(詩篇三六・九)
私たちの信仰上の経験において、人の助言も、同情も、聖礼典も、私たちを慰め助けないことがある。なぜ私たちのあわれみ深い神が、このことを許しておられるのであろうか。おそらく、私たちが神を無視して生活しているので、私たちが習慣的に頼りにしているものをすべて取り去って、ご自身のもとに引き寄せようとなさるのであろう。泉の源において生きることはすばらしい。自分の皮袋に水が満ちている時、私たちはハガルやイシュマエルのように満足して荒野に行くが、水が渇いてしまうと、「あなたはエル・ロイ(ご覧になる神)」と言うほかに慰めをもたない。
私たちは放蕩息子のように、豚小屋を愛して父の家を忘れている。記憶せよ。私たちは宗教上の儀式からさえ、豚小屋やいなご豆を作り出せる。宗教上の儀式はよいものだが、私たちがそれを神の位置に置く時、それは全く無価値なものとなる。どんなものでも、それが私たちを神から隔てる時、それは偶像になる。青銅の蛇すら、もし私たちがそれを神の代わりに拝むならば、ネフシュタンとして軽蔑されるベきである。
放蕩息子は、父の胸に追い込まれた時が最も安全であった。なぜなら、それ以外の場所では食べるにも困ったからである。主は私たちに、さらにご自身を求めさせるために、私たちの国に飢きんをもたらされる。クリスチャンにとって最上の状態は、神の恵みに全面的に直接により頼んで生活している時である、すなわち「何も持たないようでも、すべてのものを持っています」との最初の立場にいる時である。
私たちは片時たりとも、自らの立場が自己の聖潔、禁欲、徳、感情にあるなどとは考えないようにしよう。そうではなく、キリストが全き贖いをしてくださったゆえに、私たちが救われていることを知ろうではないか。主にあって私たちは完全だからである。自分に頼るべきは何ものもなく、ただイエスのいさおしにのみ私たちは憩う。主のご苦難と聖いご生涯が、私たちの確かな基盤である。愛する友よ。渇きを覚える時、私たちは必ず、熱心にいのちの泉を求めるようになる。
心配している人の前で歌を歌うのは、
寒い日に着物を脱ぐようであり、
ソーダの上に酢を注ぐようなものだ。(箴言二五20)
リビングバイブルでは、「気が沈んでいる人のそばではしゃぐのは、寒さに震えている人の上着を盗み、傷口に塩をすり込むようなものです」と、分かりやすく訳しています。
「心配している人の前で歌を歌う。」――ひょっとして私も、時々そんなことをしているのではないかと反省させられます。
山形県米沢に行った時、クリスチャンである、ある医師の夫人から心を打たれる話を聞きました。ご近所のまだ五十歳前の主婦ががんで入院されました。お見舞いをしているうちに、「元気出してね。そのうちによくなるわよ」という自分のことばの薄っぺらさ・思いやりのなさに気がついて悩みました。祈りに祈った後に彼女は、自分の力や知恵にたのむのではなく、神の愛にたよって、死んでも滅びることのない永遠のいのちを得るべきことを話し出したのです。神が愛し、最善をなし、永遠の天国に携えてくださること、また、残される家族にも最善をしてくださることを話しました。勇気がいることだったでしょう。しかしそのがんにかかったご婦人は、とうとう神とその愛を見いだして、口に言い表せない平安をいだいて、魂は天にがいせんしたのです。お葬式の時、遺されたご主人やお子さんたちと顔を合わせて、ぽろぽろ涙を流しながらも、共に喜ぶことができました。そう話してくださった方の目にも、涙が光っていました。
私は、ほんとうの思いやりは何かと考えさせられました。それと共に、ラザロの墓の前で泣き(ヨハネ一一35)、ひとり息子を失ったナインのやもめの肩に触れ「泣かなくてもよい」(ルカ七13)と言ってくださり、そして最後に、私たちのため、すべてを与えつくしてくださったキリストの愛といやしの力をも考えさせられたのです。
「さあ来て、朝の食事をしなさい。」(ヨハネ二一・一二)
「さあ来て、朝の食事をしなさい」とのことばは、同じ食卓、同じ食物を意味する。そして時に肩を並べて座り、私たちの頭を救い主の胸にもたせかけることを意味する。それは私たちを贖いの愛の旗がひるがえる饗宴の席に連れて行くことである。
このことばは、私たちにイエスと一体になるというビジョンを与える。イエスと共に食事をする時、私たちが食することのできる唯一の食物はイエスご自身だからである。ああ、なんという結びつきか! 私たちがこのようにイエスを食するという真理は、とうてい理性をもっては測ることができない。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」
イエスのこの招きは、また聖徒たちとの交わりを楽しむためのものである。クリスチャンはみな、一つの霊的食欲をもつ。私たちはみな同じように感じることができなくても、同じように天から下ったいのちのパンを食することができる。イエスといっしょの食卓において、私たちは一つのパン、一つの杯にあずかる。愛の杯が回るとともに、互いに兄弟の誓いを新たにする。イエスに近く歩め。そうすれば、同じ天のマナで支えられているあなたの兄弟と、さらに霊的に密接に結ばれていることを見いだすであろう。もしイエスに近づくならば、私たちは互いにさらに近づくのである。
私たちはまた、今朝のみことばの中に、すべてのクリスチャンにとっての力の源泉を見る。キリストを見つめることは生きることである。しかし主に仕える力を得るために、あなたは「来て、食事を」しなければならない。私たちはこの主の教訓を無視するために、多くの不必要な弱さの中に労苦する。だれも悪い食事に甘んずる必要はない。むしろ福音の油によって肥え、それによって得たあらゆる力をもって主の奉仕に励むべきである。あなたがイエスに近づき、一体となり、その民を愛し、イエスによって力を得ようとするならば、信仰によって主のもとに来て、共に食事をとれ。
4:14 そこで、デボラはバラクに言った。「さあ、やりなさい。きょう、主があなたの手にシセラを渡される。主はあなたの前に出て行かれるではありませんか。」それで、バラクはタボル山から下り、一万人が彼について行った。
預言者は主の御心を告げる人です。
その人は、主から主の御心を知らされて、人に語りました。
ここでは、女預言者デボラが、主の働き人として用いられたのです。
彼女はバラクに、カナン人の王の将軍シセラが、キション川に集結しているので、タボル山を下って、シセラを攻めなさいと命じました。
主が、彼と共にいてくださることを告げました。
そこでバラクは、デボラが命じた言葉に従って、山から下り、シセラと戦いました。
彼は、王の持っていた鉄の戦車900両をもって戦いに出ていたシセラを打ち負かしました。
それは、主が彼を助けてくれたからでした。
敗れたシセラは戦車から降り、徒歩で逃げました。
ここには、女預言者のことが語られています。
女性の方も、主は預言者として用いておられていたのです。
主の言葉が告げられる、ということが大事なのです。
★ 雅6:9 わがはと、わが全き者はただひとり、彼女は母のひとり子、彼女を産んだ者の最愛の者だ。おとめたちは彼女を見て、さいわいな者ととなえ、王妃たち、そばめたちもまた、彼女を見て、ほめた。
★ 1ヨハ2:27-29 あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。
そこで、子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨に際して、みまえに恥じいることがないためである。彼の義なるかたであることがわかれば、義を行う者はみな彼から生まれたものであることを、知るであろう。
■O:今日のコラム
10月15日の朝です。今日1日神様を信じ、イエス様のうちにとどまり、聖霊様をほめたたえていきましょう。聖霊様が僕らにすべてのことを教えてくださるからです。
聖霊様は、褒め称えられるべきお方です。神様を賛美します。イエス様も賛美します。しかし、聖霊様を賛美することを忘れてしまう時があるのではないかと思いました。
全てを産み出す聖霊様は、褒め称えられるべきお方です。
イエス様が洗礼を受けた後、鳩なる聖霊様が下られました。聖霊様をお迎えするまでイエス様は、福音のために働きを公にはされませんでした。常に聖霊様の導きを求めていました。十字架に架かられる時も、聖霊様の力を求めていました。
天のお父さんも僕らの内側に聖霊様を住まわせるのがねたましいと思うほどに大切なお方と言っています。でも、その大切な聖霊様を僕らの内側に住まわせてくださるために、イエス様が十字架と復活を味わわれたのです。驚くべき恵みです。
僕らを助け導く助け手が聖霊様です。
僕らは、人間の力で神様を理解することができませんが、聖霊様によって神様を知ることができます。確信を与えてくださいます。鳩であり油であられる聖霊様を賛美し、さらに求め続けていきましょう。
■A:考えてみよう
聖霊様を褒め称えましょう。聖霊様からもっともっと聖書を教えていただきましょう。イエス様のうちにとどまりましょう。神様への確信を受け取りましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。