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詩篇91篇7~9節(ヨハネ13章)

2016年11月29日 08時12分15秒 | 聖書


★『千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。
あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。
それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。』


■O:今日のコラム
私たちは、安定した歩み、心、生活を求めたいと思うものです。それならば、困った時に主に願い、避けどころとなっていただくだけでは不十分です。主と共に住まう事を求める時です。
  安定した生活とは、目の前に困難や問題がやってこないという事ではないのです。この聖句でも、霊的な戦いの中にいて、その最前線に立たされているからこそ、私たちの『かたわら』や『右手』に敵が倒れるのをながめているのです。血潮の宣言で用いている申命記28章にもこうあります。

『主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。』(申命記28:7)

  敵は目の前までやってきます。私たちは、自分からはるか遠くで敵が滅んでくれたら良いと感じます。しかし、主は、目前まで敵を引き寄せ、そこで打ち破り、神に対する信頼を学ばせます。私たちの安定した生活というのは、問題がない生活ではないのです。問題があってもそこに勝利がある事を確信している生活なのです。
    私たちが、攻撃されて傷ついて、主に助けていただいて、解決を見て、という歩みも良いものです。しかし、それはまるで士師記の時代の生き方です。傷ついて癒されて、というパターンよりも、攻撃がまるで効かない状態に入っていることが理想です。治療より、予防が優れているのと同じです。私たちが主を住まいとするならば、敵の武器は役に立たなくなるのです。
    この住まうという語は、(へ)マオーンですが、その類義語に(へ)オナーがあります。オナーとは、婚姻の権利とか、同居という意味です。私たちが、『自分は自分のもの』という生き方から、『私は主の妻』、『私の心も身体も主のもの』という生き方をする時に、主を住まいとするという御言葉が実現するのです。私たちの夫が主であるなる事を認めるでしょうか?『妻は自分のからだに関する権利を持っておらず、それは夫のものです』(1コリ7:4a)とある通りです。
    私たちのワンシングはこれです。

『私は一つのことを主に願った。
私はそれを求めている。
私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさを仰ぎ見、
その宮で、思いにふける、そのために。』(詩篇27:4)

  しかし、主の家に住まう事を求めるとは、祈りの生活をする事(第一の戒め)」と共に、生活の中で主にからだを捧げる事(第二の戒め)でもあるのです。第一の戒めが最優先ですが、第二の戒めも同じように大切なのです。


■A:考えてみよう
自分の全部が主のものである事を認め、肉を手放す事を惜しまない。主を主として生きる。主を夫として生きる。


■P:祈り
心を尽くし、精神を尽くす事に終わらず、力を尽くしてあなたを愛します。私はあなたのものです。私を通してあなたのなさりたい事がなされますように。


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