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◆主の使いの前に立っている大祭司ヨシュア……。

2016年11月27日 09時10分07秒 | 聖書
(ゼカリヤ三・一)
「大祭司」ヨシュアの中に、神の子らの絵を見る。彼はキリストの血によって近づけられ、聖務に携わることを教えられ、幕の中に入る。イエスは私たちを神の前に祭司とし、王とされた。私たちは、地上においても、聖い生活と尊い奉仕によって祭司の務めをなす。
この大祭司は「主の使いの前に立っている」と言われているが、これは奉仕のためであった。これはすべての真の信者がとるべき態度である。すべての場所が今や神の宮であり、神の民は彼らの日々の仕事において、神の家におけるように真実に神に仕えることができる。彼らは常に祈りと賛美の霊の犠牲をささげて仕え、彼ら自身を、「生きた供え物」としてささげなければならない。
しかしヨシュアが仕えるために、どこに立っていたかに注意せよ。それは「主の使いの前」であった。私たちのように、あわれな汚れた者が神の前に祭司となることができるのは、ただ仲保者を通してのみである。
私は自分のもっているものを、使者であり契約の使いであられる主イエスの前にさし出す。私の祈りは主の祈りに包まれて受け入れられる。私の賛美は、キリストご自身の花園から取り出された没薬、アロエ、肉桂の袋に包まれて、尊い香りを放つ。もし私が涙のほかに何も主の前にもち出すことができないとすれば、主はそれをご自分の涙とともにその皮袋に蓄えられる。かつて主は涙を流されたからである。もし私がうめきと嘆息のほかは何も主の前にもち出すことができないとすれば、主はそれをみこころにかなう犠牲として受け入れてくださる。主はかつて断腸の思いをし、たましいの苦悩を経験されたからである。
私自身も主にあって立ち、愛する者によって受け入れられている。私のなすすべての汚れたわざは、それ自体は神の憎まれるものであるが、神はそれを受け入れ、それに良い香りさえつけてくださる。主は満足され、私は祝福される。それゆえ、「主の使いの前に立っている大祭司」であるクリスチャンの立場を考えよ。
 

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