲストで話してもらえないかとの依頼。当日の急な話だが、ほかならぬN氏の頼みなので引き受ける。でも、19:00から会合がある。15分ほどということで…。

 印刷室でカラープリントができるようになった。花札演習は三月桜と、四月札の藤のところまで発表してもらったが、発表資料をカラーで印刷して行ったら、教室がどよめいたぞ。赤短「みよしの」については、西行法師にこだわって発表をしてくれたので、しめしめ当方の思うツボである。中途半端になるから…と早めに授業を切り上げる。どうも17:50までという感覚が身に染みついているが、今年から5限は18:00までになったんだよね。まあいいや。やけに余裕をもって教育学部の講師控室へ行く。

 N氏と簡単に打ち合わせをして、教室へ。教育実習が始まったらしく、出席者は少なかったが、なかなかノリがよい。また、教室の設えがワークショップなどを行うのに非常に適している。我がキャンパスも建て直しの計画が進んでいるが、こういう教室を少し作ったらどうかな。14-604という教室です。教務ご当局でご検討くださらぬものか。

 15分ほどでさっとミニ講義をして、バスで最寄りJR駅へ。さかえ通りの某焼鳥店にて、19:00から鹿ヶ谷の予定なのだ。10人ほどが集まり、我らが学問領域の、本学における将来について情報交換と意見交換。E学部の腹はだいたい分かった。店を出がけに、職員のSさんに挨拶されて吃驚。北京事務所から帰って来たとのこと。今度の異動で国際学部に移ったそうだ。北京ではお世話になりました。

 二次会に行く。E学部のM教授は、さかえ通りに詳しいなあ。いつもこの辺で飲んでいるらしい。そして、最後に駅のホームに残ったのは、中世文学専攻者ばかりだった。5人もいる。これでは狙われるよなあ。明日からは中世文学会の大会。ポスターには30日(土)、31日(土)と書いてある。委員会でからかってやろう。

5月28日(木)

2009年05月28日 | 昔日記
 そろそろ教育実習に行く学生がいる。卒論の演習はやや世間話的になった。博士課程の研究指導はEさんの次の論文のアウトラインを聞く。名前だけ分かった先行論文に気になるものがある。早急に確認されたし。修士の演習はTさんが丁寧な報告をしてくれた。考える材料をたくさん掲げてあるし、自分なりの推測を述べてくれたのはとってもよかった。予定の半分で時間となり、続きは来週となる。演習を急いて進める必要はない。

 18:30から会議が一つ入る。1時間ほどで終わって、学生の研究会に顔を出す。やはり歌合は面白い。A大学のW君が研究室を訪ねてくれたので、8人ほどで「かわうち」に行く。ビールをバカスカ飲んだので、高くついた。

 今日は職場区の組合未加入教員や、助教・助手の人たちに、加入勧誘の文書を配布した。とくに助教・助手の組合費は、月に僅か二百数十円ほどであり、退任時には1万円の餞別金が贈られるから、実質上組合に入ると儲かる計算となる。まあ、組合費はタダにしますから入ってくださいまし、ということだ。組合は組織率が命である。

 学長選挙制度に関する執行委員会の案に対して、某職場区から強い反発が出ているらしい。組合のメーリングリストが飛び交っている。理論的には執行委案が正しいはずなのだが、旧来の経緯・慣例も無視するなということのようだ。人文学系の私には、何のことやら…。高い山から谷底見れば、異論反論花盛り~♪ 揉めれば揉めるほど世の中よくなる(藤平春男) まあ、理論はよいのだけれど、大学の選挙を一般の政治的な選挙と同じように考えるのは、いささか無理があるのかも。そもそも長がつくものに立候補する教員なんていやしない(分かりませんが)。心の中ではなりたいと思う人も、立候補なんぞをしたら反発されるだけだ。周囲に担がれて仕方なく、というのが大学というところの体質、大学教員の体面というものだろう。そのあたり、執行委案には弱点があるのかもしれない。

5月27日(水)

2009年05月27日 | 昔日記
 会議日である。12:10から組合の職場会で、出席者は情けないほど少なかった。お弁当が出るのだが、余った分はいただいて、コースの研究室に届けた。「たかはし」の、こういう弁当もあるとは知らなんだ。あとでK助手に、美味かったと言われた。

 職場会では食べられなかったので、13:00、弁当を持ってカリキュラム委員会に出る。予定通り15:00に終了。14:00から開かれていたキャンパス図書館の委員会の最後のほうに駆けつけて一応出席、15:30に終わった。会議の梯子。

 パートナーに電話したが、一向に繋がらない。一緒に帰ろうと約束したのに。先に帰って夕食を作る。ご飯を1合だけ炊き、玉子焼き、水菜と新生姜とコーンのサラダ、甘海老の唐揚げを作る。山芋を千六本に切ってさっとゆがき、梅酢で軽く味を付けて白胡麻を振ってみたら、これが実に美味かった。パートナーが帰って来たので、食事にする。急に会議が入ったのだそうだ。Y教授が長くしたとプンプン怒っている。Yさんは、高校教師をしていた時に同僚だった方だが、目に浮かぶようだな。お酒はサンクスで買ってきた980円の白ワインを開けた。娘は友達と食事をしてくるとか。う~ん、ちょっと食べ過ぎだ。

 Aさんとの共同執筆論文「後鳥羽院の漢詩」をやっと書き上げて、添付ファイルで送った。少し直してもらって、今月末までにT氏のところに送れば、7月には雑誌に載る。K先生の退職記念論文集の校正も来ているが、予定が書いた順序とぐぢゃぐぢゃになったせいで、頭の中が混乱してきた。もうこうなったら一冊にまとめて書き直すしかない。どこかで新書でも出させてくれないかな。

5月26日(火)

2009年05月26日 | 昔日記
 7限の授業は21:25に終わるのだが、研究室に引き上げて荷物を置き、出席カードをweb上の出席管理システムに入力、授業記録を作ってから帰宅の途につくので、どうしても22:00近くになってしまう。まあ、そのうち慣れることだろうが…。昔、夜学の教務主任をやっていた時は、もっと遅くまで仕事をしていたものだ。ただ、私は極端な朝型人間であり、宵の時間帯はほんとうに辛いのである。

 さて、今日は教員組合の執行委員会に出る。春闘の最中だが、各職場会が明日からなので、あまり議題はない。早めに終わったので、お前渡りはなし難く「太郎月」に寄り、「越乃景虎」と「神亀」を飲む。肴はスミイカの刺身で、体の中が浄化されるような気分である。10人ほどのお客がどどどどっと入って来たので、退散した。女将のゆみこさんからクッキーを1ついただいたので、明日K先生に差し上げることにしよう。クッキーのコーナーがだんだん大きくなってきた。箱詰めの注文もあるらしい。

5月25日(月)

2009年05月25日 | 昔日記
 韓国のノムヒョン前大統領は崖から落ちて亡くなったそうだが、「チャングムの誓い」のチェ・ソングムの末路を連想したのは、私だけではあるまい。いろいろなことが起こりますな。もし深田恭子が大統領になったら、フカキョン大統領か…などと下らぬことも考てみる。昨日は選挙に行った。娘がぐずぐず言うのをせきたてて、初めての投票をさせる。夕方は大相撲の優勝決定戦を観たが、見応えがありましたな。外国人力士云々というが、髷結ってごっちゃんですと言ってる限りは、治まる御代である。さて、選挙結果は、おおかたの予想通りだった。でも、当選者は3月まで自民党だったはず。それが5月には民主党で当選かいな。節操が無いというか、そもそも政策の違いがあるのかよく分りませんわ。次は鳩山総理なんだろうが、世襲政治家の最たる人物である。政治的言説の空疎さにはうんざりするが、嘆いてみても始まらない。

 朝いちの演習は、学生の発表を開始する。昨年度よりはレベルが高いかな。3人目の質疑は次回送りとなった。昼はパートナーと「志ま平」へ行く。大将は仕事部屋の隣の蕎麦屋で修業をされた方なので、住まい近辺の飲食店情報が話題になる。老舗も昨今は内情が厳しいようだな。パートナーは二色、私は鴨汁をたぐり、甘いものまで頂戴した。「志ま平」の大将は、2007年にニューヨークタイムスのマガジン版に取り上げられているのだが、その記事を読ませてもらった。その後「Cafe Goto」でコーヒーを飲む。千田昌男の絵をよく見せていただきました。パートナーと別れて、研究室で原稿書きにいそしむ。

5月23日(土)

2009年05月23日 | 昔日記
 確か出席の返事をした会議が一つあったなあと、郵便物の山をごそごそ確認したら、国語教育関係の委員会が5月16日とある。しまった、完全に失念していた。まことに申し訳なし。

 学会の大会が世田谷の大学で開かれる日なのだが、世話役を務めている古記録の研究会を優先する。11:00から編集会議、13:00から研究発表を3本聴いて、今後の方針を相談した。研究発表は、いずれもまことに興味深い内容であった。

 終了後、「かわうち」で懇親会。二次会は「すずはん」に行く。Y書店から刊行された本の完成祝いを兼ねる。

5月22日(金)

2009年05月22日 | 昔日記
 花札演習はようやく学生の発表をスタートして、今日はまず正月と二月。梅の質疑は次回まわしとなる。

 よくよく分析すると疑問点がいっぱい出てくるものだ。正月の、松と丹頂鶴と旭日の取り合わせ、松と鶴は千歳の齢で長寿の瑞祥に間違いはないが、この松は松樹ではなくて小松であろう。すると小松原に鶴が配されていることになるから、この図は子の日の松ということになる。だから正月なのか。梅も紅梅に配するのは変で、古歌は白梅を詠んだものである。このあたりは来週議論することにした。

 さて19:45から花札演習のコンパを「AMA」で開催。90分ワイワイやって、さっと切り上げる。

5月21日(木)

2009年05月22日 | 昔日記
 4年の卒論演習も、大学院の授業も、学生研究会も、今日の授業は全部国文研のシンポジウム聴講に振り替えたので、お昼過ぎに立川へ向かう。受付は14:30開始。もちろん、「13:00の蕎麦屋」が、まずもってはお目当てだ。

 「無庵」の大テーブルの一番手前の席に通され、まずビールと蕎麦味噌。日本酒に替えて天せいろの天麩羅を先に出してもらい、蕎麦をたぐって、蕎麦団子まで食ってしまった。いつもの円空仏写が武者人形に変わっていたのは、季節の設えだな。壁にモダンアート風の額が掛かっていたので、尋ねたら、レコードのジャケットとのこと。なるほど、この手があったか! 「無庵」の店内は間然としたところが全くない。それでいて開放的であり、ご主人は茶心も相当にお持ちのようにお見受けする。扇子を使っていたら、暑いですか?とご主人に声を掛けられた。

 国文研のシンポジウムは実に面白かった。久保木秀夫、浅田徹、小林一彦、神作研一と、当代を代表する面々(二世政治家が問題となっているが、我が業界では優秀な二世がご活躍中である)。専門の学生が聴くのには、まことに好適な内容であった。授業を振り替えたので、10名ほどの学生が参加していた。小林さんに質問したけど、意図がうまく伝わらなかったみたい。

 帰りには10名で「曙町場内酒場」へ行く。まあ、ここは何人でも入れそうだし、飲んで食って3,000円ほどだから、安心である。学部生から博士課程OGまで、KOボーイも紛れ込んでワイワイ楽しくやった。ハイボールを久しぶりに飲んだが、美味かったね。Iさんが電気ブランを飲んだことがないというので注文する。今度「神谷バー」に行こうかね。浅草ならNさんのシマだ。飲む話ばっかりだな。

5月20日(水)

2009年05月21日 | 昔日記
 仕事部屋の隣にある蕎麦屋の大女将に朝お会いしたので、「志ま平」の大将の話をしたら、先代の時にこのお店で修業をしていたのだそうだ。お蕎麦もさることながら、料理を作ることにも凝った人だったというので、なるほどねと思った次第。

 さて12:10から教室会議で、14:00の5分前までかかった。教授会は定刻10分遅れで始まる。終わったのがきっちり18:00.今日はあまりモメなかっが、もう少しなんとかならんものかなあ。まあ、昔に比べれば改善著しいわけだが…。

 急いで麻布十番の御稽古事へと向かう。到着したのが正に開始時刻。大学からきっちり30分だな。次回の特別講習のための練習を行ったが、初見ですっとはなかなか行きませんな。終了後、コンクールの審査を手伝う。

 いよいよ新型インフルエンザが関東でも発生したらしい。教授会でその対応についてこと細かに説明を受けた直後である。どうなるかな。関西の大学の教員からは、補講のため夏休みが完全に潰れそうだとのメールが来た。我が大学はインターネットのシステムを活用すればいいようだ。それにしても教育実習など、学生にも影響甚大であろう。大学が閉鎖になれば、矢のような催促を受けている原稿が一気に書き上げられるわい、などという不謹慎な考えも、抑圧しがたいものがある…

 『ペリリュー・沖縄戦記』をようやく読了する。電車の中で細切れに読むので、なかなか進まなかったのだ。米海兵隊員の戦記だが、ショッキングなシーンがいくつかある。非人道的行為は、戦争にはつきものだ。お互いさまということだろう。米軍には同士討ちが結構ある、というのは意外だった。

5月19日(火)

2009年05月20日 | 昔日記
 久しぶりに「志ま平」へ手繰りに行った。13:00の蕎麦屋は、昼飯時の客が引いて、先客は鳶の親方らしいご老体お一人だけ。オープンキッチンなので、掘り炬燵式のカウンターに座り大将とお話しをする。大将、私の自宅近辺のことをよくご存じで、仕事部屋の隣の蕎麦屋の女将さんともお知り合いなのだそうだ。狭い世界である。ふふふ、身どもも客振舞いが、なかなか堂に入ってきたものだわい。容姿は到底粋とはいかないが、立ち居振舞いだけは、気持ちよくいきたいもの。

 生協のT店長が国分寺立川大学へ転勤されるというので、ささやかな餞別をお届けしたら、図書カードをくださった。生協PCの宣伝に手を貸したお礼だそうである。有り難く頂戴する。これを海老鯛と申しますな。

 大学院の講義を終えたNさんと少しお話をして、図書館で調べものを済ませてから、コース研究室でUちゃんとダべった。T先生の授業の発表準備を真面目にやっている。感心、感心。貴君はきっと、大学教授くらいにはなれるだろう。

 18:00から教組の執行委員会。「八幡鮨」のにぎりをいただく。議題は主に、春闘団交の理事会回答への対策で、長々とかかった。各期手当ての0.8ヵ月分引き下げを示してきたものだから、蜂の巣を突っついたような騒ぎとなっている。ざっと年50万円前後の賃下げだ。まあ、住宅手当等を上げて補填すると言っているが…

 大学は営利企業ではないのだから、各期手当というのは賞与ではない。それを一般企業のボーナスと同じように、現下の厳しい経済状況云々という理由で、下げる筋合いはないはずである。景気のよい時も、各期手当は大幅にアップされるわけでもない。きっと評議員会あたりで突き上げがあるのだろう。紛糾すればストライキもあり得そうだ。それにしても、アホ学長は何を考えているのか。もう任期も終わりだから、やけくそになっているのだろうか。だいたい、もがもが何を言っているのか分からん御仁である。我が敬愛するT先生あたりが次の学長になって、しっかりやってもらいたいものだ、ホント。

 帰宅して夕刊を読んでいたら、文化欄に一蹴氏の著書の評が載っていた。ベタ褒めだ。りっぱなご研究である。悉皆調査というのは、文献学者の夢でありますな。

5月18日(月)

2009年05月18日 | 昔日記
 どうも会う人ごとに、お疲れのご様子でと気の毒がられるので、おかしいなあと思っていたら、教員に配布されたPC上で授業を管理するシステムの事例集に掲載されている私の写真が、へろへろなのがその原因であることが判明した。ライターのインタビューを受け、写真が必要なので…と研究室でてきと~に素人がパチリと写したものである。それが結構大きく載っているので、老人性のアラ?が丸見えだ。こういうところに金をかけないから、我が大学のイメージ戦略は全然ダメなのだ、きっと。

 朝いちの演習は、発表の見本をやってみせる。上杉鷹山である。山本五十六である。でも、発表資料に誤植が2箇所。面目を失ったね。先週コンパをしたクラスだが、別段特になごやかになったわけでもない。やっぱり朝いちはお互いに辛い。

 お昼、パートナーと近世文学の貴重書展を観に行く。話には聞いていたが、これはちょっと点数出し過ぎだな。焦点が絞れない。まあ、学会の大会開催に合わせての企画だから仕方がないが、一般向けでは決してない。昼食はそのまま、同じ建物の上にあるレストランへ行く。眺めがよい。パートナーの研究室も見えるのだ。

 7限の講義までずるずる過ごす。某院生の論文の添削をしていたら、思わず知らず時間がかかってしまった。なんでこんなに文章が下手なんだ!とK助手を相手に悪態をついたら、隣席のF助教が、私も全国学会機関誌に掲載されるまでは指導教授が添削してくださった云々とおっしゃる。へ~、そんなものですかね。私の指導教授は、一字一句も添削してくれなかったがな。さてさて、別の人の学振の推薦書を書こうとしたら、研究題目が知らされていない。書けないよ~。今度はS君の長大な原稿を開く。うう、見出しの付け方に難がある。あ~、どうしよう。Aさんとの共同執筆論文も、全然仕上がらない。

 夕食に行く。最近は「AMA」ばっかりだ。金曜のコンパの人数を申し上げておく。店のほぼ半分を借り切る格好になるだろう。そして7限の概論は、書誌学の話に入る。

 帰宅したら、月末の日本語学会は中止になったそうだ。武庫川女子大が会場だから、まさに新型インフルエンザ流行地帯のど真ん中だ。パートナーは早々に、ホテルや何やをキャンセルしたという。飛行機のみキャンセル料が発生したらしいが、社会的影響は甚大だろうな。A先生たちと有馬温泉に行くというのも、もちろんキャンセル。東京の学会はどうなるだろう。Hさんの発表が無事行われるといいけれど…。

5月17日(日)

2009年05月17日 | 昔日記
 神戸と大阪で新型インフルエンザの国内感染が広がっているという。パートナーは月末に、関西へ学会で行くことになっているが、どうなるかな。学会、中止になるかもね。

 金曜、NYのHS先生から電話が掛かって来た際に、インフルエンザで大変でしょうと申し上げたところ、世界中で騒いでいるのは日本だけで、その様子が報道されて皆で笑っているとのお返事だった。今度の新型は弱毒性で、あちらでは罹患したら免疫ができていいわいといったノリらしい。まあ、たしかに日本においては怪獣映画を観ているような展開ではある。空港に自衛隊も出動したし。伊福部昭の曲でも流せばもっと雰囲気が出そうだな。

 11:00から輪読研究会。空模様があやしい。たこ焼き屋の前の交差点で、岡山のN氏に会う。一緒に会場へ。はかばかしく、17:00前には終了した。

 神楽坂で買い物をする。「ラ・カーブ・イデアル」で赤ワインを買ったら、パートナーからワインを買ってきて欲しいと電話が掛かってきた。もう買いました。

 金~日の夕方、「ラ・カーブ・イデアル」では店頭立ち飲みを始めたそうだ。せっかくなので1杯いただく。隣でインターネットの巨人戦を観ながら飲んでいるオジサンと立ち話をした。法事帰りなのだそうだ。それから豆腐を買って帰宅。

 まだ明るいうちに家に着いた。仕事ができるぞと意気込んだが、食事が済んだら眠くなる。明日は朝9:00からの演習で、見本の発表をしなければならないが、資料が3分の2ほどしかできていない。3:00に起きてやりますかな。大昔、論文を書いたところだし…。う~ん、もうだめ。

5月15日(金)

2009年05月15日 | 昔日記
 今日はまあ、「茶目子の一日」のような一日だったな。あ~忙しい忙しい。

 夕方の授業のためのpptを慌てて仕上げる。そうこうしているうちに11:00過ぎになった。13:00から北浦和大学で博士論文の公開審査、12:00過ぎにはT教授の研究室に到着していなければならない。予定通りに着く。そうしたら、NYの苺白書大学のHS教授から携帯に電話がかかってきた。9月から面倒をみる博士候補生の指導に関するリクエストを細かくうかがう。ありゃりゃ、もう審査会の時間である。すみません、これから会議ですからと電話を切る。

 審査委員は5名で、私は唯一の外部委員である。質疑講評はなかなか厳しかった。いわゆる論博なので、課程より基準が厳しいのである。まあ、ウチの大学のウチのコースでは、貰える学位は同じだという感覚にだんだんなってきたが、現在は過渡期なのである。1時間余のやりとりがあって、委員が協議して結論を出した。やれやれ。大学で車を用意してくださったので、最寄りのJR駅へ。大学に着いたのが夕方の授業の30分前。

 PCを準備して演習に向かう。16:30からの授業で、18:00までだが、今日は本来この演習を担当するはずになっていた故K先生を偲ぶ会が行われる。受講生諸君には先週来そのことを断り、30分早く授業を打ち切って、偲ぶ会に行かせてもらうことで了承をとってあった。そこで、プレゼンテーションの第1回だから、私が見本を示すことにした次第。資料を配り、pptの電子紙芝居を見せながら、五月の花札の図像が踏まえている古典的背景について説明しているうちに、すぐ17:30となる。授業を切り上げ、会場のある市ヶ谷へ、T教授、J教授と同道する。

 入口でロバート・キャンベルさんに声を掛けられた。お久しぶりです、時々TVを拝見してますとご挨拶。明日から日本近世文学会の大会が開かれる。それに合わせて計画された偲ぶ会なので、会は半ば近世文学会の懇親会の様相を呈している。

 中野三敏先生の開会の言葉にはじまり、続いて島津忠夫先生がお話をなさった。島津先生にご挨拶を申し上げる。驚いたのは、神保五彌先生が会場にお見えになっていたことだ。神保先生には学部生時代に習った(付いた成績は悪かった)が、亡くなった師匠と同じく昭和18年学徒出陣組でいらっしゃるはず。お元気そうである。ご挨拶したら、相変わらず、ある御仁の悪口をおっしゃった。

 故K先生は、難波女子大学から戸山大学に移られた最初の年に、私は学部の4年生で、ご担当の俳諧の演習を受講し『猿蓑』を読まされた。以下に思い出話をいくつか。

 オレは女子大から来たので男は嫌いだ。男は後ろの席に行けとおっしゃって、一年間、発表は女子学生だけが当たった。最後に、人数の関係で男性が1人発表することになったのが、現在日語研教授をしているK君である。そういえばさっき、市ヶ谷へ移動する途中の地下鉄のホームで、K君と擦れ違ったな。これもご縁であろうか。…それで、K先生は女尊男卑がひどいので何とかしてくださいと、仲間達と神保先生のところへ苦情を申し上げに行ったら、すまん、長い目で見てやってくれと言われたので、引きさがった。

 学年でコンパを開いたら、K先生お一人だけ参加してくださった。私が、先生、黄表紙って面白いですね、とお追従を申し上げた途端、素人が何を言うか!と、振り返りざまに顔面を殴られた(我々の時代、教授はよく学生を殴ったものだ。もっとも、学生もよく教授を吊るし上げたり、棒で殴ったりしていたから、お互いさまだったのだろう。今では考えられない光景だが)。

 前にもちょっと書いたが、東京国立博物館の新指定国宝重文展観に現在のパートナーを誘い出し、ゲートを入って右手に並んでいるベンチの、手前から2つ目に座ってプロポーズをした。冷泉家の文書が指定された年だったので、目の前を故福田秀一、佐藤恒雄といった大先生方が次々通って行かれるので、やばいなあと悪い予感がしていたが、故K先生が、見たぞ~と茂みの中から現れたのである。黙っててやるからな、とおっしゃり、10か月後に結婚式を挙げるまで、本当に内密にしてくださった。

 バカダで先生に殴られた第一号は私ですよ、と申し上げたら、もうそのことは言うなと、口止め料として集古十種の超大型版本、小倉色紙の冊をくださった。オレはもっといい刷りのを持ってるからとおっしゃったが、なるほど、後刷りも後刷り、薄くて読めないくらいで、かつ真中に大きな虫食いがある。有り難さも中くらいなり、ということで時々こうして口止めは緩むのであるが、あの本が先生の形見になるとは… 私も架蔵の美濃派の俳書を1冊、K先生に献上した。今も先生の文庫にあることだろう。当時の私の蔵書印が捺してある。