1:30 ゼブルンはキテロンの住民とナハラルの住民を追い払わなかった。それで、カナン人は彼らの中に住み、苦役に服した。
ここではエフライムやゼブルン、アシュル、ナフタリなどの人々のことが語られています。
彼等は、イスラエル12部族の一員でした。
彼等がしたことは、共通した言葉によって語られていますが、「住民を追い出さなかった」と語られています。
つまりその征服した地から、その地に元々住んでいた人を追い出すことをしなかった、と告げているのです。
これは先のマナセと同じように、彼らの例にならって、占領はしたけれども、その地に住んでいた人々を追い出さなかった、と語っているのです。
皆、他の部族がしていることを見て、同じようにしたのです。
これは現在でも同じです。
主の御心ではないと思っても、他の人が行っているから大丈夫だと思ったり、自分たちの利益になるからと思って行ってしまうのです。
現実の利益の方を優先するのです。
こうして、主の御心が無視されるのです。
私をお救いください…救いは主にあります」(詩編3:7)
ダビデはバテシバとの罪を刈り取らねばならなかった。
実子アブシャロムが自分に歯向かい、謀反を起こしたのだ。
ダビデにとって痛い非常に辛い事であった。
彼は、武力により鎮圧しようと思えば出来たが、主に委ねて、自分が去り、逃げる道を選んだ。
祭司ツァドクとエブヤタルも、契約の箱をもってエルサレムを出ようとしたが、ダビデが止めた。
理由は、「主の恵みにかなうならば、私を連れ戻して下さるだろうし、もしそうでなくても、主が私に良いようにして下さる」。
ダビデは、罪を犯す以前の、信仰によって歩むダビデだ。
自分で自分を守ろうとせず、自分に関する事をすべて主に委ねている。
そして、武力で立ち向かうのでなく、神に祈り、神に求めている。
「私は声をあげて、主に呼ばわる。
すると、聖なる山から私に答えてくださる」。
私達も問題が起こる時、なすべき事は、自分で動かず、主に呼ばわる事だ。
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物事の背後におられる主をいつも覚え、助けを求めよう。
事がどう動こうとも御心の真ん中が一番の幸せだ。
あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。
彼がつまずくとき、
あなたは心から楽しんではならない。(箴言二四17)
きのうは、神を信じる人・神を喜び神に従う人は、「七ころび八起き」だというところでした。きょうは、「たとえ、人がつまずき倒れても、けっして喜んだり楽しんだりしてはならない」ということです。私たちの心のどこかに、やはり、そんな気持ちが巣くっているのではないでしょうか。ある高校生に、「高校時代に一番、心の友が得られるのではないのですか」と話しかけたら、「いいえ、とんでもない。ぼくたちはみんなライバルです」と答えました。
私たちも、自分の心を正直にふりかえってみると、夫婦でありながら、配偶者が自分より評判がよいと、それをねたんだり、子どもが自分よりほめられると、ひがんだりするようなところがないでしょうか。キリスト教の牧師でありながら、ほかの牧師が自分より人を集め、成功していると心が晴れない。友人の牧師が、なかなか教会に人を集められないでいると、心の奥底のどこかで優越感を感じる。そのことを楽しんでいる。――人の心というものは、したたかに自分勝手な罪深いものです。
私がつまずき倒れているのを心から悲しみ、憂い、私を救うためにいのちまで投げ出してくださった方がおられます。――その方こそ、私の主、私の救い主キリストであったのです。私がつまずき倒れたのは、九九・九九%まで自業自得というか、自分自身の罪のせいだったと思います。それにもかかわらずキリストは、私が倒れてもつまずいても、それを喜んだり楽しんだりするようなことは少しもされませんでした。私と共に、いいえ、私以上に悲しみ、私が知らない先に、私の罪の身代わりとして十字架にのぼってくださったのです。
(コロサイ一・五)
私たちがキリストにあってもつ将来への希望は、地上における私たちの喜びの要因となり支柱となる。天国を思うことで、私たちの心には力があふれる。私たちの望み得るすべては、天国において約束されているからである。この地上で私たちはうみ疲れている。しかし、あの天国は安息の場所であり、働く者の汗が額に流れることはなく、決して疲れ果てることもない。
「安息」ということばは、天国を覚えさせる。常に私たちは戦場にあり、内には誘惑、外には敵がいる。そしてほとんど平安がない。しかし、天国で私たちは勝利を楽しむ。その時勝利の旗は高くひるがえり、剣はさやに収められ、将軍が「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言うのを聞く。私たちは死別に次ぐ死別の悲哀を味わっている。しかし、私たちは決して死ぬことのない国へ行こうとしている。そこでは墓は全く知られていない。この地上では、私たちは罪のために不断に苦しんでいるが、あの国では、私たちは完全に聖なるものとされる。なぜなら、汚れたものは決してその国へ入ることができないからである。
天国にある畑には毒草は生じない。おお、あなたがたが永遠の流刑にされず、また、永遠にこの荒野に住むことを余儀なくされるのでもなく、まもなく約束の地カナンを受け継ごうとしているとは、なんという喜びであろうか。しかし、将来を夢見て、現在をなおざりにしているとの非難を、決して受けることのないようにしようではないか。将来が現在を聖化し、かつ最も有用なものとするようにしたい。
聖霊の働きによって、天国の希望は徳性を作る最も有力な要素となる。それは喜びに満ちた努力の泉であり、楽しい聖潔の礎石である。この希望をもつ人は、その働きも活発になる。それは主を喜ぶことがその人の力となっているからである。彼は熱烈に誘惑と戦う。そして来世の希望が敵の放つ火矢を撃退するのである。彼は現在の報いをあてにしないで働く。なぜなら、来るべき世に報いを期待しているからである。
★ 伝4:7 わたしはまた、日の下に空なる事のあるのを見た。
★ ピリ4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
■O:今日のコラム
10月1日の朝です。今日1日神様によって喜び楽しんでいきましょう。主にあっていつも歩む時、僕らが一番祝福を味わうことができるからです。
ソロモンさんは、僕らが想像できないほどの裕福な生活をしていました。が、その中で、何度も何度も空なる事のあるのを見ました。「わたしはまた、…」何度も何度も空しいことばかりを感じました。
しかし、パウロさんは、繰り返して、「喜びなさい!!」と何度も何度も繰り返して言っています。何が違うのか。それは、「イエス様にあって!」かそうでないかです。僕らは、イエス様にあって、この世界でも喜ぶことができるのです。
パウロさんほど患難苦難にあった人はイエス様以外にいないかもしれません。パウロさんは、どんな境遇でも満ち足りることを学びました。
それは、「イエス様にあってどんな時でも、私は私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです!」という信仰を成長させていったのです。何も思い煩わず心配事を委ねて良いことを実戦していったのです。人知では測り知れない神様の平安が、キリストであるイエス様にあって、僕らの心と思いを守ってくださるのです。
そのために、イエス様が、十字架と復活を味わってくださったのです。僕らは、イエス様にあって喜ぶことができるのです。
ソロモンさんは、空しさを見ながら、一人より二人の強さ、そして、三よりの綱がたやすく切れないことを突然語りました。
三位一体の神様が僕らの味方ならば僕らは圧倒的な勝利者です。僕らがイエス様にあって、イエス様と共に歩むならば、僕らは圧倒的な勝利者なのです。イエス様にあって喜ぶ1日を選びとっていきましょう。
■A:考えてみよう
イエス様を求め、イエス様にあって喜ぶ1日になるように祈っていきましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。