贈りもしない贈り物を自慢する者は、
雨を降らせない雲や風のようだ。 (箴言二五14)
ユーモラスな言い方です。雨の少ないパレスチナでは、雨を降らせない雲や風は小憎らしいものだったでしょう。私の友人で、毎年会うごとに「君、季節になったら名物のカキを送るよ」と必ず言うのですが、まだ一回も送ってくれない人がいます。
ところがある時、北海道から新鮮なとりたてのアスパラガスが、航空便で送られてきました。何も前ぶれがなかったのです。また、別な時には、一びん何千円もする高価な栄養剤がいくつも届いたので、どうしたのかなと心待ちにしていると、「ボーナスが入りましたので……」とハガキが来ました。こんな場合は、思いがけないうれしい喜びも、いっしょに受けとりました。
パウロは、神の愛について、こう言いました。「私たちが罪人だった時、私たちが神の敵であった時、私たちが弱くみじめであった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神の私たちに対する愛が分かりました」(ローマ五6810参照)。
ヨハネも同じように言いました。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ四10)。
神は、口先だけで愛して何もしてくれないお方でなく、何も言わずに、そのひとり子イエス・キリストを与えてくださった方なのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ三16)。