夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

一人ひとりの人生

2009-06-05 05:27:55 | つれづれなるままに
 今朝6月5日の朝刊に、菅家さん釈放という見出しと晴れ晴れとした菅家さんの笑顔の写真が大きく掲載されている。
 それにしても逮捕から17年間を監獄で無期懲役という日々を、どのような心境ですごされたのだろうか。数奇な人生といわざるを得ない。やってもいない犯行を、科学的物的証拠というものに頼りすぎて貶められえた被害者である。「疑わしきは罰せず」というのが、審判原則となっていると聞いたことがある。しかしこの科学的なデーターは、その時代の最高の権威がある科学的事実なのだ。旧式のDNA鑑定だったというが、今の検察側の根拠も当時よりは精度が増しただけのことではないのだろうか。間違いと気づくまでの17年間の人生を思うとき、その無念は取り返しのつかない人生なのだ。ご両親もその晴れの今日の姿を知らぬままに、この世を去っていったのだ。
 聞けば幾度か見直す機会があったという。しかしそれは検察の、あるいは裁判官の面子のために膠着した時間を無為に送ったことになる。どうして本人に対して、間違っておりました。申し訳ありませんという誠意ある態度が示されないのだろうか。
 1949年の弘前市で起きた弘前大学教授婦人殺害事件の犯人として冤罪を受けた那須隆氏(85歳逝去)を思い出す。15年間の服役後仮釈放され、その後真犯人が名乗り出たという事実をもって名誉が回復されたが、最高裁はその自らの過ちについては認めていない。
 人間が人間を裁くということが、いかに難しいのかを物語っている。今回の事件でも、被告が自白をさせられた経緯は、拷問に近い形での誘導尋問である。足を蹴飛ばされたり、髪をつかんで脅すなどは密室の中にある恐怖の瞬間でもある。
 私たちが今考えなければならないのは、確定した事件ですら、こうした冤罪が含まれているということであり、真犯人にたどり着けないという事実である。
 菅家さん本人が言うように、時効というのはないに越したことがないとこの事件を通じて実感させられる。
 審判に間違いがあった時、その冤罪を受けた当人に負わせた刑量分を正しく評価し、相応の国家賠償するという道筋ができない段階での、私たちの「裁判員制度」そのものの私たちの参加意欲を殺ぐ問題がここにもある思う。