そのころ、世に数まへられぬ古教授ありけり。

この翁 行方定めず ふらふらと 右へ左へ 往きつ戻りつ

2月28日(日)

2010年02月28日 | 昔日記
 「子ども短歌コンクール」表彰式当日。大学で研究会があったのだが、こちらを優先した。雨。新橋駅から歩くと、東京マラソンのコースが目の前に…。仕方がないので地下鉄の内幸町の駅に降りて、コースを横切った。

 11:30集合で、すぐお弁当を頂戴する。着替えて軽くリハーサル。つけてあるTVでは津波の話ばかりだ。本番は14:20頃から。うまく行ったと思う。片づけをして散会。すっかり晴れ上がった。

2月27日(土)その2

2010年02月27日 | 昔日記
 18:00に虎ノ門の「ニッショーホール」へ行く。明日の「子ども短歌コンクール」表彰式のリハーサルである。

 「ニッショーホール」というのは、消防関係の団体が運営しているらしい。虎ノ門病院の先にある。虎ノ門病院は舅が息をひき取った病院だが、久しぶりに前を通った。確かK教授も、ここにかかっておいでのはず。今度、韓国の大学からいただいた朝鮮人参エキスをお届けしようかなあ。¥パク浣腸殿によれば、これは一種の精力剤なのだそうだが、私には全然効かない。

 リハーサルは…演出家さん、大丈夫かなあ? まあ、まけのまにまに…である。

 金比羅さんにお参りした後、新橋方面へ向かうも、立ち飲み屋に寄ってどんちゃん騒ぎをした。A師匠、Mさん、ムーミン大のお二人、バカ田の二人に私の計七名。新橋から電車に乗って、寂しい自宅へと帰った。

2月27日(土)

2010年02月27日 | 昔日記
 桃夭会に行く。H先生とガマ仙人先生に、「2010寅年ブレンド」をプレゼントした。トラジャコーヒーをベースにした、おやぢギャグそのままの、「緑の豆」オリジナルブレンドコーヒーである。昨日焙煎してもらい、H先生はご自宅でお挽きになると伺ったので豆のまま、ガマ先生へは挽いたものをご用意した。ひとつお試しください。

 筒井紘一先生は少し遅れて到着されたが、13:00過ぎまでみっちりお話を聴いた。

 パートナーと娘は今日、NYへ発つという。隣の研究室のK教授は、現在NYにご滞在中だが、昨夜連絡が付いた。苺白書大学のH先生にもよろしくね。

 夜は別の予定が入っているので、いったん帰宅したら、もう誰もいない。久しぶりにケンタッキーフライドチキンを食った。やはり美味いものではなかった。

 K教授から「岩おこし」のお礼メールをいただく。おこし2枚で礼を言われると、かえって恐縮してしまいますわ。どうかご放念を。

2月26日(金)

2010年02月26日 | 昔日記
 10:30から基幹委員会。前段の拡大委員会が1時間余計にかかったが、後段クローズドの委員会が予定の半分ほどで済んだので、帳尻はなんとか…。M委員長のお捌きはまことにみごとであった。どうやら私は、これをもって当委員を解任していただけるらしい。前回、教務主任殿から「交換研究員として派遣中は一時お休み」と言い渡され、まあ納得したのだが、うれしや! 2期勤めたから、現規定ではもう退職まで選任されることはないのだ。ご高配心より深謝申し上げる。やっぱり、大阪土産の「岩おこし」を1枚、賄賂として教務主任殿に差し上げた効果は覿面であったか!(新大阪駅地下の土産物売り場で、オバちゃんを笑わせながら買った「岩おこし」だ。ウチの女房が大好物で…固い女なんです…なんちゃって)上機嫌、上機嫌…「上喜元」を1杯飲みたいねえ。

 13:30から打ち合わせで、結局昼食は摂れなんだ。会議室を空け、PCをセットする。お茶のペットボトルはかねて買っておいたが、お菓子は「岩おこし」で誤魔化すことにした。こちらはUちゃん怒涛の大活躍で、私はすっかり舌を巻いたぜ。こりゃ余人をもって代え難いぞ。人には才能がある。しかし、我らももはや「天保老人」となってきたかなあ。3時間ほど打ち合わせをしたが、なんとかなりそうだ。

 雨模様だが、さほどひどくはない。それにしても、気味が悪いほど暖かい。写本が納品されたと連絡を受けたので、キャンパス図書館に披見に行った。室町期書写のいい巻子本と、由緒正しき久世家旧蔵の家集である。早速展示してはという話になり、キャプションを書くことを引き受けた。

 神楽坂で買い物をする。逸平君は東京マラソンに出走するそうだ。

2月25日(木)

2010年02月25日 | 昔日記
 ぽっかりと校務の無い一日であった。9:00に東京駅の「銀の鈴」でA師匠と待ち合わせる。なんと奥様のお姿も。奥様はお里帰りなさるそうだ。「のぞみ」の自由席で新大阪へ。「吉野」というお店で大阪寿司のセットを食ってから、地下鉄で昭和町へ向かう。

 当地はその名の通り、昭和の香りがプンプンと漂う街なのであった。駅の壁には、ななんと、日本赤軍・よど号犯の指名手配写真が! 1987年、ピョンヤンを訪問した際、よど号犯人が我ら訪朝団に接触を図ってきた。その時、団長の故U教授は、教育者であるゆゑをもって犯罪者には会えないと謝絶されたのであった。商店街も実にレトロ。A師匠は、「ミッキーのクリーニング」というお店を見つけて大喜びなさっていた。

 今回の大阪行きは、明浄学院高等学校をお訪ねし、第74回!「新年和歌披講会」を参観させていただくことを目的としている。14:20の開始時刻1時間前に到着し、校長先生、さらに「和歌」を指導していらっしゃる先生にお会いして、お話をうかがった。この学校は昭和9年から、冷泉流によって和歌披講をずっと続けておいでなのだ。しかも、教科目として「和歌」という授業をなさっている。新年宮中歌会始にも毎年詠進し、生徒さんが入選すること4回を数えている。和歌披講を実際に学校教育の中に取り入れているのは、全国で本校と、京都光華中高くらいであろう。まったくユニークな伝統文化教育だ。

 体育館に案内され、理事長にご挨拶。それから披講会を拝聴した。諸役はすべて生徒さんが務め、難波津の歌から、1~3年生の詠進歌各1首、教頭・校長のお歌、そして本年の歌会始の御製を二反と、冷泉流でみごとに披講された。乙、乙、甲、甲、乙甲、乙乙、そして御製は乙の二反。

 終了後、茶室へ案内された。そこで「大阪日日新聞」の取材を受ける。そして呈茶があった。結構なお土産を頂戴して、新大阪へ。岩おこしと赤福を買うこと常のごとし。赤ワインとつまみを買い込み、A師匠と飲みながら東京へと帰った。

 それにしても、暖かい一日だったなあ。

2月24日(水)その2

2010年02月24日 | 昔日記
 18:00から、演習を担当しているコースの教員懇親会に顔を出す。いろいろなワインがずらりと並んで、珍しいチーズもどっさり供されていた。聞けばやっぱり「アルパージュ」で買ってくるのだそうである。非常勤のT君やH君も参加していたので、いろいろお話をした。T君は博論が受理となって、よかった、よかった。

 英文学のU教授から、A師匠の講演はよかったとしきりに褒められた(明日はそのA師匠と一緒に、大阪行きである)。フランス文学のK教授からは、S君のことを話題にされたので、少し困った。東浩紀という方を、お側近くで初めて拝見する。駿河昌樹氏と少しお話をさせていただいた。藤原良経がお好きとのこと。卒論に良経書いたのがおります、、また近々歌人の秀歌選シリーズが出ますと申し上げたら、そういう奇特な本を出すとしたら笠間書院でしょうとおっしゃった。う~む、分かってらっしゃるなあ。

 笠間書院といえば、『岩佐美代子の眼』の訂正版が送られてきた。岩佐先生からもご丁重なお手紙をいただく。某女史の要求通りに直したのだろう。でも、「生命の脅迫状」(p147)なんてあなた、岩佐先生ご自身の表現では絶対にありえない。誰の語彙か、すぐ察しがつくわいな。ああ、不快…そ、そうか! わざとこういう表現にされたに相違ない。深読みすれば、そうなる。

 2時間ほど懇親会に出て帰宅。ちょっと飲みすぎた。

 私が「老教授」と自称するのを、ブログで「嘘つき」呼ばわりされた御仁があったが、数え年四十歳で「老」と称するのは、前近代の常識である。だから愚生は、りっぱな「老教授」「翁教授」なのだ。定年退職まで、わずか数年を残すのみだしね。

2月24日(水)

2010年02月24日 | 昔日記
 明日は日帰りで大阪へ行く。出がけに駅で行きの特急券と往復の乗車券を買っておく。早めに大学に着いて、書類の処理をあれこれ。奨学金関係の推薦書を2通書いた。それから、事務所から言ってきた成績処理に関する確認を行う。まあ、いろいろなことが起きるものだ。若い頃なら、バカヤロ~!と怒鳴るところだが、歳をとると、喧嘩するのが億劫になる。

 12:10から教員組合の職場会に出た。前執行委員の責任を感じて極力出ているのだが、出席者数は…目も当てられない。弁当が大量に余ったので、研究室受付に持って行き、べんと、べんとォ~と売り子のマネをしたら、あっという間に捌けてしまった。

 14:00から教授会。博士論文の判定・受理が、ここにたとへば箱根の山をはたちばかり重ね上げたらむほどの件数?もあったが、ここまで多いと、研究科長はご覧の通り、ご覧の通りと大般若経展読のごとく議事を進め、誰も文句を言わなかった。よござんすか? パチパチパチ、よござんすか、パチパチパチ…で、K助手の博論も、Nさんの博論も、問題なく学位授与「可」と判定されましたわ。おめでとう!

 会議中、署名集めも少しやった。K文庫購入嘆願署名とやら。50名を超えたので、もういいかな。我が¥パク浣腸殿が、俺も集めることになっていたんだっけ?と寝ぼけたことをのたまうので、ずっこけてしまった。いいですよ、私が集めますから。E学部は47名集めたと言って来たから、よい数字だろう。

 教授会はなんと、1時間40分で終わった。研究室に戻ったら、K助手が仕事をしている。お祝いを言い、かねて用意の記念品を渡してしまった。

2月23日(火)

2010年02月23日 | 昔日記
皇帝ペンギンも
皇帝ペンギン飼育係も

 10:00から会議で、10:30から面接の業務が入っている。だからスーツにネクタイ着用で大学へ行く。委員長殿に断り、会議は中抜けさせてもらった。コース主任とT教授と3人で、10名ほどの面接を1時間かかって終え、会議に戻ったら、ちょうど終わる時分だった。

 15:00から立川の国文学研究資料館で会議。折よく中央線の特快に乗れたので、12:30には立川駅に着いた。しめしめ、余裕で「無庵」に寄れるぞ。読売新聞支社の脇を入り、「無庵」の暖簾をくぐった。純米吟醸と蕎麦味噌、それに鰊の旨煮を頼む。お蕎麦は挽きぐるみを選んだ。フロアのおねえさんに、箸と盃は持参していますからと告げる。あっという顔をされたのは、「みかん盃」のことを覚えていてくださったからだろう。今日はスカンセンで入手した銅の酒盃を持って行った。こういうモノに敏感に反応するとは、このお店のスタッフはなかなかだ。道具自慢のし甲斐があるというもの。

 モノレールの1駅100円を惜しんで歩きに歩き、資料館にたどり着いた。まず皇帝ペンギン(画像)にご挨拶…国文研は極地研と同居しているのだ。30分ほど時間があったので、閲覧室に入ったら、茗荷谷女子大のA氏やら、京都のR大のK先生、それにY氏などが資料調査をなさっていた。あとは会議の参加者の姿がちらほら。K大のY先生からはご論文を頂戴した。

 会議は定刻開始で、まず館長のご挨拶があった。私は外部委員の1人であり、隣の席はH大学のK教授…ウチの図書館の古典籍データベースのお世話になっていると礼を言われた。当館助教のK氏も陪席されたが、彼はこのたびご栄転のよし。さて、議事はさくさくと進み、1時間ほどで終了。このあと、(例によって?)館長ご主催の飲み会があると誘われるも、18:30から編集会議があるため、残念ながら失礼した。

 また100円がもったいないので、立川駅まで歩きに歩いて、電車に乗る。編集会議にも早めに着いた。正味2時間ほどで、予定の半分が決まったという感じ。はかどっているようには到底思えないが、まあ仕方があるまい。

 同じく編集委員の、G大学S先生は、教職大学院の関係で先週松江に出張され、亡父の実家である売豆紀神社へ参詣して来られたという。島根大の先生に飲みに連れて行ってもらったそうだが、隠岐料理の「鶴丸」へおいでになったとのこと。そりゃ東本町だから、橋をお渡りになったでしょうと申し上げた。「鶴丸」へは老母と一緒に行ったことがある。

 いやはや、一日中歩き回ったわい。帰宅したら、万歩計は無慮22502歩を示している。15kmくらい歩いたかな。左足が痛い。

 移動時間が長かったので、相良俊輔『流氷の海』(光人社NF文庫)をあらかた読んだ。陸軍中将樋口季一郎の評伝。この人物の経歴は、実に面白い。

2月22日(月)

2010年02月22日 | 昔日記
 まだまだ業務。昼食は「津多屋」の「菜の花幕の内弁当」だった。昔勤めていた高等学校の近くの弁当屋らしい。

 関係した仕事が、ギョーカイで"good job"などと評価されると、正直ほっといたしますわいな。

研究室に戻って、書類書きをする。会議室の手配など、雑用もあれこれ。明日の業務についてコース主任に確認する。会議と業務がかち合っている。

2月21日(日)

2010年02月21日 | 昔日記
 日曜なのに終日業務。昼食は「三州家」のにぎり鮨だった。作業はまあ、はかばかしく進む。

 大学から直帰。ケーブルテレビで「ファン・ジニ」を観ながら夕食を摂る。はバスで帰京のよしだが、渋滞で遅くなるらしい。

 な~んにも面白いことはないが、研究も手に付かない。当分は吐くように予定が詰まっている。

2月20日(土)

2010年02月20日 | 昔日記
 業務のため出校。12日から24日までは、ずうっと出づっぱりとなるのだよ、ふう。本日の昼食は、「神楽坂三代和食や」の、高級そうなお弁当だった。なかなか結構である。

 帰路、またぞろ血尿のような色のロゼワインを買いに行く。若いワインだが、いたく気に入った次第。逸平君「土佐屋」の「あんこ玉」の余りをあげた。ところで、ワインのボトルが入れてある棚のガラスに書かれているフランス語が、ところどころ間違っている。こう見えても、一応博士課程の入試までフランス語で受験したから(1回落ちたけど)、昔取った杵柄だ。ボスが書いた原文を写す際にミスったとのこと。誰が見ているかわからんぞなもし。

 魚屋をのぞいたら、赤貝(サルボウ)が入荷していた。今日は3袋買い、ご近所の八百屋の女将さんに1袋差し上げた。帰宅して早速シゴをする。20分ほどで煮上げ、調理サンプルとして、少しばかり女将さんのところへ届ける。夕食は赤貝飯を炊いた。

 金美齢『私は、なぜ日本国民となったのか』(WAC文庫)を読む。

2月19日(金)

2010年02月19日 | 昔日記
 午前中から会議。すぐに終わると思いきや、紛糾して随分時間がかかった。途中、I教授が珍しく色をなしたので、往年の助手仲間だ、いざサポートせねばと身を乗り出したけれど、しかるべき方々の発言が相次いで、乃公は出撃に及ばなんだ。Y教授のふら~っとしたご発言には、いつものことながらうち笑まるる(自発の助動詞「る」)ばかりである。明らかになったのは、いづくも別々ローカルルール…ということだろう。学部長は上手にお捌きになったと思う。ウチの論文評価基準が、日本史コースとまったく同一であることが分かったのは収穫であった。一度教務で調査してみたらどうかな。成績評価は教員の専権事項とはいえ、実にいい加減かつ傲慢なところがあるからね。

 13:00からの打ち合わせに走る。125タワーの15階。こちらも3時間近くかかった。もう若い人たちに任せるにしくはなさそう。中長期的な展望なんぞは、我ら老人には持てない時代である。××君が、その才智を遺憾なく発揮してくれた。いやはや、お見事でござりました。悪いようにはせぬからな。ぜひぜひ協力してくださいまし。

 久しぶりに「レ・リーサ」で買い物をして、さらに神楽坂でチーズを買い、「寅年ブレンド」を買った。このコーヒーはまったくコクがないのだが、特徴の表示が間違っていたと「緑の豆」のおニイさんはおっしゃっていた。

 夕食は適当なおかずで、血尿のような色のロゼワインを飲む。娘は白川郷へ行った。今夜は名古屋で宿泊とのこと。男性のお宅に泊めてもらうというので色めき立ったが、学科の男女大勢でお邪魔するのだそうだ。なあんだ、つまらん。娘には、何でもいいから、早く結婚して欲しい。

2月18日(木)その2

2010年02月18日 | 昔日記
 終日業務。昼は「横濱崎陽軒」の豪華弁当であった! 「崎陽軒」のシューマイほど、世の中に美味いものは滅多にない。17:30に終了したので、夕食の赤飯弁当はお持ち帰りとする。こちらも終日科研の作業をしていたパートナーに電話したら、ちょうど終わったというので、一緒に帰ることにした。「豊坂」を登ったところで落ち合う。帰路、ドラッグストアで娘に頼まれていたホカロンを買い、仕事部屋の前の「餃子の王将」で餃子を2人前買った。夕食は赤飯弁当を肴に、血尿のようなロゼワインを飲む。昼は焼売、夜は餃子…中華な一日、というわけでもないが。

 今日は面白くないことが多かった。研究室に変な電話はかかってくるし、人は何を考えているかさっぱりわからん。学期末試験の時に貸したタクシー代も、どうやら踏み倒された感じだ。

 単位取得についてしつこく聞き合わせてきた学生は、大学院進学が決まっていると言っていた。その件についてたまたま話題にしたら、某教授から、その研究科はほとんど無試験で入れるのだと言われた。そうだったのか、知らんかった。いわゆる大学院大学は、いま目も当てられない状況らしい。大学院教授なぞではなくて幸いだった。ウチでは、大学院はオマケであり、人事的にもほとんど顧慮されない。学部教育があくまでも本流というのは、正しい生き方なのであろう。教職大学院も失敗だったというしね。まあ、現政権与党はN教組だから、そのあたりは何か仕掛けるんじゃないかとは思う。教育学部の教員養成課程独占という流れになるらしい。

 ABAJの「国際稀覯本フェア」の目録が届く。うわ~高いなあ。凡慮の及ぶところに非ず。

2月18日(木)

2010年02月18日 | 昔日記
 力及ばず…私は帝國大學の教授でもないし、これはもう仕方がない(でも、不甲斐ないよなあ)。しかし、人には生活というものがある。帝國大學だって、きょうびそう簡単には行くまいて。

 ああ、早く死ぬにしくはない。亡父の時代は55歳が役人の定年だった。定年を55歳に戻して、60歳で死ぬよう全国民が合意すれば、我が国はきっと立ち直れることだろう。すると、M党もG党も全滅だな。

2月17日(水)その4

2010年02月17日 | 昔日記
 麻布十番のお稽古事に行く。子ども短歌コンクールの練習を重ね、最後に春の歌会の前半部を練習した。4月の歌会の叩き台愚案を提出。悪くないと思うが、どうなることやら。

 「萬力屋」に寄ることいつもの通り。ムーミン大のお二人に、Eさん、それに今日はMさんもお付き合いくださった。Nさんは明日から山形で調査とのこと。