昨日の記事は、心優しい人たちにご心配をおかけしてしまったようです。ぼくは、山の記事でもそうですが、些細なことを大仰に言ったり書いたりする癖があるので…心配してくださってありがとうございます。大した手術ではありません。この時期にやるかどうかです。
昨日はCTと超音波の検査の結果を聞きに行ったのですが、ドクトル曰く、「心臓の動きも冠動脈の状態も全く異常ありません。むしろ、循環器系に問題のある人で心臓がこんなにきれいな人は珍しいです」。うれしくなって「心がきれいだからでしょうか?」と突っ込みを入れたら、「ハハハ、それは検査ではわかりません」。(無論、「心が…」のわけはないよな。)
手術は、「こんな時期なので、病院側の都合で日にちを先延ばしにさせていただくことになるかもしれません」、だそうです。うーん、アルプスが…
明日明後日にも緊急事態宣言が、という状況下で夏山の心配をしているヤツにも困ったものだ。明日は駆け込みで鶴が鳥屋山に登る予定だったのだけど、中止しました。
さて、ここからが、今日の物騒なタイトルの本題。
このようなコロナ感染下の日々を生きているぼくたちは、たとえすでに重大な疾患を抱えている人でなくとも、何時、これまでの日常が突然に断たれる日が来るかもしれない、という不安は多かれ少なかれ感じているのじゃないだろうか?
そして、考えてみれば、コロナじゃなくても、明日、あるいは今夜、何が起きるかは分からないのだ。夜中に脳梗塞を起こすかもしれないし、大震災に見舞われるかもしれないし、交通事故にあうかもしれない。山登りであれば、つまづいた拍子に崖から転落するかもしれない。
あるいは、直ちにいのちの終わり、ではなくても、ある日重大な病気が見つかって余命宣告をされるかもしれない。
ぼくたちはふだんそのことを意識しないで生きているのだが、この状況下では、ある日発熱したり味覚が無くなったりして、とつぜん呼吸困難に陥ってECMOにつながれるかもしれないのだ。そうでなくても、受け入れてくれるところもなく自宅待機させられたらどんなに不安なことだろう。
ぼくには、そして「ぼくたちには」、と言っても良いと思うが、想像力が欠けていたのだ。日々を生きているということは、それだけで幸運なのだ。敬虔なクリスチャンなら、「毎日・毎瞬、神の恩寵によって生かされている」と考えるかもしれない。
コロナは、少なくとも、そのことを意識するきっかけにはなった。日々を生きている幸せを味わいながら生きることにしよう。
昨日の記事で「おーい/ぼくはまだ生きている」と書いたのは、また、ガラスに乱反射する朝日のきらめきが嬉しかったのは、手術がどうこうということではなくて、そういう幸福感からです。