座間コミニティー

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お帰りなさい

2013年10月11日 19時41分34秒 | 聖書

そうですか!

今週も困ったことも嬉しかったこともたくさんあったのですね

http://www.youtube.com/watch?v=4ZNBhVfTf60

そうですか明日は大切な人と暮すのですね

http://www.youtube.com/watch?v=c2DlsPzCAiQ

二人のために乾杯

http://www.youtube.com/watch?v=PW_kP5uwp7A

http://www.youtube.com/watch?v=vFaYE-y5fcA

http://www.youtube.com/watch?v=QU-nd1dI5_A

http://www.youtube.com/watch?v=z4G4iqwjFQc

http://www.youtube.com/watch?v=-8cklV0ZSho


士師記3章15-23節

2013年10月11日 17時02分28秒 | 聖書

3:21 このとき、エフデは左手を伸ばして、右ももから剣を取り出し、王の腹を刺した。
3:22 柄も刃も、共に入ってしまった。彼が剣を王の腹から抜かなかったので、脂肪が刃をふさいでしまった。エフデは窓から出て、
3:23 廊下へ出て行き、王のいる屋上の部屋の戸を閉じ、かんぬきで締めた。


オテニエルが死んだ後、イスラエルの民はまた悪を行いました。

そこで主は彼等の上に怒りを下されて、モアブの王エグロンの下に18年間彼らを置きました。

そこで彼等は、この王に仕える羽目になってしまいました。

 主の民が、苦しさの為に主に助けを求めた時、主はエフデを助け手として遣わしくださいました。

 彼はモアブの王の所に貢ぎ物を持って行きました。

しかし、王との謁見の時に、彼は隠していた剣で、王の腹を刺し、殺害しました。

そして戸を閉じ、かんぬきを締めて、そこから出て行きました。

 彼が王の所に行った時、剣を持っていたことが周りの人に悟られなかったのは、彼が左利きであって、剣の所持の仕方が違っていたからでした。



◆神はあらかじめ定めた人々をさらに召し……。

2013年10月11日 17時00分09秒 | 聖書

(ローマ八・三〇)

テモテヘの手紙第二、一章九節には「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいました」と記されている。ここに、私たちの召しを試す試金石がある。それは、「私たちのわざによるのではなく、神ご自身の計画と恵みによる聖なる招き」である。
この召しは、私たちの救いに関して、自らの行為に頼ることを全く禁じ、自分の救いのためにキリストにのみ導く。さらに、救われた後、私たちが生けるまことの神に仕えるために、私たちの死んだわざを取り除く。あなたを召された方は聖なる方であるから、あなたも聖くなければならない。もしあなたが罪のうちに生活しているなら、あなたは召されているのではない。しかし、あなたが真にキリストのものとなっているなら、次のように言うことができよう。「私にとって罪ほど苦しいものはない。私は罪を取り除きたい。主よ。私を助けて聖くしてください」と。これがあなたの心のあえぎであろうか。そして神に対する、神のみこころに対する態度であろうか。
ピリピ人への手紙三章一三、一四節には「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神」について記されている。あなたの召しは、上への召しであろうか。それはあなたの心を高め、天上の事柄にあなたの心を置いたか。またあなたの希望、趣味、願望を高めてきたか。あなたの生活の不断の調子を高め、神と共に、神のために生きるようにさせたか。
さらにもう一つのテストがある。それは「天の召しにあずかっている」かどうかである。天の召しとは、天よりの召しを意味する。あなたの召しは神から来たものか。そして天への召しであるか。地では旅人であり、天があなたの故郷でなければ、天の召しを受けたとは言えない。なぜなら、召された者は、神の不動の礎をもつ都を待ち望み、自らは地において旅人であることを断言するからである。
あなたの召しは、このような聖なる、上への、また天の召しであるか。では、愛する友よ。あなたは神に召されたのである。

 


士師記3章12-14節

2013年10月11日 06時26分47秒 | 聖書

3:12 そうすると、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。彼らが主の目の前に悪を行ったので、主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせた。


オテニエルは40年の間民を導きました。

その間は、民は穏やかで主の御心に従って歩みました。

しかし、彼が死ぬと民はその心を変えて、主の前に悪を行う者となりました。

そこで主はこの民を怒られて、イスラエルの民に敵対する王を起こし、その王の下に18年の間、支配される者とされてしまいました。

聖書は、民の心は甚だ悪いと語っています。

人は絶えず、悪に染まっている現実を見るのです。

 従って、そうした悪に向かう傾向にある民にとっては、霊的な指導者がいつも必要です。

霊的な指導者というのは、何も個性的な指導をする人ということではありません。

主の御心を御言葉を持って伝え、導く人のことです。

主のみ言葉が語られないと、霊的な飢饉が、民の上に到来するのです。

教会にはいつも、神の御言葉を取り次ぐ人々が、民を霊的に守るために、絶対に必要なのです。



◆口先だけの贈り物

2013年10月11日 06時25分02秒 | 聖書

贈りもしない贈り物を自慢する者は、
雨を降らせない雲や風のようだ。   (箴言二五14)

ユーモラスな言い方です。雨の少ないパレスチナでは、雨を降らせない雲や風は小憎らしいものだったでしょう。私の友人で、毎年会うごとに「君、季節になったら名物のカキを送るよ」と必ず言うのですが、まだ一回も送ってくれない人がいます。
ところがある時、北海道から新鮮なとりたてのアスパラガスが、航空便で送られてきました。何も前ぶれがなかったのです。また、別な時には、一びん何千円もする高価な栄養剤がいくつも届いたので、どうしたのかなと心待ちにしていると、「ボーナスが入りましたので……」とハガキが来ました。こんな場合は、思いがけないうれしい喜びも、いっしょに受けとりました。
パウロは、神の愛について、こう言いました。「私たちが罪人だった時、私たちが神の敵であった時、私たちが弱くみじめであった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神の私たちに対する愛が分かりました」(ローマ五6810参照)。
ヨハネも同じように言いました。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ四10)。
神は、口先だけで愛して何もしてくれないお方でなく、何も言わずに、そのひとり子イエス・キリストを与えてくださった方なのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ三16)。

 


◆私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。

2013年10月11日 06時23分58秒 | 聖書

(哀歌三・四一)

祈りは私たちに自らの無価値を教える。それは高慢な私たちにとって非常に有益な教訓である。もし神が、私たちの祈りなしに恵みを与えられるとすれば、私たちは決して、自分の貧しさを知らないであろう。しかし、真の祈りは欠乏の目録であり、必要のカタログであり、隠れた貧困の暴露である。それは神の富を求めるものであるが、また人間の空虚さを告白するものでもある。クリスチャンの最も健全な状態は、常に自己を空しくして主の供給により頼むことである。常に自己を貧しくし、キリストにあって富むことである。自分は弱いが、神によって強くされて偉大なわざをなす。それゆえ、祈りは神をあがめるものであるが、それは被造物をそのあるべき位置、すなわち、ちりの中に置くものでもある。
祈りへの応答もさることながら、祈り自体がクリスチャンに大きな益をもたらす。競技をする者が日々の練習によって技をみがくように、私たちも人生の大レースにおいて、堅い祈りの労苦によって力を得る。祈りは神の若鷲のように翼を整え、雲の上にかけ上ることを学ばせる。また祈りは神の戦士の武装を整え、その筋骨をたくましくして戦いに送り出す。熱心な祈りの人が密室から出て来るのは、あたかも太陽が東の天から上がろうとしているのに似ており、元気いっぱいの若者が、喜びにあふれてレースに出場するのに比べられる。祈りは、モーセの上げられている手である。それは、ヨシュアの剣にまさってアマレク人を敗走させる。それは預言者の部屋から射られた矢であって、アラム人の敗走を預言するものである。祈りは人間的な弱さを神の力によって強め、人の愚かさを天の知恵に変え、悩む人に神の平安を与える。私たちは祈りによって成し遂げられないというものを知らない。
大いなる神様。あなたの恵みの御座に感謝します。それはあなたの驚くべきいつくしみの不動の証拠であるからです。どうか、私たちを助け、この一日、それを正しく用いるようにさせてください。