夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

長田 弘詩集「人はかつて樹だった」より

2007-08-10 08:40:15 | 私の本棚

 「むかし、私たちは」

 樹は人のように立っていた
 言葉もなくまっすぐに立っていた
 立ちつくす人のように、
 森の木々のざわめきから
 遠く離れて、
 きれいなバターミルク色した空の下に、
 波立てて
 小石を蹴って
 暗い淵をのこして
 曲がりながら流れてくる
 大きな川のほとりに、
 もうどこにも秋の鳥たちがいなくなった
 収穫のあとの季節のなかに、
 物語の家族のように、
 母のように一本の樹は、
 父のようにもう1本の木は、
 子どもたちのように小さな木は、
 どこかに未来を探しているかのように、
 遠くを見はるかして、
 凛とした空気のなかに
 みじろぎもせず立っていた。
 私たちはすっかり忘れているのだ。
 むかし、私たちは木だったのだ。

下駄の思い出

2007-08-10 07:14:55 | つれづれなるままに
 下駄を最初に履いたのは小学校。それから下駄はぼくのトレードマークになって、大学の通学も下駄を履くことが多かった。下駄はぼくの大事なフリーダムの証しだった。高校生の時、柔道をやっていて下駄と柔道着は良く似合った。しかし校則は下駄履き禁止。私はこれに反対して、生徒会長に立候補し「下駄履きと麦藁帽子の復活」を訴えた。もちろんそれで生徒会長になれるとは思ってはいなかったが、精神の自由性と伝統文化を守ることを訴えたかった。選挙の結果は語る必要もなく落選ではあったが、私の反逆精神を一緒に楽しむ生徒の票がいくらか集まっていた。その校則を破ろうと言う主張によって、風紀係の先生から目をつけられたりもしたが、私はこの頃から反逆精神が強まった気もする。 自分を主張する輩の少ない学校の中で私は大いに目立ち、先輩から攻撃されることもあったが、逆に先輩の女生徒とお付き合いをすることにもつながった。
 桐の下駄の軽やかさ、そしてあのカラコロと鳴る歩みのリズムを聞きながら歩くのはとても気持ちが良かった。冬はしょうがないとしても、湿度の高い新潟の盆地では、下駄履きは快適なグッズでもあった。
 私は施設生活をはじめる東京で、すっかりその後下駄を忘れてしまっていた。それは車を運転するようになったからかもしれない。先日大学時代の後輩T君が私の学生時代の印象として、「下駄履きだった先輩」と言われ、「アッ」と心の中に響いたものがあった。そうだ、夏は下駄履きが最高!と。夜宮の屋台を浴衣で下駄履きは日本人の源風景ではなかったか。
 このところお日様が顔を出さずに、雨が降り続いている。湿度もかなり高い。来週から天気予報ではまた30℃を超える日が続くらしい。久しぶりに桐の下駄でも買いに行こう!そう思っている。下駄履きでの散歩を楽しみたいと思う八月の心だ。