座間コミニティー

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◆どうか、私の主を求め、主に信頼してやまないように。

2013年10月10日 17時13分41秒 | 聖書

あなた自身を主にゆだね、喜び望むことはできなくても、忍耐深くより頼め。

わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちの手から助け出す。(エレミヤ一五・二一)
この約束をされた輝かしい人格に注目せよ。「わたしは……救い出し……助け出す」とある。主ご自身がその民を救い、助け出される。ご自身が、親しく彼らを救われることを誓約しておられる。ご自分の腕でそれをなされるのであり、栄誉を受けられるのである。
ここには、主を助けるために私たちの努力が必要だとは、一言も言われていない。「わたし」のみが、大空の太陽のように十全の輝きを放っている。では、なぜ私たちは自分の力を計算し、血肉に相談をして、自分自身を傷つけているのだろうか。主は私たちの細腕を借りなくても、十分な力をもっておられる。不信仰な思いよ。静まって主が統べ治められることを知れ。
またここには、第二次的な手段や原困については少しもほのめかされていない。主は友人や助け手については、いささかも語っておられない。主は単身で事に当たられ、人の助けの必要をお感じにならない。私たちが周囲の友や親戚をあてにすることは、すべて空しい。彼らは、私たちを助けることができるのに、助けようとしないことがしばしばあり、また助けようとしてもその力がない。
約束は神からのみ来る。だから神を待ち望むことはよい。そのようにする時、私たちの期待は決して裏切られることがない。私たちが恐れる悪人たちはだれなのか。彼らは主によって根絶される。彼らは、むしろあわれむべき者たちである。彼らはより頼むべき神をもたない人にとってのみ、恐ろしい者である。主が味方である時、私たちはだれを恐れよう。私たちが邪悪な者を喜ばせるために罪に陥るならば、驚きあわてることもあろう。しかし、節操を堅く守っているならば、横暴な者たちの怒りも私たちの善によって圧倒されるであろう。大魚がヨナをのんだ時、大魚はヨナを消化することができないことを知った。世が教会をのみこむ時も、世は教会を吐き出すことを喜ぶのである。どれほど火のような試練の中にあっても、私たちは常に忍耐し、自分のたましいを失わないようにしよう。

 


◆忠 実 な 使 者

2013年10月10日 06時25分01秒 | 聖書

忠実な使者はこれを遣わす者にとって、
夏の暑い日の冷たい雪のようだ。
彼は主人の心を生き返らせる。   (箴言二五13)

今は、どこの家でも電気冷蔵庫があって、自家製の氷を楽しむことができます。しかし徳川時代には、将軍に献上するために半年もの間、地下深い氷室に蓄えておいた氷や雪を、はるばる担いで江戸まで持ってきたのです。その一かたまりの雪や氷が、どれくらい将軍の心を慰めたか、いいえ、生き返らせたかは、想像に余りあります。忠実に神の使命を果たす人は、この夏の雪の一かたまりのように、神の心を慰め、喜ばせ、生き返らせるというのです。
私にとって神は、十六歳の時まで無関係の方でした。私のことなど一向に構ってくれず、高い所で腕組みして、そっぽを向いている方だったのです。しかし、イエス・キリストとその十字架の愛を心に受け入れた時から、私にとって、神がどういうお方かが分かってきました。
第一に、私がまだ罪にまみれており、その罪にまみれていることさえ分からないで神につばきしていた時から、私を愛し、私に目を留め、私を選んでくださったのです(ヨハネ一五16参照)。「私たちが神を愛したのではなく、神がまず私たちを愛してくださったのです」(Ⅰヨハネ四10参照)と、ヨハネは語りました。
第二に、私たちの罪をゆるし、永遠のいのちを与えられた神は、私たちがその救いを受け入れるやいなや、一人一人を神の愛の使者として任命し、遣わしてくださることが、だんだんに分かってきました。私には、神から任された仕事がある。神は、この置かれた場所に私を遣わし、神に代わって、祈り仕え愛させてくださると分かってきた時、私の人生が変わってきたのです。それぞれの持ち場立場でできるかぎり忠実に、遣わされた使命に生きようとする時、神は、想像できないほどに喜んでくださるのではないでしょうか。

 


◆傷のない者として……。

2013年10月10日 06時24分00秒 | 聖書

(ユダ二四節)

この「傷のない者」という驚くべきことばを深く考えよ。今私たちは、この標準にははるかに及ばない。しかし主の愛の働きは完成まで決してやむことがないから、いつか私たちもそれに達するであろう。民を最後まで守ってくださる救い主は、ついには彼らを「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」として、ご自身に迎えてくださる。救い主の王冠にあるすべての宝石は最上の質のもので、わずかの傷もない。小羊の花嫁に仕える者たちは、すべて汚れない清純なおとめである。
しかしイエスは、どのようにして私たちを完全無欠な者とされるのか。主はご自身の血潮によって私たちの罪を洗いきよめ、きよい天使のように純白なものとされる。また私たちは主の義の衣を着せられる。その義は、それをまとう聖徒たちを全く欠点のない、神の目から見て完全なものとする。私たちは神の目から見てさえ、非の打ち所のない者とされるのである。主の律法は、私たちを責めないだけでなく、私たちの中で高められる。さらに、私たちのうちの聖霊の働きは、完全なわざをする。聖霊は私たちを完全に聖いものとし、私たちのうちの罪を犯そうとする傾向をも皆無にされる。判断力、記憶、意志、すべての力、感情が悪の支配から解放される。私たちは神が聖であるように聖なる者とされ、永遠に神の御前に安住する。聖徒たちは、天国においても均整を保つ。彼らの美しさは、そのために準備された場所にふさわしいであろう。
ああ、永遠のとびらが開かれ、財産を継ぐのにふさわしくされた私たちが、聖徒たちと共に光の中に住む時の喜びはどれほどすばらしいものだろう。罪はなくなり、サタンは閉め出され、誘惑は永久に去り、私たちは神の前に「傷のない者」となる。これこそ真の天国である。私たちは、やがて血で洗われた群れからわき上がる永遠の賛美の歌を、喜び躍りつつ練習しようではないか。そしてダビデの契約の箱の前における歓喜をまねて、御座の前における私たちの喜びの序曲としようではないか。

 


テサロニケ人への手紙 第一 5章1、11節 (伝道者の書10章)

2013年10月10日 06時22分34秒 | 聖書

 ★ 1 テサ5:1  兄弟たち。それらが(主の再臨)いつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たち書いてもらう必要はありません。

★  1テサ5:11  ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

■O:今日のコラム

皆さんは災害用のバッグなどの備えがあるでしょうか?

我が家には恥ずかしいですが、きちんとしたバッグはなく、気休め程度のしょぼい小さなバッグ一つがあるだけです。とても家族全員分に備えてあるとは言いがたいです…

都心でも大地震があると言われると、気持ちとしては、私はそれがいつごろなのかを知りたいと思います。でも実は、「その時期」を知りたいと思うのは、自分に備えが無いからなのです。時期さえ分かれば、それに間に合うように準備を始めたらいいや、という気持ちがどこかにあるのです。

パウロはここで、「霊的に目を覚まし、神の光の子として歩んでいるのなら、備えがあるから、主の再臨がいつかなどと明確に知らなくても大丈夫ですよね。」 と言いたかったように感じます。

「マラナタ~主よ来て下さい」 と賛美しつつも、主が来られる時になって 「主よ、準備がまだなので、もうちょっと待って下さい。」 と言わなくていいように、私たちも目を覚まし、いつも喜び、絶え間なく祈り、すべてのことに感謝しましょう。

また、11節の 「互いに徳を高め合う」 は、別訳では 「お互いの向上に心がけなさい」 とあります。向上とは、現状にとどまらずその先、または上を目指すことです。

自分の信仰生活においても、礼拝においても、「今のままで大丈夫」という現状維持ではなく、互いに更に主への高みを目指す者となりましょう。ますます、みことばに親しみ、ますます祈り、ますます賛美し、ますます主に飢え渇く者となりましょう。それこそが、最善の備えです。

■A:考えてみよう

自分の備えはどうだろうか?

主は私たちが、主の再臨を恐れながら待つ者ではなく、愛する方との再会を恋い焦がれる、そのような思いで待つ者であって欲しいと願っておられます。主御自身への飢え渇きが増し加わるように、聖霊様に求めてゆこう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。