トシコロのありのままの暮らし


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今後の経済革命

2023-07-13 13:08:59 | 日記
ロシア、ウクライナ共、多数の死傷者と共に、多額の戦費。終戦後は国家破産だね。やはり、対アフガニスタン戦争で超大国ソ連は国家破産になり、ソ連崩壊になり、アフガニスタンも貧しくなり、タリバンの台頭を招いたのではなかったか。日中戦争など、戦争から国家破産になった例はいくらでもある。
 ただし、今回のロシアは大国だし、ウクライナも小さくない。IMFが支え切れるだろうか。影響は世界的になり、経済面は大変なことになろう。無論、日本にも。資本主義は根幹から揺らぐ。一方では、科学、医学、AIはさらに進化する。船井幸雄の「2020年ごろ、世界的に何かあり、資本主義は終わり、本物文化の世界になる」の予測を連想させれる。ただし、船井の想定した軟着陸的な移行ではなく、戦争をきっかけとした硬着陸になりつつあるが。
 死傷者の次に大切なことなのに、なぜ世界のマスコミは報じないのだろうか。これもおかしい。
 両国破産後は世界中のお金が役に立たなくなる。今はお金は社会の血液だが、根本的に世界は変わる。今はお金が支えている政治、政党、企業、福祉関係、宗教関係、学校と,消えないものの、全く違う、非組織で人々の連帯を基盤とした社会になりそうである。
追記すると、政治腐敗、施設の職員の虐待、牧師レイプも、お金の社会支配による組織化のひずみの表れと思われる。旧ソ連は国の組織化がひどかった。組織化のない社会はどうだろうか。歴史はいつも急に変わるわけである。

マリア様預言

2023-07-11 16:08:39 | 日記
1960年ごろから世界中の人たちの前や夢にマリア様が現れ、広い愛や寛容、贅沢の戒め、環境問題、許しなどを訴え続けているという。僕も環境問題を訴えているマリア様の御姿を夢に見た。また、1917年、ポルトガルのファチマ村に現れ、3つの預言書をそこにいた子供たちに渡したことは有名である。そのマリア様の正体については、僕の述べられることではないが、大意は以下ではないか。第二書からわかるかもしれない。
 その柱は「ドイツのナチス台頭。軍国日本の中国侵攻と、原爆投下されること。戦後の共産主義脅威」。今は歴史になっていることである。でも、例えば、第一次世界大戦の戦勝国が寛容でドイツから多額の賠償金を請求しなければ恨みもなく、ナチスも出なかったと。日本も中国に対して寛容ならば戦争はなかった。資本家たちも労働者や障碍者に広い愛があれば、福祉社会に早くなり、イデオロギー対立もない。これが第二書におけるマリア様の大意ではないか。歴史を絡めてみると、そのような気がする。
 一部しか公開されていない第三書だが、歴史を合わせると、読む必要もなかろう。湾岸戦争やアフガニスタン戦争からは、欧米人やクリスチャンとアラブ人やイスラムとの和解、寛容、広い愛。コロナからはその根の贅沢の戒め。ウクライナ戦争からは、全世界の国家、民族主義、経済こだわり、教派エゴからの脱却を求めていると。ウクライナにはカトリック、ロシアには正教の信徒が多いが、イエス様も、マリア様もただ戦争と対立を否定するだけで、一方は支持しないし、カトリックとプロテスタントはもちろん、対イスラムや仏教に対しても同じ。神や仏、イエス様に言われたわけでもないのに、我が教会は神に選ばれているとか、我が寺は仏に選らばれているという見方はおかしく、人間本位のものである。未来社会では、宗教の違いは消えるだろう。
 マリア様の本意は広い愛と寛容であり、未来予測ではないと思われる。                                             
 追記すると、ファチマの地自体も意味があろう。中世、イスラム軍と十字軍が激戦した地だから。まず、マリア様は欧米人とモスリムに和解と広い愛を求め、ユダヤや黒人差別はもちろん、日本と韓国、中国の件、さらには障碍者やろうあ者にも。身障を持つ僕にも夢に出てきたのも、何か意味があるかもしれない。











仲間社会

2023-07-09 11:33:28 | 日記
仲間社会は、メンバーがくくられるから、社会や人民とのつながりはできず、その結果、皆猛烈に寂しい。その極端な例がハンセン氏病療養所や雑居施設である。前者は肉親との別離が根本理由でもないだろう。
 また、僕も仲間重視の例の教会、福祉会、身障会ではものすごく寂しかった。全仲間も。だから、雑居施設の人たちの猛烈なさみしさも察することができると。そのような所では、視野も狭くなるから他人が許せなくなり、ケンカも多い。役員が話し合いさせてもひどくなるだけであった。
 やはり、仲間関係の一つのマイホームもそうである。今はそれ含め、世界的に激変期になっているようだ。ウクライナ戦争や、日本の統一教会問題はその現れでもある。
 政党、会社、労組、学校、福祉関係、宗教関係とこれからは仲間関係をベースにしたものではなくなるし、すでに変わりつつある。変わらず、旧態依然のものは人が離れ、滅びるわけである。ITが変化に拍車掛けて。でも、根本は世界の人たちが仲間でくくられる狭い社会の限界に気が付いたことである。

新約聖書の矛盾

2023-07-06 13:39:46 | 日記
僕が新約聖書を読み始めたのは、例の教会に行き始めた1983年秋から。少しして、対権力の見方がイエスとパウロとでは違うことに気が付き始めた。ローマ帝国の権力で十字架にかけられたイエス。日本の時代劇でいう悪代官みたいな権力者に対してでさえ「従え」とあるパウロ。矛盾ではないかと。たまたまその教派の社会問題討論会みたいなところで出会った大阪に住む日韓混血の牧師も長年その矛盾に悩んでおり、意気投合した。その文集にパウロ批判を書き、一信徒から注意された。しかし、教会去って久しい10年後、朝日新聞の文化欄に無教会の人の記事があり、かつて僕が述べたこととほぼ同じことが書かれており、驚いた。無教会では新約は福音書までしか信仰書として認めていないとか。僕もそのころは「隣人愛と兄弟愛の違い」とか、深刻なユダや差別に通じるものがパウロ書にあること、本当は個人的なことなのに、同性愛や占いを禁止していることにも気が付いていた。もっと根本問題として、イエスはただ「愛を広めろ」と言ったのに、パウロ書には教会の事か゛多く、内向きでスケールも小さくなったこと。おかしいし、歴史を見ても十字軍戦争や魔女裁判など、教会がイエスから離れていったのもわかる気がしました。さらには、あのような組織や仲間関係作ったことがおかしかったと。
 若い時のパウロ批判も間違ってなかった。ただし、当時はまだ歴史的な見方はできず、パウロも多くの教会員の意見に動かされていたわけですが。僕が歴史的見方ができるようになったのは、その後の放送大学以降です。

追記すると、最後は大変悪くなったが、例の教派は言論の自由があったから、パウロ批判してもケンカにはならなかった。信仰入門としては僕には良かったと思う。他の教派なら、それ以前として、信徒たちとの付き合いもできない。本当にそうで、82、3年は当時交友していたカトリックやルター派の人たちと合わないことがわかり、全員と縁が切れている。