座間コミニティー

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◆信じてバプテスマを受ける者は、

2013年10月05日 16時11分52秒 | 聖書

救われます。(マルコ一六・一六)

マクドナルド氏がセントキルダ島の住民に「人はどのようにして救われなければならないか」と尋ねた。一人の老人が答えた。「もし私たちが悔い改め、私たちの罪を捨てて神に帰るならば救われます」と。「そうです。そして、真心からそれをするのです」と中年の婦人が言った。「そうだ。そして祈りをもってするのだ」と第三の者が言った。すると第四の者が「それは心からの祈りでなければならない」とつけ加えた。「そして、私たちは励んで戒めを守らなければならない」と第五の者が言った。こうして彼らはそれぞれの知恵で一つの信条ができ上がったと感じ、説教者の同意が得られると思って、説教者を見上げて耳を傾けたが、説教者は深いあわれみを覚えて黙っていた。
肉の心は常に自我を働かせて、偉大になる道を作り上げる。しかし、主の道は全くこれと反対である。信じてバプテスマを受けることは、栄光を受けるに値する功績ではない。それはこの上なく単純で、誇るに足りない。卓越しているのは、無代価の恵みのみである。読者のうち、まだ救われていない方もあるだろう。その理由は何であろうか。あなたは冒頭の聖句に示された救いの道が疑わしいと思うのか。神ご自身がその確実性を断言しておられるのに。それは容易すぎると思うのか。では、なぜそれを受け入れないのか。たやすい道であるが、それを無視する者は捨てられる。
信じるとは、キリスト・イエスに単純にゆだねること、よりかかること、信頼することである。バプテスマを受けるとは、私たちの主がヨルダン川でなされ、回心した人々がペンテコステの時に受け、看守が回心したその夜に従順に従った礼典に服従することである。外面的な形式によって救われるのではないが、それは私たちに、キリストと共に葬られ、よみがえることを示し、聖餐とともになおざりにできない。愛する友よ。あなたはイエスを信じるか。では恐れを捨てよ。あなたは救われる。あなたはまだ信仰に入っていないか。では、入口は一つしかないことを覚えよ。そこから入らないならば、あなたは自分の罪のうちに滅びる。

 


◆事をかくす神

2013年10月05日 07時49分23秒 | 聖書

事を隠すのは神の誉れ。
事を探るのは王の誉れ。       (箴言二五2)

この世には、分からないことや、かくされたことが、何と多いことでしょう。聖書について言っても、四十年以上私は読み続けても分からないことだらけです。そして聖書は、「事を隠すのは神の誉れ」であって、神の神らしいやり方だと言うのです。どうしてでしょうか。
第一に、私たちがいつも、神の前にへりくだっているためではありませんか。もうすべてが分かったといって、神に仕えないで神を利用したり、神を信じないで分析したりすることのないためです。聖書は言います。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう」(ローマ一一33)。
第二に、私たちが、たとえどんなことがあっても、神の愛と最善を信じ、神に任せることができるためではないでしょうか。「あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」(Ⅰコリント四5)。
第三に、神の真理・その救い・助け・慰め・導き・知恵は、飢え渇いて激しく求める者に捜し出されるためではないでしょうか。「求めなさい。そうすれば与えられます」「たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ七7)。
第四に、すばらしい将来に希望を持たせるためではないでしょうか。このことについても、聖書は言います。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には……完全に知ることになります」(Ⅰコリント一三12)。

 


◆彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、

2013年10月05日 07時48分32秒 | 聖書

四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。(Ⅰ列王一九・八)

恵み深い神が私たちに下さるすべての力は、それによって神に仕えさせるためであり、決して乱用したり、自負したりするためのものではない。預言者エリヤが、えにしだの木の下で眠って目を覚ますと、頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入ったつぼがあった。彼は山海の珍味に飽きて、ぜいたくをむさぼる者ではなかった。それどころか食べ物で力づけられ、四十日四十夜を費やして神の山ホレブに着いた。
主が弟子たちを呼び、「さあ来て、朝の食事をしなさい」と言われた時も、食事の後、主はペテロに「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、さらに「わたしに従いなさい」とつけ加えられた。
私たちの場合も同様である。天のパンを私たちが食べるのは、主への奉仕に力を尽くすためである。私たちは過越の祭に来て、腰の帯を引き締め、杖を持って子羊を食べる。それは飢えを満たすと、すぐに出発するためである。あるクリスチャンは、キリストをだしにして暮らそうと図るが、キリストのために生きようとはしない。この地上は、天国への準備の所であるべきであり、天国は聖徒たちがよく食べ、よく働くべき所である。彼らは主の食卓に座り、日夜主の宮で仕える。彼らは天国の食物を食べて、完全な奉仕をする。
私たちのうちのある者は、私たちに恵みを注がれる主のご計画の、さらに多くを学ばなければならない。エジプトのミイラが長い間麦を保持していたように、私たちは貴重な真理の種子を保留して、それに成長の機会を与えないというようなことがあってはならない。私たちは真理の種子を蒔き、それに水を注がなければならない。なぜ主は渇いている地に雨を降らせ、快適な日光を送ってくださるのであろう。地の産物が育って人の食物となるのを、これが助けるからではないだろうか。このように主が私たちのたましいを養い、力づけられるのは、私たちが新しい力を用いて主の栄光を輝かせるためである。

 


士師記2章6-10節

2013年10月05日 07時47分10秒 | 聖書

2:7 民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエルに行われたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた。


モーセの後を継いで、イスラエルの民をカナンの地に導く働きをしたのは、ヨシュアでした。

彼は信仰の人でした。

信仰の人であったということは、主の御言葉に従って生きた人であり、また、主の御心を第一にした人であったということです。

イスラエルの民がカナンの地を征服した時に、主は、色々な働きを見せてくださいました。

そのことを、民の長老達はよく覚えて心に留めていました。

従って彼等もその主の恵みを覚えて、心から主に感謝をして、主に従って生きることを心がけていきました。

 ところが、こうした霊的な指導者と、その導きに従って生きようと願う人々がいなくなると、民の関心は、神の御心を第一にするよりも、この世における益を第一に覚えようとする姿勢を持った人々に代わってしまいました。

霊的な指導をする人の大切さを、ここで知らされます。



コロサイ人への手紙4章3-4節(伝道者の書8章)

2013年10月05日 07時45分05秒 | 聖書

★  同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いて下さって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈って下さい。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈って下さい。

■O:今日のコラム

パウロは4章に渡るこの手紙をどこから書いているのでしょう?

冒頭の御言葉に答えがありますが、牢獄の中からです。
手紙の最後(4章目)になって「私たちのためにも祈ってね」とお願いしていますが、その内容はなんと言っていますか?

もし、私たちが無罪なのに牢獄の中に閉じ込められたとしたら、24時間絶え間なく祈っているSHOPの祈りの勇士たちへの祈りのリクエストに、何をまずお願いしますか?

「無罪が認められて1日も早くここから出られるように祈って下さい」とお願いしないでしょうか?

私たち肉なる者は弱くて、自分のコンディションが整っているときには、人のため、とりなしの祈りが出来るかもしれませんが、

自分の身に不自由がある時には、(大きな問題の中にいる時、病の時、試験期間中、試練の中など)その問題のために周りが見えなくなって、もがいてしまったり、時には問題の方が神様よりも大きくなってしまって神様さえも見上げられなくなって自分でなんとかしようと必死になっていたり、或は神様に祈る時も自分のことだけをまず必死で祈り、あらゆる祈り手達に、自分の問題が早く解決するように祈ってほしいと求めたりしてしまいがちです。

でもパウロはここで、手紙の一番最後に、牢につながれている事を覚えていてね、と書いているだけで、牢から出られるように祈ってね、とは書いていないところが凄いと思いませんか?

そして牢の中から自分のためではなく、御言葉のために門が開かれるよう、つまり福音がますます力強く全世界に広がって行くように祈ってほしいと願っているのです。

自分のコンディションが最悪の状態の時に、神様の御心を解き明かし、願っている。それはパウロがどんな時でも、いつも神様の御心を求め、祈りと賛美によって満たされていた故に出来たことです。そして、切実なるパウロのこの祈り、ちゃんと聞かれています。

牢に閉じ込められていたからこそ、身動きの取れないパウロは多くの手紙を書いたのです。
多くの啓示を解き明かしているローマ人への手紙も、もし牢につながれていたなかったら、直接ローマに行って伝えることができ、今ここに残されていなかったかもしれません。

牢の中で、直接伝えたくても伝えられないもどかしいその思いを手紙に記す事によってよりパワフルになり、結果的に数百万倍もの人に読まれ、今の私たちも大きな励ましと大切な知識を与えてくれている書簡となっていることは、パウロの願った祈りの答えでなくてなんでしょう!?

自分のための祈りから神の御心を求め、それがなされる祈りに変わって行く時、その祈りは確実にきかれ、結果その報いが自分への祝福となって帰ってくる事を覚えましょう!

■A:考えてみよう

自分の置かれている状況が最悪の時にこそ神様の御心に耳を傾けよう

「時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えなさい」という聖書の御言葉に忠実になっているだろうか?(テモテへの手紙 第二 4章2節)

■P:祈り

お父様、私の置かれている状況、私の思いを脇において、いつもあなたの御心を求められるようにして下さい。地上での報いよりむしろ永遠に続く天国での報いを求めます。だからあなたの御心を、今日も深く知る事ができ、それを行っていく事ができるよう導いて下さい。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。