トシコロのありのままの暮らし


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新約聖書の矛盾

2023-07-06 13:39:46 | 日記
僕が新約聖書を読み始めたのは、例の教会に行き始めた1983年秋から。少しして、対権力の見方がイエスとパウロとでは違うことに気が付き始めた。ローマ帝国の権力で十字架にかけられたイエス。日本の時代劇でいう悪代官みたいな権力者に対してでさえ「従え」とあるパウロ。矛盾ではないかと。たまたまその教派の社会問題討論会みたいなところで出会った大阪に住む日韓混血の牧師も長年その矛盾に悩んでおり、意気投合した。その文集にパウロ批判を書き、一信徒から注意された。しかし、教会去って久しい10年後、朝日新聞の文化欄に無教会の人の記事があり、かつて僕が述べたこととほぼ同じことが書かれており、驚いた。無教会では新約は福音書までしか信仰書として認めていないとか。僕もそのころは「隣人愛と兄弟愛の違い」とか、深刻なユダや差別に通じるものがパウロ書にあること、本当は個人的なことなのに、同性愛や占いを禁止していることにも気が付いていた。もっと根本問題として、イエスはただ「愛を広めろ」と言ったのに、パウロ書には教会の事か゛多く、内向きでスケールも小さくなったこと。おかしいし、歴史を見ても十字軍戦争や魔女裁判など、教会がイエスから離れていったのもわかる気がしました。さらには、あのような組織や仲間関係作ったことがおかしかったと。
 若い時のパウロ批判も間違ってなかった。ただし、当時はまだ歴史的な見方はできず、パウロも多くの教会員の意見に動かされていたわけですが。僕が歴史的見方ができるようになったのは、その後の放送大学以降です。

追記すると、最後は大変悪くなったが、例の教派は言論の自由があったから、パウロ批判してもケンカにはならなかった。信仰入門としては僕には良かったと思う。他の教派なら、それ以前として、信徒たちとの付き合いもできない。本当にそうで、82、3年は当時交友していたカトリックやルター派の人たちと合わないことがわかり、全員と縁が切れている。