一昨日、「想像力が欠けていたのだ」と書いた。それにしても、ぼくは想像力が欠けすぎていたな、と思う。
10年前にとつぜん津波に襲われた人々、原発事故に見舞われた人々のことを、いつの間にかほとんど忘れていた。
あの時、それまでの生活を、日々の幸福を、とつぜん断ち切られた人たちの悲嘆と不安と困窮は、今のコロナのための不安や悲しみと比べられるようなものじゃないのだった。それに、あの時ですら、当事者でないぼくは間接的にしか心を痛めることがなかった。
そして今、目に見えないコロナにおびえている。「生きていることがうれしい」、などと言っている。いくらかは当事者なわけだ。
コロナは目に見えないから、何処にいるのかわからないから不安だ。でも放射能はさらに目に見えない。そしていくつもの町や村を住めなくし、人々をばらばらにしてなすすべもなく異郷に追い立てる。
ぼくたちにはまだ自分の今いるここに住み続けることができる。こまめに手を洗い、消毒し、人混みを避け、会話を控える、健康の維持に努める、などの対策を取ることができる。
「いくらかは当事者」と書いたが、これ自体、想像力にかけている。必死で働いている医療従事者、職を失って困窮している人々、何時倒産するかわからない飲食店や中小の企業の経営者や従業員、希望の光の見えない人たちに対する痛みの共感が欠けている。
今日、緊急事態宣言が出される。多くの人が感じていると思うが、手ぬるいものだ。これで抑え込めるのか?と疑う。
だが、ともかくできることをしよう。そして、家にいる機会の多くなるこの時に、今起きていることを、今苦境にある人たちのことを、そしてそれと同時に、ちょうど10年になるあの出来事とその人たちのことを、もう一度深く考えることにしよう。