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「農民芸術概論」(畑山博著「宮沢賢治幻想辞典」)

2007-08-04 06:39:39 | 私の本棚
 「農民芸術概論」宮沢賢治
 
 かつてわたしたちのの師父たちは乏しいながらかなり楽しく生きていた
 そこには芸術も宗教もあった
 いまわたしたちにはただ労働が 生存があるばかりである
 宗教は疲れて近代科学に置き換えられ しかも科学は冷たく暗い
 芸術は今私たちを離れ しかもわびしく堕落した
 いま宗教芸術家とは真善もしくは美を独占できるものである
 われらに買うべき力もなく またそのようなものも必要としない 
 いまこそわたしたちは新たに正しい道を行き 私たちの美を創らなければならない
 芸術によってあの灰色の労働を燃やせ

 という荘重な思想を核心とする賢治の実践哲学の序論である。
 賢治が花巻農学校時代に試論として生徒達に講義され、演劇活動などで一部は実行もされていた。農学校退職後にひらいた羅須地人協会での講義でさらにそれは形を整えられた。賢治は、1921年にとつぜん上京し、国柱会を訊ねたあの時以来、宗教というものの欺瞞をはっきりと感じていたはずだと私は思っている。
 法華経を通しての賢治の仏教への憧れは本物だったと思うが、それは単に法華経の狭義の範囲内にだけとどまるような狭量なものではなかった。信じようとするときの賢治のこの上名もない孤独を思うと、わたしは胸が痛くなる。
 祈りのかたちは、賢治にとって、賢治の思想と感性を伝えるもっとも豊かで正確な手段は文学であった。しかしそれは、全き無視と言う形でしか世間からは迎えられなかった。
 ごくわずかな肉親、教え子と知人たちに淡く理解されるだけでしかなかった。それほどに賢治の感性はまぶしすぎるのだ。
 他者へのアプローチの仕方として、賢治は文学を有効だとは考えにくい状況にあった。切ないけれどもそうだった。
 だが、信仰という道を迂回すれば、もう少しは共感者を得ることは出来るかもしれなかった。信仰は賢治にとって、他者へのアプローチの言語であった。そう私は考えている。
 芸術に関する部分は、いうまでもなく浅薄な鑑賞主義と、陳腐な擬人法をファンタジーと心得違いしている「赤い鳥」レベルの文壇への痛罵であり、その汚い文壇政治と権威主義への宣戦布告である。
 

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