今日はお一人ですか?
http://www.youtube.com/watch?v=vRDYN5Xzlvw&list=UUbWpAO8OFlAyfbG5Uqll9CQ
明日から別々の人生を演じるのですね
http://www.youtube.com/watch?v=LFfJJ13o3xI&list=UUbWpAO8OFlAyfbG5Uqll9CQ
ここはいつでもあなたをお待ちしています。
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3:27 エフデは行って、エフライムの山地で角笛を吹き鳴らした。すると、イスラエル人は彼といっしょに山地から下って行き、彼はその先頭に立った。
王の家来たちが手間取っている間に、エフデは逃げていきました。
そしてエフライムの山地に行って、そこで角笛を吹きました。
人々を自分の所に集めるためでした。
彼は彼らに命じて、自分と一緒にモアブの軍隊を攻めるように勧めました。
その結果、モアブの軍人は大変強い人々でしたが、主の助けによって、イスラエルの民はモアブの軍に勝って、自由を獲得しました。
その結果、イスラエルの民は80年もの長い間、平和を維持することができたのです。
エフデの死後、主は、イスラエルの民がモアブとは反対の地にいるペリシテ人に苦しめられた時、シャムガルという人物を起こしてくださいました。
彼は士師としてぺリシテ人と戦い、イスラエルの民を救いました。
彼は牛の角で、600人のペリシテ人を打ったと語られています。
神様はいろいろな方を、いろいろな方法で用いられて、主の民を守ってくださったのです。
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(ヨハネ一四・二六英訳)
今は特に聖霊の時代である。イエスは私たちを励ますのに、やがてなさるように肉体的なご臨在をもってはなさらずに、聖霊の内住をもってなさるのである。聖霊は、いつも教会の慰め主である。神の民の心を慰めることは、聖霊の職分である。聖霊は罪を自覚させ、照らし、教えられる。しかしそれにもかかわらず、聖霊のみわざの主要な部分は、新生した者の心を喜ばせ、弱い者を強くし、すべての衰えた者を引き起こすことである。彼らにイエスを啓示することによって、聖霊はこのことをなされる。
聖霊は慰めるが、キリストは慰めそのものであられる。たとえを用いるならば、聖霊は医者であり、イエスは薬であられる。聖霊が傷をいやされる。しかしそれは、キリストの御名と恵みとの聖なる膏薬をお用いになることによる。聖霊はご自身のものではなく、キリストのものをお用いになる。したがって、時々するように、聖霊にギリシヤ語のパラクレートス(慰め主)という名をささげるなら、私たちの心は、尊い主イエスにパラクレーシス(慰め)という名をささげる。
クリスチャンに対してこのように豊かな備えがなされているのに、なぜ悲しみ、失望するのであろう。聖霊は、あわれみ深くも、あなたの慰め主となられた。おお、かよわいおののいている信者よ。聖霊がその聖なる責任をなおざりにされると思うのか。聖霊が不可能なことや、欲しないことを引き受けられると思うのか。あなたを力づけ、慰めることが聖霊の特別な任務であるとすれば、聖霊がその本務を忘れたり、あなたに対する愛の務めを怠ったりされると思うのか。否、「慰め主」の名をもち、優しく、尊い聖霊に対して、そのようなひどい考えをもってはならない。聖霊は喜んで、嘆く者には喜びの油を、くずおれた者には賛美の衣を着せてくださる。
聖霊に信頼せよ。聖霊は必ずあなたを慰め、ついに嘆きの家はとこしえに閉ざされて、婚宴が開かれるようになるであろう。
忍耐強く説けば、首領も納得する。
柔らかな舌は骨を砕く。 (箴言二五15)
小さな水のしずくでも、長い間には堅い岩に穴を開けます。京都の古いお寺などに見物に行って、雨だれ落ちの下の石のくぼみなどを見る時、忍耐のない自分自身のことを、いつも考えてしまいます。自分の言い分が無視され、ことに好意や愛情が退けられると、「勝手にしろ」とあきらめたり反発したり怒ったりしてしまいやすいものです。骨もくだき、石にも穴を開け、ボスまで納得させてしまう忍耐強さは、いったいどこから来るのでしょうか。
聖書も、あちらこちらで忍耐の徳を説いています。神から約束のものを与えられるために必要なものは、一に忍耐、二に忍耐、三、四がなくて五に忍耐、とは言っていませんが、とにかく必要なのは、忍耐だと言っています。もし神が私と同じように気が短く、忍耐がない方ならどうでしょう。
かつてソ連が、堪忍袋の緒を切って水素爆弾で日本を総攻撃するなら、十五秒で日本は全滅すると聞きました。
神が人間の罪・私の罪・人間の偽り・私の偽りに怒りを発せられたらどうなるかと思えば、ぞっとします。しかし、神は実に忍耐深く、あらゆる機会をとらえ、あらゆる環境を利用して、堅い私の心に愛をしたたらせ、愛の柔らかいことばをかけてくださいます。これは、どうしてでしょうか。それは、神の本質が愛だからです。そして、永遠のプロセスの中で、こんな私をも神が信じてくださり、期待しておいでになるからではないでしょうか。
ほんとうの忍耐は、自己への確信や自己主張でなしに、愛と、愛から出る信仰と希望にあるように思うのです。
「愛は……すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(Ⅰコリント一三47)と聖書は言います。
(詩篇一一九・一五)
孤独が交わりにまさり、沈黙が会話よりも賢明な場合がある。私たちがさらに孤独になり、神に仕え、みことばを熟考することで、奉仕のために働く霊的な力を蓄えるならば、さらに良いクリスチャンになることができよう。私たちは神のことを黙想しなければならない。それによって真の栄養を得るからである。
真理はぶどうのふさのようだ。もしそれからぶどう酒を得ようとすれば、私たちはそれを押しつぶさなければならない。何度も何度もくり返して押しつぶし、しぼらなければならない。酒をしぼる者は、楽しそうにぶどうのふさを踏まなければならない。そうでないと、ぶどうの汁は流れ出ない。またぶどうは、ていねいに踏みつぶさなければならない。そうでないと、多量の貴重な汁がむだになる。同じように、もし私たちが真理の中から慰めのぶどう酒を得たいと思うなら、黙想によって真理のふさを踏まなければならない。
私たちのからだは、単に食物を口に入れるだけで支えられるのではない。実際に、筋肉、神経、腱、骨を養うのは消化による。外なる食物が内なる生命に同化されるのは、消化の働きがあるからである。私たちのたましいは、単に神の真理を聞きかじることによって養われるのではない。聞くこと、読むこと、しるしをつけること、学ぶこと、これらの働きを完成し、有用なものとするには、内なる消化が必要である。そして真理の消化は、大部分はその黙想によってなされる。
多くの説教を聞きながら、信仰生活が遅々として進歩しないクリスチャンがいるのはなぜか。彼らが密室を無視し、神のみことばを沈思黙考しないためである。彼らは小麦を愛する。しかしそれを粉にひこうとはしない。彼らは穀物を得たいと思うが、畑に出てそれを収穫しようとはしない。果実が木に実っていても、もぎ取ろうとはしない。水が彼らの足もとに流れていても、彼らはかがんでそれを飲もうとはしない。
おお主よ。このような愚かさから私たちを救い、「私は、あなたの戒めに思いを潜め……」というみことばを今朝の私たちの決意とさせてください。
3:25 それで、しもべたちはいつまでも待っていたが、王が屋上の部屋の戸をいっこうにあけないので、かぎを取ってあけると、なんと、彼らの主人は床の上に倒れて死んでいた。
エフデが王の部屋からで出て行っても、王はなかなか出てこないので、家来たちは王は用をたしているのだろうと思いました。
しかしなかなか出てこないので、かんぬきを壊して中に入ってみると、王は倒れて死んでいました。
家来たちはさぞ驚いたことでしょう。
私たちはこうした時、エフデでは人をだまして殺害したりして、ひどい人だと思うことがあるかもしれません。
しかしよく考えてみますと、この王が起こされたのは、イスラエルの民が罪を犯して神に背いたからでありました。
裁きの器として起こされた人です。
従ってその王が、主の御心に背いてイスラエルの民をむやみに苦しめるのであれば、この王を立てた主は、その王をも滅ぼすというのは当然のことです。
エフデはそのための器として用いられたのです。
つまり、苦しむ主の民を、主はエフデの働きを通して、救ったのです。
★ 岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩よ。私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」
■O:今日のコラム
雅歌は、おとめと花婿の麗しい愛の交わりが記された書ですが、これは霊的な意味においては花婿なるキリストと、キリストの花嫁である私達の愛の交わりを意味する書です。
それなので雅歌は聖霊様の導きの中で、キリストとの親密さを求めて読みましょう。
今日の箇所には、花婿からおとめへの愛の呼びかけが記されていますが、その中で彼は、おとめの美しさを言い表すと共に「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえておくれ。私たちのぶどう畑は花盛りだから。」と言っています。
これは私達の信仰生活の中で主イエスとの親密な愛を持ち、主にある豊かな実を結んで生きる為の非常に重要な御言葉です。
多くの場合、罪への誘惑や、信仰の情熱の後退は、「子狐」の様に小さな事から始まります。
私達はいきなり無意識の内に性的な罪を犯すという事はありません。まずは心や思いの領域において汚れた情欲の思いを起こし、それを繰り返し思い描く中で肉体においても罪の行動をする事となるのです。
盗みにおいても同じです。「欲しい」というむさぼりの思いを心の中に持つ中で、自分の持って無いものを盗んででも手に入れるという行動に発展します。
さらに殺人においても、まずは心の中で人に対する憎しみや、ねたみ、怒りや、赦せない思いを持つ中で、その思いが熟して殺人の罪にまで繋がる事となります。
全ての事は、心や思いの中に働く「子狐」の様に小さな領域から始まって行きます。それを私達の内に放っておくなら、いつの間にか罪を犯す事が習慣的な領域にまでなってしまいます。
箴言の中には「悪へ走るのに速い足」を主が忌みきらわれる事が記されています。これは習慣的な罪の囚われを意味する言葉です。
しかし、愛に満ち溢れた花婿なるイエスは、私達を心から愛するが故に、十字架の上で命をかけて私達の罪を全て背負い、その束縛の鎖から完全に解放して下さいました。私達の罪を聖めるのはただ、主イエスの十字架の血潮だけです。
そして、この豊かな恵みを受けると同時に私達は、主を愛するが故に、人生かけて主イエスに従って生きて行く決心をする必要があります。
その中で主が私達に願われる事の一つが、「あなたの心を子狐から守りなさい。」という事です。力の限りを尽くして私達の心を見守りましょう。命の泉はここから湧くからです。
私達はまず自分の心の見張り人となる必要があります。なぜなら、私達の思いは本来、主の素晴らしさを仰ぎ見て、主の麗しさに思いふける為にあるからです。
イエス様の十字架の力によって私達の思いと心の領域を主の贖いの元に勝ち取りましょう。
絶えず私達の内が聖霊の炎と御言葉によって徹底的に聖め尽くされますように。その事を共に切に願い求めましょう。
■A:考えてみよう
今日、熱心な悔い改めを持って主にある聖さを追い求めましょう。それは恐れや、脅迫からではなく、麗しい花婿を慕い求める愛の故にです。
■P:祈り
麗しい主よ。雅歌を通してあなたとの親しい交わりの領域へと私を導き入れて下さい。主が喜ばないものを取り除き、私の心は主との愛の交わりの中で生きる、花盛りの畑の様になりますように。
聖霊様、絶えず私を導いて下さい。愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。