座間コミニティー

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◆このわたしは荒野で、かわいた地で、

2013年10月31日 12時43分12秒 | 聖書

あなたを知っていた。(ホセア一三・五)

しかり、主よ。あなたは私が堕落していた時の様を知っておられました。その時でさえ、あなたは私をあなたのものとして選ばれました。私が汚れ、自分自身を嫌悪するほかなかった時、子どもとして私を受け入れ、私の燃えるような心の要求を満たされました。この自由な、豊かな、あふれるばかりのあわれみよ。このために私はとこしえにあなたの御名をたたえます。
その後も私の内なる経験は、しばしば荒野でした。しかし、なお私を愛する者として所有され、愛と恵みの流れを注いで私を喜ばせ、実り多い者とされました。ああ、外の環境が最悪であり、私がかんばつの地にさまよい出た時にも、あなたの楽しいご臨在は私を慰めました。嘲笑が私を待っていた時、人々はそれを知りませんでしたが、あなたのみ、逆境の中にいる私のたましいを知っておられました。なぜなら、どのような苦難もあなたの愛の輝きを曇らせることはないからです。いと高き恵み深き主よ。試みの中にあった時、いつも誠実であられたあなたをほめたたえます。そして、私はあなたの柔和と愛に一切を負っているのに、あなたを忘れ、心に高ぶりを覚えていたことを嘆き悲しみます。主よ。あなたのしもべをあわれんでください。
私のたましいよ。おまえが卑しかった時、このようにイエスがおまえを顧みられたとすれば、繁栄している今も、主ご自身とそのみこころの支配下にあることを確信せよ。世の成功によって高慢になり、真理を恥じ、属する教会を恥じてはならない。主に従って荒野に行け。迫害の火の手が燃え上がっている時にも、主と共に十字架を負え。おまえが貧乏と恥辱の中にあった時も、主はおまえをご自身のものとして所有された。決して主を恥じて主にそむいてはならない。おお、私の愛する方を恥じるとは、思うだけでも恥辱である。イエス様。私のたましいはあなたにすがります。
 最も輝かしく、麗しき主よ
 私のたましいはあなたにすがります
 心労の夜にも、また光の昼にも

 


◆人をのろわば穴二つ

2013年10月31日 07時36分01秒 | 聖書

穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、
石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。(箴言二六27)

小さい時、私たちはよく落とし穴を掘って遊びました。原っぱに穴を掘り、その上を木の枝や草でおおって擬装し、人が落ちるのを楽しみにしていたものです。でも次の日に、自分のしかけた落とし穴を忘れて、自分で落ちてしまったということなども、確かあったようです。こんなことは遊びです。しかし、「人をのろわば穴二つ。」――これは、深刻な現実です。
聖書の中に、いくつか顕著な実例があります。ハマンという高官は、憎いユダヤ人のモルデカイを王にざん言し、彼をはりつけにするために、柱を立てておきました。しかし、そのハマンの悪だくみが王妃エステルによってあばかれた時、ハマンは、自分が立てたはりつけ柱にかけられてしまいました。エステル記に出ていることです(五―七章参照)。
ユダヤ人の預言者ダニエルを憎み、彼を落とし入れようとした大臣たちは、ダニエルを投げこもうと計画した獅子の穴に、自分たちが投げこまれる破目になってしまいました。旧約聖書ダニエル書に書かれています(六章参照)。のろいや悪だくみは、必ず、自分自身へののろい・わざわいとなって返ってきます。
そして愛もまた、必ず、勝利と祝福を持って返ってくるのではないでしょうか。聖書は言います。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。……いつまでも残るものは……愛です」(Ⅰコリント一三4―813)。

 


◆ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

2013年10月31日 07時35分08秒 | 聖書

(詩篇五一・一〇)

信仰後退者が、もしその内にわずかでも残りの火をとどめているならば、回復を求めてうめくであろう。彼が再び新たにされるには、回心と同様の恵みの働きが必要である。私たちは回心の時、悔い改めが必要であった。今もたしかに悔い改めが必要である。私たちは最初キリストのもとに来るため、信仰を求めた。今もこれと同じ恵みのみが私たちをイエスのもとに行かせる。私たちはその時、私たちの恐れに終止符を打つため、いと高き方のみことば、愛する者のくちびるより出るみことばを必要とした。私たちは現在罪の意識の下にある時、なおそれを要することを発見するだろう。だれでも、初めに感じたような聖霊の力の真の顕現がなければ、新たにされることは不可能である。なぜなら、それは難事業であり、血肉は今も変わることなく行く手をふさいでいるからである。
クリスチャンよ。あなたの弱いことを、神に熱心に助けを求める理由とせよ。ダビデが自らの無力を感じた時、手をこまねくことなく、くちびるを閉じることなく、恵みの座に駆けつけて、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と祈ったことを覚えよ。あなたが一人では何事もなし得ないという教えを、怠惰の理由とせず、イスラエルの保護者に熱心に駆けつける理由とせよ。あなたが命をかけて「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と神に嘆願する恵みを得られるように。神に向かって真剣にこのように祈る者は、神の働かれる手段を用いることによって、自分が誠実であることを証明するであろう。
多く祈れ。神のみことばに生きよ。あなたから主を追い出した肉欲を殺せ。罪が再び頭をもたげないように警戒せよ。主はご自身の定められた方法を用意される。道のかたわらに座せ。主がお通りになる時、あなたは備えができていよう。あなたの恵みを養い育てる信仰の務めを続けよ。そして、すべての力が主から来なければならないことを知り、「ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と叫ぶことをやめるな。

 


士師記7章4-8節

2013年10月31日 07時33分46秒 | 聖書

7:5 そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、【主】はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」
7:6 そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。


ギデオンと共にいた民は3万2千人でした。

主はギデオンに、その人々の内で戦いに恐れを持っている人は帰りなさいと言え、と命じました。

そしてその通りにすると、1万人の人々が残りました。

しかし主は、まだ多いと言われました。

そこで、主が示される方法で水を飲む者を、戦いのために選べと言われました。

それは、膝をついて水を飲む者を選んで残すことでした。

そしてその通りにすると、300名の人々が残されました。

主はその人々を用いて戦えと告げられたのです。

約3万人から、たった300人の数に減らされてしまったのです。

通常でしたら、このような人数で勝てるものかと思うことです。

ギデオンにとっても、それは試みでした。


ヘブル人への手紙7章24節(ホセア書2章)

2013年10月31日 07時31分54秒 | 聖書

 ★  しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。

■O:今日のコラム

今日の聖書箇所は、メルキゼデクについて書かれています。メルキゼデクとは何なのでしょうか?

メルキゼデクは旧約聖書に登場する祭司で、その出生も死に方もよくわからないとされている人物です。(3節)

しかし、聖書の人物は名前を紐解くとその人の召しや人生が凝縮されていることがあります。ですので、メルキゼデクの名前を詳しく見てみたいと思います。

2節の後半には「その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち義の王です。」と書かれています。

メルキゼデクのメルキとは王、ゼデクとは義、そしてサレムとはシャローム、つまり平和という意味があります。つまり、義と平和の王ということができると思います。

また、信仰の父と呼ばれるアブラハムが一番良い戦利品をメルキゼデクに与えたとあります。(4節)十分の一のものを与えるということは、アブラハムよりもメルキゼデクの立場の方が上ということができると思います。

この7章全体読んでいくと、メルキゼデクとは旧約聖書に現れたイエス・キリストの型だということが見えてきます。キリストは昨日も今日もとこしえまでも変わることがないお方です。キリストが人の形をとってこの地に来られる前からも存在され、永遠に存在されるお方です。

そして、祭司とは神と人との間に立ち、民の罪をあがない、民の罪をとりなすものです。律法が選ぶ祭司は弱さを持った人を選びますが、律法の後に語られた神の約束のことばによって選ばれた祭司の中の祭司、つまりキリストは永遠に代わることがありません。

この大祭司イエス・キリストは、いつも生きていて私たちのためにとりなしてくださっています。(25節)

また、聖霊様もいつも私たちのために言いようもないうめきを持っていつも執り成してくださっています。(ローマ人への手紙8章26節)

私たちはなんと大切な存在として見られているのでしょうか。神様が全力で私たちのことを愛してくださっているのですから、私たちもその愛に応えようではありませんか。

■A:考えてみよう

私たちが神様の愛に応えられるのは何でしょうか。

色々な事があると思いますが、ヒントは神様が私たちの一番大切なものが欲しいと願っておられることにあると思います。

あなたの一番大切なものは何ですか?

お金ですか? 時間ですか? あるいは他のものですか? あなたが喜んでその大切なものを神様に差し出す時、神様は言いようもない喜びを持って答えてくださると信じます。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。