座間コミニティー

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◆モーセがクシュ人の女をめとっていた……。

2013年10月06日 23時31分17秒 | 聖書

(民数一二・一)

モーセは不思議な選択をしたものである。しかし、それよりもさらに不思議なのは、モーセにまさる偉大なお方の選択である。ゆりのように美しい私たちの主は、どうしようもない罪人と結婚関係を結ばれた。イエスの愛が、あわれな、失われた罪人の上に注がれたということは、天使たちにとって驚くべきことであった。信者の一人一人がイエスの愛の意識に満たされる時、全く価値のない自分にこのような愛が注がれていることに驚嘆するに違いない。私たちは、自分の隠れた罪、不忠実、邪悪を知っている。広大な、しかもねんごろな恵みを思う時、私たちは感謝と賛美に満たされる。
イエスはその愛の根拠を、ご自身の心の中に見いだされたに違いない。主はそれを、私たちのうちに見いだすことができなかった。なぜなら、私たちの中にそのようなものは何もないからである。私たちは回心後においてさえ、恵みが私たちを美しくしたとは言え、まだ真っ黒である。信仰の人ラザフォードが自分について次のように言ったが、それは私たちにもあてはまる。「主と私との関係は、私が病人で、主が私の必要とする医者である。ああ、私はキリストに対していかにしばしば無定見な態度をとったことだろう。主が縛られると私は解き、主が建てられると私は倒した。私はキリストと争うが、主は一日に二十度も私と和らがれる。」
私のたましいの、最も優しく忠実な夫よ。私たちをあなたの御姿のようにさせるいつくしみ深いみわざを続けてください。私たちのような者を傷も汚れもない者として、あなたの御前に立たせてくださるまで。
モーセは、クシュ人の女と結婚したことで非難された。彼も彼の妻もいやな目で見られた。この空しい世が、イエスとその花嫁に反対したからといって(特に罪人たちが回心した時に反対したからといって)、あなたは驚くだろうか。いつもパリサイ人の反対の論拠となったのは、「この人は罪人を受け入れている」ということだった。この非難の種は今でも残っている。

 


士師記2章11-15節

2013年10月06日 07時20分50秒 | 聖書

2:13 彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、
2:14 主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。


彼等は主の前に悪を行いました。

悪とは、主を捨ててバアルやアシュタロテを神として仕える、そうした行動でした。

悪とは何か、また罪とは何か。

それは基本的には、神の戒めに背くことです。

彼等は、主以外の者を神として礼拝することを禁じられていました。

ところがその戒めに背いて、地に住んでいる人々が祭っていた神々に仕える者となってしまったのです。

このバアルやアシュタロテというのは、豊穣をもたらしてくれる神として、カナンの地の人々が礼拝してきたものです。

その神々を、なぜイスラエルの民が礼拝をするようになったのかと言うと、この地に住んでいる人々が繁栄を得たのは、このような神々を礼拝したからだと思うようになったからでした。

ですから自分たちもその神々を礼拝して、その豊かさにあずかろうとしたのです。

愚かさの極みです。


◆かなかすを除け

2013年10月06日 07時18分47秒 | 聖書

銀から、かなかすを除け。
そうすれば、練られて良い器ができる。(箴言二五4)

政界浄化が叫ばれて久しいのですが、まことに、銀から「かなかす」を取り除かなければなりません。しかし、政界といわず、私たちの心からもかなかすが取り除かれるべきではないでしょうか。
昔まだ、栃木県の足尾銅山が盛業中のころ、精練所の見学に行きました。純粋な銅・銀・金が取り出されるまでのプロセスに、目を見張りました。まず最初に、大きな鉱石がクラッシャーで粉々にくだかれて、小麦粉のようにまでなってしまいます。次に、その粉を油の中に入れ、油のあわの上に役に立つ原料だけを乗せて集めます。かきまわされて、かすは沈み、原料だけがすくいとられます。そして最後に、何千度という熱でとかし、かなかすを取り除き、純銅・純銀・純金が取り出されるのです。
私は、クリスチャンとして四十年の人生をふりかえる時、数えきれない神の恵みに驚きます。私は真実でなかったのに、神はいつも真実であられたことが、打ち消せない一つの事実です。
もう一つのぬぐいきれない事実があります。もし私が、恵みから恵みへ、祝福から祝福へとひきあげられてきたとしたら、それは、私が何かよいことを成し遂げたとか、すばらしい努力をしたからなのでは、けっしてありません。いつも私が心から悔い改め、心をくだききって神のみ手に陥ったと申しますか、神に従ったことによるのです。
神の求めたもう供え物は、まさしく悔いしくだけし魂なのです。神はそのような魂を愛され、神の恵みを持ち運ぶ、きよい器として、つくりあげられるのではないでしょうか。

 


◆わたしが与える水を飲む者はだれでも、

2013年10月06日 07時17分59秒 | 聖書

決して渇くことがありません。(ヨハネ四・一四)

イエスを信じる者は、現在自分を満足させ、かつ永遠に満足させるものを主イエスの中に見いだす。その信仰の中に、自分を満足させ、幸福にさせる喜びの泉と慰めの源を見いだしている。だから、信者を牢獄に入れてみよ。彼はそこでも良い友を見いだすであろう。信者を不毛の荒野に置いてみよ。彼はそこで天来のパンを食するであろう。また信者から友情を奪ってみよ。彼は「兄弟よりも親密な者」に出会うであろう。信者のこの世にある希望の基礎をくつがえしてみよ。彼はなお主に信頼し、動揺することはないであろう。
人の心は、イエスが入ってくださるまでは、よみのように飽くことを知らない。しかしイエスが来られるなら、杯は満ちあふれる。信者にとってキリストのみがすベてのすべてとなるほど、キリストの中には満ち足りたものがある。真の聖徒はすべてを備えておられるイエスに満足しきっており、その生きた泉からさらに多くを飲みたいという以外には願望をもたない。信者よ。あなたはこの意味において渇くのである。それは苦痛を伴う渇きではなく、愛着から来るものである。あなたはイエスの愛をさらに十分に楽しもうとしてあえぎ求めることが、非常に甘美なものであることを見いだすであろう。
昔の人は言った。「私は手おけを頻繁に井戸に下ろして水を汲んでいた。しかし今、イエスに対する私の渇きは飽くことを知らないようになり、井戸そのものにくちびるをつけて直接飲みたいと思っている」と。信者よ。これが今のあなたの思いであろうか。すべての願望がイエスにおいて満たされ、イエスをさらに知り、イエスとさらに親しく交わりたいと願うほかに何も願わないか。それなら、絶えず水源に来て、価なくしていのちの水を飲め。イエスは決してあなたがいのちの水を飲みすぎるとは思われない。むしろ、いつでもあなたを歓迎し、「飲め。愛する人たちよ。大いに飲め」と言われるのである。

 


伝道者の書9章4節(テサロニケ人への手紙 第一 1章)(聖書本文は、リビングバイブル訳)

2013年10月06日 07時16分16秒 | 聖書

★  生きている人にだけ、希望があります。「死んだライオンより、生きている犬のほうがましだ」と言われるとおりです。

■O:今日のコラム

以前、大晦日に聞いたメッセージは「一年間、生きていてありがとう」という内容でした。

私たち人間に、神様は命を与えてくれました。その命を使うことが使命だとすると、私たちのまず第一の使命は生きていること、そして、神様は一年間生き抜いた私たちを喜んでいるというメッセージでした。

一年を振り返り、あれもこれも出来なかった、あの人に福音語れなかったなぁお落ち込み気味だった私には本当に励ましになるメッセージでした。

この世にいる限り戦いはあり、困難なことは続き、諦めたくなることも何度もありますが、今日のみことばにあるように生きている限りは希望があり、神様がわたしたちに命を与え、使命を与え、聖霊さまにより途切れなく計り知れない愛を注いでくださっていることを覚えます。

■A:考えてみよう

今年度も、9月で半分が終わりましたが、達成できたことできなかったこといろいろあると思います。しかし、この半年間生かされたことにまず感謝し、立ち上がる力、生きる力そのすべては主からくることを覚え、今日改めてしなきゃいけないこと、携帯やスマホを置いて、ただ神様だけを見上げる時間をとりたいと改めて思わされました。

なぜなら、神様こそがわたしたちの命の源であり、生きる目的であり、私たちが求めるすべてだからです。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。