富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

流木を観て、先人の人工洪水の知恵を思う

2017年07月17日 | Weblog

富山県では、人為の人工の洪水が、物流のために大いに利用されていた。「庄川町史」には、その記録がある。

山から伐採した樹木を、人力や馬でひきおろすような労力を要する「物流」など、原木のレベルではコストに合わないので、人工的に洪水を起こし、その鉄砲水の勢いを利用し、平野部に運んでいた。

渓谷に倒木など商品化できない木を組み合わせ、ダムを造る。そこへ、商品化できる材木の原木に、管理するためにの焼き印を施す。これが飛騨から富山への原木の「物流」の方法だった。いわゆる「鉄砲水」を計画的に行うわけである。

流れが弱くなる淵のある下流では、この流木を集めて、製材する。庄川の青島、神通川の笹津などが、製材拠点となる。富山の場合、水力発電のダムが、このような物流の妨げとなり、長期の地域紛争となった。しかし、このダムのお陰て、局地的な集中豪雨になっても、流木はダムでひとまず食い止められる。民家まで、流木が飛び込んでくることはない。改めて、木材の原木の物流には、ヘリコプター(航空機)の利用が考えられてもよい。

こ自然に倒れたような流木では、商品として木材にはならない。しかし、この膨大なセルロースから新素材が生まれたら、富山県の林業は完全に蘇生する。最近、九州の学生が富山県を学びにくる。富山の大学は、ここに着眼し、若者の人口流動を富山に導くことを考えるべきだろう。CMも九州ローカルは安い。大学の支援も、受験生の全国への告知がいる。こまめに勝る知恵はない。九州大学を筆頭に、九州はまだまだ遅れているようだ。九州のデザイン鉄道には、三協立山㈱のアルミ製品が使われている。九州にとり、富山は先進県である。

ちなみに、不二越は長崎人が創業した企業である。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

流木を観て、国土の保全義務を思う(1)

2017年07月17日 | Weblog

九州の集中豪雨が、流木の被害の深刻さを改めて国民に日本の危機を知らせている。

国防教育には問題があったが、国土保全は、根源的に国民の義務である。近現代の、日本国憲法には、納税により国家機関が国土保全の義務を負っているようである。しかし、古代の国家では、里山は自分たちで管理する。だから、ムラという経営組織が自然に出来上がった。国民であるまえに、村民である。国民一人一人が、理論上、国土保全に義務を負う。富山の場合、農家は水路の保全義務を負う。富山県政は、山林保全、治水、水系管理を基本として成立した。明治16年、富山県が生まれるまでは、水田のまわりに防風林と、稲を乾燥させるために「ハザ」といわれる樹木が植えられていた。富山県の県庁農政は、これを伐採させて、水田の日照を最優先し、品種の改良を行ってきた。県庁が、水田の風景を100%変えてしまった。

さて、山林行政はどうだろうか?今回、林業で有名な「日田市」の流木災害をみると、日本の危機は、森林のなかで進行しているというよりも、都会的な文明が日本を破壊する動力減となっていることがわかる。県立高校を卒業し、郷里を棄てた人たちは、義務として、30年間、年々、「故郷税」を負担するべきである。そうしないと、「県民権」を失い、老後の帰郷に際し、一時金として「帰郷税」を支払わせるべきである。県政は、「村」という経営組織の集合体であり、国家の行政機関の下請けではない。このことを流木被害が教えてくれる。

それと、あの膨大な流木、焼却するのですか?せめて、製紙原料や、バイオマス発電の燃料に使われるのでしょうね。国民に過剰な国土防衛義務を負わせている北朝鮮を嗤ってはいけない。山林の利を棄てた民族の国家には、未来がなくなる。

他山の石に学べる力、それがマネジメント学の基本である。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今こそ、富山人は内省力と語学力を強めるべし

2017年07月17日 | Weblog

富山マネジメント・アカデミー:不二越の本間会長の発言に怒りを覚えるのは自由である。でも、不二越があったおかげで、1945年に富山大空襲の被害があったというバカが多い。違うのです。第二次世界大戦は、新聞と大衆の「熱狂」の産物。これが歴史研究者のだした結論です。大衆の「熱気」を新聞が紙面で煽ることで、戦争と外交、さらには経済の合理性まで失います。日本が満州事変で、第二次世界大戦の口火を切った、これは世界史の定説です。ここには、内省力と語学力を踏まえた歴史の分析があります。中村哲夫著『日中戦争を読む』という著書に書いてあります。無論、真の戦争原因は、ケインズの通貨改革論が理解できなかった金融・財政の学力の低さに起因します。だから、日本の歴史研究者は、きちんと英語で深い内省力のある日本近代史を書くべきです。それなのに慰安婦問題をめぐり、世界の反日運動に魂を売っている弁護士グループがいます。富山にも、その仲間たちがいます。朝鮮半島に祖先をもち、日本の学校で教育をうけ、日本人として司法試験に合格したり、大学研究者になった植民地被害者の子孫は、子々孫々、「反日本帝国主義批判」を続けます。大メディアも、そのような立場の主張に耳を傾けます。

実は、富山人は歴史研究者としてみると、非常に優秀な日本の民衆コアーなのです。女子力が優れているのです。男の子たちは、何でケンカばかりするんだろう、という眼で世界を眺めています。富山人は、基本、祖母系の社会意識が強いのです。戦争、政治、選挙、派閥闘争、・・・これらをダメな男の子たちのゲーム、遊戯だと、根本、生活次元から突き放してみています。女子力とは、まず、内省をあまり必要としません。わざわざ外国へ行く苦労も選択しません。ほどよい生活環境を守ることに専心します。スーパーのレジ袋をエコバッグに変えた力は、富山人です。富山人は、祖父母系の社会意識にあります。ですから、男の子たちに狂気の熱狂を眺めています。たまに頑張られ、と声をかかますが、本心は、自分の扱いやすい男をそれとなく飼育することに静かな情熱を傾けています。このような富山女子論が富山人を論じる「序論」部分なのです。この夏、富山近代史研究会は、女性が主役、女性史をテーマにするそうです。そこには、内省力、語学力はありません。

不二越の本間会長は、経営者としては、大失格です。経営者に必要な基礎教養が不足しています。私は社員教育に失敗しました、と告白しただけなんです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富山人は、富山人に「縮む」な!

2017年07月16日 | Weblog

不二越の本間会長の発言に、久しぶりに越中強盗の元気が盛り返してきた。不二越にとり、富山人は知財ではない、というわけだ。その証明は簡単である。県内の大学への、県内高校生の評価を観ればよい。第一、不二越工業高校を観ればよい。

富山人は、年々「縮んでいる」ようだ。たとえば、北陸電力、北陸銀行、ともどもに純益ベースで「縮小」傾向にある。「縮小」のラインに乗り、「拡大」のラインに乗っていない。そもそも原発は、もともと北陸電力に不可欠だったか。廃炉の費用を考慮したら、明らかに陰謀集団と言われても仕方がないのが、原発族である。誤解してもらいたくない。僕は、原発再稼働の賛成派である。廃炉の費用を蓄積するためである。

世界のうちでも、石炭火力の完全燃焼の技術は、日本にしかない。石炭の液化、微細噴流化の技術は、富山にはある。そこへ、酸素を吹き込む溶鉱炉の技術を使えば、石炭火力でも、原発に近い自在の燃焼制御ができる。富山人が自己開発した技術ではない。

富山人といわれて、富山人だと居直るのは良くない。それは「縮む」という心理的な防御姿勢に過ぎない。素晴らしい「富山人」とは、江戸時代からの売薬さんの市場開拓の精神である。進んで異郷に市場を求め、先用後利、あれば邪魔にならないから置かせてください、という配置薬の精神は、まったく不二越になかったのか?それは、ある時期まで存在した。

どこかで、豊かさを得て、「縮む」現象が常態化した。IT技術をこなしきれないことが原因である。富山のインテックは、ITの成果の普及者である。そもそも、加賀は機械としてコンピューターを造れる技術集積がある。

富山の場合、物性物理学から量子力学への飛躍のプロセスにおいて、富山人の脳にある種の「縮み」が生まれたのではないか。わずか25年、特に中沖県政の時代に、なんらかの脳梗塞が生じていたのではないだろうか?

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史研究者の使命から、不二越の<社内ガン>は理解できる

2017年07月16日 | Weblog

僕は歴史研究者である。歴史家だと、司馬遼太郎には勝てない。ただ、司馬遼太郎が取材し、教えを請うた歴史研究者が存在した。複数の歴史研究者が存在する。僕は、学者としては三流である。ただ、直観だけは、若い時から一流といわれる。東芝を酷い企業だと早期に見破ったのは、15年も前。神戸学院大学の教授の時代である。当時の西田社長の講演を聞き、みごとに東芝の三流性と、その崩壊を予知した。富山では、北陸経済研究所でアルバイト待遇の調査のなかで、不二越の社内のガンが、富山人の心性にあることを見抜いていた。だから、富山大学経済学部・工学部への寄付講義では、最初から、不二越は対象外に評価している。エンジニアの知の起爆力が弱いからである。

評価法は、簡単である。「プロの眼」の眼力に聞くことである。建築・土木では、朝日建設の林和夫社長、設備工事では、アリタの在田吉保社長、その御推薦でアルスホームの原野省三社長、トンボ飲料の翠田章夫社長、それと北陸コカ・コーラの稲垣晴彦社長、スギノマシーンの杉野太加良社長である。地域金融では、高岡信金の清水康雄常務理事。今年から、インテック、富山第一銀行、朝日印刷さんのご協力をお願いした。

それ以上に、北国新聞(富山新聞)を重視している。こうした経営評論は、普通の歴史書では消される世界である。しかし、企業による地域貢献(雇用、納税、調達)を考えると、企業がになう市場経済原理の波及効果の外側に歴史像を構築することはできない。

20世紀に、これがきちんと頭に入っていた偉人は、アジアでは孫文と渋沢栄一である。その基礎教養は、孔子の儒学にある。富山人は、気がつかない。仕事を肉体労働と考え、頭脳労働を空想の遊戯と思う生活習慣が身についている。知識量はあるが、思考の方法論がない。不二越の会長の不見識を非難する前に、内省することだ。それが、孔子の流儀だ。最初から自己を肯定していたのでは、伸びる余地を自分で摘み取ることになる。今後、不二越への経営評論は、見切りから「中立」に引き上げる。少しは、気が付いたからだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

崩壊した旧制の七帝国大学の信仰

2017年07月16日 | Weblog

最新のデータでは、国際級として評価を保ちうるのは、東京大学、京都大学、東北大学の3大学、これに一橋大学、大阪大学、以下省略、というう階層の差異が生まれた。北海道大学、名古屋大学、九州大学が周回落ち。

人文、社会、自然の3分野の分けると、人文は京都大学、社会は一橋大学、自然は東大、東北、京大という順に並ぶようだ。なぜ、このような地盤の変化が起きたのか。それは、企業からの寄付講座、客員教授の派遣、それに伴う研究費の企業からの導入を「変数」として評価するからである。富山マネジメント・アカデミーは、このような市場原理による大学評価の変動は、極めて好ましいものと考えている。

21世紀は、ドラッカーの説く「ナレッジ・ワーカー」の時代である。資本はカネではなく、知財という無形の動産の形をとり始めたからである。

富山県の教育界は、高校再編ではなく、中学高校の一貫制に全面転換するべきである。東京大学、京都大学、東北大学の3大学、これに一橋大学、大阪大学の5大学への教育資源の集中を図る先読みがいる。それと、県内大学では、これら5大学の大学院の入試に突破できるように特進コースを設けるべきである。なぜか、国際先端のリンクした5大学の外では、22世紀がのぞけないからである。そこだけ、22世紀の人類の卵が生まれているからである。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加越同舟は、富山人の基本

2017年07月16日 | Weblog

加は、加賀である。越は、越中である。これに能登を加え、加越能という。明治維新のにち、廃藩置県により石川県という形で、加越能が行政統合される。しかし、明治維新により江戸が東京となり、東京の大繁盛がおこり、加越能の社会経済の縮小には、歯止めがかからなかった。それで、越中国の独立が叫ばれ、明治16年に富山県がうまれ、越中国は富山県に一元化、加賀能登は石川県となった。

富山人が犯してならないのは、加越同舟の思想である。金沢側が本気をだせば、加越能「道州」を加速させる。富山県は、分県の身分である。この分を忘れると「礼」に反する。富山県の加賀能登に対する優位は、水力発電の優位性・効率性に起因している。電気は送電線が伸びると、コストが上がる。この発電所と、電気の消費地との近接が富山県の優位を導きだした。

しかし、IT革命により、電気から電子の時代へと科学の進化がおこり、この面で、富山県人は、石川県人の大きく遅れることになった。さらに、産学協同の時代になり、富山県人は、県立大学、県内私学、さらに、国立富山大学の「経営」に大失敗した。原因は、富山県の出身者ということにこだわり、学者としても3流の人材が。大学学長の地位を楽しんだ。加賀人は、文部科学省の文教族に政界基盤を構築し、県下の全ての大学の繁栄を導いた。そのため、青年層の人口流出は、富山県ほど激しくない。

実は、越中はIT革命、この40年のなかで、加賀に惨敗を続けている。加賀は、世界最速の電子計算機を製造、関連機器も県内で作れる。超重大のバカの象徴が「不二越」だった。工業高校の卒という水準に止まり、産業人としての基礎知識は、加賀と大きく差がついた。

現在、富山県の官庁、地方自治体では、常態として「多変量解析」による経営指針の論理化に至っていない。小学校6年から中3の統計知識に止まっている。特に激しいのが、富山県庁の統計の没落である。ITのシステム化への対応を誤った。

総じて、北電、北銀のなかでも、富山人は光らない。ごね得の越中強盗といわれる「ばんどり騒動」を是とする負の遺産が克服しきれていない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

このブログから、どんどんアイデアを引き出してください

2017年07月15日 | Weblog

昨日、2017.07/15 高岡駅の地下街を活かして、北朝鮮からのミサイル飛来への避難訓練が行われた。実は、そのアイデアは、このブログが最初に提言したものである。さらに、地下40メートルが公共空間として利用できるから、高岡の丘陵性を活かした地下シェルター都市にむけ、全国最初に立候補するようにお勧めした。

富山の駅の周辺のマンションは、すべて地下都市に通じる回廊をもち、放射能汚染にたいし3か月は耐えられる施設をもつ、日本で最初の核シェルター都市を宣言することである。そのために、国土交通省の特定実験都市の第一号に立候補することである。

避難訓練は、日本で最初。嗤われても、真剣さが心地よい。日本で最初の核シェルター都市になれば、移住予約の市民権を販売できるし、なによい公務員の公務観光の資源になる。ここ掘れ、資源が地下にある。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石破待望論の再燃、地方創成の理論がいる

2017年07月14日 | Weblog

地方創成の理論は、気持ちが先行し、80点はともかう95点以上の合格点が少ない。

その基本は、人口1人当たりの国土保全の効果を定数化することにつきる。法律学の論理では、全て基本的人権の還元するから、過疎であろうと過密であろうと1人1票である。単純な人口数による社会原理である。こうした単純平等の人権主義の論理を認めている限り、日本の自由民主主義は機能しない。

富山県を例にとると、総面積を人口数で割った値が、人口1人あたりの国土保全の係数となる。広い面積で少ない人口の地域にも、県会議員数は配分できる。これだと、島根県、鳥取県は、選挙区を合区しなくてもよいという理論がえられる。ところが、最高裁は法理の府であるから、判例では、政治的な権利を単純化し、人口数だけで、現状を違憲と判断する。歴史研究者は、もっと巨視的な人口論を立論する。

モンゴル人の社会は、遊牧空間が広いために、政治的な権利を遊牧の領域の応じた部族性社会を維持してきた。イスラム圏では、基本、人口よりも領域主義である。かの「イスラム国」も領域国家を求めた。ユダヤ人も領域国家を求め、無理してイスラエルを建国した。

日本の場合、中国の歴史書には、倭国は、百あまりの国が分立して成り立つと記載されている。この百あまりの国は、江戸時代まで生きていた。わずか150年で、中央集権国家による単純化された国土像にうえに、法律学が単純人口論と主権在民論を結合させた世界史でも異常な地方分権の存在基盤を奪った。それを支持しているのが、左翼系の政党である。国家が人口と領土という領域の組み合わせで成立する以上は、区画の総面積を人口数で割ると、1人当たりの領域保全の義務と貢献が計量できる地域定数がでてくる。各県に1名の国政議員をおく理論根拠が生まれる。東京、大阪のように狭い面積に人口が密集していると、地域定数は最小値になる。昔の制度には、地方の国土保全効果を考えた深い考えが隠されていた。それを違憲とする、法理論は、国権という基本を廃棄する議論である。

自由民主党は、まだまだ理論的には、不完全な政党である。では、石破の地方創成論が現実化できるだろうか?現状では、否である。理論が不備である。8000万総人口への「縮小」と「高質」との両立をいかに理論化するのか?ただ、大事なのは、不思議にも地域政党が東京に生まれ、地方では地域政党が大阪を除いて不振であることだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不二越の本社の東京移転(その2)

2017年07月13日 | Weblog

不二越の本間会長が、富山人、富山地元大学からの採用を極力さける、という発言には、地方創成の立場から批判が寄せられている。

富山県の不二越知らず、不二越の富山県知らず。この不幸な関係が、離反を加速している。まず、不二越の内部で、富山人、富山の地元大学の卒業生が芳しい企業内業績をあげることに失敗したからである。また、採用については、富山県庁も極力、地元大学の出身者の採用を極力さけてきたから、ホンマとホンネは、ともどもに透けて見える。

富山人にとり、富山大学は、極力避けたい進学先となる。また、富山県立大学への評価は、それ以上に低い。問題は、富山県というくくりである。富山大学は、総合で全国最下位の国立大学である。文部科学省からの交付金のもらえない最下位の大学である。

ここでは、細かくふれないが、教員の専門分野における全国ランクが最下位であることと深く関係する。これが、最後の崩落に向かっていることを意味する。日本の国立大学のリストから、最初に消えるのが、富山大学であると予想されている。一部の誠実な教授が浮かされ、不誠実組が徒党を形成、優秀組は常に抜け出すことを考えている。TOEIC570点以上の方のサポートのため、私個人の私費を投じて支援していても、受講生はわずか10人程度。教員の国際経験は乏しい。

TOEFLの受験会場は、富山にはない。不二越さんが去るのは、時間の問題だった。でもね、ダメなのは、不二越さんそのものの歴史でもある。私立不二越工業高校は、過去にいくらでも有名な工業系大学への進学校にもなれたチャンスがあった。工業大学として、私立大学を経営するチャンスもあった。富山県庁を不二越色に染めるチャンスもあった。なぜマッチングしなかったのか?不二越を退職した部長級が、高齢者の雇用市場のなかで、・・・惨めすぎる。不二越が、富山から消える日と、富山県庁が、合併で消える日と、重なりあるのではないか。TOEFLの受験会場がないのが、富山県である。それだけのことだ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高齢者対策で失う社会資産の消失

2017年07月12日 | Weblog

私は75歳。後期高齢者の一員である。聞くところによると、来年度から医療費の自己負担額は上昇する。一般会計から、高齢者の医療費を補てんすると、次世代に残すべき社会的な資本の遺産が目減りする。亡国への道筋を確実に歩んでいる。

それが分かりながら、個人としては、個人負担の増額には、懸念を覚える。それは、人情であろう。ただし、極めて底辺化した高齢者からは、負担をお願いする原資がないので、勢い数的な固まりのある中から下の勤労経験のある勤勉な集団に負担をしわ寄せすることになる。互助の精神があるから、勤勉な生産労働を経験してきた側にさらなる互助を強いる仕組みが企画される。

だから、単純な損得の比較論では、過去の高齢者は、恵まれすぎである。けれども、その分、現在の高齢者が、祖父母・父母への個人負担は軽減されていたといえる。問題は、ある時点までくると、高齢者は消滅する日がくる。その結果、日本の少子化社会モデルが落ち着くところに落ち着く。総人口が8000万人の「21世紀後半の新日本」を、悲観的に見るか、それとも、人類社会から比較的に尊敬を集める中規模国家に夢を持たせるのか。答えは、少子化による競争原理社会から、個人別の到達度を慶祝する互いに励ます互助原理社会への転換とみるかである。

孔子の儒学を漢代や、のちの宋代の注による変形された姿ではなく、東周時代の孔子が直面した課題から素直に原理、原則を組み立て直すことも必要かと考えている。富山藩校の広徳館の祭酒であった杏立つは、四書五経を裸にして、孔子と向き合う準備をした。こうした過去の遺産を今に生かすなら、目先の高齢者が医療費で食いつぶす社会資産の消失を補てんすることができる。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国では、経営学が農村問題の解決を導く・・・

2017年07月12日 | Weblog

日本の経営学者は、企業を対象としている。一部、例外的に、労働者の諸権利を基軸にして、労働の組織として企業を扱う学者もいる。しかし、基本、都市型の産業を対象とする経営学である。

中国では、管理学といわれる。中国共産党の統治の正統性は、江沢民政権では、「愛国主義」などの歴史意識にもとめる「党史」主導のたちばだった。それが、汚職の横行をゆるした。管理学が、中国共産党の指導原理に採用されたのは、胡錦濤政権の「科学発展観」においてである。ここでは、群衆管理という社会統治の面での「科学的管理」に力点があった。

現在、習近平政権では、農村・農民の貧困、不衛生などの困難に対し、国家財政による取り組みを強め、一時的には、村民自治に丸投げして、農民になかにもある「汚職体質」を泥として、表層化し、見える化したうえで、県、郷の単位の中共の基層党組織を再構成し、党が統治する農業、農村、農民の三つの農にからむ問題の解決にのりだした。そこに登場したのが、農業経営学、農村経営学の学問的な方法を指導原理とする「農村管理学」である。社会主義という国家指令型経済原理により、作物の生産を農村に委託する生産管理の規律を個々の営農指導に及ぼし、村の財政の安定の柱としている。そこでは、毛沢東時代からあった農業部門への税が廃止された。その結果、県政府、郷政府が徴税のために農村に介入する「官」から、村財政に財政収入を保証する「顧客」に転ずることで、在地の共産党員の個人力量の差異を克服するようになった。

このように、中国の経営学者は、援農の次元に視界を広げ、農政学者もマルクス主義の滓を棄て、農業を経営学の手法で改善する指導性に重きをおくようになった。地域的には、浙江方式、河北方式、山東方式がある。まだまだ、先進の事例が見出せる程度である。しかし、農村で暮らすことによるストレスなど、心理的な面にも切り込んだ農村管理学が生まれたことは評価できる。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文化人?時代変化を無視する鈍感力

2017年07月11日 | Weblog

文化の力が地域起こしになる、と信じるのも、一種の宗教である。この場合、文化とは、すでに「規範文化」に分類される。演劇も「規範文化」の典型である。文化には、「規範文化」とよばれる「規範(ノルム)」と、生活文化の自然な姿で生まれるライフ・スタイルとの2類型がある。後者は、日本の大衆社会の根付いており、服装の流行、食べ物の嗜好変化に現れる。このような人たちは、新しい生活文化の価値を探る。したがって、マネジメント学とは相性はよい。文化は市場性のある無形価値である。顧客価値の創造といわれる大事な部分である。

ところが、僕もそうであるが、「論語」というような「規範文化」に従事していると、時代変化を無視する鈍感力が必要になる。ただ、僕の場合、妻や娘に学ぶことが多い。彼女たちのほうが、市場型経済原理にそくして行動しているからだ。富山市域に限ると、ライト・カルチャーが既に根付き、自然体で首都圏との落差を埋めている。「規範文化」は、書道、和歌、舞踊など、いわゆる「文化」となると、時代変化を無視する鈍感力が求められる。

では、最先端はどこにあるのか?やはり、保守的であるが、「規範文化」が壁を破り、復古から新生への活力を見出したところに生まれる。孔子は、武士であった、というのは、復古革新の大きな事例である。鈍感力も大事だか、太古からの歪み、近世のねじれ、そうした原点に返って気づく思考と重ならないと、鈍感は愚鈍となる。愚鈍は、力にはならない。鈍感力は、「不易流行」といわれる力である。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

少子化には、教員の少数精鋭化が必要だ。

2017年07月10日 | Weblog

富山には片山学園がある、という声は聞こえてこない。全寮制だから、全国から生徒を集められるはずだ。私立だから、全国区の進学校になれば、鹿児島のラサールにようになれるはずだ。なぜ、なれないのか?孫が、同じ系列の育英にお世話になったが、彼の塾講師の人間性、学力の限界は、見抜かれてしまう。あえて中学・高校一貫、寮生活の教育機関が、「感動の教育成果」を挙げていない。進学指導ほど楽な世界はない。基本、事業評価は58点である。不可とするには、惜しいが可とするには、無理。

やはり、県立高校の伝統には勝てない。片山学園は、スタートが悪い。県立高校の実力ある名教員のOBのもとで、緻密なカリキュラム形成と、その後継者の育成から始めなくてはならない。片山某に、なにがしかの神話的な学習歴がないのに、ブランド名にしてしまった。

その結果、県立高校へくるべき人材を横取りし、アメリカの大学へストレートに進学させることもできていない。たとえば、関西では、関西学院大学と立命館大学とでは、かなり学力差がある。いまや、富山は立命、同クラスの関西大学レベルが進学校の底辺となっている。なぜ、関西学院大学は、富山から遠い門なのか?英語の入試問題のレベル、コンテンツが違うからだ。そこに、ある種の質の壁がある。立命の英語入試には通用しても、関学には通用しない。プロが、不都合を隠すから。そこに壁ができる。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

指導者の情熱を妨げる学力の限界

2017年07月10日 | Weblog

TMA講師代表;富山県立大学の有力な教授に、過去10年の入学、教養、専門、就職のBigData処理をされて、課題を整理されたことがあるかを質問したところ、無い、という回答だった。世間的には、就職率100%、と吹聴する。どこでも、就職率100%が当たり前の時代である。これに、古い大学であると、卒業後の企業内での評価、特に30歳での人事評価が問題になる。工学部の単一の大学であるから、BigData処理は比較手に容易である。これは、基本、教務、就職の担当事務局の仕事である。しかし、分析システムを創造するのは、情報工学の役目である。

多変量の解析を要するが、基本、ウインドウズPC2台でできる作業である。これは、どの高等学校出身の生徒が伸び率がよいのか、あるいは、出身高校に関係なく、何がつまずきの原因なのか?、英語の基礎学力の構造分析も、入試のデータと、その後の学力強化の道筋も。ウインドウズPCでできる。いかに、教授陣の情熱があろうとも、偏差値という自嘲があり、「うちの学生には無理」といっている間に、教授陣が時代から大きく遅れていく。

大学教育の基本は、学力形成である。何が基本学力なのか?文系でも、理系でも、母国語である日本語に内在するロジックの摘出能力と、外国語である英語のロジックとの、2つの異なる言語体系の違いと、共通項目を相互に読み替える力がいる。アメリカでは、ミシガン大学が方法論を開発しているが、富山の英語教師が、そこへ留学したことを聞かない。TOEFLのスコア―をもたないで、英語教師として採用しているのが指導者としての恥ずかしさである。少子化には、教師の少数精鋭化が必要だ。

なぜ、富山大学にはヘルン文庫があるのか?それは、夏目漱石をして、東京大学の文学部の英語教師を辞職させた心因がある。ラフカディオ・ハーン、小泉八雲が、美しい英語の詩を暗誦し、特にアイルランドの詩で学生を感動させたことに遠因がある。それで、夏目は東大の教壇を去った。プロの作家となった。小泉八雲も、プロの作家であったからだ。では、小泉八雲は言語学者であったろうか?

教育者で、英語教育のメソッドをもっていたのは南日恒太郎である。その教科書は、富山大学の経済学部の書庫に眠っている。英語教育の原点を探るには、言語学者としての英語研究者が望ましい。教育者には不適な英文学者が多すぎる。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする