座間コミニティー

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大学

2013年10月23日 16時50分39秒 | その他

今日で、中世仏教・真言宗における日本人の祈りの講座が終了しました。

来月から仏教文化研究コースです。

本学学生と市民による講座なので今から楽しみです。

市民の方々はかなりの強者ぞろいです。

熱心なディスカッションがなされるでしょう。


◆なぜ、眠っているのか。

2013年10月23日 16時32分06秒 | 聖書

起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。(ルカ二二・四六)

クリスチャンが最も眠りやすいのは、どんな時であろう。それは、この世の環境が彼にとって最も好都合な時ではなかろうか。そのことをあなたは見いだしてはいないか。日ごとに恵みの御座に行かなければならない困難のある時、あなたは今よりは目を覚ましていたのではなかろうか。安易な道は、旅人に眠気を与える。
次に、危険な時とは、信仰上の事柄がすべて快適に運ぶ時である。『天路歴程』のクリスチャンは、獅子のそばを通る時、川を渡る時、アポリュオンと戦っている時、眠らなかった。しかし彼が「困難の丘」を半分ほど登り、快いあずまやに着いた時、腰を下ろして眠りこけたため、大きな悲しみと損失とをこうむった。また「魅惑郷」にはさわやかな風がただよい、大気はやわらかく芳香を放ち、すべてが巡礼者たちを眠りに誘うのであった。バニヤンの次の記述を覚えよ。「それから彼らはあずまやにやって来た。そこは暖かく、疲れた巡礼たちの心身をさわやかにするには、好適な所であった。なぜなら、屋根は念入りに作られており、青葉は美しく繁り、長いすも備えられていたからである。そこにはやわらかな寝いすもあって、疲れた者がよりかかれるようになっていた。」「あずまやは怠け者の友と呼ばれていて、疲れた巡礼をおびき寄せ、休息をとらせるために作られていた」と。たしかに、人はそこへ行く時、目を閉じてまどろみ、夢路をたどるのであった。老いたアースキンは、次のように言った。「私は眠っている悪魔より、ほえたける獅子のほうが好きだ」と。全く誘惑されないことほど危険な誘惑はない。苦悩するたましいは眠らない。私たちがまどろみの危険に陥るのは、私たちが平和な確信を得、全き自信を得た時である。弟子たちは、イエスが山上で変貌されたのを見た後で、眠りに落ちた。
喜びのうちにあるクリスチャンよ。心せよ。幸福の隣には誘惑がある。でき得る限り幸福であれ。しかし油断してはいけない。

 


◆売りことばを買う男

2013年10月23日 09時31分52秒 | 聖書

愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。
あなたも彼と同じようにならないためだ。(箴言二六4)

男は、とかく身勝手なものです。ことに夫族は、そうではないでしょうか。私も、後ではこれは私が悪かったとはっきり分かることでも、その時はむきになって、「お前の責任だ」と言って妻を責めたりする時があります。「私が悪いんじゃないわ。あなたこそ悪いのよ」と来ると、売りことばに買いことばでけんかになるのですが、「ごめんなさい」と言われると往生します。やがて私も、自分の無責任さ・悪かったこと・愛や思いやりのなかったことに気がついて、シャッポをぬぐことが多いのです。
クリスチャンになりたてのころ、今はもう、八十七歳で召天された大先輩の先生が、「クリスチャンはくずかごになりなさい。人の口から出る不親切なことば・けがれたことば・とげのあることばを聞いたら、投げ返さずに、みな、そのかごの中に取りこんでしまいなさい。そうすると、部屋はきれいになります」と話されたのを、奇妙に今も覚えています。その話の後で、お姑さんとどうしてもうまくいかなかった一人のお嫁さんが、泣いて悔い改めた姿も、よく覚えています。
そして、その先輩がその時話されたペテロの手紙第一、二章二二―二四節のことばも、あざやかによみがえってくるのです。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

 


◆まさか、

2013年10月23日 09時31分11秒 | 聖書

あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。(ヨハネ六・六七)

多くの人はキリストを捨てて、もはや主と共に歩んでいない。しかし、あなたは何ゆえにキリストを捨てると言うのか。
過去において何かの理由があったのか。イエスはあなたにとって十分ではなかったのか。イエスは今朝、あなたにこのように訴えられる。「あなたにとってわたしが荒野であったことがあるか」と。あなたのたましいが単純にイエスを信頼して一度でも困惑することがあったか。今まで主は、あなたにあわれみ深い寛大な友ではなかったか。そして主にある単純な信仰があなたのたましいの望むすべての平安を与えはしなかったか。あなたはこのようなイエスにまさる友があると考えることができるか。それなら、この古くからの友を捨てて、新しい偽りの友を求めるな。
現在、あなたにはどうしてもキリストを離れなければならない理由があるのか。私たちはこの世で苦悩を味わう時、また教会で試練に会う時、自分の頭を救い主の胸にもたせかけることが最も幸いであることを見いだす。主にあって救われていること、これが私たちの今日の喜びである。もし私たちがこの喜びに満足しているとすれば、何の改変の必要があるか。私たちは永遠に主にすがり、その御名を自分の腕に刻もう。
将来について言うならば、何事かが起こってあなたが古い旗のもとを去り、新しい将軍に仕えなければならない場合など考えられるだろうか。否、決して考えることはできない。どれほど私たちが生きようと、主は変わられない。私たちが貧乏なら、富ませてくださるキリストをもつ以上のことがあるだろうか。また病む時、私たちをいたわられるイエス以外に何を望むのだろう。私たちの死の時にも、「死も、いのちも……今あるものも、後に来るものも……私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と記されてはいないか。
私たちはペテロとともに「主よ。私たちがだれのところに行きましょう」と言いたいものである。

 


士師記6章7-10節

2013年10月23日 09時29分48秒 | 聖書

6:9 「わたしはあなたがたをエジプト人の手と、すべてあなたがたを圧迫する者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その国をあなたがたに与えた。」


イスラエルの民がミデアン人の支配によって苦しめられて、自分たちでは何もできなくなった時、彼らは主に助けを求めました。

そこで主は一人の預言者を遣わされて、民に語られました。

その預言者を通して告げられたことは、主がどのような方であるかということです。

主は民がエジプトで奴隷として苦しんでいた時に、民を導き出してくださった方であるということです。

また、あなた方を圧迫する人々の手から救い出すことができる、力のある方であられるということです。

今彼らがいる地に導き入れてくださって、そこにいた民を追い出して彼らにその地を与えてくださった方であるということです。

そのような恵みと力と憐れみに富んでおられる方が、主なる神であられるということでした。

これは何度も告げられたことです。

しかし、このことを覚えることが、信仰者にとって、主と共に歩むために重要なことなのです。



ダニエル書10章12節(同9章)

2013年10月23日 09時27分30秒 | 聖書

★  彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。

■O:今日のコラム

ダニエル書、読んでて、どう感じているでしょうか?

神様に愛されてたダニエル。神様はそんな彼にご自分の計画を幻という方法をもって、教えたかったようです。

けど、幻を受けるダニエルは、何の事だかさっぱり理解できず…。時には、幻が彼を悩ませました。恐すぎて… (^^;;

今の時代、神様はいろんな方法をもって語ってくださいますが、1番明確なのは、聖書です。

しかし、その聖書をさっぱり理解できないことってありませんか? ダニエルのように…

けど、ダニエルは、理解できない時、見た幻を忘れ、放っておくことをしないで、今日の箇所にあるように、神様の前にへりくだって幻を悟ろうと心を定めたのです。その結果、彼の祈りは聞かれ、幻の解釈を得ることができ、また、ますます深い幻、主の計画を知ることができました。

■A:考えてみよう

聖書を読んで、理解できなくて、読むのを諦めていませんか? ダニエルのように、神様の前にへりくだり、神様の御言葉を悟れるように、心を開いていこう。

聖霊様は、私たちのベストティーチャーです。聖霊様に悟りを求めていこう!

■P:祈り

私は、神様の心を知りたい!
だから、へりくだって、神様のことばである聖書を読みます。

聖霊様、どうか神様の語っていること、またそのご計画を聖書から悟ることができるように、助けてください。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。