そのころ、世に数まへられぬ古教授ありけり。

この翁 行方定めず ふらふらと 右へ左へ 往きつ戻りつ

12月31日(水)

2008年12月31日 | 昔日記
 朝一番の飛行機で娘がやってきたので、バスターミナルまで迎えに行く。たった1泊であるが、おじいちゃんの墓参りがしたいというのだから、殊勝である。

 実家で娘に軽く食べさせてから、「谷の奥のきわまる所」(入沢康夫)にある菩提寺へ行く。方丈に、山吹町は「レリーサ」のクッキーを差し上げた。お寺の到来物は和菓子ばっかりじゃないかなと思ったので、今回のお土産はクッキーにしてみた次第。来年は亡父の七回忌なので、またご相談いたしますとお願いしておいた。

 お参りが済んで、お寺のすぐ下にある伯母夫婦の家を訪ねる。この暮れは、東京に住んでいる息子一家(つまり私の従弟)は帰省しないそうだ。従弟はイラストレーターとして活躍している。何年か前に評判になったM氏の『古事記』現代語訳の挿絵は、すべて従弟が書いたものである。「レリーサ」のクッキーと、「緑の豆」の「神楽坂ブレンド」、それに「椿屋」で買った入浴剤なんぞを渡す。老夫婦へのお土産だから、量より品数だ。この間ユニクロに行ったら、谷岡ヤスジの漫画のTシャツが売れていましたよと、伯父に報告した。伯父は高校の社会科教師を長く務めた人だが、東京の私立高に勤務していたことがあり、その時の教え子に故谷岡ヤスジ氏がいたのである。

 帰りがけに「きがる」に寄って割子蕎麦をかきこむ。ここの客あしらいはもたもたしているが、味は出雲蕎麦らしくてとても美味しい。生卵を頼んだら30円だった。安いね。卵をぶっ掛けて食べ始めると、隣席の観光客がぎょっとした顔で見ている。閉店した神田神保町の「出雲蕎麦本家」では鶉の卵を供していたが、鶏卵1個を割りいれて、順次次の割子に流していくのが通というものだ(本当かな?)。小さいころ育った家では、大勢の人を使っていたので、年越し蕎麦には割子を40枚も50枚も出前してもらい、どんぶりに卵を積み上げて、てんで勝手に割り入れて食べたものだ。あるいは特殊な食べ方なのかもしれないが、出雲蕎麦はごそごそしているので、生卵とは相性がよいように思う。

 いったん実家に戻り、亡父の実家であるM神社の横屋(宮司家)に行く。借りていた社宝の『古今和歌集』の写本を返しに行ったのである。表紙が取れて料紙にもかなり黴がついていたのを、消毒し修補してもらった。松平直亮から奉納されたもので、声点がついている。パートナーが調査し、論文を書くそうだ。

 宮司は初詣の準備で大忙し。神奈川から従姉のT子ちゃん、裏大山から親戚のSさんが手伝いに来ていた。小学4年生の夏休み、T子ちゃんに連れられてS家へ遊びに行き、クワガタムシを一挙に50匹捕まえたことがあった。あの時の思い出話に花が咲いた。

 空模様があやしい。16:00近くになったので、「向月庵」にお菓子を受け取りに行く。ちょうどお店のおねえさんが、ウチヘ届けに出かけようとしているところだった。ついでに柚子の干菓子?を8つばかりもらう。それで店仕舞い。私は当年最後のお客となった。

12月30日その2

2008年12月30日 | 昔日記
 午前中はあんまりやる事がないので、卒業論文を読む。それから、早めに「一色庵」へ行って割子蕎麦を食べた。大将に東京からの土産を渡す。神楽坂で、泥鰌の絵の蕎麦猪口を見つけたので、もとめて来て進呈した次第。出雲国は、泥鰌すくいの本場ですからね。

 午後はもっぱら老母の運転手。前を滋賀県ナンバーの車がもたもた走っている。最初の用務先の前で停車したら、前の車も停まって、運転していたおじさんが寄って来た。何事かと思いきや、この辺にあるはずの「一色庵」という蕎麦屋に行きたいのだが、道が分からないとのこと。ええい、口で説明するのも面倒だ、先導するからついて来てくださいと、ご案内申し上げる。きっと松江の人は親切だと思ってもらえたに違いない。観光立県しか、我が島根県に生きる道はない。

 それにしても、節季歳末だというのに、観光客の姿をよく見かける。もうどこのお店もやっていないのになあ。お気の毒である。これも「だんだん」効果か?

 老母の指図のままに、菓子屋に連れて行き、宅配便の荷物を出して、スーパーで注連飾りを買って… 松江の人間は、お正月に向けて、生菓子を大量購入する。 「向月庵」でもらった柚子の干し菓子?が絶妙の味である。土産はこれにしようかな。

 物産館は15:00で年内閉店になると聞いたので、覗きに行く。売り場のおばさんに愛想を言われた。研究書をいただくと、お返しに蹈鞴鉄の文鎮を差し上げることにしているので、私はそのコーナーの上得意なのである。W君の就職祝いに何をあげようかな。この文鎮の、一番大きいのにしようか。玉鋼の原料なのだから、W君のご専門に関係なくもない。でも、筆記具とか時計のほうがいいかな。思案のしどころだ。

12月30日(火)

2008年12月30日 | 昔日記
 いくらなんでも県庁所在地である。別のネットカフェを見つけた。

 昨日は17:15のフライトだったので、ぐずぐずしていたら家を出るのが遅れてしまい、冷や冷やした。でも、羽田の出発ゲートには搭乗案内開始ジャストに到着、20:00前には実家に着くことができた。

 Yさんからまた、私の論についてのメールをいただく。飛行機の中でもずっと、焦点となる依拠資料の原態を考えていたが、やはり私の推定で間違いなさそうだと確信するにいたった。結局は、関連する資料群を総合的にどう理解するかである。2月半ば締め切りの学内学会の機関誌に投稿するつもりで書いていたが、それは400字詰め40枚を超えないというのが規定である。しかし。もう50枚近くになっちゃったから、京大のKK誌にでも投稿するしかないかな。4月に関西で研究発表して、京大の雑誌に投稿というのは、よい段取りかも。5月にウチの大学で行われる例会で発表してもいいけど、それでは発表予定者(私が研究指導担当の現在院生)を押しのけることになるし…。

12月29日(月)

2008年12月29日 | 昔日記
 今ほとんど書き上げた論文の、どうしても解決できないなと思っていた最後の問題点について、Yさんからのメールがヒントとなり、突然疑問が氷解した。全体の結論も極めて明快かつきれいな結果が出る。ようし、次は細かな表現論に進んで行けそうだ。わあ、我ながら画期的な研究成果である! 持つべきものは研究仲間である。

 郵便局に行ったら混んでいた。切手をまとめて買っておく。島根県の切手をたくさん買った。

 これから松江に帰省する。松江ではいつも使っていたネットカフェが潰れたので、元旦深夜まで更新はできないと思う。メールチェックもできなくなるので、あしからず。

12月27日(土)

2008年12月28日 | 昔日記
 昨日今日と仕事部屋に籠って論文を書いた。2日で16000字くらいのものを書き上げることができたので、まだまだヤキはまわっていないらしい。2、3箇所、年が明けたらまた国文学研究資料館へ行って確認しなければならないところが出てきた(「無庵」に行けるので、うれし~)。E区分の資料は複写させてもらえないから、行ってメモをとってくるしかないのである。

 3月に出る本に載ることになっている論文の、後始末のようなことがらを調べていたら、新しい事実に気がついたのである。入稿した原稿はもう初校が出て、先週末には出版社に戻してしまった。それからひらめいた事なので、新しい論文を書くしかないが、本の中に収録される一覧表には、新しく気づいた事柄を加えたほうがよいかもしれない。1月7日に行われる編集会議で相談することにして、ともあれ論文化してみたのである。

 関連するテーマであと3~4本は書けそうな具合である。院生の研究指導にかかっていると、なかなか自分の論文が書けない。ここ数年は超スローペースで、ついに枯渇したか、もう研究者は辞めるしかないと情けなく思っていたけれども、じたばたすると光明は見えてくるものだな。

 修士論文を書いた時も、苦し紛れに、提出前年の3月に資料調査に出かけてネタを見つけ、それから先は芋づる式で、10ヵ月足らずで書きあげちゃったもんね。でもまあ、今度の論文もどうでもいいような内容ではあるな。教組のM委員長の経済学だとか、法学部や理工の先生のような、世の中の役に立つようなものでは到底ありませんわ。800年前のささやかな歴史的事実が分かった、というだけの話である。こういうことで飯が食えているとは、この100年に1度というこの金融危機のさ中、まことに申し訳のない次第である。

12月25日(木)

2008年12月25日 | 昔日記
 国文学研究資料館は、年内今日まで開館しているので、調べものに行く。偉い先生方のお姿が多かった。何かあるのかな? マイクロリーダーをがしゃがしゃ操作していたら、このあいだ文学作法書集成を共著で出したY氏も、マイクロフィルムにかじりついておいでだった。懐紙について少しお話をする。研究室の先輩Kさんもおいでになっていた。ご勤務先の女子大がすぐ近くなのだそうだ。

 必要な複写を手に入れて、E区分の紙焼写真から必要箇所をメモしていたら、13:30になった。しめしめ、これで論文が2本くらい書ける仕込みができたぞ。

 高松からモノレールを1つ乗って、立川北で降り、「無庵」に入る。時分どきを過ぎたので、ちょうど空いたところだった。国文学研究資料館へ行く楽しみは、「無庵」で蕎麦をたぐることに尽きる。「初亀」の新酒を頼み、蕎麦味噌をあてにした。それと生粉打ちの蕎麦を注文。2,000円くらいで1時間、ゆったりできるのだから安いものだ。ここはBGMが最高である。かかっているのは専らジャズだが、だいたい持っているのが流れている。そんなところも寛げる要因かもしれない。店内の隅に木の仏像が置かれている。ありゃ本物の円空ですかい?とフロアのお姉さんに尋ねたら、写しだとのこと。五日市の農家の人が趣味で彫ったものらしい。

 そのまま神楽坂へ行き、老母への土産やコーヒー、お年始の品なぞを購入。また地下鉄に乗って大手町の丸善へ行く。瓶インクと来年のスケジュール帳などをもとめた。パイロットの「色彩雫」というインク・シリーズから、「冬将軍」というのを買ってみた。なかなかよさげである。

 帰宅したら、1時間ほどしてパートナーも帰ってきた。某大学の某氏が離婚したらしいと彼女は言う。へえ、ようやく離婚したのか。お子さんが可哀相だが、ずうっと別居状態で、とうの昔に破綻していたんだから、仕方がない。新しい女の人を連れて現れたというが、某氏も40歳代半ばだし、そういうこともあるわいな。

 某事件の某氏からも、パートナーのところにお詫びのメールが来たという。ようやくお解き放ちになったのだ。転送してくれたので、必要があればいお力になります、とメールしておいた。

12月24日(水)

2008年12月24日 | 昔日記
 クリスマスイブなのに仕事である。お昼は「五郎八」で「京にしん蕎麦」にする。それから穴八幡で、頼まれていた一陽来福の御守を受ける。列に並ぶこと30分!

 13:00からは北海道のHさんの博士学位請求論文の公開審査会。私が主任なので、早めに会場準備をして、時間ぴったりに始める。参会者はそれほど多くはなかったが、いろいろな分野の方が来てくださった。1時間半ほどで終了し、審査委員会を開く。報告書を作成し、事務所に提出。まずはひと安心。次の公開審査は1月10日に予定が入っている。

 パートナーに連絡を取ると、帰るところだという。落ち合ってデパートに行く。クリスマスプレゼントや食料を購入。ずいぶん混んでいた。プレゼント、姑にはセーター、娘は可愛いストラップにした。私も手ごろなバックパックを買ってもらった。愛用のMH-WAYが痛んできたので、その代わりである。しかし、最中型?のMH-WAYほど優れたモノはなかなかない。仕切りがいっぱいあるのは厭なのである。

12月22日(月)

2008年12月22日 | 昔日記
 年内最後の授業日である。8:45に大学へ着いて、1限の演習の配布プリントを印刷する。あと2回分の授業は、面倒なので講義をすることにした。話し出すと快調で、終了時間を少し超過する。「小倉色紙」についてなら、いくらでも話のネタはあるからね。

 そのまま事務所へ行って、担当職員の方と、来年度のテキストの打ち合わせをした。一般書店で入手できた3点のテキストを合冊し、大学傘下の印刷業者から供給してもらうことになっている。そのサンプルについて要望を伝えた。結構面倒くさい。それから2009年の5月に引き受けた学会の例会について、第2候補日の会場を確保。5月は学会シーズンなので、江戸時代の学会とかち合ったのである。例会委員長に確保できた旨のメールを送る。発表予定者の都合などを確認して、1月に決定することになるだろう。たしか「ざあさん」も発表を申し込まれていたような…

 もうお昼である。「たかはし」で刺身定食を食べて、教育学研究科の授業へ。2人に報告をしてもらう。1月13日のハルオ・シラネ先生の講演について宣伝しておいた。

 研究室に戻ると、15:00から修士課程の研究指導担当学生と個人面談。Mさんに来てもらい、研究の進捗状況、修士論文のテーマについて話をする。Mさんは他大学の出身者で、いったん社会に出てから大学院へ入った方なので、なじめないところもあるのではないかと心配である。いつも「つれなき」表情をなさっているので、ついついほったらかしにしてしまう。まあ、問題があれば遠慮なくご相談ください、ということにする。

 続いて生協のYさんが研究室を訪ねてきた。来年の新入生向けパンフレットに寄稿してほしいとの依頼である、昨年、今年と寄稿したので、それを適当にアレンジしてよということで、手を打った。

 おお、時間がある! 学部の図書館に走って行って、阪大の雑誌をコピーする。先般、3月に刊行予定の本に載せる論文を書いていて気づいたことを確かめるため、阪大の同誌に掲載された資料が必要になった。図書館の書庫でNさんに出会う。学会発表の準備中らしい。目当ての資料を探し当てたが、う~ん、これは面倒な問題が出てきたぞ。しかし、うまくすれば論文が1本書けるかもしれない。そうだ、今日の夜学の授業でこのネタを使っちゃえ、ということで神速でプリントを作成する。

 研究室に戻ったら、K助手とNさんが注釈の校正で困った顔をしている。見せてもらったらS君の担当部分に舌足らずの箇所があるという。記名原稿だから本人の責任だが、意を補ってメールで了解を求めたらとアドバイスした。そこへちょうどUちゃんがやってきた。K准教授の研究会に出るために来たのだが、研究会はお休みとのこと。時間が空いているなら夕飯付き合えと連れ出し、「AMA」へ行ってカレーをおごる。そして、修士課程研究指導担当学生個人面談の2人目をとり行った次第。

 Uちゃんの場合、修論で扱うテキストはほぼ固まってきたようだ。先日もS文庫のK先生の授業に、もぐりで出席したと言う。K先生は当該分野の権威者といってよい方。近々、写本の閲覧にも出かけるそうで、格好がついてきた感じ。

 夜学の授業は、実質上今日でまとめをしなければならない。「資料学の諸問題」というテーマで、極めて具体的な話をしてきたが、阪大蔵の資料をプリントで配り、要するに資料を扱うには複雑かつ慎重な注意が必要であることを、伝えられたらよしとした。

 パートナーに連絡したら、帰宅途中とのこと。桜上水大学のTさんの博論公開審査や、研究会の懇親会などがあっての帰りである。すこし先行しているようだが、途中駅で待ち合わせた。するとホームで偶然、帝大駒場のM先生にお逢いした。一緒の電車に乗る。今年、駒場からウチに移ったJ教授と、いま一緒に教員組合の執行委員をやっていますと申し上げる。M先生、Jさんはきっと後悔するに違いないとおっしゃっる。そうだよなあ、普通考えたら、帝大からウチへ移るなんて、非常識極まりない話である。そのあたりの理由も、J教授からはいろいろ伺ったのだが、差し障りがあるのでここには書くまい。

12月20日(土)

2008年12月20日 | 昔日記
 午前中に茶道関係の講演を頼まれた。開始1時間前に大学へ着いて会場準備を始めると、もう関係者がちらほら見えている。筑波大准教授I先生の軽妙なお話に続き、まとまりのないお話を申し上げた。 2人で3時間ほどの講演である。過分な謝礼を頂戴する。

 後片付けをして、本当はキャンパス内で開かれている情報化のシンポジウムに参加すべきなのだが、本郷の東大で開かれるW文学会の例会に行かなければならない。小生、例会委員なのだ。片付けにもたもたしたせいで、最初の発表者の質疑のところで会場に入る。

 今日はやけに盛会。100名近くの参加者がある。2番目のAさんの発表は、生々しい自筆資料の問題を取り扱って刺激的だった。本庄のK氏やKO文庫のS氏、メジロ大のざあ氏などの発言も、実に勉強になる。原資料をきちんと、仔細に見なければならないと改めて思った。休憩時間に会場で、皆で話し合った結果、庵点みたいな鉤点の呼称は「除棄記号」ということにしようと一決。

 トリはNさん。これまた状況を丁寧に解析してくるところから見えてくる問題を、実に分かりやすくまとめた内容だった。人物のバックボーンを徹底的に洗い出す手法は、さすが井上宗雄先生の一番弟子、もはや一種の風格が漂っている感じである。

 会場にはT大のN氏や、研究室OGのOさんなどの姿も。N氏からゼミの学生さんを紹介された。大学院進学を目指しているという。

 委員会は、代表委員S氏の捌きよろしきを得て、短時間で終わった。ただ、学会の出版企画に関して、隣のW前例会委員長にせつかれて、ちょっとだけ発言した。採否を決定する権限を、WGのような単位に一任してしまってよいのかという疑義である。S代表委員はそこのところもちゃんと押さえておいでのようで、継続審議という格好になった。

 本郷三丁目の駅前に、会場校が懇親会場を用意してくださっているとのことで、井上宗雄先生のお伴をして、発表者のNさん、W前例会委員長と一緒にお店へ向かった。着いてみると、久保田淳、久保木哲夫、小町谷照彦といった大先生方がいらっしゃるだけ。おっつけ東大のW氏、外大のM氏、S代表委員が到着し、こじんまりと始まった。

 FDだのが大変だという話題になる。大先生方は、早く大学を辞めてよかったよなあ、などとのたまう。国立大のほうが大変みたいだ。遅くなって、2番目の発表者Aさんと、天理大のKさんがやって来た。いろいろきわどい話も出たが、そこそこの時間に散会となる。Nさんと池袋までご一緒した、

 乗り換え駅で、連れの女性を大声で怒鳴っている男性がいた。いやな光景を見た。帰宅するやいなや、講演謝礼をそっくりパートナーに渡す。私には金銭管理能力が欠如しているからだ。お金を渡す時にパートナーは、いつも実に幸せそうな顔をする。

 「私家集大成CD-ROM」が届いていた。冷泉家時雨亭文庫蔵私家集の本文が、全面的に提供されている。「新編国歌大観CD-ROM」と並んで、私の専門領域の研究には欠かせないデータベースとなる。

12月18日(木)

2008年12月18日 | 昔日記
 木曜は祝日等で潰れないね。年内最後の木曜授業日だ。授業の前に、郵便局でO講堂の切手を1シート(20枚)買って、隣の「すゞ金」に入る。肝焼きも注文。米の汁はぬる燗にしてもらった。

 キャンパスに戻り、月曜の講義のプリントも印刷しておく。博士の研究指導はOさんの家集論。いくつかに分割して、丁寧に論文化するよう指示した。修士の演習は風邪で休みの人が多く、出席者はたった3人であった。予定通りの発表を聞く。それから学部の演習。これも1人の発表予定者から、風邪で急に来れなくなったと連絡がきた。もう1人の発表をこなして、残りは1月の最初の回で消化することにした。

 博士課程の諸君が飲みに行きたいと言い出した。学部の研究会も風邪でお休みとなる。私は18:00から執行委員会である。そこそのこ時間になったら電話してくれるよう言い残して、組合書記局へ向かう。

 年内最後の執行委員会だが、大学当局への申し入れやら何やらで、書記局は大変だな。年明けも、執行委員会、団交と目白押しである。春闘要求はマイナスにならぬようにするのがせいぜいだと、委員長は言っていた。それなら話は簡単だ。ハーバード大学は380億ドルの損失を出したそうだ。立派な大学は桁が違う。世田谷の座禅大学や、城南の法華大学の損益については、念仏を唱えるしかないですねと、わざと冗談を言ったら、委員長、そういう話はほかでも出たと真面目な顔でおっしゃる。不立文字や南無妙法蓮華経だから、念仏は変なんだが、まあ、どうでもいいや… ハラスメント委員会の機能停止について、組合員から要求が出てきたらしいが、当該委員会の一日も早い正常化を見守るべきだと発言した。N委員長の苦労、思いやるべきである。

 「大学当局」は無能で、学長はアホだというのが、組合の場における共通認識である。私はどうにも、こういう考えにはついて行けない。昔、「学部当局」の一員をやっていて、□○からは極悪非道だとか罵声を浴びたが、「当局」だって普通の教員が役目上務めているに過ぎないのだ。私は「当局」でございとしゃしゃり出て、ネット上でも発言して、呆れられたものである。教授会でも常々、この組合的認識から延々と発言する御仁がいらっしゃるが、「大学当局」は腹黒く、陰謀をめぐらすものだという物語には、正直辟易してしまう。本気でそんなこと思っておいでなのだろうか。ご自分が「当局」になりたくて、結局なれなかった恨み節みたいに聞こえなくもないような…

 執行委員会は20:30過ぎまで続いた。院生諸君から何度か電話が入る。韓国料理店で飲んでいるという。委員会が終わってお店に顔を出す。S君、Hさん、Oさん、NさんにK助手の5人で、もう相当食べたらしい。私はマッコリを1杯だけもらって、日本酒飲みに行こうと誘った。6人で「太郎月」へ。混んでいる。大将、もう肴がありませんとおっしゃる。しめた! お酒だけでいいと、皆に「黒牛」の原酒を1杯ずつ出してもらった。Hさんがアメリカに帰国する前に、送別会をしなければなあ。
  
 某君から電話で、大東亜帝国大学の専任に決まったとの報告を受けた。めでたし、めでたし。やはり大学での教歴は大きいなあ。昨年は教歴が無かったので、最終段階で涙を飲む格好になったのだが、今年はあちこちから非常勤の口がかかっていた。研究教育職の公募に対しては、博士の学位と大学での教歴が必須の時代になってきた。

12月17日(水)

2008年12月17日 | 昔日記
 12:10から教室会議。議題が多く長くかかった。昼食を食べそびれた。14:00からは教授会。定足数があるので出席するよう放送が入る。しかし、定足数にはなかなか達しない。議事はスムーズで、17:30には終了。O学部長になってから、教授会が早く終わるので助かる。すぐに「AMA」へ行き、頼んでいたテイクアウトのカレーとナン、ひよこ豆のサラダを受け取って麻布十番へ。

 今日のお稽古事は18:00開始となっていたので、10分ほど遅刻した。19:00から持ち寄りの忘年会。「AMA」のカレーは好評だった。目論見通りである。

12月16日(水)

2008年12月16日 | 昔日記
 休みたいなあ。でも午後に会議が2つある。重装備で大学へ。

 14:00からは中央図書館で評議員会、連日の呼び出しだ。始まる前に、会議室の隣にあるデータベースの部屋に、M前調査役を訪ねる。中御門家旧蔵資料をいじくっておいでで、「坊城」とかの印が押されている記録が広げてあった。おお。坊城俊周様のご先祖さまだな。

 会議は例によって出席者が少ない。図書館長の要領のよい進行で、30分ほどで終わった。システム担当副館長は寝ていた。

 自学部のキャンパスへ移動し、学部図書館で来週月曜に配布するプリントの準備をする。そうこうしているうちに16:00になった。会議室に行くと誰もいない。確認したところ次の会議は16:30からなのであった。教員ロビーで待っている間、いろいろな先生から「風邪ですか?」と声を掛けられた。次の会議も30分で終わり、もう神楽坂には寄らずに直帰した。30分の会議2つに出るために、午後が潰れたという顛末である。

 Iさんから鴨長明周辺に関するご著書が送られてきた。皆さん続々と研究成果を刊行される。振り返ってわが身はというと、まことにお恥ずかしいかぎりである。

12月15日(月)

2008年12月15日 | 昔日記
 風邪がひどくなってきた。喉が痛くて鼻水が止まらないし、悪寒がして咳も出る。しかし月曜は休めない。先日、夜道を歩いていて、電柱におでこをぶつけたところまで痛くなってきた。まったくもって情けない。

 9:00からの演習には5分遅刻した。未済の発表者は今日も来ない。もう知らないよ。学期末の課題に関する影印の読解をひとわたり済ませた。来週は詳しい注解方法のお手本を示して、年内は終わりとなる。

 大学院の教務主任に呼ばれたので、執務室へ行く。先日の面接結果について、教授会報告の扱いを打ち合わせた。げげげ、もう10:55! 11:00から中央図書館で会議がある。走って行ったが5分遅刻。しかし委員長は現れず、事務部長が変則なかたちで委員会を取り仕切った。図書館の会議に真面目に出る人は少ないなあ。私は元副館長だから、真面目なのだ。

 教員組合の書記局に立ち寄って、某事件について探りを入れる。大したことではないというのが書記局の空気であった。さて昼はどこにするかな? 久しぶりに「いもや」まで足を延ばす。穴子を追加。時分前だったので店は空いていて、女将からしきりに話しかけられた。なんだか健康が一番とのたまう。私が風邪をひいているからだろう。お正月休みは退屈なのだそうだ。円高だから暖かい外国にでも行ったらどうですかと申し上げた。

 教育学研究科の授業は面白かった。Aさんの報告を聞いたが、この人はなぜだか仏教に関心が強く、いつもそうしたテーマを選択して、非常に興味深い題材を見付け出してくる。今日は「仏名会」を取り上げたが、「栢梨」(かへなし)をめぐる問題は、12世紀末の表現動向の一端を、鮮やかに見せるものだと感心した。

 自学部キャンパスに戻ると、向こうからパートナーの同僚K准教授がやって来る。某事件について言葉を交わす。Kさんは専門が一緒だからな。心配顔をなさっていた。

 すぐに16:20である。1年生の基礎演習、本日が最終回とあいなった。最終課題は全員無事提出したので、アカデミックラティングの要諦についてまとめをした。もう声が出ない。あと1コマ。

 ホットなカレーでも食べたら何とかなるのではと思い、「AMA」へ行く。そうそう、水曜に持ち寄りの忘年会がある。相談したら、テイクアウトを用意してくれるそうだ。注文し支払いも済ませておいた。カレーは、あんまり効果がない。ビールを飲んだのも逆効果だったみたい。

 19:40からの夜学の講義も、もたもたして5分遅刻。最近原稿にしたばかりの内容なので、話自体は快調だ。この前、東京文化財研究所でコピーしてきた資料を使い、資料学の微妙な側面を話した。まあ、なんとか持つもので、21:00を過ぎたが、5分早く終わらせてもらった。悪寒がする。

 オンデマンド授業用の合冊本テキストの見本が出来てきた。印刷不鮮明箇所があるが、仕方がない。チェックは持ち帰ってやることにしよう。教科書会社から新学習指導要領に絡めたエッセイを書くよう打診された。よう書きません、関係ない話なら書けるけど…と返事したら、それでいいと言ってきた。きっぱり断るんだった。後の祭りである、嗚呼。

12月14日(日)

2008年12月14日 | 昔日記
 教組方面から某事件の情報が流れてきて吃驚。パートナーの研究仲間が巻き込まれたらしい。関係者に連絡したほうがいいんじゃないのとアドバイスする。

 夕食は姑のお祝いということで、「銀座アスター」に一席設けた。しかし、料理の出てくるのが早いこと早いこと。1時間くらいで食べ終わり、タクシーで帰宅。どうも風邪をひいたらしい。まいったな。

12月13日(土)

2008年12月13日 | 昔日記
 古記録の研究会。3名の発表予定だったが、直前にあやうく調整して2名の発表をこなし、Oさんの分は1月の会に先送りさせていただいた。メールチェックが遅れたので、冷や汗をかいた次第。

 18:00過ぎから忘年会。神楽坂の「イブテラス」へ移動した。参加者は15名。Tさんが幹事を買って出てくださった。おつれあいとよくいらっしゃるらしい。最初ビールを軽く飲んで、あとは白赤のワインをごちゃごちゃに飲む。