夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

台風一過

2007-08-04 21:07:57 | 岩木山麓 しらとり農場日記
 8月4日(土)台風5号が大接近。夜明け前から強い雨が降って、湿度の高い一日が始まった。私と千葉県の養護学校教諭Kさんは、雨降りの中をしらとり農場を目指した。
 しらとり農場は北海道の瀬棚町からやって来たオーナー夫人の両親一家9名が宿泊し、朝からにぎやかだった。台風5号が接近しているのか朝方から雨が降り続いていた。鶴田町からSさんがやってきていて、話題が蛇の話や島根県からやって来た画家の話になった。その話題の中で鶴田町のSさんが音楽や絵画を鑑賞しながら、涙を流すことについてその感性の素晴らしさを私が話すと、瀬棚町のお父さんが、涙を流すことの大切さを優しい口調で話された。お父さんも外国で絵画を見ながら涙が止まらないと言う経験を持っていた。私たちはジェンダーと言う流れ、価値観の中で、「男はめそめそしてはいけない」などと良く躾の中で言われつづけてきた。しかしお父さんはそれは間違いであるとはっきりと言った。心の中の自分が感動した時には、その感動を涙で表現するのは人間としては自然の動きなのだと語った。そう云えば一年前の「世界の巨匠絵画展」の最中に、心にトラウマを持つ親子が来場し、ある外国の画家の絵の前で娘さんが止め処もなく泣き出すと言うことがあったのを思い出していた。
 そういう話題の中で、Sさんやオーナーが関心を抱いていた人が偶然にも3年前にお付き合いをしていた画家だったので、その画家に運勢を聞きに行きたいというオーナー夫人の姉の夫に場所を説明した。早速彼はその画家を訪ねに出かけていった。
 私はあうんの畑のトマトを初めとする支柱への茎の固定作業を行い、キュウリやズッキーニの収穫を行なった。Kさんはお得意の日曜大工の技術を遺憾なく発揮するために、オーナーハウスの二階の壁打ち作業を行なっていた。
 昼食は瀬棚家の姉妹の手づくりのカレーライスをいただき、その後オーナー夫妻のチェロとピアノの演奏、そしてみんなでオーナー夫人のピアノと私の下手くそなのギター演奏で北海道の歌「故郷(ふるさと)の丘」を合唱した。何度か練習を繰り返して、ようやく歌がまとまり出していた。午後にはミス・ビューティフルウインターとお母さんが合流して、コーヒーやハーブ・ミントティで楽しい時を過ごした。ミスビューティフルウインターにとって、瀬棚一家はまさに恩人とも言える人々でもあった。生きることに悩んだ彼女の行き着いた先でもあったからだろう。瀬棚一家はその彼女をありのままに受け入れ、生きる自信をつけさせてくれたのだった。その一家に母親としてもどうしても挨拶をしないわけにはいかなかっただろう。苦難を乗り越え笑顔の中にある母子の姿をそこに見ていた。
 ウコッケイの親子を写真にとりに行くと、1羽見えないと思っていたひよこが5羽いたことを確認し、ホッと一安心をすることが出来た。
 心配した台風も雨だけを降らせて温帯低気圧に変わって、しらとり農場の農作物を含めて大過なく過ぎ去っていった。
 私は一度しらとり農場を辞した後、昨日の夜にオーナーの好きな焼き鳥を食べていただこうと準備したが、祭を見に行って渡せなかったので、もう一度それを注文して届に向かった。直ぐに帰ろうとすると、オーナーが義兄が今戻って画家の運勢について成果があったので聞いて池といわれ中に入った。
 義兄さんは画家の下を訪問した内容を事細かに報告し、訪ねてきてよかったと語っていた。それは、彼について画家が語った心の中が、かなりの部分で的中しており、今後の彼の夫婦関係について語ったことが感動につながっていく。彼は奥さんに言葉で明確に伝えきれずに我慢してきたことがあるらしい。それは決して好ましいことではない。いいことも悪いことも曝け出すことで夫婦関係の絆は強まっていくのだと言われたらしい。そして、不登校の親子の関係についても話されたと言う。それは、学校にいけなくなった子どもに対して親は、往々にして「学校に行くの行かないの?!」という聞き方になるが、それでは行かない子どもを作っているようなものだと言う。そういう聞き方ではなく、「何日休んだら学校に行けるかな?」と聞けば「2日休んだら行く」という具合に答えることができるのだという。そういう話を聞いて、私も彼が尋ねたことは良かったなと思って聞いていた。すると、ミスビューティフルウインターが私も行きたいと強く希望していた。彼女の中にはまだそこにこだわっている部分があるのだということを示していた。 
 ミスビューティフルウインターのお母さん一行と瀬棚町の一家もいよいよ日曜日には帰宅するという。また平常のしらとり農場の一日が始まろうとしている。
 
 

麦畑で熱く語る

2007-08-04 08:13:36 | 岩木山麓 しらとり農場日記
 8月3日(金)は朝から暑く、弘前の予想最高気温は33℃だ。車を運転していても、首筋を汗がツーッと伝うのが分かる。
 昨日来訪した千葉県の養護学校教諭Kさんとともに、しらとり農場を目指した。しらとり農場に着くと、オーナー夫人の実家(北海道。瀬棚町)から両親と姉妹家族の皆さん9人が到着したばかりのところだった。
 オーナー夫人の父上は草柳大蔵風のインテリジェンスを感じる紳士で、語り口も学者然とした落ち着いた知性を感じさせた。北海道で酪農などを通じて農業の学校を実践してきた偉人の一人だという。このしらとり農場のオーナーも20歳のころ、農業に憧れそして悩んで、氏を訪問したという。氏は「誰でも希望している思いがあれば、それはもう半分できていることだ」と言われたという。その出会いがあって、オーナーの進むべき道への迷いが消えたと言う。多くの先人は、相談してもその困難性や問題点をのみ並べ立て、人のやる気を失せる助言?しか行なわない中にあって、氏のこの助言こそ新鮮な奥深さをもって伝わってくる。
 挨拶を終え、オーナー、Kさんは、台風に備えた建物のコーキングをして、私は麦畑に行き、麦の頭だけを採取する作業を行なった。あうんメンバーが到着して一緒にこの作業を行い、オーナーとKさんも後にこの作業に加わった。台風の余波もあってなのか、突風が吹いて麦藁が散乱していた。
 「農業は宗教かもしれない」とオーナーが言われた。私は「宮沢賢治もそうだったが、同じ宗教(価値観)をもって暮らせる人は幸せだと思うが、父との信仰の違いは永く賢治と父、そして家族の大いなる悩みとなったのではないか」と話した。そして「オーナー夫人の実家の皆さんのような、共通の価値観をもって暮らしが成り立っている家族は、幸せなことだ」と話した。さらに「孔子の之を知る者は之を好むものに如かず、之を好む者は之を楽しむ者に如かず。つまり、知る、好む、楽しむと言う3つの違いのことについて語った。新しい情報を出来るだけ多く、そして早くキャッチすることが現代社会の特徴にある。知ることに心を使い過ぎると、それに疲れてしまったり、情報量の多さに押しつぶされてしまって、それに主体的に関わって行く力がなくなってしまう。「好む」者は、つまり「やる気」を持っているので、積極性がある。情報は与えられて来るので、人を受動的にする。人間の個性というものは、何が好きかというその人の積極的な姿勢の中に現れやすい。
 孔子は「好む」の上には「楽しむ」があるという。「楽」は相手の中に入ってあるいはそれと一体化して安住することだという。これらを得て第三段階の「安らぎ」の理想像に達する」という。「好む」は積極的だが、下手をすると気負いすぎになる。「それは近所迷惑」を引き起こすことさえある。「楽しむ」はそれを超え、あくまでも積極性を失っていないが安らぎがある。そこにこそ多くの人々が自然に集まり、活動も無理なく長続きが可能となる。」そういうことを話していた。
 午後の作業を終えて、オーナーハウスで休憩をした。オーナー夫人のお母さんやお姉さん達の作っているハーブ入りパンなどをいただいた。
 自家製のソーセージのお話をしていただいている最中に、お姉さんが飼育している豚の悲しい話をされた。それは豚がいよいよされるために出荷の車に向かおうとする時、その緊張感を感じてか車に乗りたがらず、抵抗するのだという。そしてその車の荷台に乗った時、いかにもこれ以上ない悲しそうな鳴き声が耳に残るという。これから豚が今までの日常とは違う場所へ行くという中で、自然に感じる悲しみを感じるのだという。『宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」を思い出すね』とオーナーが麦畑で言ったが、私はそれと同時に、ナチスドイツによって殺戮を目的に毒ガス室へ向かうユダヤの人々の胸中を思っていた。
 オーナー夫妻がピアノとチェロでの「カントリーロード」を奏で、その後に夫人の父親のチェロの演奏を聞いた。演奏前に父君は映画「タイタニック号」の話をした。沈み行く前の船の中で逃げ惑う乗客と、その中で最期の演奏をしようとする楽団員たち。父君は「それは事実ではないのではないだろうか」と言った。「人は本当に死の間際であんなに冷静に楽曲を演奏できるだろうか」と語った。それは自らがサイロの中で酸欠になって死を予感したときの恐怖感の中で、そう感じたことだとも語っていたのが印象的であった。
 まだまだ氏のお話を伺いたかったが、時間がそれを許さなかった。
 
 

「農民芸術概論」(畑山博著「宮沢賢治幻想辞典」)

2007-08-04 06:39:39 | 私の本棚
 「農民芸術概論」宮沢賢治
 
 かつてわたしたちのの師父たちは乏しいながらかなり楽しく生きていた
 そこには芸術も宗教もあった
 いまわたしたちにはただ労働が 生存があるばかりである
 宗教は疲れて近代科学に置き換えられ しかも科学は冷たく暗い
 芸術は今私たちを離れ しかもわびしく堕落した
 いま宗教芸術家とは真善もしくは美を独占できるものである
 われらに買うべき力もなく またそのようなものも必要としない 
 いまこそわたしたちは新たに正しい道を行き 私たちの美を創らなければならない
 芸術によってあの灰色の労働を燃やせ

 という荘重な思想を核心とする賢治の実践哲学の序論である。
 賢治が花巻農学校時代に試論として生徒達に講義され、演劇活動などで一部は実行もされていた。農学校退職後にひらいた羅須地人協会での講義でさらにそれは形を整えられた。賢治は、1921年にとつぜん上京し、国柱会を訊ねたあの時以来、宗教というものの欺瞞をはっきりと感じていたはずだと私は思っている。
 法華経を通しての賢治の仏教への憧れは本物だったと思うが、それは単に法華経の狭義の範囲内にだけとどまるような狭量なものではなかった。信じようとするときの賢治のこの上名もない孤独を思うと、わたしは胸が痛くなる。
 祈りのかたちは、賢治にとって、賢治の思想と感性を伝えるもっとも豊かで正確な手段は文学であった。しかしそれは、全き無視と言う形でしか世間からは迎えられなかった。
 ごくわずかな肉親、教え子と知人たちに淡く理解されるだけでしかなかった。それほどに賢治の感性はまぶしすぎるのだ。
 他者へのアプローチの仕方として、賢治は文学を有効だとは考えにくい状況にあった。切ないけれどもそうだった。
 だが、信仰という道を迂回すれば、もう少しは共感者を得ることは出来るかもしれなかった。信仰は賢治にとって、他者へのアプローチの言語であった。そう私は考えている。
 芸術に関する部分は、いうまでもなく浅薄な鑑賞主義と、陳腐な擬人法をファンタジーと心得違いしている「赤い鳥」レベルの文壇への痛罵であり、その汚い文壇政治と権威主義への宣戦布告である。