座間コミニティー

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◆御霊は……わたしのものを受けて、

2013年10月22日 16時38分59秒 | 聖書

あなたがたに知らせる……。(ヨハネ一六・一四)

聖書のすべての約束も教義も、恵みの御手がそれらを私たちに適用してくださらなければ、役に立たないことがある。私たちは渇いている。しかし谷川まで行くには、あまりにも弱り果てている。兵士が戦場で傷ついた時、病院に傷口をほうたいしてくれる人々がいて、苦痛を和らげる薬があることを知っていても、彼にとってそれはほとんど益にならない。彼に必要なことは、そこまで運ばれて手当てを受けることである。私たちのたましいもこれと同じである。そしてこの必要を満たしてくださるのは真理の御霊であり、御霊はイエスのものを受けて、私たちに適用される。
キリストはご自分の喜びを天の棚に置かれ、私たちが上って行ってそれを自分のものにするようにされる、と考えてはならない。主ご自身が私たちに近づき、主の平安を私たちの心に注いでくださる。クリスチャンよ。今夜あなたが深刻な苦悩と戦っているならば、あなたの父は約束を与えておいて、井戸から水をくみ出すように、みことばの中からあなたにそれをくみ出させるようなことはされない。みことばの約束を、新たにあなたの心に書き記されるのである。あなたに愛を示し、あなたの心労を、神の尊い御霊によって打ち払われるのである。
おお、嘆く者よ。神がその民の目からすべての涙をぬぐい去られるのは、神の大権であることを知れ。イエスは、単にあなたに約束のすばらしいぶどう酒を与えられるだけでなく、金の聖杯をあなたのくちびるにつけて、いのちの血を注がれる。長い旅路に疲れた病んだあわれな巡礼は、歩けるように力づけられるだけでなく、鷲の翼に乗せて運ばれるのである。
栄光ある福音よ! それは無力な者のためにすべてを備え、それに達することができなければ、ご自身が近づかれる。――私たちが恵みを求めるに先だって、私たちに恵みをもたらす。その賜物に栄光があるように、その与え方にも栄光がある。イエスを知らせる聖霊をもつ人は幸いである。

 


◆むちでなければ分からない者

2013年10月22日 07時42分33秒 | 聖書

馬には、むち。ろばには、くつわ。
愚かな者の背には、むち。      (箴言二六3)

あなたにとって、「愚かな者」とはどんな人のことですか。学校のテストで悪い点をとるのが、頭の悪い「愚かな者」だと思う人もいるでしょう。それとも、のろまで要領の悪いのが「愚かな者」だと思う人もいるかもしれません。しかし、ほんとうの意味で「愚かな者」とは、いったいどういう人でしょうか。
昔、私が勤めていた職場で、危険なセックスの火遊びをしている女性がいました。その人は、頭がよくて仕事のできる人でした。私の上司は、心から心配してアドバイスしたのですが、ばかにしてその忠告を受けつけませんでした。ついにその女性は、職場を捨ててその男性を選ぶ選択をしました。そして、しばらくしてから、もみくちゃにされて捨てられてしまったのです。
同じころ、その職場で、ある牧師を招いて一同で聖書の話を聞きました。その時私たちは、心をサーチライトで照らされたように感じたのです。この話の後、一人の同僚がその牧師のところへ行って、自分がいま陥っている罪深い女性関係について告白し、涙を流して悔い改めました。私たちはびっくりしましたが、彼自身はみごとに立ち直ったのです。
いま私は、この二人のことを思い返してみました。賢そうに見えたあの女性は、実は愚かだった。涙なんか流して、格好よくなかったあの男性のほうが、結局は賢かったと思うのです。最後のむちがくだるまで、自分の罪深さ・弱さが分からない、受け入れない。最後のむちがくだるまで、自分以外の人の正しさが分からない、受け入れない。神がいらっしゃることを受け入れない。神の正しさ・きよさ・愛を認めない、受け入れない。――これこそ、人の最も愚かな愚かさではないでしょうか。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇五一17)。

 


◆わたしは……

2013年10月22日 07時41分51秒 | 聖書

喜んでこれを愛する。(ホセア一四・四)

この聖句は神性の本質の縮図である。この意味を理解する者は一流の神学者であり、その深い意味をくみ取ることができる者は、クリスチャンの中でも奥義を極めた者である。これは私たちの贖い主キリスト・イエスによってもたらされた輝かしい救いのメッセージの要約である。
この聖句の中心は「喜んで」ということにある。これは愛が天より地に注がれるための栄光に満ちた神の方法である。すなわち、自発的な愛が、それを受ける価値のない者、買うことのできない者、また求めることをしない者に注がれるのである。事実、神が私たちのような者を愛される方法はこのほかにない。
今朝の聖句は、私たちの側に神の愛を受けるに値する何かがあるという議論に致命的な一撃を与える。「わたしは……喜んでこれを愛する。」もし私たちの側に、神の愛を受けるために必要な何かの適性があるならば、神は私たちを喜んで愛されないであろう。私たちはつぶやく。「主よ。私の心はあまりにもかたくなです」と。しかし「わたしは喜んで愛する」と答えられる。「しかし、私は心に願っているように、キリストの必要を感じないのです。」「わたしは、あなたが必要を感じるから愛するのではない。わたしは喜んであなたを愛する。」「しかし、私は心で欲しているようなたましいの素直さを感じることがありません。」覚えよ。たましいの素直なことは条件ではない。恵みの契約に条件はないからである。それゆえ、私たちは、何の適性もなくキリスト・イエスにあってなされた「御子を信じる者はさばかれない」との約束にすがることができる。神の恵みが常に喜んで提供され、準備も適性も価もなく与えられることを知るのは幸いである。
「わたしは……喜んでこれを愛する。」このみことばは信仰から離れた者を呼び返す。事実これは特に信仰後退者のために記されている。「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。」信仰の衰えた者よ。この寛大な御約束はあなたの心をただちに砕き、あなたが悲しませていた神の御顔を求めさせるであろう。

 


士師記6章1-6節

2013年10月22日 07時34分54秒 | 聖書

6:2 こうして、ミデヤン人の勢力はイスラエルを押さえたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにした。
6:3 イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。


デボラが士師として民を治めていた40年の間は、民は平穏でした。

しかしその支配が終わると、また民は、神に対して罪を犯しました。

偶像礼拝へと走ったのです。

 そこで神様は彼らに対して怒りを発せられて、今度は7年間ミデアン人の支配下に彼らを置いて、彼らを苦しめられました。

イスラエル人たちは、自分たちの住む所を追われました。

その結果、住むべき所は、洞窟や洞穴であったと言われています。

それのみではなく、生産物においても、彼らは略奪を受け、イナゴのような敵の大群によって、自分たちの羊や牛やロバのえさまでも奪い取られていく状況に置かれました。

罪の故に受ける主からの裁きには、このような衣食住全般における、具体的な苦しみでもあったのです。



ダニエル書7章14節、ダニエル書8章14節(聖書本文は口語訳)

2013年10月22日 07時32分37秒 | 聖書

 ★  7:14  彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。

★  8:14  彼は言った、「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」。

■O:今日のコラム

10月22日の朝です。今日1日も神様が用意しておられるゴールを見て、確信を受け取り歩んでいきましょう。目の前の思い煩いに負けないためです。

神様は、僕らにすべてのことを教えてくださいます。この世界の最後も教えてくださいます。サタンは必ず敗北します。主の主権は永遠の主権です。今、サタンがのさぼって、大きな顔をして、僕らにも影響を与えてきますが、必ず聖所は清められ正しい状態に復します。

イエス様は、十字架に架かられる時、喜んで御自身を捧げてくださいました。十字架の後には復活があり、その後には聖霊様がこの地で僕らの内側に住み、永遠に共にいることができることを、イエス様は見て、知って、喜んで、苦しみの中に身を捧げてくださったのです。

僕らが最後を知って生きる時、嘆き悲しみの中にとどまり続けることがどれだけむなしいかを知ることになります。主が与えてくださる「信仰に導く悲しみ」もありますが、僕らはただの悲しみにとどまる必要はないのです。

僕らは圧倒的な勝利を味わうことができます。苦しく辛くどうしようもない時でも、主を求め、主を賛美し、主の主権を宣言し、主の清めを宣言し、主に期待していきましょう。主は必ず僕らに勝利を味わわせてくださるからです。

■A:考えてみよう

主を求めていきましょう。主に勝利を見せていただきましょう。
最後を知ることができるように、聖書を深く知ることができるように、聖霊様を求めていきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。