『オール讀物』九月号の金田一三兄妹座談会を読んだ。
普段、『オール讀物』なんて買ったことなく、この座談会が読みたくて註文した。
金田一三兄妹とは金田一京介を祖父に持ち、金田一春彦を父に持つ、美奈子(長女・1944年生)、真澄(長男・1949年生)、秀穂(次男・1953年生)のこと。
美奈子さんの存在はこの座談会で初めて知った。
真澄さんはHNKのロシア語講座で目にして、苗字が金田一で顔立ちが・・・もしや、と調べてみたら春彦さんの息子さんだと知れた。
秀穂(何故か秀穂だけ呼び捨て(笑))は今やテレビでお馴染み。
写真も掲載されているが相変わらず、真澄さんは男前だ。
大学の言語学の女性教授にこの記事を見せると、真澄さんをみて「二枚目ですね」と云ったのは可笑しかった。
秀穂さんについては伊集院光が「ハローワークっぽい人」と云っていたが、さもありなん。
いや、失礼。
鼎談の中で美奈子さんが指摘していたが、
真澄さんはお祖父さんの京介似で秀穂さんは父の春彦似。
「(真澄の顔立ちは)隔世遺伝かしら」と言っていた。
さて、私はもともと春彦先生のファンで著書を楽しく読んでいたクチ。
福田恆存先生との論争や高島俊男先生の春彦批判を読んでもそれはそれでなるほどと思ったが、春彦先生はなお好きだった。
この座談会の中ではそんな金田一家の裏話が沢山知れて面白かった。
以下、興味深かった箇所を紹介したい。
・京介は子供っぽいところがあったがいつも真剣で何でも夢中になるタイプ。まだ子供だった真澄と将棋をさすときもいつも真剣だった。
春彦はある程度醒めているところがあって、真澄相手に将棋をさす京介に「あんなちっちゃな子を相手になにむきになっているんだ」とよく呆れていた。
秀穂は春彦の性格に近い。
・京介は子供や孫をよく人前で褒めていたが、春彦は逆に人前で身内のことを絶対に褒めなかった。
・戦時中、B29が東京にやってきたとき、京介は「父さんが守る」と云って竹槍か何かをもって「エイエイ」とやって、その姿をみた妻(静江)が「年寄りがあんな竹槍を持ってもB29にかなうわけないのに、バカだね」と云った。
・春彦は何事も徹底的に下準備をするタイプで「笑っていいとも!」に出演したときも、タモリの振りにどう受け答えたら面白くなるかを準備したくて、前もって質問を教えろと云ってディレクターを困らせた。この座談会にもし春彦が参加したら、シナリオを一緒につくるはめになっただろう。
・春彦は電話帳が大好きで何区には、どういう名前の人が多いとかいつも調べていた。外国に行ってもホテルに備えてある電話帳を見てブラウンが多いとかワトソンがあまり多くないとか一生懸命見て「おー」とか云っていた。
・京介は明治の人で、自分の価値観を押し付ける部分があったが、春彦にはなかった。
・春彦は文学をあまり理解できなかった。例えば漱石だったら『坊つちやん』と『吾輩は猫である』は大好きだったけど、『こゝろ』になるともうだめ。菊池寛のような快刀乱麻を断つごとしの切れ味のいい文章が好きだった。春彦自身もそういう文章を書こうとしていたようだ。
・一方、京介は言語学者というより文学者で、例えば小樽という街を説明するときも「石川啄木が愛した街で、どこからでも海が見えて、毬をポーンと放ると、毬がコロコロとどこまでも転がっていく、そういう街なのよねえ」と文学的な表現を好んだ。
・京介は「~なのよね」「~わ」と話すから女性的と言われていた。
・僕(秀穂)は京介から「言葉よりも言葉の裏にある真心や誠実さが大切」だということを学んだ、春彦はけっしてそういうことを云わない人で「言葉は言葉なんだよ。心なんか、お前、だめだよ」といってそういうのは排除する考え方。僕は京介の考え方に共感する。
等々。
この座談会で紹介されたエピソードを読んで最も感じたことは京介と春彦の違いだった。
親子で随分価値観が違っていたようだ。
春彦先生、「言葉は言葉なんだよ。心なんか、お前、だめだよ」なんて、随分醒めた人だという印象を受ける。
結局、福田恆存先生と意見が衝突した根本原因はここにあるのではないかと思う。
では、春彦先生は冷たい人だったのだろうか。
秀穂さんは言う。
秀穂「・・・春彦も、敬語はやめた方がいいと言った人だけど、言語学者というのは大体とういうことをいうふうに思うものなんだ。
その一方で、福田恆存さんや丸谷才一さんのような文学者は、やっぱり自分たちの言葉が大切だから、それを守ろうと思うし、変な言葉遣いはやめたいと言う。双方の考え方が違うのは、立場の違いなんだね。
でも、言語学者というのは、言葉は変わるもんだって、冷静になるしかないし、日本語はこうあるべきだというふうには言ってはいけないんだと思う。
(略)こうしなさいとか、こうあるべきだというような規範を与える役割は、言語学者にはなくて、むしろ文学者の役割なんだね。」
私も秀穂さんの言うとおりだと思う。
春彦先生が醒めたように映るのは純然たる言語学者ゆえのことなのだろう。
そう考えると、言葉の裏にある真心を大切にした京介先生が言語学者というよりも文学者だったという指摘はもっともだ。
ただし、春彦先生の著作からはそのような印象を受けない。
むしろ、日本的な情緒を愛する好々爺という印象だ。
それは、座談会でも指摘されていたように「金田一春彦」を演じていたのだろうか。
また、秀穂さんは言語学者の役割と文学者の役割とを峻別している。
私もこの考えに賛同するものだ。
春彦先生も「こうあるべき」といわなければあんなに批判されなかったろうに。
やはり、文学者と言語学者の価値観は根っこのところで相容れないものがある。
だからこそ、役割を峻別するべきなのだろう。
文学者である福田恆存先生や高島俊男先生が春彦先生に批判的だったのもこれで頷ける。
普段、『オール讀物』なんて買ったことなく、この座談会が読みたくて註文した。
金田一三兄妹とは金田一京介を祖父に持ち、金田一春彦を父に持つ、美奈子(長女・1944年生)、真澄(長男・1949年生)、秀穂(次男・1953年生)のこと。
美奈子さんの存在はこの座談会で初めて知った。
真澄さんはHNKのロシア語講座で目にして、苗字が金田一で顔立ちが・・・もしや、と調べてみたら春彦さんの息子さんだと知れた。
秀穂(何故か秀穂だけ呼び捨て(笑))は今やテレビでお馴染み。
写真も掲載されているが相変わらず、真澄さんは男前だ。
大学の言語学の女性教授にこの記事を見せると、真澄さんをみて「二枚目ですね」と云ったのは可笑しかった。
秀穂さんについては伊集院光が「ハローワークっぽい人」と云っていたが、さもありなん。
いや、失礼。
鼎談の中で美奈子さんが指摘していたが、
真澄さんはお祖父さんの京介似で秀穂さんは父の春彦似。
「(真澄の顔立ちは)隔世遺伝かしら」と言っていた。
さて、私はもともと春彦先生のファンで著書を楽しく読んでいたクチ。
福田恆存先生との論争や高島俊男先生の春彦批判を読んでもそれはそれでなるほどと思ったが、春彦先生はなお好きだった。
この座談会の中ではそんな金田一家の裏話が沢山知れて面白かった。
以下、興味深かった箇所を紹介したい。
・京介は子供っぽいところがあったがいつも真剣で何でも夢中になるタイプ。まだ子供だった真澄と将棋をさすときもいつも真剣だった。
春彦はある程度醒めているところがあって、真澄相手に将棋をさす京介に「あんなちっちゃな子を相手になにむきになっているんだ」とよく呆れていた。
秀穂は春彦の性格に近い。
・京介は子供や孫をよく人前で褒めていたが、春彦は逆に人前で身内のことを絶対に褒めなかった。
・戦時中、B29が東京にやってきたとき、京介は「父さんが守る」と云って竹槍か何かをもって「エイエイ」とやって、その姿をみた妻(静江)が「年寄りがあんな竹槍を持ってもB29にかなうわけないのに、バカだね」と云った。
・春彦は何事も徹底的に下準備をするタイプで「笑っていいとも!」に出演したときも、タモリの振りにどう受け答えたら面白くなるかを準備したくて、前もって質問を教えろと云ってディレクターを困らせた。この座談会にもし春彦が参加したら、シナリオを一緒につくるはめになっただろう。
・春彦は電話帳が大好きで何区には、どういう名前の人が多いとかいつも調べていた。外国に行ってもホテルに備えてある電話帳を見てブラウンが多いとかワトソンがあまり多くないとか一生懸命見て「おー」とか云っていた。
・京介は明治の人で、自分の価値観を押し付ける部分があったが、春彦にはなかった。
・春彦は文学をあまり理解できなかった。例えば漱石だったら『坊つちやん』と『吾輩は猫である』は大好きだったけど、『こゝろ』になるともうだめ。菊池寛のような快刀乱麻を断つごとしの切れ味のいい文章が好きだった。春彦自身もそういう文章を書こうとしていたようだ。
・一方、京介は言語学者というより文学者で、例えば小樽という街を説明するときも「石川啄木が愛した街で、どこからでも海が見えて、毬をポーンと放ると、毬がコロコロとどこまでも転がっていく、そういう街なのよねえ」と文学的な表現を好んだ。
・京介は「~なのよね」「~わ」と話すから女性的と言われていた。
・僕(秀穂)は京介から「言葉よりも言葉の裏にある真心や誠実さが大切」だということを学んだ、春彦はけっしてそういうことを云わない人で「言葉は言葉なんだよ。心なんか、お前、だめだよ」といってそういうのは排除する考え方。僕は京介の考え方に共感する。
等々。
この座談会で紹介されたエピソードを読んで最も感じたことは京介と春彦の違いだった。
親子で随分価値観が違っていたようだ。
春彦先生、「言葉は言葉なんだよ。心なんか、お前、だめだよ」なんて、随分醒めた人だという印象を受ける。
結局、福田恆存先生と意見が衝突した根本原因はここにあるのではないかと思う。
では、春彦先生は冷たい人だったのだろうか。
秀穂さんは言う。
秀穂「・・・春彦も、敬語はやめた方がいいと言った人だけど、言語学者というのは大体とういうことをいうふうに思うものなんだ。
その一方で、福田恆存さんや丸谷才一さんのような文学者は、やっぱり自分たちの言葉が大切だから、それを守ろうと思うし、変な言葉遣いはやめたいと言う。双方の考え方が違うのは、立場の違いなんだね。
でも、言語学者というのは、言葉は変わるもんだって、冷静になるしかないし、日本語はこうあるべきだというふうには言ってはいけないんだと思う。
(略)こうしなさいとか、こうあるべきだというような規範を与える役割は、言語学者にはなくて、むしろ文学者の役割なんだね。」
私も秀穂さんの言うとおりだと思う。
春彦先生が醒めたように映るのは純然たる言語学者ゆえのことなのだろう。
そう考えると、言葉の裏にある真心を大切にした京介先生が言語学者というよりも文学者だったという指摘はもっともだ。
ただし、春彦先生の著作からはそのような印象を受けない。
むしろ、日本的な情緒を愛する好々爺という印象だ。
それは、座談会でも指摘されていたように「金田一春彦」を演じていたのだろうか。
また、秀穂さんは言語学者の役割と文学者の役割とを峻別している。
私もこの考えに賛同するものだ。
春彦先生も「こうあるべき」といわなければあんなに批判されなかったろうに。
やはり、文学者と言語学者の価値観は根っこのところで相容れないものがある。
だからこそ、役割を峻別するべきなのだろう。
文学者である福田恆存先生や高島俊男先生が春彦先生に批判的だったのもこれで頷ける。